口は禍の門

令和も2年目に入ります。令和元年は万葉集が気になり、春には飛鳥に行ってきました。今年は歴史を学び、それぞれの時代の背景を考えたいと思っています。特に、人と自然の関係性は時代ごとにどう変わってきたのか。これからどう変わっていくのか。進歩とは何か。進歩の中で人と自然の関係性はどう変わるのか、どう変えれば良いのか。深すぎて論文は書けないと思いますが、論文よりも気づきを大切にして、それを共有することの方が大切なのではないかなと思っています。(2020年1月1日)

2019年12月までの書き込み


人類を愛する人間嫌い

朝日朝刊「日曜に想う」(福島申二)から。この言葉はポストガルのフェルナンド・ペソアの書物に出てくるという。また、米国のエリック・ホッファーはこう言っているそうだ。「人類を全体として愛することのほうが、隣人を愛することよりも容易である」。これは自分でもよく感じることである。自分の行為を美しい言葉で飾っても、いやな奴はいやなものである。もともと人付き合いは苦手な質なので、なかなか心底「人間好き」にはなれないのだと思ってる。でも、好きなのかも知れない、と複雑な思いなのである。いやな奴にも事情はある。それをどう理解し、かつ自分を保つことができるか。そこが大切なのだろう。(2020年1月19日)

妖精さん

最近よく聞く言葉である。朝日朝刊の記事。働かない中高年のことであるが、世の中には「妖精さん」(と見なされている方々)がたくさんいるようだ。若い人にありがちな見方であると思うが、それは現代社会を時間軸でとらえていないということではないだろうか。歴史と空間の中で現在を理解すれば「妖精さん」の見方も変わってくるし、「妖精さん」の力を発揮できる職場に変えることもできるのではないか。さて、私は「妖精さん」だろうか。論文数や獲得予算至上主義の大学の世界ではそうなっちゃうかもしれないなぁと思う。しかし、現代社会における大学の位置づけや社会に対する考え方は持っていると思う。私が「妖精さん」だとすると、そう思う方々はおそらく時代錯誤の渦中にいると言ってやりたいなぁ。いるかどうかは解らないが。そんな私の思いは結構伝わっているのかもしれない。だから、最近の仕事の質は昔と完全に変わってきた。国立大学人は大学だけでなく、社会と雇用契約を結んでいるのである。これを忘れると「妖精さん」になってしまうのだろう。(2020年1月19日)

選抜のあり方と社会の変革

最後のセンター試験が始まった。大学で学ぶ力は自分で考える力である。だから、大学入学時に考える力を試さなければならないのか(だから新テストが必要なのか)。それとも、大学で考える力を養わなければならないのか。しかし、現実では考えることが習慣づけられていない若者が増えている。その結果、大学における指導のあり方が子ども相手になってしまっている。一番良い方向は社会が多様な人を受け入れるように変わることである。大学をドロップアウトしても受け入れられる場所がある社会。しかし、現在の社会はそうなっていない。だから新テストが必要なのか。ただし、少子化は進んでいる。大学全入時代では新テストになっても同じではないか。上位の大学は改善されるかもしれないが。負のスパイラルを断ち切るにはどうすればよいか。やはり、社会を変えることだろうか。困難なことではあるが、SDGsの目標でもあると思う。(2020年1月18日)

書評の重要性

ある会議で京都にいる。研究評価では、理系は論文、文系は本が重要という考え方は共有されていると思うが、本の場合には書評が重んじられるのだそうだ。言われてみるとその通りだなと思う。環境社会学会では書評が重要な位置づけにあるなと感じていたが、そういうわけだったのか。本は勝手に書ける。でもきちんとした書評があるかどうかでその主張の価値がオーソライズされる。(2020年1月16日)

平家物語から学ぶ

連休は子供らの引っ越しで大忙しであった。少しは仕事もせにゃあかんと資料をたくさん持ち帰ったが、あまりできなかった。というのも注文していた「平家物語」(木村耕一による新意訳)が届いたので、一気に読んでしまったこともある。小学生でも読めると思われるルビ付き、平易な文章であるが、登場人物の心情がきめ細かく描写されている。なぜ人は争わなければならないのか。永く続く平安はどうすれば実現できるのか。自分なりに、おおいに教訓を得たところである。あらためて思うが、自分は中央の貴族よりも、地方豪族(現代だったら一市民でよし)として生きるのが性に合っている。(2020年1月13日)

大学の機能

こんな発言を聞いた。「Hインデックスがゼロということだ。大学教授としてやっていけるのか」。すなわち、英語の論文がないということ。インデックスの数値で競争することを是とする態度、英語で発信しなければ価値がないとする考え方。完全に否定するわけではないが、大学の機能は個人がエリートになることだけではないだろう。こんなことでは大学と社会の分断が大きくなるばかりだ。日本は定常ないし縮退社会に入った。この段階では、大学人は「社会の中の科学、社会のための科学」の実現を目指さなければあかんと考えている。まず分野ごとの考え方を尊重し、科学と社会のあり方の向上を考えること。成長を夢見るだけの社会に流されていると、大学だけではなく、日本が滅ぶぞ。大学の機能も時代とともに変わるということを認識せにゃあかん。(2020年1月10日)

年寄りのうざさ

若い頃は年寄り先生が一生懸命自身の主張をぶつけてくるのを、うざいなぁ、と思っていたが、今の自分がそうなっている。職場の賀詞交換会の〆の挨拶で、これからは地域の時代だ、なんて主張してしまった。こんなめでたい席では、皆さんにはどうでも良いことかも知れません。でも、言いたくなってしまうんだよな。それは、いつも考え続けているからだろうか。年寄り先生の話も、ずっと考え続けてきたことなのだったと思う。考え続けていると、確実に思考は深まっていく。そうすると、確認したくなってしまうのだ。だから、年寄りはうざくなる。(2020年1月8日)

科学知の分断

学会誌を眺めていてふと思う。ある分野では社会実装の段階にあるものが、別の分野では発見とされることがある。これは分野間の断絶ともいえ、既存の知識に基づき新しい知識が生まれるというプロセスの機能不全が生じている。一方、同じ分野でも古い研究が忘れられ、繰り返しが起こることもある。科学知のスパイラルがあるのかどうかをシニアは吟味する必要がある。昨今は論文数だけでなく、分野の細分化も進み、分野の数も増えてきた。シャープな分野の中にいると、論文は書けるかも知れないが、その分野が衰退すれば専門家といえどもただの人になる。だから、その分野集団では、その分野が重要ということになったか、優れていることになったか、という作業に明け暮れるようになる。これが現在の科学の姿ではないだろうか。科学は衰退に向かっているのか。(2020年1月6日)

結び合う社会のなかの“人”と近代社会のなかの“人々”

あっという間に正月休みが終わってしまった。たくさん仕事を持ち帰ったのだが、あまりできなかった。“自分”の仕事は多少できたが、“人々”のための仕事が手につかなかった。この“人々”というのはここでは顔の見えない集団の中の人々ということ。できなかったのは集団のひとりとしての仕事で、自分がやらなければ誰かがやる仕事。内山節によると、共同体の結び合う社会のなかには“人々”は存在しない。顔が見え、名前を知っているので、何があっても個別に対応できる。人間を集合的に、数量でとらえる社会の中で“人々”が発生したという。その社会が国民国家を生み出した近代社会である。近代社会のイメージの中に個々の人間は埋没し、顔が見えなくなる。このイメージの中に人々を包み込んでいくために“進歩”という概念が必要だった。もう“進歩”など気にせずに、人が個として充実して生きることができる社会にしたいものじゃ。参考文献は内山節「新・幸福論-近現代の次に来るもの」(新潮選書)。(2020年1月5日)

気候変動対策と哲学

正月は平家物語を読みたいと思っていたのだが、年末に書店で見つけることができず、Honyaclubで発注。新年の楽しみとする。その代わりではないのだが、読みかけていた「気候変動政策の社会学」(長谷川・品田編)をようやく読み切った。環境社会学が気候変動に取り組んでいないなんて、とんでもない。すばらしい仕事をしている。気候変動(日本で“地球温暖化”が浸透しているのは環境省の縄張り政策によるという)対策に対して世界、そして日本がどういう状況にあるのかがよくわかった。日本という国は現状の中で折り合いを付けようとする社会であり、私もその考え方は共有しているのであるが、気候変動という世界的な課題に対しては、世界と日本の状況の十分な分析を前提として、うまくやる、という姿勢が必要だ。しかし、それが日本の不得手なところでもある。その理由は日本人の意識世界が狭くなっているところにあると思う。世界の中で肩肘を張って満足するだけではなく、日本のやり方を堂々と世界で説明できるようじゃないとダメだな。ハザードの脅威を騒ぎ立てるだけではもっとダメなのだが、根本にある、この世界をどうしたいのかという哲学のなさ、あるいは勘違い、が最も問題なのだと思う。とはいえ、哲学は巷のあちこちに顔を出しているので、それを育てていく活動が今年の課題である。(2020年1月4日)

あきらめる人生と、食らいつく人生

元旦の朝日朝刊にあった西武とSOGOの広告はすごい。逆転して読むと状況は一変する。下の文章は広告にあった文章を下から上に並べ替えたもの。ひまな方は下からも読んでください。

土俵際、もはや絶体絶命。
わたしはただ、為す術もなく押し込まれる。
勝ち目のない勝負はあきらめるのが賢明だ。
しかし、そんな考え方は馬鹿げている。
今こそ自分を貫くときだ。
誰とも違う発想や工夫を駆使して闘え。
小さな者でも大きな相手に立ち向かえ。
それでも人々は無責任に言うだろう。
どうせ奇跡なんて起こらない。
わたしは、その言葉を信じない。
大逆転は起こりうる。

あきらめる人生と、食らいつく人生。その先は同じかも知れない。しかし、あきらめない人生にのみチャンスがやってくる。今年も大相撲では炎鵬を応援したい。いつか最後が必ずやってくるに違いないが、それまでの生き様が多くの人生を励ますことになるのだろう。(2020年1月1日)

人の迷惑

先の対談の中で福岡伸一氏がこんなことを言っている。ジャレド・ダイアモンド氏と話したとき、こういうことを聞いたそうだ。どの民族にも例えば「殺すな、盗むな、うそをつくな」という戒めは共通してあるけれど、「他人に迷惑をかけるな」という戒めを重視する民族は日本人だけである、と。この欄の2019年最後の書き込みで「主張を強くし、実践を伴うようになると、誰かに迷惑をかけることになる」と書いたが、それは均質な社会に身を置いたことで形成された習慣といえるだろうか。日本的なありさまだと思うが、欧米では信を通すということと、責任をとるということが同一ということなのではないか。日本は責任が曖昧になる社会なので、主張に実行が伴わなくなる。自分にもそれが身についてしまっているのかと改めて思う。さて、どうすべ。(2020年1月1日) 

エンパシー(empathy)

私は諒解形成には共感、理念、合理性の3点が必要と主張しているのであるが、このうちの共感はシンパシー(sympathy)と英訳してきた。元日の朝日朝刊、ブレイディーみかこ氏と福岡伸一氏の対談の中で、エンパシー(empathy)という言葉が出てきた。みかこ氏によるとエンパシーは“他者の立場を想像して、理解しようとする自発的で知的な作業”。私の共感は福島で帰還を志す人々の姿勢に感動したこと、阿武隈の土地を回復するという共通の目的を持ったことから生まれてきたもので、エンパシーと言って良いと思う。土地を追われた人が“かわいそう”といった感情ではなく、阿武隈の土地を愛でる心をむしろ“うらやましい”と感じ、同じ方向を見つめることができたた。これがエンパシーというものだろう。これからは共感にはempathyの英訳を使うことにする。(2020年1月1日)

新年のご挨拶

とうとう2020年がやってきました。子供の頃は21世紀なんてずっと先のことだと思っていましたが、すでに1/5が過ぎてしまいました。今年も年賀状は書きませんでしたが、ご無礼をどうかご容赦ください。毎年、正月のゆったりした気分の中で書きたいと思っているのですが、正月といえども頭が切り替えられない状況が続いています。時間が無いというわけではないのでしょうが、これはまさに性格であり、自業自得であり、個性なのかも知れません。他人というのは恋しくもあり、煩わしくもあり、不思議な存在です。それでも自分は人間が好きなのだと思います。矛盾した気持ちの中でまた2020年を過ごしていくことになると思います。(2020年1月1日)


2019年12月までの書き込み