口は禍の門

 6月はひっそりと退場し、いつの間にか7月が登場していた。そんな風に時が流れていくのは老いたせいかも。このまま定年に突入したらあっという間に人生の終焉を迎えそうな気がする。人生というのは何かを企んでいると充実し、時もゆっくりと流れるようになる。だから、研究が人生であった科学者は定年後も研究にしがみつこうとする。それは一本道を歩む科学の世界にいたから。環境、すなわち、人、自然、社会の関係性を扱ってきた科学者はどうだろうか。新しいステージをめざすのではないか。人、自然、社会の新しい関係性の構築をめざすのだが、そのために様々な道に入り込んできた。道はたくさんあり、先に進むことだけが唯一の進路ではなかった。人生の次のステージが姿を見せはじめている。 (2022年7月1日)

2022年6月までの書き込み


メッセージを誰に伝えるのか

先日、Future Earth日本ハブ事務局から「New Insights in Climate Science 2021」(futureearth, The Earth League, WCRPによる)の日本語訳ができたとの連絡がありました。日本語の題名は「気候変動について今伝えたい10の重要なメッセージ2021」。ざっと読んでみましたが、どうも現場感に乏しい。誰に伝えたいのか、が曖昧なのです。グローバル、国・地方レベル、政府および民間企業の意思決定者、政策立案者、実務担当者、という文言があるので、トップダウンの体制のもとにおける意思決定者に向けたものだということがわかります。私は千葉県環境審議会で県の温暖化対策の計画にも関わっていますが、この文書の内容が立案に役立つか、ちょっとわかりません。対象地域の現実を前提に、試行錯誤を続けているところだからです。怒られてしまいそうですが、エリートが立派な文書を作成し、自己満足しているようにみえます。この文書が途上国向けのものだと考えても、それは先進国が優れていて、遅れている途上国に教えてやるんだ、という世界観が見え隠れしてしまいます。やはり、現場のリアリティーに対峙し、対話による草の根の取り組みが大切なのではないかと思います。SDGs/ESDに取り組んでいるNPOにこの日本語訳を紹介したところ、やはりESDには直接は使えなさそうです。ただし、それぞれのメッセージを対話の出発点にすることができるだろうとのこと。現実の世界はややこしい。そのややこしさにダイレクトに取り組むことから始めなければあかん。草の根では始まっているのだよ。研究者が環境問題を“やっかいな問題(wrecked problem)”なんて言って安心している場合ではないのだよな。トップダウンとボトムアップ、グローバルとローカル、二つの視座を何とかつなげなければあかんなぁ。(2022年9月30日)

グローバル・スタンダードとは何か

久保田展弘著「荒野の宗教・緑の宗教」の読後、世界の現状の中でどうにもやるせない気分が充満する。世界各地の紛争の背景には負のフィードバックを繰り返した歴史がある。その歴史は宗教によってある程度説明することはできるが、それによって深い悲しみ、増悪を癒やすことはできない。宗教、それは唯一神を戴く宗教であるが、宗教は現実の前でほとんど無力だったのだ。それぞれの宗教が持つローカル(グローバルではない)なスタンダード(規範)の対峙が苦しみを生んだのであるから、グローバル・スタンダードは個々の規範を包摂するものでなければならない。久保田は言う。グローバル・スタンダードとは、ものの大小や豊かさの基準ではない。いのちの共存が可能かどうかを見すえるそれであろう。民族・宗教・言語の違いを超えて、互いに生きる舞台は地球であるという認識に立つそれであろう。とはいえ、ウクライナやパレスチナ等の紛争地域の現状から希望の灯りは見えない。それでも未来をあきらめるわけにはいかないので、希望を与えるものを探さなければならない。それが、あらゆるものに精霊を感じる“緑の宗教”なのではないか。この久保田の考え方はすでに世界の中で底流として確実にあり、いろいろなコンテクストで主張されている。仏教的な東洋の思想に多くの人々が希望を感じている(仏教には唯一神はなく、二千数百年を費やして“加上”されてきた哲学の大系なのだ)。あらゆるものの“いのち”を尊重する態度は、世界の中に“わたし”を位置づけることになり、これこそがグローバル・スタンダードなのである。グローバル・スタンダードを意識するには、地球全体を俯瞰する視点、視座を持ち、様々な地域の状況、人々の考え方を理解することが必要なのだが、その達成は容易ではない。自分に良かれと思うことが、他人にとっても良いとは限らないということがなかなかわからない。価値観の押しつけが地域を壊してきた歴史を認識しなければならない。もう人間は十分な経験を積んだのではないか。そろそろグローバル・スタンダードを創り上げなければ、人類の未来は暗いものでしかなくなる。時間はかかるが、草の根から対話によって修正をしていかなければならんなと思う。(2022年9月29日)

必要なものは もう あったのに、不要なものを 欲してしまう

これはNHKニュースウェブで見つけた広島市の超覚寺住職和田隆恩さんの寺の掲示板のことば。国葬の日の寺の掲示板を紹介する記事から。このことばがピンときたのは資本主義の仕組みを表しているように感じたから。新たな需要をつくりだして、大衆の購買意欲をそそり、貨幣の増殖を図るという資本主義の方法。つくり出された需要は必要か、不要か。これを考えることで煩悩を乗り越えることができるかも。欲しているものが必要なのか、それともつくり出された需要なのか。考えながら定年後の時代を生きていこうと思う。(2022年9月28日)

今秋初金木犀香

毎晩、黒柴娘の紬さんと一緒に歩いているマラソン道路には金木犀の並木があるのだが、今日、この秋初めて香りに気がついた。よく見たら小さな花が確かに開いている。秋の気配も濃くなってきた。この数日、空は青く澄みあがり、日差しは強いが、風は涼しい秋の風。一年で一番元気が出る季節だ。この体感は心とも連動している。最近、心身のバランスが悪い状態が続いている。それを乗り越えるために、季節の移ろいを感じることが必要だ。日本の気候はうまくできているのだ。暑く湿ったつらい夏(個人的見解です)を乗り越えた後には、爽やかな秋が必ずやってくる。こういった日本の自然のあり方が日本人の心を形成してきたように思える。しかし、昨今の日本は欧米の神に囚われているようにみえる。唯一神教のねたむ神、それは正義と悪を絶対化する神、そんな神に心を奪われてはいないか。日本では支配したがる唯一神ではなく、あらゆるものに精霊を感じる東洋の思想を基層に置いて、この世界のありさまを眺める必要がある。世界を理解するために、最近は宗教について学んでいるのだが、東洋の多神教的価値観は世界を救うことができる、いや、それしかないのではないか、という思いを強くしている。(2022年9月27日)

なぜ戦争が肯定されるのか

「人間と宗教」と同時に購入した「荒野の宗教・緑の宗教-報復から共存へ」(久保田展弘著)を読み始めた。故久保田氏は「仏教の身体感覚」の著者であり、さらに読みたいと思っていたところ、タイトルにある荒野と緑がヨーロッパとアジアを意味しているように思えて興味をそそり、購入したもの。序章のタイトルがが「なぜ戦争が肯定されるのか」。報復がなぜ戦争を肯定する原理になりえるのか。この本は2004年に出版されているが、ニューヨークの911の後に起きた中東における戦争を背景としている。書かれていることは,、なんとなくそうだろうな、と思っていたことであるが、著者の知識と知性に基づいた厳密な論考はストンと腑に落ちた。911の後、アメリカは正義の戦争としてイラク攻撃を始めた。その正義が何なのかについては当時は十分理解できなかったが、宗教という視座からアメリカの価値観、行動が説明できるということがわかった。旧約聖書には報復を是認する記述があるという。それはハムラビ法典まで遡ることができるものだ。“人間が神の道具となる宗教”(これはマックス・ヴェーバーによる分類)では、人間が神の戒めを破ったときには、神の名のもとに殺されてもやむをえない、という論理があるのだろうという。すると、正義というのも神の名のもとにおける正義なのだ。それは異教徒の正義とは相容れないこともあろう。アメリカはかつて強い国だった。強い国の正義が普遍的な正義であり、“グルーバリズム”のもとでの正義ということになった。しかし、それはホワイト・アングロサクソン・プロテスタント(WASP)によるアメリカン・スタンダードに過ぎない。ここで、“正義と悪を絶対化してはいけない”、という山本七平の声が聞こえてくる。正義と悪を相対化すると、アメリカン・スタンダードもローカルな思想のひとつになる。では、真のグローバリズム、グローバル・スタンダードとは何か。久保田曰く、グローバリズムとは、三度の食事を無事に摂ることができ、多くの人間がインフラの恩恵に浴することができるレベルにあるとき、はじめて意味を持つ仮定のビジョンなのだ。そのレベルに達していない場合、(本当はアメリカン・ローカルである)グローバルなシステムの運営は人への抑圧条件でしかない。豊かな国でグローバルを標榜する人々は、世界の片隅で暮らす数多の人々の暮らしと、現在起きていることの歴史的、宗教的背景を認識した上で主張しなければならない。その上で、ウクラウイナで起きていることも考えなければならないが、正義と悪を相対化させるということを世界はやっておくべきだった。今こそ、グローバル・スタンダードを創り上げなければならない時代だが、それは世界の多様性を前提に、プルーラリズム(多元的共存)をめざすということになるはずだ。その試みのひとつがSDGsではないか。ただし、アカデミアのSDGsが普遍性をめざすのに対し、現場のSDGsは個別性とネットワークを重視し、両者がうまくかみ合っていないようにみえるのだ。定年後の課題である。(2022年9月24日)

人間と宗教

寺島実郎「人間と宗教」は勉強になった。世界の中の様々な地域で生じている事象、人生が時代の時間面で、あるいは時間遅れをもって空間の中で相互作用してグローバルヒストリーを創り上げていく。そこに宗教の視座は欠かせない。特定の宗教に帰依せよということではなく、様々な宗教の成り立ちを理解し、その価値観の形成過程を知ることがグローバルな世界でうまくやっていくために必要なのだ。無宗教であることを自負し、グロ-バルを均質な社会と勘違いして行動する者は、世界の中では尊敬されない。この世のありさまを理解するには、複雑なものを複雑なものとして捉える態度を持たなければならないのだ。寺島のいうように、普遍化・標準化をめざすと「個々の特性を減却し、創造欲を統制する」ことになる。これが西洋思想の欠陥であるが(今の学術と社会の関係がまさにそうである)、東洋思想では、人間世界総体のあるがままの状態を生きる「主体未分化」の全体知を大切にするという。地球社会の未来のためには東洋思想しかないかと思うが、自分はまだ知らんことが多すぎる。まだまだ勉強せねばあかん。だから、人間の精神的習慣の変更は碩学と呼ばれるような人材でないと難しい。未熟のまま定年を迎えることになる。(2022年9月23日)

変人探索計画-日本の歩む道

寺島実郎「人間と宗教」はおもろい。「もし、この人物(ブッダ)が至近距離に存在していたならば、その身勝手な生き方に疑問を抱くであろう」。言われてみると確かにそうだ。変な人だったわけだ。現代の習慣では社会の規範からはみ出た人物ははじき出される。昔を振り返ると、鴨長明、兼好法師、良寛といった人々はその時代の社会に適応できないはみだし者だった。しかし、現在と異なるのは、変人も社会の一員として取り込み、庇護する寛容さである。それが日本の文化を形作ってきたわけだ。現代日本は文化、すなわち新しい価値を生み出す力を失っているのかも知れない。変人を探索し、生かす取り組みを始めなければ、日本の将来はつまらなくなるのではないか。(2022年9月21日)

ハザードをいなす

台風14号は温帯低気圧になったそうだが、この2日ほど災害報道を注視していた。その中で、報道の表現に少し違和感を持つのである。画面の先にいるのは、自然(ハザード)について無知な大衆であり、科学的合理性に基づいて、安全に導かなければならない、といった雰囲気が感じられるのである。もちろん、最も脆弱な人に向けて発信しなければならないので、そうならざるを得ないとは思うのであるが、自然と分断されてしまった人に伝えるのは難しいのではないか。人と自然の分断が進んだのは、近代文明の進歩に依るところも大きいだろう。人は自然(ハザード)を気にせず暮らすことが可能になった。しかし、近代文明の成果としての正確な情報を与えれば人は合理的に行動するかというと、それは怪しい。気象庁のキキクルをモニターしていたが、これはハザードの外側にいる人が状況を概観するのに適しているように思える。現場でキキクルをモニターしながら、行動を決められるだろうか。現場では総合知に基づき、十分な余裕をもって避難行動を行うこともできるのではないか。災害情報システムや報道は“文明社会の野蛮人(オルテガ、小林信一)”を前提としているのだろうか。文明の成果だけを享受し、その背後にあるものを認識できない人。人が近代文明人であれば、ハザードはいなすことができるはず。情報の背後にある自然の営みを理解し、自分で判断できる人が近代文明人である。さらに、現場では人は“ひと”になる。顔が見え、名前があり、暮らしがある“ひと”。これも重要な観点だ。(2022年9月20日)

日本の進む道

宗教について学ばねば世界のことはわからんのではないかと常々思っているところであるが、寺島実郎の「人間と宗教-あるいは日本人の心の基軸」(岩波書店)を入手し、読み始めたところ。定年を迎えたら歴史を学ばねばあかんと思っているが、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)がなぜ長く続いたかについて興味深い記述を発見。ジョナサン・ハリスの「ビザンツ帝国-生存戦略の一千年」からの引用であるが、ハリス曰く、「問うべきは、なぜ滅びたかではなく、なぜ存続できたのかだ」。ビザンツ帝国の滅亡は1453年であるが、395年の東西ローマ分裂から1000年以上続いた。それは「偏狭な軍国主義国家にならず存続したこと」がポイントで、「最大の遺産は、他者をなじませて統合する魅力」がビザンツを存続させたとハリスはいう。寺島曰く、「外交、キリスト教文化、芸術を通じた征服こそ、ビザンツを千年王国とした理由である」と。さて、日本はどうか。成長期は終わり、成熟期に入らなければならない現在、日本の進む道を示唆しているように思うが。(2022年9月19日)

現実の背後にあるもの

最近は仏教を学びたいと思う気持ちが強くなっており、少しずつ本を読み進めている。久保田展弘著「仏教の身体感覚」(ちくま新書)は大分前に購入したもので、一度は読んだはずだが、見事に忘れている。積読(つんどく)だったのかも知れない。その中で、こんな文章に出会った。「インドの精神文化が、常に肝心なもの、真理は現実の背後にあると考えてきたその歴史にあったことだった」。インドには今でもサードゥーと呼ばれる修行者あるいは苦行者がいるのだが、インド人の100人にひとりがサードゥーではないかという人さえいるとのこと。数字の真偽はわからないが、多くのインド人が、サードゥーのような生き方があってもいいと思っていることを意味しているのだろう、ということ。ここで、冒頭の文章が出てくる。真理はどうしたら見えるのか。サードゥーは苦行により真理を得ようとしているが、まずは瞑想が必要なのだ。般若心経における空の次元に入ることによって、見えてくるものなのだろう。ここで科学というものをどうしても考えてしまう。エビデンスに基づく科学では物事の表層しかわからないのではないか。現代科学は色の次元における科学といえる。社会の不条理、人間の苦しみに入り込む問題解決型科学は、空の次元の科学でなければあかんのではないか。それがオルタナティブサイエンスなのではないか。(2022年9月15日)

パキスタン大水害に思う

国土の3分の1が冠水しているという大水害がパキスタンで進行中である。朝日朝刊は1面でパキスタンの現況を伝えている。さっそくリモートセンシングで湛水域のマッピングを試みている研究者はたくさんいるだろう。それも大切ではあるが、損なわれた“ひと”の暮らしをどう回復し、立て直すかが重要だ。まずは命と暮らしを守ること。その上で、次期作を確実に行うことができるようにすることが大切だと思う。土壌水分と栄養塩類が確保されるので、洪水の次の年は豊作になる。洪水が引いた後、作付けができるような援助が必要だ。そうすれば暮らしを立て直すことができるはず。(2022年9月14日)

複数の選択肢を持つ

1995年に千葉大に移動したときに購入した冷蔵庫をまだ使っている。環境ISOからは買い換えを勧告されているのだが、LCAの観点からは無駄じゃ、と屁理屈をつけて使い続けている。古いので時々霜取りをしなければならないのだが、こびり付いた氷を書き取るためにナイフを使ったところ、見事に指の先をカットしてしまった。どうも刃物とは相性が悪く、時々こういうことがある。老いたので注意せねばならぬ。右手の人差し指はフィンガーピッキングに使う大切な指で、案の定ギターが弾けなくなった。先日、天満俊秀「ギターソロのための20のケルト音楽集-伝統音楽からエンヤまで-」に巡り会い、独特の哀愁を帯びたケルトの音楽を楽しんでいるところだった。ケルトはなんとなく引きつけられるものがある。ケルトの宗教は自然崇拝の多神教。ケルトの神は精霊たちであり、絶対神ではない。それは日本古来の自然観と響き合うと同時に、音楽の旋律は日本の民謡とも共鳴するのだ。指の傷は治癒するまでに1週間はかかると思われる。困った。もう歳なのだから、身体は慎重に使わねばならぬ。実は指が使えなくなった時のために、ハーモニカも準備しているのだ。トンボのクロマチックハーモニカでどんな音階も出せる。この際、ピッキング奏法を練習してもよい。故トニー・ライスの奏法は憧れなのだが、ちょっと敷居が高すぎる。そういえばピッキング奏法によるジャズギターの教本も持っていた。中断している三線を復活させる手もある。老いていろいろな楽器を覚えられなくなっているのでギターバンジョーも検討中である。三線やバンジョーの乾いた音色も好きだ。音楽は聞くのも楽しいが、自分でやるのが楽しい。選択肢は多い方が良いのだ。人生も同じ。(2022年9月13日)

真実と事実-歴史学の理論的動揺

岩波「世界」9月号の「歴史学(者)の役割とはなにか」(小田中直樹著)を読んでいて知ったのだが、科学としての歴史学という歴史学者の自己規定が動揺を見せた時代があった。それは「言語論的転回」と呼ばれる動向で、大略「言語と、その言語がさし示す対象(指示対象)との関係は、恣意的なものである」とまとめられ、この主張をつきつめれば「いかなる科学も、言語を介在させているかぎり、真実にたどり着くことはできない」、となる。実証主義、公文書至上主義、史料批判を特徴とする主流のランケ学派の歴史学では過去の真実を明らかにすることは見果てぬ夢にすぎない、ということが歴史学者に動揺をもたらしたとのこと。でも、このことはすんなり理解できてしまうことでもある。エビデンスベースの科学は事実は明らかにできるが、事実の奥にある真実を明らかにすることは当然ながら困難である。この場合の科学はニュートン・デカルトに起源を持つ理工系科学であろう。文学は事実の奥側に踏み込もうとしていると思うが、これも当然ながら恣意的になる。社会学や民俗学など、現場に入り込む科学は真実へのアプローチを試みていると思うが、成果に普遍性はなくなるかも知れない。しかし、それで良いのだ。個別性、多様性こそがオルタナティブ科学の研究対象であり、普遍と個別の関係性を明らかにできる新しい科学の役割ではないだろうか。(2022年9月12日)

楽農報告

秋の気配も感じられるこの頃ではあるが、まだまだ雑草は元気。先の週末は学会参加のため楽農ができず、この2週間で畑に雑草がはびこってしまった。この週末は草取りがメインの作業なのだが、9月に入ったので種まきもせにゃあかん。まずは、畝を準備し、ダイコン、カブ、ホウレンソウの種を蒔き、ニンニクを植える。種は期限切れから半年経っているが、もったいないので播種。どうか発芽しますように。雑草に覆われたサツマイモをレスキュー。雑草に侵略されつつも伸びた芝生を刈る。晩秋にはチェアリングができるだろうか。伸びすぎたコキアは剪定。一部は枯れかかっているせいか、赤身を帯びているが、10月には一面の紅葉は見られるだろうか。作物はキュウリとナス、ピーマンが採れている。オクラは終わりが近い。ズッキーニはもう収穫は諦めて除去。残渣はコンポスターへ投入。トウモロコシの区画にはカラスよけはしてあるが、実が小さいのでほったらかし。来週はチェックして収穫せねば。農作業は夕方のみで、そんなに時間をかけているわけではないので雑草は刈り残しも多いが、結構片付いた。定年後は週に3回くらい畑に出れば、きれいに維持できそうだ。出勤がなくなれば野菜の自家消費も進むだろう。節約を楽しむわけですが、実は節約は既存の市場経済に対する挑戦でもある。新しい社会のあり方を考えねばならないが、縮退の時代は苦しみも伴うのだ。だからこそ、人は賢くならねばならず、かつエンパシーが必要な時代なのだが。(2022年9月11日)

現場からの積み上げ

最近入会したNPO“環パちば”の会員交流会に参加しました。会員といっても議決権のない賛助会員ですが、アカデミアは出しゃばらない方が良いのです。定年後にアカデミア臭が抜けたら会員になろうかな、と考えています。今日の話題は三番瀬と農業の話。干潟は私の原風景であり、自然の恵み豊かな生態系ですが、高度成長期を通じて劣化してしまった。干潟は三角州ですが、陸上からの砂の供給は都市化によって途絶えている。どうしたら保全できるか、考え続けたい。農業の話は千葉と山梨に拠点を持っている方のお話。“農”は日本を救うと私は考えているのですが、作物の流通過程で無駄が出るのが問題だ。それを市民パワーで何とかできないか。これも難しい問題だ。農業も市場経済に組み込まれている。生産者、環境、消費者の間の折り合いをどうつけるのか。NPOにおける交流の良いところは、様々な草の根の実践を知ることができるところ。自分の世界観はたくさんの小さなものが集まって世界を造っているというもの。普遍的な世界が上位にあって、地域を支配するのではない。だから草の根の実践を知ることが大切なのだ。今日も、鴨川の会員が、鴨川市ゼロカーボンシティー宣言について教えてくれた。カーボン・ニュートラルはアカデミアの課題でもあるが、高みからかっこいいことを言って自己満足しているだけではだめなのだ。現場からの積み上げがなければ実現できないのだ。このNPOはネットワークを重視している。たくさんの小さな実践とネットワークこそがSDGsやカーボン・ニュートラル達成の要だと考えている。(2022年9月8日)

空の次元

学術大会も4日目となると身体がしんどくなる、そんな齢になった。それで最終日は早めに帰ることにしたのだが、思い立って東寺の仏像に会いに行った。仏像は思想を可視化したもので、祈りによって彫刻が仏像になると考えていた。その思想に興味があったのだが、般若心経では思想も“空”ということになるのかも知れない。仏像というのは“色”の次元の存在に過ぎず、“空”の次元では蕩々たる命の流れを見守るものなので、本来は形はないものであり、形という言葉で語ることさえもできないもの。手塚治虫は、それを火の鳥で表現しているのだと思う。今、目の前にある仏像は色の次元における形であるが、その奥には空の次元における何かがある。自分は空の次元を体験していないので、それはわからない。頭で考えても、わからない。空の次元を体験するには瞑想が必要だが、それが次の課題だな。(2022年9月7日)  

功績とは何か

今回の、出張は二つの学会の合同大会なのだが、合同する目的は細分化した“学”をもう一度統合し、より総合的、俯瞰的な視座、視点、視野で世界、社会を見つめ、課題や問題に対応できる強い分野にしたいという意図があった。それは成長の終わりの只中にあり、混乱を極めている世界の中で学術の価値を高める営みでもある。ただし、二つの学会の連携を進めることができたのは私ではなく、学会の運営を担当する方々の努力によるものである。それにも関わらず、私が前会長である一つの学会から功績賞を頂いた。私の功績はあるとしても一部に過ぎず、運営は役員に丸投げであったにも関わらず、である。私は図らずも名誉を得てしまったのだが、それは努力によるものではなく、宿命(しゅくみょう)なのではないか、という気がする。人生というものはあがいたりせず、粛々とやるべき(と自分が信じる)ことをやっていれば、宿命によって何とかなるのかもしれない。いやいや、それは近藤が幸せであったということに過ぎないという見方もあるだろう。それは気にせず粛々と死ぬまで生きるということが仏教の教えなのではないかな。最近、年寄りレベルが進んでおり、もう一つの学会の新旧合同理事会では般若心経の色即是空の色と科学を結びつけるという話をしてしまった。老いたもんだ。(2022年9月6日)

隠者修行中

明日から始まる水文・水資源学会と日本水文科学会の合同大会に参加するために京都に向かう。家を早めに出たので日の暮れる前に京都に着ける。そこで、新幹線は2列席の窓際に陣取る。ほろ酔いになりながら外を眺めていると実に気分が良い。風景を眺めながら、自然、人文に関わるいろいろなコトを考えると楽しい。地理学を学んで良かったなと思う。ただし、まだまだ学び足りない。定年も近いので、これからは研究ではなく勉強を積み重ねていきたい。若いときには見えなかった世界のありさまがだんだんわかってくるのではないか。隠者になるには世界のありさまを見続け、同時に勉強し、そして深く考えることと、アートが必要だと思う。隠者修行中である。(2022年9月3日)

若者の計画

IVUSAの主催する「印旛沼クリーン大作戦」に参加してきた。正確には“見てきた”。老いて体力もなくなり、へたに加わるとろくなコトがない、と勝手に意味づけした結果である。IVUSA(NPO法人国際ボランティア学生協会)を知って何年も経つが、とにかくすばらしい若者達である。学部生だけがメンバーの組織であり、大学を卒業すると外からIVUSAを見つめることになる。IVUSAを通過した若者が社会に出て行くことによって、この社会は少しずつ変わっていくのではないかと期待するのである。自分も含む上の世代は20世紀後半の成長期の慣性に流されるまま、現在の社会を運営しており、その中で若者は窮屈さを感じているのではないか。年齢別人口構成比からすると若者はマイノリティーであり、真っ向からこの社会を変えることは難しいかも知れない。そんな大それたことを考えるよりも、小さなコミュニティ-を見つけ、少しの豊かさを得て、誇りを持って暮らせる場所を探しているのではないか。そんな気がするのである。もうエリートが先導する時代ではない。エリートの時代の行く末が現在なのだから。若者の夢はなんだろう。夢というのはデッカいものである必要はない。デッカい夢は20世紀までの進歩、発展思想がもたらした習慣に過ぎない。夢は大きくても小さくてもよいが、夢は実現させるものであり、実現に向けて計画的に進んでいくものである。その過程が人に満足感を与えるのではないか。こんなことを書いたが、年寄りの固定観念が含まれているかも知れない。若者の計画を聞いてみたい。(2022年8月29日)

何より対話

朝日夕刊に「新しい福島の姿 課題は」と題するNPO法人福島ダイアログ理事長の安東量子さんのインタビュー記事をみつけた。誰よりも対話が必要だと考え、実践してきた安東量子さんでも、“対話が必要だと公言する私のような人はほとんどいないでしょう”という。そんなことないですよ。安東さんはすでに多くのひとに影響を与えていると思う。わたしが“対話”が大切だと考えるようになったのは、福島ダイアログに参加させてもらったことがきっかけだったかも知れない。それまでも、そう思っていたのかもしれないが、山木屋で開催されたダイアログに参加することによってストンと腑に落ちたということだと思う。そこから現場のリアリティーを感じることができるようになり、福島を、そして福島から深く考えることにつながっていった。記事を読んで、安東さんが感じていることは私と同じだと確信する。国や東電、多くの日本人は科学的合理性で問題を解決しよう、解決できると思っている。それが大きな認識違いなのだ。現場のリアリティーは科学的合理性のみでは理解できない。必要なことは“ひと”を中心に据えて共感(エンパシー)を発揮し、この社会のあり方(理念)を共有することだ。しかし、今の日本ではこの国の行く末について対話することすらできていない。なぜ対話ができないのか。それは日本人の意識世界が狭くなってしまい、その範囲の中だけで全体を理解しようとするからだ。自分は正しい、だからおまえは間違っているといっても、それは狭い意識世界の中だけの話である。個々の意識世界を広げて交わるようにする、すなわち関係性を拡大し深めることが、共有できる社会のあり方のイメージを明確にする。問題の解決、それは諒解でもあり、場合によっては諦めでもある。それでも、ステークホルダーすなわち関係者、関与者が諒解を達成するには対話の積み重ねが必要なのだ。(2022年8月26日)

文明社会の利器としての原発

政府は原発の再稼働をめざし、新増設も検討するそうだが、大丈夫だろうか。原発は優れた技術であり、よりよいものにしていく必要がある。はるか未来に氷期に入ったときのエネルギーや食料について考えておくことも悪くはなかろう。“現在”、再稼働や新増設を行うのであるのなら、リスクを明確化し、事故が生じた場合の対応を決めておく必要がある。そのためには思想が必要であり、国民皆が考えて、選択する必要がある。その際には科学的合理性、経済的合理性のみで判断してはいけない。文明人であれば、受益圏・受苦圏の関係を明確にし、共感(エンパシー)を発揮するとともに、広い視野、多様な視座に基づき、時間軸を過去から未来に伸ばし、そうして描いた日本の未来に対する展望の中に原発を位置づけなければならない。ところが、現在の方針の前提にあるのはあやふやな科学的合理性(安全ということになったかどうかという疑似科学)、経済的合理性(課題を先送りしたうえのコスト計算)だけなのだ。文明の利器を操る近代文明人には科学技術の使用に関するリテラシーが必要だ。原発に関する知識や理解能力を前提に、あらゆる事態を想定して、原発を社会全体で有効活用し、対応する能力が必要なのだ。しかし、事故を巡る責任(回避)問題や被災者の困窮を目の当たりにすると、日本はまだまだ原発を運用する力は身についていないといわざるをえない。国というものは犠牲のシステムで運営してはいかんのだ。エリートに委ねてしまうのもあかんよ。わがこと化せにゃ。(2022年8月25日)

マイルール

それも悪くはないのだが、組織の中で行動するときには、組織のルールを尊重せにゃあかん。でも、盲目的に組織に従え、ということではない。問題があると思ったら、まずはルールを尊重し、コトを成し遂げてから、ルール変更のアクションをとればよい。また、ルールの背後にどんな事情があるのか、想像せにゃあかん。マイルールのせいでどこかに追加業務が生じていないか、誰かにロードがかかっていないか、考えにゃあかん。ここが身につかないと、“私はいいと思っているのに、なんで認めてくれないの”といって苦しむことになる。そりゃあほらしいことや。マイルールはユアルールでもあり、ベースにはコモンルールがあるはずだ。意識世界を広げて、エンパシーを発揮しよう。さて、書類修正、印鑑伺い、提出と歩き回って汗をかいてしまったが、これは自分にも言い聞かせなければならんことや。(2022年8月23日)

悪口一考

人の悪口は聞きたくないもんだ。なぜ悪口を“自分が思う”ということのみを根拠として発信することができるのかなぁ。それは悪口を言う人の“意識世界”が狭いから。なぜ狭くなるのか。それは、東畑開人流にいうと、現代人は小舟に乗って大洋を漂っているようなものだから。回りが見えないのだ。昔は会社、家族、コミュニティーといった大舟に皆が乗っていた。大舟にはそれなりのルールや交流があり、ちょっと広い“回り”を見通すことができた。しかし、今では小舟と小舟が交流することが難しくなってしまった。だから、人と交流する機会がなくなって、自分の規範だけで人の行動を判断するようになってしまった。こんなことだろうか。でも、世の中には“いいひと”、すなわち意識世界が広く、様々な事情がわかるひともたくさんいるのだ。悪口は一発のミサイルのように強烈だが、街全体を破壊する力はないのだ。世の中には“いいひと”がたくさんいることを信じて生きていたいものだ。(2022年8月22日)

DXの達成には

4回目のCOVID-19ワクチン接種を終えた。これまでは職域接種だったが、今回は地元の接種会場で行った。4回目の案内が届き、説明書にあるURLにアクセスしたところ、前回の接種から5ヶ月と1日が経過した本日の地元会場枠が一つだけ空いていた。来月早々には出張があるのでラッキーだった。いつもはノロノロしているのだが、今回はかみさんにケツを叩かれてWEBにアクセスして見事予約成功。かみさんには敵わないのだ。接種は実にスムーズに終えることができたが、それはデジタル通信技術に支えられている。アプリケーションの作成はコアの技術というよりも、ユーザーインターフェースが鍵だ。人と機械のインターフェースがうまくできていればシステムは機能する。日本は基幹技術ばかりに目がいっているが、デジタルシステムを使う人間の立場を理解して大切にしないと社会の中のDXの達成はおぼつかないのではないかな。DXの実現には人間理解が必要。これまではモデルナを3回接種したが、今回はファイザー。全然痛くないのにはびっくり。やはり違うワクチンなのだな。(2022年8月18日)

二刀流の時代

最後の修士課程の入試業務が終わった。自分の大学人生で最後の口頭試問となった。受験者は大学4年生であるのでしょうがないかな、とも思うが、科学技術と社会の関係性に対する認識がちと弱いのだ。科学技術に対する憧れと、課題解決につなげたいという熱い思いは伝わってくるのだが、課題の現場の実情はよく知らないのだ。研究をすれば、技術開発をすれば役立つはずであるという信念が先行している。でも、それはプロの研究者でも同じであり、政治も同じ考え方なのでしょうがないことではあるが、リモートセンシングコースが唯一無二のものになるためには、“環境”と“リモートセンシング”の二刀流になる必要があるのだ。大谷も二刀流だから唯一無二の存在になった。そんなの難しいといわれるかも知れないが、ちょっとの勉強、経験の時間があれば環境リモートセンシングの二刀流は達成できるのだ。地理学者としてはそう思う。要はマインドである。実は環境分野には二刀流はたくさんいる。それはローカルな課題に取り組む研究者たちなのだが、普遍性をトップレベルにおいて、研究成果を数値指標で競う現在の科学技術行政の精神的習慣の元では見えなくなっているに過ぎない。しかし、現在を駆動する精神的習慣はいずれ変わり、環境の本質に取り組む時代が必ずやってくる。その時に環境リモートセンシングが陳腐化しないように二刀流をめざした方が良いと思うのだが、あとはがんばってほしい。私は研究者としては公共のフェーズに至り、現場に身を沈めることにしたい。(2022年8月17日)

美しく、やさしく、哀しいまで純真な

久しぶりに篭山京の「怠けのすすめ」のページを繰ったが、スペインの章も好きなのだ(Ⅱ章スペイン・アナキズム のんびりと暮らす生き方)。備忘録として大切な文章をメモしておきたい。「だから、アンダルシア地方はおくれて貧しいのだと人はいうのである。しかし、それが美しく哀しいのならば、よいではないか。貧しいがゆえに、みじめでいやしく、ずるく非行であるなら、その貧しさから解放されなくてはならない。しかし、美しく、やさしく、そして哀しいまでに純真ならば、富んだゆえに、いやしく、ずるく、人を傷つけることをあえてしなくてはならぬより、どれだけ平和であろうか」。こんな社会でありたいものだ。なんで儲けなくてはならんのか、なんで競争しなければならんのか。社会を変えることは難しいか。いや、変える道はある。内山節が我々が未来に残すべきこととしてあげた五つの項目を持続させれば良い。自然の恵みを受けながら暮らした/農業を中心とする一次産業があった/手仕事の世界、生業があった/暮らしをつくる労働があった/何らかの共同性を持ちながら生きた、ということ。内山が“残すべき”といったのは、日本でも農山漁村には今すでにローカルにあるからだ。ただ、世界、そして日本を駆動する時代の精神になっていないだけ。時代の精神を創り上げることが未来に向かうアクションである。それはお金がなくてもできるトランスフォーメーションである。アンダルシアの今はどうなっているのだろう。(2022年8月15日)

終戦の日に思う“ひとり”

今日は77年目の終戦記念日だ。世界は第二次世界大戦の終戦後、平和を希求した。それが国連憲章、日本国憲法に反映された。その後70余年、日本は平和の恩恵を受けることができたが、世界には“終戦後”も何度も戦争を経験した国があり、現在戦争中の国もあるのだ。我々はそのありさまをSNSや報道を通じて“見て、感じる”ことができるのだが、その応答として軍拡への圧力をこれほど感じる終戦記念日はこれまでなかった。周辺諸国の動向はあるが、それでも戦争は絶対だめだといいたい。そうするとリアリティーにどう対応するのかという質問が飛んでくる。戦争はだめという理想には、平常時にやっておくべきことが前提としてある。やるべきことは、仮想敵国はつくらない、歴史を教訓とし、平和のありがたさを忘れないことであった。そういう努力を日本はきちんとやってきたのかどうか心許ないが、やってこなかったということを軍拡の理由にはできないのだ。やってきた“ひと”も日本にはたくさんいる。そんな“ひと”の“つながり”とかネットワークといったものがますます重要な時代になったように感じる。そのためには個々の日本人が“ひとり”として自律的に考え、行動することが必要なのだが、最近の日本人は他律的になっているような気がする。古い本だが篭山京著「怠けのすすめ」(人間選書39)をふと思い出した。改めてスイスの章(Ⅰ章「ひとり」と連帯 スイスの核心)を読むと、スイスで連帯が生まれるのは“ひとり”を意識するからだと書いてある。ひらがなの“ひとり”は、山折哲雄から学んだと思っていたが、すでにこの本によってインプットされていたのだな。“ひとり”は太古の昔から日本人の深層にある意識である。“ひとり”である人は広い意識世界を持つ“ひと”である。“ひとり”を取り戻し、連帯することがこれからの日本の課題だろう。学界でも連帯(solidarity)に関する議論が国際的に深まりつつある。日本も遅れてはいかんのだがな。.(2022年8月15日)

技術立国復活へ人材育成、って何

このニュースが目に留まった(読売オンライン)。“文部科学省は、デジタルや脱炭素分野などに関わる理工系学部の新設や拡充を促すため、学部再編に取り組む大学を財政支援する方針を固めた”とのこと。ちょっと近視眼的じゃないかなぁ。科学技術を使いこなすためには思想が必要なのだが、日本は明治期に西欧の科学技術を導入する際に、思想や哲学の導入をすっ飛ばした。それが現在の低迷、未来を展望する力不足につながっているのではないだろうか。スクラップアンドビルドで既存の学術を弱体化させながら理・工・農系のみに予算を投入しても底力のアップにはつながらないのではないか。現在の大型化した科学技術の分野は投入可能な資金で勝負が決まることは実証済みである。神風は期待しない方が良いと思うよ。人生とは何か、暮らしと仕事の関係はいかにあるべきか、幸せとは、豊かさとは何か。こういうことを日本人が考える精神的習慣の醸成こそが技術立国につながっていくのではないかな。さて、どうすべか。定年後の仕事が見えてきそうな気がする。(2022年8月15日)

学術の価値

台風8号が近づきつつあるなか、進路予想図を眺めながら犬の散歩のタイミングをどうしようか悩んでいるところである。この夏も水害が多い。線状降水帯という言葉も何度も聞いた。ハザードの現況や、ちょっと先の予測も科学の成果により簡単に知ることができるようになった。ハザード研究は今や花形領域でもある。ハザードに関する予測精度を上げることは科学におけるチャレンジであり、多くの科学者の目指すところである。でも、"science"の訳語を学術に置き換えると、もう少し広い視野、異なる視座が見えてくる。ハザードに対して(狭義の)科学の成果を取り込み、合理的に行動することは、人と自然の関係が失われた文明社会におけるとりあえずの対応である。人と自然の関係性が良好であれば、ハザードを受け入れ、備えることができる社会を構築することができるのではないか。すなわち、広い視野、多様な視座のもとで、長期の時間軸を据えて人と社会と自然の全体を最適化することが可能なのではないか。日本は人口減少時代に入り、成熟社会を目指さなければならない。新しい社会のあり方を提示できるということが学術の価値ではないか。(2022年8月13日)

アカデミアからの離脱

“アカデミック”という言葉は、“科学の成果は公開”という習慣の継続を意味するという(ジョン・ザイマン著「縛られたプロメテウス」)。それは高等教育が普及するとともに、科学知識も共有化し、公開される必要が出てきたからである。同時に科学の成果の実用可能性があまりに不確かだったことも完全な公開を習慣とする規範を生み出した。ところが、その習慣を維持することが困難になったという。基礎研究の成果の情報がたちまち市場的軍事的価値を帯びることがあるからである。30年近く前の著作にも関わらず、現在の日本で起きていることを彷彿とさせる。経済成長、軍事研究のための科学の営みへの政治の介入は、科学の成果の公開性を損なうことになる。大学が軍事研究を行ったり、稼げる大学を目指すこともひとつの方向性ではあるが、忘れてはならないことは、それがアカデミアからの離脱になるということだ。その上で、離脱後の教育のあり方にも確固たる信念があれば良い。大学がアカデミアを離脱した後の、学術(科学)は誰が担い、誰がどんな教育を行い得るのか。こんな議論が必要なのだが、その議論が活発であるように見えないのは学術の価値やあり方について日本では議論が進んでいないからだろう。組織としては総合科学技術イノベーション会議と学術会議があるのだが、この二つが相補的な存在になっていないことが日本の大問題であり、日本が衰退へ向かう道を着実に歩んでいることの証左なのであろう。それぞれが機能すれば良いのになぁ。(2022年8月12日)

日本の研究力低下

文科省が発表した「科学技術指標2022」では日本の研究力低下が話題になっているが、現場からすると、そんなの当たり前じゃん、ということだ。ここで、1994年に出版されたジョン・ザイマン著「縛られたプロメテウス-動的定常状態における科学-」の序文から若干の引用をしておきたい。ザイマンによると科学が進歩するためには、個人の主導権と創造性を受け入れる社会的空間、着想を醸成させる時間的余裕、討論と批判が行える自由、革新的態度の尊重、専門知識への敬意、そういったものが必要だという。昨今の日本における政治の学術への介入の状況をみていると、これらの必要なものが失われているという事実に直面せざるを得ない。ただし、現在では多くの科学が個人的営みであった20世紀とは変わったことも認識しなければならない。ザイマンがいうように、新しい環境(と訳されている)に適応させるには、研究システムにいかなる改革が必要か、を考えることが重要なのである。とはいえ日本の現状は全く悲観的な状況である。どうすればよいか。科学、というか学術という言葉を使いたいが、学術の価値を議論できる精神的習慣を日本人が持てば良い。ただし、それは長い道のりだろう。現状では何のための学術かという観点が甚だ本質からずれているように感じる。だから、中身よりも数値指標が優先され、優れているかどうかではなく、優れたということになったかどうか、ということばかり議論されている。上に立つ者(政治家や何とか長といった方々)の幸せが優先されているのだ。じゃあ自分はどうするのか。定年後は市井に入り、目の前にある問題に取り組むところから始めたいと思うのだ。それはネットワークを介して時代の精神を創ることになるかもしれない。(2022年8月11日)

文学の力

人間社会に生じている様々な問題を理解し、解決するためには旧来の理工系科学よりも文学の方が力があるのではないか、と常々思っているのだが、こんな文章に出会った。「...私たちが目の前にある現実をそのまま書くんじゃなくて、私たちに見えているものの奥にあるものを書く。私たちに見えているものを打ち壊して、そうじゃないものを引き出すことが必要なんだ。私たちが知っていることだけで世界が成り立っていると思わないで、それを打ち壊して新しい世界をつくり出すことが文学の役割だということです」(大江健三郎、「井伏さんの祈りとリアリズム」より)。エビデンスベースの科学では見えている世界しかわからない。問題の人間的側面はわからないのだ。このことは福島で強く感じたことでもある。人々と話していると、怒り、悔しさ、諦め、悲しみ、...がふと顔を出すことがある。その奥まったところを見ないと問題の解決には至らないのだ。解決とは諒解に過ぎないのだけれど。だから、理工系科学のことばで語られる“今”から“未来”は語れないのではないか。福島では過去のものになった事故を歴史として、記憶し続ける、そして考え続けることからしか未来は語れないのではないか。歴史を記憶し続けるとはブルクハルトの言葉で、歴史の記憶が人間のやるべきことで、将来の道を探ることであるという。それは、同じ大学にいたニーチェによる、悲しく苦しい歴史は忘れて新しい歴史に向かって進み出ていこうじゃないか、という主張への反駁であった。今、ウクライナで起きていることに対して、正義と悪を相対化すること、歴史の教訓を読み取ること、なんて意見を提出してしまったが、自信はなかった。でも、それはまっとうな意見だったかもしれない。大江健三郎、「あいまいな日本の私」、岩波新書より。(2022年8月10日)

オリビア・ニュートンジョン逝く

私の青春時代を彩った歌姫が逝ってしまった。享年73歳。山本コータローも73歳で旅立った。64歳の私、残すところ10年はないかもしれん。70~80年代が私の青春。その時代を駆け抜けた人々、私を安らかにしてくれた人々が逝く。人は時代を生きる。未来を見つめるだけが人生ではない。過去を振り返っても良いではないか。過去の意味を見極めることが、これからの人生かもしれん。それは老人にしかできない仕事だ。(2022年8月9日)

限られた将来像から様々な将来像へ

休学する東大生という記事を見つけました(Yahooニュース、朝日新聞EduA)。休学して農村体験をした結果、「東大生が考えがちな限られた将来像を目指さなくても生きていけるという確信を田舎暮らしを通じて持った」という良い話。都会の若者が持っている「生きる」ということの規範は都会という場で形成された時代の精神に過ぎないのだ。規範はひとつではなく、たくさんある。自身の「意識世界」を広げれば様々な規範は相対化される。すると様々な将来像が見えてくるのだ。記事の学生の最初のきっかけは1年時の上海におけるフィールドワークで、出会った人の家に泊めてもらった体験だった。そこで価値観が変わったという。私も35年前のアフリカで、現地のプリミティブな暮らしの中に幸せ、豊かさを感じた。その経験が今につながっていると思う。その後、世界各地の農村を巡る機会を得た。日本でも福島の山村を経験し、印旛沼流域では農的な営みに触れた。自分は老いてもう将来はないが、意識世界が広がることによって空間方向へ、そして歴史へと視野、視座が広がっていったのだと思う。いろいろな世界が見えるようになったといえるかも知れない。それは現在の私にとっては苦悩でもあるのだが、何とか定年後の幸せにつなげたいと思うのである。(2022年8月8日)

楽農報告

相変わらず草取りなのだが、まず一区画をきれいにする。そこは次回の春蒔きジャガイモ畑にする予定で、秋まではダイコン始めいろいろな野菜を育てたいと思っている。きれいになった土地に太陽が照りつけるのだが、有機農業を俄勉強していると、有機物が分解される~、土壌微生物が死ぬ~、と思ってしまう。そこで、隣の区画は刈った草をその場に残置することにする。無限ネギとトウモロコシの下はきれいにして、刈った草を通路に残置。少し広く残っている土地は刈り払い機でざっと払い、草は残置。いずれサツマイモの蔓で覆われる場所なので、これで良かろう。キュウリは順調だったのだが、小さな茶色い甲虫に葉を食われている。そこで、お酢成分の防除剤を導入。無農薬が担保されるだろう。エダマメを収穫したが、味がいまいち。暑さのせいか。近所でコキアを剪定しているじいさんを見かけたので、まねして剪定。通路が確保できた。今週末もヘトヘト。ビールがうまい。高校野球も始まった。秋も近い。秋といえばアキアカネだろうか。赤茶色のトンボがたくさん飛んでいる。でかいバッタがいた。今年はコオロギをまだ見ていないが、これからか。蚊とはともだち。(2022年8月7日)

暮らしと土地

災害看護のビデオ教材作成に関する打ち合わせがあるのだが、アイデアが出てこない。そこで、災害とは何だろうかと考える。暮らしが外力、すなわちハザードによって損なわれることだ。暮らしは場所があって成り立つ。土地の上で暮らしは成立するのだ。しかし、近代文明の中で暮らす人々は土地と分断されている。人々は土地を白地図の上に書かれた区画と捉えていないだろうか。とすると、伝えることは白地図に土地利用だけでなく、地形、地質、植生といった土地の持つ属性を書き込む。すると土地の性質がわかる。さらに土地の歴史を考える。これで、気象や地震といった外力が与えられたときに何が起こるのか、どうしたら避けることができるのか、わかるはずだ。でも、避けられない事情もあるかも知れない。何が起こっても仕事に出なければならないという時代の精神。これは簡単には変えられそうもないが、暮らしと土地の関係がわかってくると、精神的習慣も変わるかも知れない。それが教材の目的にならないか。その時、日本人の持つ“もののあはれ”の感覚が助けにならないだろうか。書いているとだんだん考え方がまとまってくるもんだ。ちょっとエモい考え方かもしれんが。(2022年8月4日)

繰り返される研究-進展はあったか

メールで"natureダイジェスト"という科学情報誌が送られてくるのですが、Vol.19/Issue8/Augst2022に「灌漑水路が乾燥地域を潤していた!」という記事を見つけた。英国地質調査所エディンバラの調査によると、インド北西部からパキスタン中央部にかけての一帯では灌漑水路網からの漏水が地下水を涵養していたとのこと。ちょっと待てよ、これは数十年前に広島大学の地理学研究グループが得た成果と同じではないか。広島大の地理はインド研究に力を入れており、大学院に入るとインドに放り出されるのだそうだ。現場における綿密な調査から地表水の灌漑水路網が地下水を涵養しており、水路がない地域でも地下水で農業ができる、という文献を読んだことがある。もちろん、IGUを始めとする国際学会や英文ジャーナルで発表しているはずだ。それでも異なる分野の研究者には既存研究の成果が眼に入らなかったということだろうか。確かに話題性はありそうなので、natureに掲載されたのだろう。研究成果に進展はあったのだろうか。20世紀の後半から研究論文の数は増加を続け、その成果を網羅することが困難になっているということかも知れない。昨今の数値指標に偏る研究評価のあり方が、研究の目的を"新しい知識の生産"というより、論文の生産自体に変えてしまったのではないか。ちょっと穿った見方かなぁ。(2022年8月2日)

ウクライナ戦争から求められる、学術的に考えるべき諸課題

学術会議第一部夏季部会の表記の議題について意見を述べよという指令が来ました。難しい議題ですが、アカデミアの立場から留意すべき観点はふたつあるのではないか。ひとつは正義と悪を相対化すること(山本七平「空気の研究」から)。戦争自体は絶対悪ですが、背景を理解するためには相対化しなければいけない。そのためには異なる立場から背景の理解を試みる必要がある。仮想敵国とされた国の立場も想像する必要があるだろう。正義や悪の絶対化は全面戦争につながる道である。戦後処理のためにもエンパシーを活用しなければならない。もうひとつは、歴史の教訓を提示すること。ビスマルクの言葉「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」が思い出される。プーチンの行為を「民族宗教」と「愛国」が結びついて暴走した状態と捉えると、「国家神道」と「愛国」が結びついて暴走したかつての日本が思い出されるではないか(寺島実郎岩波「世界」の記事から)。国家神道は明治政府が日本という国民国家を創り上げるために必要だったと認識しているが、国家とは何かという問いに突き当たる。すると、世界のありさまの理解にもつながる。もちろん頻発している諸問題の解決にはほど遠いが、解決に向かう道である。(2022年8月2日)

神の不在

朝日朝刊、政治学者の中島岳志さんのコラム「元首相 銃撃 いま問われるもの」から。山上容疑者のものとみられるツイートにこうあったそうだ。「何故かこの社会は最も愛される必要のある脱落者は最も愛されないようにできている」。確かにこの社会にはそんな側面もあるなと得心してしまうのだが、この文章にはキリスト教の教えに対するアンチテーゼも含まれているのではないか。キリスト教の社会では絶対神との契約の元に愛がある。しかし、現代日本には絶対神はいないのだ。だから、愛されたい、愛されるべきなのに愛されないという思いが募ってしまったのではないだろうか。日本でも仏教が社会の規範を構成していた時代は、地域社会の中に助け合いの仕組みがあった。大乗仏教が唯一定着した日本には、すべての人間を平等に救済し、悟りに導こうという教えが人の暮らしや心を支えていた。しかし、現代日本では神、すなわち生きることの規範が失われてしまったのだ。社会が幸せになるためには規範が必要なのではないだろうか。それは哲学、思想でもある。それが資本主義や競争でないことは確かである。やはり自分の哲学、思想を持つことが幸せを招き寄せるのではないだろうか。それにしてもあっという間に8月。終わりが少しずつ姿を現している。(2022年8月1日)

楽農報告

とにかく暑くて外には出たくないのですが、犬の散歩と畑作業はやらねば命が弱ってしまう。カラスよけの模型をぶら下げた。カラスの死骸を模したもので、ちょっと気持ちわるいのですが、野菜が守られると思って我慢。鉢植えにしていた昨年のベニアズマに蔓が出たので畑に移植。今年のサツマイモは同じベニアズマで、大分育っているのですが、時間差で収穫を期待。このところキュウリとオクラが一日数本ずつ採れている。消費にちょうど良い量で、楽しめる。二番手のインゲンを収穫。うまい。エダマメを収穫する予定だったが、暑さに負けて断念。来週にまわす。プランター植えの百日草とケイトウが死にそうなので、畑に移植。なんとか再起してくれ。コキアが大きくなりすぎて通路を塞いでしまったので、杭とトラロープで空間確保。後はひたすら草取りと水やり。ホームセンターにネギの苗が出回っていたので、準備せねば。無限ネギはこの暑さでへたっているが少しずつ消費。秋になったら株分けしてやろう。やることはまだあるのだが、この暑さなので退散。百日草、千日紅の花がきれいになってきた。昨年のこぼれ種が育ったヒマワリもきれい。定年後に向けて暮らしを少しずつ修正している。(2022年7月31日)

米のもたらす安全・安心

令和4年の米の作付面積が減るというニュースを見て、調べたら「水田における作付意向について」という農水省の報道発表を見つけた。今年は昨年より訳4.3万ha減少の見込みで、作付転換が必要な3.9万haを超える見込みという。戦略作物というのがあり、米粉用米、飼料用米、WCS用稲、麦、大豆といった品目では増加傾向だという。それはいいのだが、日本は米をもっと消費した方が良いのではないか。それこそ食料安全保障に対する戦略だと思う。最近、昼には研究室で米を炊いている。陶器製の専用鍋を使い、レンジで10分炊き、10分蒸らしでおいしいご飯ができあがる。炊きたてがうまくておかずなしでも食べられるくらいだ。年寄りはちょっとのおかずがあれば良いので、節約にもなる。今日は出かける前に畑で採ってきたキュウリとズッキーニをぶつ切りし、塩をふって30秒レンジで加熱、冷蔵庫で冷やしてごま油で風味をつけて食したところ、うまし。米もうまい。おかずに焼きノリもつけたので、今日の昼のコストは数十円だろうか。米の需要が増えれば価格も高くなるが、農家を支え、環境を保全し、日本の食料安全保障にも貢献し、いいことずくめではないだろうか。都市の暮らしに農を取り込めば、カーボンニュートラルの達成も夢ではないと思う。定年後の活動目標でもある。(2022年7月28日)

思いと行為

「千の『思うこと』も、一つの小さな行為の前に、いかにむなしいか」。朝日朝刊「折々のことば」の解説、随筆家、白洲正子の「美の遍歴」から。もとは白洲さんの「~思うけど、どうかしら」との問いに装丁家・評論家の青山二郎が「人間は、思ったり、したり、できはしない」と答えたという話。その後、家の前にゴミを捨てられて困っている老人が、外灯をつけ、草花を植えると止んだという地方新聞の記事を読んで白洲は改めて思ったという。このことは、気候変動や環境問題、SDGsやFuture Earthについて語るときのアカデミアの態度とも通じるものがあるように感じる。いや、これは自分自身の悶々たる思いだ。現場における行為によって示さなければ思いは空しくなる。萩原恭次郎の詩を思い出す。「無言が胸の中を唸っている/行為で語れないならばその胸が張り裂けても黙ってゐろ/腐った勝利に鼻はまがる」。そろそろ人生の曲がり角。変わらにゃ。(2022年7月26日)

楽農報告

暑さは厳しいが、週末は少しの時間でも畑に出て草取りをやる。その成果も出てきたようだ。今日は堪能させて頂いたズッキーニを整理し、キュウリとナスを新たに移植。今年はキュウリが少しずつ採れており、重宝している。ナスも時々大きな実が採れるとうれしい。今年は時間遅れで播種、移植した戦術が功を奏している。2段目のズッキーニ、インゲン、エダマメが収穫期を迎えている。日々草を二株プランターに移植。これで日々草、百日草、千日紅がそろった。昨年食べ残したベニアズマを植えておいたら茎が出てきた。来週移植してやろう。トウモロコシも順調に育っているが、カラス対策を始めねばあかんな。ダイコンの少量長期収穫計画も考えておこう。ミョウガを少量収穫。どうやらこれからが収穫期らしい。ネギはしおれている。八つ頭と里芋は順調。コンポスターの中身はどうも腐っているようだ。設置し直さねばあかん。コキアはすでに森になっている。通路を確保せねばならん。秋が楽しみじゃ。(2022年7月24日)

国策と環境アセスメント

国策で進めている洋上風力発電所の環境アセスメントでは制度上の不備が顕在化しているようだ。事業者が決まっていない段階で企業は予算をかけて環境配慮書を作成しなければならない。アセス委員会でも複数の同様な提案を審査しなければならず、負担も大きく、答申は金太郎飴になってしまう。そもそも海中の科学的情報は少ない。そこには根本的な問題がある。まず、科学の成果がすべてそろっているわけではないこと。それは科学社会学がいうところの“なされぬ科学(undone science)”だ(7月16日参照)。昨今の科学は論文生産が目的となり、地域社会やアクティビズムの需要を満たすことができなくなっている。事業者は数少ない情報に基づいて環境配慮をやらない理由を探すが、そこには本来は大学で学ぶはずの科学リテラシーが社会に根付いていないという問題もみえる。また、日本では“環境”とは省庁の力関係で決まる所掌範囲として“自然”の意味づけがなされており、暮らしはそこには入らない。公害は暮らしが脅かされた問題だったのにも関わらず。環境省、しっかりしろ。国策で進める事業では環境配慮書は国が引き受けるべきだという考え方もある。それも一理あるが、重要なことはあらゆるステークホルダーを網羅し、情報公開を行い、対話を行って、諒解を形成することである。福島の出来事をみていると、国という主体は対話が苦手であることがよくわかる。科学的合理性があれば良いのじゃ、ということになってしまう。そもそも日本の環境アセスメント制度は諸外国と比較して弱っちい。何とかせにゃあかんと思うが、根が深く、私などには手に負えないのじゃ。隅っこで吠えているだけ。(2022年7月22日)

日本に生まれた幸せ

先週あたりからセミが鳴き始めたような気がする。夕方の会議中もミンミンゼミが鳴いていた。うちの庭でも虫が声が聞こえ始めている。季節は粛々と進行しているのだ。自分も粛々と老いへの道を歩んでいるところだが、心身は大分弱ってきた。それでも季節の移ろいを五感で感じることができるのは、“もののあわれ”を知る日本の民として幸せなことだなと思う。ただ、こういう感性を日本人は失いつつあるようにも感じる。いや、意識の奥底に日本人の感性を押し込めて、じっと耐えているのが現状なのだろうか。何らかの重圧を日常的に意識せざるを得ないことも増えてきた。それは被支配の予感かもしれない。いくつかの会議に出席していると、自由な人の思いを封じ込め、支配を受け入れる精神的習慣を感じてしまう。考えすぎでしょうね。そんなこと気にせず、自然(じねん)の一部となり、“いとおかし”と暮らしたいものだ。(2022年7月20日)

楽農報告

あまりに暑くて連休始めの2日間は畑に出なかったが、最終日の夕方、少し涼しくなったので作業に出る。やっぱり、やらにゃ。まずは、枝豆の収穫。その後、草取り。畝の雑草は手作業で根こそぎ取ったが、それ以外の土地は刈り払い機で地面直上を刈る。根っこは残っても、土壌が硬くならず、有機物の分解が押さえられるので良いのではと思っているが、根っこまで取らなきゃだめじゃん、とかみさんに怒られそう。だが、それでいいのだ。枝豆は昨年よりは味が薄い感じ。雨が多かったからだろうか。それでもうまい。雑草は野積みにしてあるが、秋になったらシートで覆い、堆肥化を図ろうと思う。その後、来春の畑作業前に土地に返すのだ。コンポスターの堆肥は失敗したようだ。腐敗してしまっている。近日中に埋め戻して場所を変えようと思う。カラスにつつかれて枯れたと思っていたアデニウム・アラビカムが再生した。キュウリが皮だけ残して食われていた。少しは分けてやっても良いのだが、独り占めされるとこまる。カラス対策を進めねば。(2022年7月18日)

学術の意味とは

岩波「世界」の8月号の緊急特集として「重圧下のアカデミズム」が企画されている。最近こういう特集が多いように思う。文教政策に経産省や内閣府が入り込み、文科省の影が薄くなっているような気がする。現場でも学術に対する政治の支配がじわじわと強化されつつあることを実感しているが、それは経済のための学術であれ、ということである。そんなこといったって学術にはもっと多様な意味があるんじゃないの、と思うのだが、政治は経済一本槍である。アカデミアでは学術の意味をきちんと発信していなかったかというと、実はやっている。ブダペスト宣言を踏まえて、社会のための科学を志し、学術会議を2005年に改組した。しかし、その心は社会へも、アカデミアの中へさえも浸透していないのだ。背景には新自由主義志向の構造改革の中で、研究評価のあり方も変わり、貨幣以外の価値が忘れられてしまったなんてことがあるのだろう。金曜の夕方に学術会議における「未来の学術振興構想」の策定に向けた「学術の中長期研究戦略」の公募に関する説明会があった。明確には語られなかったが、もういちど社会に学術の意味、価値を発信したいという思いがあるはずだ。科学者が一丸となって、もういちど学術の意味を世に問うことができるだろうか。それができればSDGsやカーボン・ニュートラルの達成も夢ではなくなる。(2022年7月17日)

なされぬ科学

8月号があるのに、7月号を読み切っていない。がんばって「世界」7月号を読んでいるときに、この言葉に出会う。科学社会学の用語undone scienceのこと。森啓輔氏による有機フッ素化合物、PFASに関する記事から。PFASはようやく環境問題の俎上に載ったところはであるが、各地の様々な問題に関する調査報道を継続する意味は、「なされぬ科学」を発見することにあるという。「なされぬ科学」とは関係する地域社会やアクティビズム(積極行動主義)による需要があるにもかかわらず、規制機関が具体的な環境汚染の状況に見合った科学的評価を提供しないという状態とのこと。 確かにそうだが、規制機関は行政であり、科学的評価を行うことが実質的に難しいという現状もあるだろう。科学の課題はたくさんあるのだが、研究者側は論文を生産できなければ研究を実施するモチベーションが高まらないという時代の悪しき習慣もある。このことは環境アセスメントに関わっているとよく経験することである。アセスの評価を行うのは事業者であり、それは問題がないということを前提に行う調査である。ちょっと違うのではないかと感じても、アカデミア側は様々な制約のため(予算、時間、評価、等々)、それを実証することができない。科学と社会の関係性はかつてないほど弱まっている。現代の研究者は狭い世界のエリートにならないと生き残れないのである。環境問題に関わる研究者はエリートの側にいてはあかん、というのが私のスタンスであるのだが、私も老いた。(2022年7月16日)

この世界のありさま

なぜロシアがウクライナに侵攻したのか。識者の考え方を調べていると、だんだんわかってくるような気もする。背景として宗教の存在が大きい。ロシア正教とプーチンの関係性は密である。そして、プーチンにはロシア帝国の歴史の経験(教訓ではなく)がある。寺島実郎は民族宗教と国家権力が一体となって「愛国と犠牲」を美化し、それを外への攻撃性に向けるとき、国の運命は制動を失い暗転する、という(詳しくは岩波「世界」2022.7)。それは1930年代の日本と近似しているのだ。明治政府は国民国家を形成するために、頂点に天皇を置いた。それは日本にはない欧米の一神教の神に相当するものである。天皇親政の神道国家をめざしたのだ。それは藩、すなわちcountryの集合体だった日本列島をnationとしての国民国家にするために必要だった。それが制動を失い、敗戦に至った。それは歴史の教訓である。「愛国と犠牲」には言葉の美しさの裏に、支配と忍従が隠されている。中国では宗教に代わるものが共産主義だろう。その名の下に「愛国」が強要されている。自制を失ったときにどうなるか。一方、イスラム圏や第三世界からウクライナにおける戦争を見ると、異教徒の内紛に見えるのかもしれない。そこに経済はじめ、様々なリンクが複雑に絡み合う。この世界は複雑なのだが、注意して見ているとだんだんわかってくる。独りよがりの考え方かも知れないが、ビスマルクの言葉を思い出すと、さもありなんと思うのである。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」。(2022年7月16日)

山本コウタロー逝く

どんどん自分の生きた時代が遠ざかっていくなぁ。「走れコウタロー」がヒットしたのが1970年で中学入学の年。「岬めぐり」が1974年で高校2年。これはいい曲だ。老いて暗譜はできないが、自分のレパートリーのひとつ。フォーク少年だった青春時代と同期してコータローがいた。当時はラジオにかじりついて曲を聴くしかなかったが、アルバム「卒業記念」はがんばって買った。きっと八千代台にあったエコーレコード店に買いに行ったのだろうな。発売が1972年なので中学3年だった。大人になってお金が使えるようになってからはコウタローも参加していた武蔵野タンポポ団のアルバムを入手。当時は吉祥寺、高円寺あたりでもぞもぞと活動していた音楽が憧れだった。高田渡も死んじゃったなぁ。自分はもう高田渡の没年を超えた。コウタローは享年73歳。その歳まで私も10年を切った。残りの人生を楽しく過ごしたいものよ。 (2022年7月15日)

その時

今日の健診でその時はやってきた。身長が170cmを割り込み、169.6cmとなった。これまでは何が何でも170cmをキープしようと背筋を伸ばして測定に臨んだが、それはやめた。老いたのだからしょうがない。血圧も公式記録162/103mmHgを記録。急に上がった。でもジタバタせず素直に受け入れる。老いた、ただそれだけ。人生のピークはすでに過ぎている。すべてを受け入れ、だんだんとしぼんでいく。自然(じねん)を旨とし、まわりの山川草木と溶け込んで、暮らして、逝きたいものだ。(2022年7月14日)

この国の行く末

昨年11月に開催された第23回福島ダイアログのテーマは「処理水をめぐる課題を福島で考える 世界と考える」であった。そのダイアログのまとめをホームページに掲載した旨の連絡がありました。昨年の記憶がよみがえっているところですが、あらためて対話(ダイアログ)が大切であることを実感。しかし現場の“ひと”と、国・東電の間では対話はできていないのだ。近代文明を使うためにはあらゆるステークホルダーとの間で対話を行い、諒解を形成しておく必要があるということを教訓として実践していかなければならないのだが、気候変動やロシアの蛮行の影響を眼前にしても、日本のエネルギー政策に対話の痕跡はみえないのだ。再び悪夢を見ることにならなければよいが。おりしも東電の株主訴訟で東京地方裁判所は元会長らに多額の賠償を命じる判決を行った。近代文明の粋である原発を運用するということはどういうことであるか、ひとつの考え方を示したといえる。とはいえ今後どういうことになるのか、先は見えない。日本はなぜ敗れるのか-敗因21ヵ条-をいまこそ乗り越えなければならない時なのに、同じことを繰り返しているのではないか。この国はどこに向かっているのだろう。(2022年7月14日)

一人学際は危ういか

地球研の終了プロジェクトセミナーに参加しました。大変勉強になりましたが、湯本先生の気になるお話がありました。先生は一人学際は危ういといいます。独りよがりになりがちなので、先生は様々な分野の研究者と連携、協働するのが良いという話だったと思います。最近の自分は世のありさまを知りたくて、いろいろな分野に手をだしすぎの嫌いがあり、主張が独りよがりになっていないか気になっているところです。といっても議論する場がなかなか見つからず、主張しながら反応を待っているのですが、なかなか手応えはない。それはややこしい議論は避けたがる日本人の特性もあるのではないかと思っていますが、批判や反論もないので受け入れられているのかなぁと勝手に解釈しています。よく考えると、独りよがりを懸念するという態度は、普遍的な考え方があるという暗黙の仮定を置いているのではないだろうか。普遍性をめざして学際の幅を広げていけば、実際には多様性を実感することになるだろう。独りよがりであろうと、仮説を提示して、読者を獲得することができれば、それは学説として成り立つのではないだろうか。現代哲学に普遍性がないように。そもそも何十年も前に学際が標榜され、そして失敗した際の教訓は、異分野を集めるだけではだめで、一人が学際を達成することが重要ということだったと記憶している。湯本先生のお話をじっくり思い出すと、一人が外部との交流がないままで学際をめざしてもだめよ、ということなのだろうな。だから一人学際をめざすなら、人と交流せよ、と理解しておきたい。ただし、異分野との議論も簡単ではないことは最近実感しているところでもある。(2022年7月11日)

楽農報告

この時期は、草、草、草、...。作物が雑草に埋もれてしまうので、ただひたすら草取りに励む。有機農業の観点からは土壌有機物の分解を早めてしまうので不耕起、雑草と共存する栽培も推奨されているところだが、やはりきれいに雑草を取りたいのだ。美しい畑は心を和ませる。何が美しいのかは、個人の精神的習慣に依るところであるので、あるとき変わるのかも知れない。刈り取った雑草は畑の外には出さず、積み上げて放置してあるのだが、減容化が進み、下の方は土に戻っている。いずれ切り返して土を畑に戻すつもりだが、枯れ草を畝間に敷くのも良いかも知れない。今は週末農業で余裕がないので、定年後はしっかり有機農業に取り組みたいものだと思う。美しい畑のあり方が変わるかも知れない。(2022年7月10日)

やってはいけないこと

人は人を殺めてはいけない。殺めようとしてはいけない。だから、私は戦争反対、死刑も反対。人は“ひと”であり、顔が見え、名前があり、暮らしがある。“ひと”を意識すれば、“事情”が想像できる。それは人の“意識世界”を理解しようとする試みでもある。そこから、本質的な理解や解決への道筋が見えてくる。それは迂遠な道かもしれないが、よりよい未来への確かな道でもある。日本は劣化を始めたように感じるが、それは世界とも同期している。そんな世界の片隅でどうやって生きていこうか。(2022年7月8日)

連携、協働は難しいが

ある案件について行政とメールでやりとりする中で、「日本は低税収の時代に入った」という表現をつかった。念のため日本の税収を確認したら令和4年度の見込みは65.2兆円でバブル期を超えている。私の主張と齟齬をきたしてしまったが、私の意図は、生産年齢人口の減少は必然的に低税収につながるということであった。現実は税収を遙かに超える国家予算で収支はマイナスであり、イノベーション頼みの未来は極めて危うい。必要な分は国債発行でまかなっても良いのだが、使い方が適切なのかようわからん。税収が伸びても日本に金はない。給料も先進国の中で唯一上昇しておらず、税収が伸びたことの恩恵を庶民は受けていない。どこも金はない。大学も行政も予算は極めて厳しい。ではどうすれば良いか。私は連携、協働だと思うので、もう少し連携を意識しようよ、という意図で書いたメールであった。今日の午後は学術フォーラムを聴講していたが、ある大先生が連携は難しいと言い切っていた。その通り、難しい。しかし、それで済ますことができるのは現実に対峙しない大学の先生だからだ。現実の世界では目的を共有するのではなく、目的の“達成”を共有し、連携しなければ状況は変わらないのだ。それこそがSDGsの心であるのだ。(2022年7月7日)

この世界はちょっと複雑

昨日の帰宅時にカーラジオで聞いた話。ウクライナ南西部を取材したジャーナリストによると、避難所でロマに対する差別が生じているということ。もちろん、それは一部なのだが、同じ避難者の中でも差別はあり得るのだ。山本七平の「空気の研究」に書かれているように、正義と悪は絶対化してはいけない。同じように加害者と被害者も絶対化することはできないのだ。この世界はちょっと複雑なのだが、それを受け入れることから道が拓けるのではないだろうか。2限の講義でも開始前の余談として話してしまった。きちんと受け止めてくれた学生はいただろうか。(2022年7月6日)

失われた自然観

最高裁の福一事故に対する国の責任を認めない判決から3週間ほど過ぎたが、今日も朝日朝刊で記事を見かけた。国策で進める事業に国の責任がないなんてことはにわかに受け入れがたいのであるが、背後で進行している深刻な事態を見極めねばならん。まずは、極端な法治主義、すなわち、論理に形式的な矛盾がなければよしとする習慣。それは権力につけいる隙を与える。科学に対する過信もうかがえる。それは逆に科学で予測できないものに対しては責任を取らないという態度につながる。さらにそれは科学を支配できるという感覚につながっているようにも感じる。過信から生まれた誤解であり、国の最近の傾向である支配の空気も感じる。何よりも自然観が確立していないことが根本にあると思う。かつて人や社会が持っていた自然を敬い、経験知により備える態度の衰退である。人と自然の関係性がこれほどまでに失われてしまったのかという絶望感を押さえ込むのに苦労するくらいだ。人、自然、社会の関係性を俯瞰的な視座から認識し、過去、現在を理解しつつ、未来を展望することが学術に課された使命だと思うが、学術も20世紀型の古い学術から脱却しなければあかんのだ。(2022年7月5日)

SDGsを“きれいごと”にしないために

SDGsの達成はアカデミアでも重要な課題なのですが、高みでかっこいいことを述べて満足しているだけではあかんと思います。現場で具体的な行動を起こし、そこから関係性の紐をたどって仲間を増やし、この世界を眺めることが達成への道筋ではないかと思っている。今日はNPO環境パートナーシップちば主催「SDGs・ESD公開フォーラム」に参加しました。いきなりワークショップの進行役に指名されてドキドキだったのですが、いろいろな実践のお話は有益でした。事例を紹介頂いたみなさんは現在の解くべき課題を持っています。現在に対峙しながら未来を創造するということになるはずです。だからよりよい未来を想定してバックキャストして現在を見るだけではなく、現在から未来を展望するという視線も重要になるはず。両者の視線を一致させること。それがSDGsを“きれいごと”にしないための方策だと思います。 (2022年7月3日)

環境問題と暮らし

大衆の力はすごいのだ(なんとなく“大衆”という表現が好きです)。そんなことを感じさせるイベントに参加した、というかZOOMミーティングを視聴した。まるごといんばぬま主催「みんな知ってる?ナガエツルノゲイトウと印旛沼オンラインキックオフ」。環境に入り込んで、いろいろな悪さをしている外来水草とどう付き合うのか、みんなで考えて行動しようという試み。人、自然、社会の関係性の中に入り込んだ生物は除去することは困難だ。ナガエは粛々と生を全うしているだけ。もとはアクアリウム用として輸入された水草を誰かがよかれと思って水辺に放置したのが最初だと思う。それが近代的な灌漑・排水システムを通じて拡散してしまった。大規模経営の圃場では対応が困難だ。しかし、小農(家族農業)だったらみんなで協力して拡散を防ぎながら、ナガエと共存することもできる。こまゆさんのように。大農と小農、どちらも大切だが、世界では「国連国際家族農業の10年」が進行中だ。環境問題を解決しようとしたら、暮らしを変えなければならないこともある。暮らしを変えるということは社会のあり方を変えることでもある。そんな大それたことできっこないと思うかもしれないが、SDGsのように社会を変える試みがだんだん現実となって現れてきたように感じる。ひとつの社会を目指す必要はないのだ。複数の社会が共存、共栄し、相互に行き来できる社会が可能なのではないか。(2022年7月2日)


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