口は禍の門

新しい年度が始まりました。時間は粛々とその刻みを進めているだけですが、新しい元号も決まり、人の時代は確実に変わっていくだろう。The Times They Are A-Changin' 、ディランのいうように古い人間は若い者にその役割を譲らなければならないか。私は老いてしまったが、まだ役割はあるだろうか。それは決して階層の中で押しつけられた仕事をする役割ではなく、何かを変革する役割。でも、それは若者の仕事だろうか。今の若者もディランの時代の若者と同じ熱さを持っているだろうか。熱さなんていってるのも老いた証だろうか。なんてつぶやきながら、新しい時代をどうしてやろうかと考えている。(2019年4月1日)

新しい年の元旦ですが、地球はいつもと変わる様子もなく、粛々と運行を続けている。人生も無事(事も無し)というのが幸せのひとつの形だと思うが、生きるために稼がなければならず、今年も様々な柵に右往左往しながら暮らしていくことになるのだろう。私は環境の研究者であるので、未来について考える。そのためには哲学、価値、倫理に対する自分の考え方が必要なはずである。予測しなければ人は生き様を決められない訳ではない。未来は科学技術が進歩して、何をやるにも便利な社会ということでなくても良い。貨幣を増殖させるために新たな需要を生み出すことにあくせくしなくても、必要を満たした上で、少しのゆとりがあれば良い。科学の成果も、今でなくとも10年後、100年後に達成するのでも構わないものはたくさんある。人にとって大切なものは何か。それは幸せな暮らしであるはず。便利で格好いい暮らしという訳ではない。哲学、価値、倫理に対する考え方を身につけ、今の時代を創っていくことが我々の勤めだと思う。SDGs、Futuer Earthはすでに発進している。この10年は人類の歴史にとって大きな転換の時期になるはず。(2019年1月1日)

2018年12月までの書き込み


大学改革は失敗だけど

同じく朝日朝刊から。ノーベル賞学者の梶田さんらが「大学の危機乗り越えよう」というシンポジウムを開催したという記事。国の予算の抑制や度重なる改革で日本の大学は疲れ果て、深刻な危機を迎えているという認識が発端。これは教員ならば誰もが感じていることだろう。もはや、大学改革は失敗と明言してよい状況ではないかな。ただし、私は単に予算増やせ、ではダメだと思う。時間軸の中で日本がどの位置にいるかを認識し、この時代に行うべき研究のあり方を大学人がきっちり述べなくてはあかん。どんな研究か。それはもう世界が示しているのではないでしょうか。大学改革は失敗だけど、そこから学んで、新しい時代の研究のあり方を示さなければあかん。(2019年4月14日)

哲学を語ろう

朝日「声」欄から。大学院生の小林君、いいこと言いますね。タイトルは「『何を成し遂げたか』で選ぶべし」。小林君は政治家が選挙のたびに掲げる「マニフェスト」に対して責任とってないじゃないか、という。だから政治家は何をしてきたかで選ぶべきではないかということ。これはマニフェストが単なるリスト、有権者向けのメニューになってしまっていることが問題なのだろう。マニフェストの背後にあるはずの実績が見えないということであるが、私は実績の前に政治家には哲学、思想を語って欲しい。どのような社会を構築したいか、その理由は何か、その考え方に基づき投票すればよいのではないか。そうすれば若手でも立候補できる。もちろん、政治家も発信はしているのだろう。しかし、選挙公報には抽象的なことは書きにくいと思う。市民側が政治家の哲学を理解する力を持てば、良い政治家を発見することができるのではないか。大学の中期計画もマニフェストのようなものである。単なるリストになっており、その背後にある哲学がわかりにくい。言説に流されているのではないかと思われる面も多々ある。財務省-文科省-大学-教員というヒエラルキーにおけるガバナンスの中で、なかなか議論の機会がないのが問題であり、これが大学の衰退の原因になっているのではないだろうか。哲学を語ろう。 (2019年4月14日)

多様な関係性の中で生きる-さらにさらに

五輪相が辞任。失言がきっかけですが、なんで失言をしてしまうのか。それは彼の意識世界が政治家の世界の中だけに留まっており、その外側と関係性を構築することができていない、やろうと思わなかった、そんなこと想像もしなかったからなのだと思う。人の意識世界が広がると、人々の意識世界が交わるようになる。すると様々な関係性が見えてくる。背後にある様々な事情も見えてくる。その上で考えればよりよい社会構築へ向かう道筋が見えてくる。政治家こそ率先して意識世界を広げなければならないのに。(2019年4月10日)

多様な関係性の中で生きる-さらに

文科省もいい加減にして欲しいと思います。すでに計画が決まり、採択されて実施中の事業を途中で打ち切るという。その理由が金がないからだという。こんな判断があり得るのか、理解に苦しむ。なぜなら、事業には若手研究者も参加しており、彼ら、彼女らの暮らしの原資の喪失でもあるから。事業打ち切りが人の心身に何を及ぼすのか、想像することもできないのだろうか。これも文部省の担当者の方々の意識世界があまりに狭いことを明示している。自分の幸せはわかるが、人の幸せは見えない、わからない、関係ない、ということだろうか。世の中の様々な営みが要素に細分されて、その個々の要素の間の関係性が意識されなくなっている。これでは日本の科学、教育そして社会の未来が見通せない。(2019年4月9日)

多様な関係性の中で生きる

国交副大臣の忖度発言にはあきれて口が塞がりません。なぜ、あんな発言をしてしまうのか。それは政治家の意識世界が狭いから。自身と関係性を築いている範囲で、考え方を形成し、実践する、その範囲があまりに狭い。その外側には広い世界が広がっており、そここそが政治家の活躍する場なのですが、この方は土俵を間違えているということになります。政治家こそが多様な関係性の中で生きる姿勢を身につけ、意識世界を広げて行かなければならないと思います。それを阻むものは何だろうか。地位、名誉、金、でしょうか。それが大切な社会とはどんな社会か。資本主義の功罪の罪の部分でしょうか。政治家も社会のあり方に対する哲学を語ってほしいと思います。(2019年4月9日)

多様な生き方

昨日は人のパワハラでしたが、今日は自分のパワハラ。新年度のゼミが始まりましたが、一番気になることは学生の研究に対する姿勢が変わらないこと。自分がどこにいて、そこでは何をやるべきなのか、意識していない。改善しながら、少しずつ己を高めていくという態度が身についていないのです。それでゼミで少しパワハラ気味な発言をしてしまう訳です。こういう時、大学は教員が犠牲になれ、という。入学させたのだから、とことん面倒みろと。でも、教員評価の基準は緩めないよ、というのが現状。とはいえ、私は学生の頑張らない生き方もありだと思うのです。ただし、そうなると大学は頑張らない学生のいる場所ではなくなります。世の中には多様な生き方がある。それらを尊重し、可能にする社会こそが目指すべき社会だと思うのです。しかし、現実は生き方を選べない(選びにくい)社会になっている。若い学生は、そんな社会の犠牲者ともいえる。(2019年4月8日)

事実と真実-再来

なんと北大の総長がパワーハラスメント、というニュース(朝日朝刊)。報道では調査委員会が立ち上がったという内容だけで、その理由は書かれていない。こんな報道があるだろうか。ゴシップ誌ではないのだから、背景まで含めて報道をお願いしたい。しょうがないので仮説を立てる。学長は文科省の大学評価の中で良い点数をとりたい。それは大学のためを思ってのことです。指標による評価ですので点数がつきますが、その評価手法に哲学がない、また現場の事情が配慮されていない。だから研究教育の現場には不満が生じる。そんな背景の中で思わず何かが起こってしまった。これは仮説であり、今後検証が進められなければなりません。人や組織を動かすということは、哲学、あるいは明確な理由がなければなりません。事実だけではなく、真実に踏み込んで現場を理解しなければ良い組織、人の幸せは生まれないのではないだろうか。その時に必要なことは、対象を周辺まで含めて包括的に、かつ時間軸を取り入れて俯瞰する視点だと思う。(2019年4月7日)

原風景、原体験共有の意味

第8回印旛沼流域圏交流会が桜満開の大和田機場で開催されました。第2部の司会を急遽やることになり、ドキドキでしたが皆さんと交流の場を持とうと思い、ちょいと考えました。数名の座席を前に用意し、座ってもらいます。テーマを決めて、各人に最大3分間で話してもらいます。それを白板に書いておきます。終わったら会場からも発言を求めます。こうして皆さんの思いを集約するとある対象に対する様々な見方が見えてきます。とはいうもののファシリテートの経験がなかったので、ダメダメでしたがいくつか見えてきたものがあります。一つは原体験、原風景が印旛沼流域における活動のモチベーションとなっている方が多かったということです。子供たちにも同じ経験を共有させる試みが流域内で行われており、成果を挙げています。我々年寄り世代の原風景、原体験が単なるノスタルジーと言われないために、活動を継続し、成果を積み重ねて行く必要があるとしみじみ感じました。それは恐らく論理化、理論化できると思いますが、それがより良い社会を構築する原動力になるはずです。(2019年4月6日)

少子高齢化時代の災害と社会のあり方

学術会議の公開シンポジウム「繰り返される災害-少子高齢化の進む地域で生き抜くということ-」が終わりました。私は総合討論の司会だったのですが、広範かつ深いテーマですので、うまく纏めることはできなかったなと反省。会場からも少子高齢化に踏み込んでないのではないかとのご指摘も頂いたのですが、さてどうすれば良かったのか。少子高齢化に伴う様々な問題が昨今は顕在化していますが、その対応は技術と制度だけではないだろうと思います。この社会をどうしたいのか、という生き様、哲学を持つ必要があると思います。そのためには、現在の社会のあり方が包括的な視点から理解されていなければなりません。この理解があると個々の主張の背景に、都市的世界があったり、農村的世界があったり、あるいは両方を包摂する視点があることが見えてくる。さらに、時間軸の上で社会のあり方と人と自然の関係性のあり方の変遷が見えてくる。そうすると未来社会のあり方に対する哲学が生まれ、それが行動につながる。こういう議論はシンポジウムよりワークショップを積み重ねていく必要があると思いますが、様々な関係者と分野を取り込んでいくことが目前の課題ではないだろうか。(2019年4月5日)

今日ちゃんとしない

通勤中のラジオから。中村竜太郎氏はストレスフリーを目指しているそうで、その秘訣は“今日ちゃんとしない”こと。ここだけ聞いて、そやなと納得。昨今、“ちゃんとやれい”、の号令が雨あられと降り注ぐ。ここは逆らってちゃんとしないことがストレスを緩和する策。とはいっても竜太郎さんはフリーですので、ちゃんとしないことの結果は自分で責任を負うことになる。では、大学人は何なのだろう。大学から給料をもらっているが、その仕事は大学だけに留まらない。フリーみたいなもんです。でも、いろんな仕事をしていると、最も根幹的な部分で組織の論理と、社会の論理、そして自分の生き方が齟齬をきたすことがある。そんな時、どう行動するか。これは悩ましい問題です。ですから、私は大学人の給料を半減して、かつ副業を持つことを基本的生き方にすればよいと思います。おまえはできるかも知れないが、私はダメという大学人もいるだろう。そうしたら大学の講義を歩合制にすれば良い。中等教育の非常勤講師も大学人ができるようにすれば、教諭の忙しさ問題も解決できるかも知れない。自分の研究成果を社会で試すことも容易になるだろう。ただし、金、地位、名誉とは一線を画さなければいかんと思います。注意すべき相手は資本主義かも知れません。こんなことを妄想していますが、以外といけるのではないだろうか。(2019年4月4日)

身の丈にあった望み

Yahooを見ていたらおすすめコンテンツに、「寂聴さんが語る、いきいき生きる10の秘訣」というタイトルを見つけましたので、早速よりみち。まあ、ふつうのことばかりでしたが、一つだけ心に留まりました。「自分の身の丈にあった望みをいだくことですね。そうすれば欲求不満にならない」(人生問答 切に生きる)。その通りやなと思う。昨今はとにかく上をめざせ、目標をたくさん立てて達成せよ、なんてことばかり。それを指示するのは上の階層。誰が幸せになるのか。それに踊らされて心身をすり減らすのはもうやめたいものです。身の丈にあった望みを達成することが、まわりも充足させる、そんな風になりたいものです。(2019年4月3日)

「正しさ」より「楽しさ」

昨日の朝日朝刊「折々のことば」(鷲田清一)でこれを見つけました。「地域での活動の入口には、『正しさ』ではなく『楽しさ』が必要なのです」(山崎亮)。ある大きな目的を達成するために協働が必要。ただし、「正しさ」だけでは人はなかなか動かない。これはしようがありません。そこに、「楽しさ」があると人が集い、話すこと、体験することにより理解が生まれ、目的の達成が共有される。私たちはこの方法論自体は共有していると思うのですが、「楽しさ」を醸し出すのが難しいのかなと改めて思っています。基本は一杯やること(お酒です)だと思うのですが、これは親父感覚でダメなので、若者が感じる「楽しさ」を理解せにゃあかんなぁと思っています。大学のゼミ運営でも、放っとくとどんどん個人が分断されていきますので、楽しさから遠ざかるばかり。私は背中を見せる教育を目指しているのですが、最近私の動きが鈍かった。今年度は自分が動くことを目標にしたいと思います。そうすると研究室が楽しくなる。それは学生と教員が目的の達成を共有するということ。(2019年4月2日)

壁を越えられない、越えない

学部の新入生の対面式がありました。そこである教員からの言葉。詳細は省きますが、要は、最近の学生は壁にぶち当たると逃げてしまう。臆せずチャレンジせよ、ということ。確かに壁を乗り越えられない学生が増えてきたことは実感している。小さな壁を乗り越えないから、壁はだんだん高くなり、最後はどうしようもなくなる。その後の態度は誠実と不誠実に分かれる。不誠実な態度は教員の心にも傷を付ける。一方、最近は“乗り越えない”学生も出てきた。真面目ではあるのだが、答えを与えられることが当たり前になっており、“考える”や“行動する”という行為の仕方がわからない。こういう学生は現行の教育ガバナンスの中で、教員を傷つけることもあり得る。私はもう先が見えてきたので、個人対個人の教育は少しずつ撤退し、別の立場から教育を考えたい。現在の状況を生み出した社会的背景まで視野に入れて考えたいのである。それは環境を良くする、社会を良くする行為にもなると考えている。(2019年4月2日)

金がなくても研究はできる

今年も科研費はダメでした。申請書が十分練れていなかったことが原因だと思います。忙しかったなんて言えないのですが、申請の時期はやるべきことが多すぎた。従来の研究を超えた新しい方法論を入れたつもりでしたので、時代が追いつくのが遅かったということにしておこうと思います。うちのセンターからは4件の採択があり、とりあえず安心。というのは科研費が取れないということは分野の中で認められていないからだ、という意見が文科省からでて、大学の執行部も科研費獲得を重視する厳しい目があったからです。しかし、科研費が取れないということはそんな単純なことではなく、リモートセンシングという手法を中心に環境という多様な対象を研究する分野の特徴だといえます。いい作文をすれば採択されるのはディシプリン科学の分野であり、独創的な研究、すなわち新しい組み合わせを試みる研究の評価軸がないということ。研究は金がなくてもできるのです。重要なことは解くべき課題が設定でき、それを様々なステークホルダーの協働をベースに解くことができるということ。まず楽しむということも重要。社会の中で研究者の役割を責任持って果たしていれば良いのだ。と、吠えてみる。(2019年4月1日)

事実と真実

最近、田中正造に関する本を三冊購入しましたが、最後の「毒-風聞・田中正造」(立松和平著)をようやく読み終わりました。終章の記述には理不尽、不条理、権力の横暴、弱者の悲しみ、苦しみ、諸々が入り乱れ、読後に落ち着かなくなるほどでした。小説に書かれていることは原則的にはフィクションなのですが、取材に基づき構成された内容に事実だけでなく真実が含まれていることは明らかです。故立松和平は宇都宮生まれの当事者でもあり、周到な資料収集と取材が行われたと考えられます。その結果、記述された住民の自尊心、葛藤、権力による近隣住民の分断、妬み、嫌がらせ、裏切り、...理系の論文では扱われることがない事象の方が、渡良瀬川鉱毒問題を住民側から理解する要になっていると思われます。事実であると科学的に認定できることのみで問題の全体像を理解することはできません。研究者の目的がジャーナルに論文を掲載することであれば、事実の記載、理論による解析で十分です。しかし、問題の理解と解決を目的とするならば、真実に踏み込まなければなりません。そのためには、より広い“世界”を俯瞰し、仮説を構築し、検証する手続きが必要となります。非常に広い範囲を包摂する視野が必要になりますが、作家の方が研究者より広い視野に立つことができる場合もあります。もはや業績カウントに使われる既存の査読論文で扱える範囲ははるかに超えます。問題解決を目指す科学のあり方を再考し、変えていかなければならないと思います。それがFuture EarthのTransdisciplinarityやSDGsにおける科学の役割なのではないか。(2019年3月31日)

共感が生み出す排除

朝日朝刊オピニオン欄の論考の論考。もとの論考は石戸諭「ロバートキャンベルさんが語る『共感』の危うさ」(ハフポスト)で、それに対する一橋大の森千香子さんの論考。「『理解』強制に欠かせない視点」がタイトル。日本では「共感」は肯定的に捉えられることが多いのであるが、共感が、共感できない人の排除につながるということ。共感がある枠を形成し、その枠の外側との間に壁を築いてしまう。このことは私もずっと考え続けていた。原子力災害被災地で協働を達成するためには、共感、理念、合理性を共有することが大切だと考えてきた。これらは環境社会学における共感基準、原則基準、有用基準とほぼ同じと思われる。しかし、これが枠を作ってしまうことにもなり、その外側との交通(哲学的な意味の交通)が難しくなる。これを突破するために、ステークホルダーの階層構造について考えてみた。しかし、理念あるいは原則基準の折り合いを付けることが難しいのである。そこで、意識世界ということを考えた。人の考え方や価値観は、その人が関係性を持つ範囲で決まってくる。よって、広い意識世界を形成することができれば、相対的に小さな意識世界同志の相克を理解し、折り合いを付けることができるのではないか。もちろん、上から目線で小さな意識世界を眺めてもだめで、人の意識世界を広げる行為が重要だということに至っている。それは教育と実践につきるのではないか。共感の範囲を超える異なる考え方も尊重して、折り合いを見つける力を醸成するには、人の意識世界を広げること、そのためには教育と実践が大切。そんな風に思っています。(2019年3月31日)

すべてのわざには時がある

朝日に連載されている姜尚中さんの自伝、エッセイからキーフレーズを拾っておきます。姜さんの座右の銘とのことですが、 「すべてのわざには時がある」(旧約聖書の言葉)。すなわち、 すべての物事には起こるべきタイミングがあるということ。私もずっとそう思ってきました。だから、世の中のことをできる限り広く俯瞰していると、なぜそんなことが起きているのかがわかることがある。同時に、それが今やるべきことか、すなわち今重要なことなのか、がなんとなくわかるような気がします。それは研究の課題でもそうです。ある研究課題は、あるタイミングで重要であったということ。そのタイミングを過ぎると、その課題が重要かどうかではなく、重要ということになったかどうか、という点に研究者の力が注がれることになる。社会の側のリテラシーが不足していると、時節を外しているということに気づかれずに、研究に資源が投入されることになる。これが是正されにくいのは、昨今の研究と研究者の評価システムに一因がある。研究は社会のためのものでもあり、研究には哲学が必要なのだよ。社会のためになるためには、教育も必要なのである。研究者は昨今の評価システムのもとでは一本道の人生を強いられがちであるが、すべてのわざには時がある。すなわち、時に応じて研究者の役割は変わらなければならないのである。わざを複数もっておく必要がある。研究だけでなく、教育、また学識者としての役割、いろいろある。(2019年3月29日)

近代文明のステークホルダー

成田空港と周辺を視察してきました。空港会社の地域環境委員になったので、わざわざ企画して頂いたのですが、環境アセス委員会でも一度視察があったので、滑走路側に入るのは2回目でした。今回は、旧管制塔に上ることができました。あの襲撃事件があった、その場所です。調べると1978年3月26日でしたので、もう41年も前のこと。開港の前にA滑走路の西側をセスナで飛んだことがあります。災害調査の一環でしたが、あれから40年以上。時の流れを感じます。旧管制塔からは成田空港とその周辺が一望でき、都市的世界と農村的世界が接して存在していることがよくわかります。両者は共存するということになっているのですが、実は空港の存在による受苦者もその視界の中に存在しているはず。受益者と受苦者の間でどのような諒解を形成できるか、これこそが近代文明を駆動する仕組みに課せられた根本的な課題だと思います。最初に説明頂いたエコ・エアポートビジョン2030に、“ステークホルダーと共に”という文言が出てきたので、思わずステークホルダーとは誰か、その階層性、協調と対立について一節を打ってしまいました。小難しいやつだと思われたことでしょうが、何世代にもわたり静かな暮らしを営んできた方々もいるのです。それは少数者かも知れません。近代文明の中で、少数者の権利はどのように尊重されるのか。権利は貨幣に換算されてしまうのか。この文明社会の進むべき道を考えても、それで全体のコンセンサスが得られるわけではない。恐らく社会学や法学では議論されていることでしょう。勉強せねばあきまへん。ますます自分は理工系から人社系へ変わりつつあるように思います。(2019年3月28日)

論文というリスク

京大で論文の不正が指摘された。朝日では東北大の件と合わせて、紙面の結構広い面積を占めている。当事者とは直接の面識はないが、同じプログラムに所属していたこともあり、その活躍は耳にしている。悪の心があったとは思えず、様々な事情と不運があったのではないかと推察するばかりです。地球科学の研究者にとって現象の発見は大きな成果です。しかし、研究のすべてを一人でできるわけではない。複数の成果を引用して、論理を構成しながら、自分のアイデアのプライオリティー、オリジナリティーを主張するのが論文です。この過程にちょっとしたミスがあったということはないだろうか。昨今、研究者は競争の嵐にもまれ続けている。他人に対するねたみは人として当然生じることもあるだろう。そうすると、ちょっとした弱点を突いてくる輩もいるだろう。告発があると組織は自己防衛に走る。京大は十分な検証を行ったのだろうか。報道からはよくわからない。顛末については注視したいと思う。熊本地震は災害でもある。自然の営みである地震を理解し、災害の被害を軽減したいという様々なステークホルダーに共通する目標を共有していれば、皆で協働して地震と災害という課題に取り組むこともできる。こんな形で報道されたということは、研究が研究者の世界の中の営みになっており、社会と分断されているということも意味しているのではないか。論文で最先端を狙うということは緊張とリスクを抱えるということにもなった。そうではない科学を育てていきたいものだ。それはすでにSDGsやFuture Earthとして始動している。(2019年3月27日)

ディザスターにおける人間的側面

4月早々に開催する災害に関するシンポジウムにおけるある講演者の資料が届いた。その方の提言は「決定論的な地震予知法を確立して、地震防災の国民の負託に応える」というものであった。では決定論的な地震予知法が確立された社会とはどのような社会なのだろうか。人と自然の関係が良好になっており、予知されたら直ちに被災を回避する行動がとられ、災害後の復旧も速やかに行われ、そのための制度も確立している。老若男女すべての人が直ちに合理的に被災を避ける行動をとることができる。すごいことだが、これこそ近代文明人の行動と言えるかも知れない。ただし、ちょっと待てよ。人はそんな合理的な行動をとることができるのか。そんな合理的人間は経済学でいうところのホモ・エコノミクスと同じであり、人の多様な個性、事情を捨象した存在である。まだまだ現場で検討すべき点はたくさんあるように思う。提言には防災という行為を暮らしという観点を含めて総合的、包括的に捉える視点が必要だと思う。ディザスターにおける人間的側面をどのように理解し、必然的なディザスターを人が諒解できる制度、仕組み、構造物の設計が必要なのだと思う。(2019年3月26日)

学会会員数減少の本質

表記の課題に対する問題提起がJpGU事務局長の浜野先生からメールで流れてきました。昨今の日本の学会はどこも会員数の減少が問題になっているのですが、添付されてきたいくつかの学会の最近10数年の学会会員数の経緯をみると、星、動植物といった、これが好き!という人が多いと思われる学会は会員数を減らしていません。一方、業界との関わりがありそうな学会は減っています。これは昨今の日本の経済の事情を反映しているのではないでしょうか。このことは日本が「科学のための科学」をやる余裕がなくなってきたこと、「社会のための科学」を推進する必要性を示しているのかも知れません。また、若手の会員数が減っているとのことですが、これは人口減少時代の中でポストが減っていることと、研究者という職が若者にとって魅力あるものではなくなっているという二つの理由があると思います。昨今の研究者の評価基準の理念のなさ、評価疲れの実態を見ていると(自ら体験しています)、研究者になろうという若者が増えるとは思えません。このように会員減少問題には複数の要因があり、それは時代背景と関連しているため、研究と研究者のあり方、社会との関係を根本から見直さなければならない時代が来ているのではないでしょうか。さらに、最近の若者はプロジェクト制の中で育てられることが多いので、自分のやりたいことより、プロジェクトを成功させることが優先される。競争的資金で運営されるプロジェクトは必ず成功したということにしなければならないので、その行為の中でエリート意識が醸成される。それが若者の生きづらさにつながっているのではないか。かなり深読みしていますが、本質はこんなところにあるのではないかと思っています。(2019年3月25日)

ぜんたいと個人

今日の朝日朝刊「折々のことば」は宮沢賢治のことば。「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」。これは賢治の思いであるが、私はまず個人の幸福を考えたい。個人が幸福になっていく先に、ぜんたいの幸福があるのではないか。これは仏教に関する書物の中で見つけ、私自身そう思っていることである。私は個人の中に自分も含めています。最初はどうかと思ったのですが、自分が幸福にならずして、なんで他人の幸福かと考え直しました。賢治も仏教徒であるのですが、恐らく賢治は清貧のなかにも幸福を見出していたのではないかと思う。田中正造も谷中村における苦しい生活の中に幸福を見出していたという考えもある(2019年2月9日参照)。賢治は民の中で、民と共に、民のために暮らす生活の中に幸福を見出し、その先に、ぜんたいの幸福を見たのではないか。幸福とは特別なことでなく、普通の状態、無事である状態なのだと思う。だから、まず自分が幸福になろう。そうすると人を幸福にする力が生まれる。(2019年3月25日)

必要を満たす社会

一年ぶりになってしまったが、山木屋に行ってきた。阿武隈の春はまだ先であるが、風をよけると日差しは暖かい。避難から8年経ち、山木屋は大きく変貌したが、いまだ未来への見通しは立っていない。復旧とは何か、復興とは何か、何の復旧、復興か、何のため、誰のための復旧、復興か、未だ模索中である。いつも思うのであるが、資本主義ってやつは極めて効率の悪いシステムなのではないか。市場経済もその黎明期にはコミュニティーを外に向かって広げ、豊かさをもたらす機能があった。しかし、資本主義に至ると貨幣の増殖を目指す競争の中で無駄が目立つようになってきた。競争で負けると、それまで蓄積されてきた資産がうち捨てられることも多い。例えば、スーパーが撤退すると、建物が壊されて更地になったり、新しい建物を建設する事例が地元にもあるが、もったいないなぁと思う。こんな無駄が生じるのはまずは競争があるから、次に必要を越える需要を作り出し、貨幣の増殖をはかるからであろう。貨幣を集中させることに成功した者が、その貨幣を負けた者の資産だったものを壊すことに使う。これでいいのかな。需要ではなく、必要を満たすことを優先させる社会もあり得るのではないか。地域で資源と金を回す地域循環型社会、地域経済圏、いろいろなアイデアがあると思う。山木屋が必要充足社会のフロンティアにならないだろうかと常に考え続けている。(2019年3月24日)

当然すぎる返答

今日も「折々のことば」からですが、フランスの大学入学資格試験(バカロレア)の問題の話題。坂本尚志「バカロレア幸福論」からの引用ですが、フランスでは高校生へこんな問題が出題されるという。「自分の権利を擁護することは、自分の利益を擁護することだろうか」、「自分自身の文化から自由になれるだろうか?」。自分の考え方については後にしますが、フランスでは高校で哲学を重視する理由について聞いたところ、「例えば、公務員。誰もが幸せに暮らせる社会をめざす者が、幸福の何たるかを考えたことがなければどうする」という当然すぎる返答があったという。全くもってして当然である。では、SDGsやFuture Earthを口にする研究者が、どれだけ幸福について自身の考え方を持っているだろうか。未来を口にする者は哲学がなければならないと私は思うが、もし哲学がないという研究者がいるとしたら、それはニュートン・デカルト型の一本道の科学の先にあるより優れた社会というヨーロッパ思想が暗黙のうちに身についているということなのではないか。我々は幸福について確固たる考えを持たなければならない。それは決してきれい事ではすまない。医学の進歩が、人口増を通じて不幸を生み出す場合もあるだろう。死が一巻の終わりと考えない社会もあるだろう。どう生きるか。それが幸福のあり方につながる。それは自分だけの問題ではなく、自分の行為を通じて社会を変えることのできる行為でもある。これは前記のバカロレアの最初の問いの答えとも関連する。(2019年3月21日)

勝ちに行かない

朝日朝刊、「折々のことば」から。高安の言葉、「辛抱。それしかなかった。勝ちにいかなかったのが良かった」。鷲田さん曰く、「勝機はやみくもに探るものではなく、満を持して待つもの」。私の本棚に山本周五郎の短編集がある。「人は負けながら勝つのがいい」。これがかっこいいなぁと思い、積極的に「勝ちにいかない」が私の基本的姿勢になっている。実際には勝たないと悔しいのですが、まあ、いいかと納得して、はい次(いかりや長介を思い出す人はどれだけいるだろう)、と行くのが私のやり方である。それでも最近はいろいろな役職が増えてきている。それは地位とも関わるのだが、地位ってやつは評価社会の中で、あれば安心。しかし、よきにはからえ、といってる訳にはいかない。責任が生じるのはしょうがないが、仕事量をうまく調整できないものだろうかと思う。いい加減な性格と裏腹の自責の念の強さが自分を苛むのである。一方、昨今の文科省、大学のガバナンスでは、何が何でも勝て、という指令ばっかり。その背後にある価値、哲学、が見えないので、現場は疲弊し、大学の力は弱まるばかり。職階が上位の者は勝者とも言えるのだろうが、トップダウンやリーダーの権限強化といった施策がうまくいっていないことは明らかであり、我々は次の段階に進まなければならないのではないかと思う。勝ちに行かない社会、それは競争を旨とする資本主義の再編にもつながる。さて、高安は応援しているのですが、実は秋元才加とうまくいかないかな、という思いがある。本人たちにとっては迷惑至極、放っといてほしいとは思いますが、私も“ひと”ですのでご容赦願いたい。(2019年3月20日)

診断と治療

九十九里地域地盤沈下対策協議会の技術研修会で干渉SARの話をしてきました。この協議会は千葉県が議長となり、関連する市町が地盤沈下対策に関する話し合いを行う場です。干渉SARは技術的にもこなれてきて地盤沈下の問題の現場に適用できる段階に入り、活用が検討されているわけです。このことは地盤沈下に関しては衛星による診断から、治療の段階に入ったといえます。治療のために必要な行為が協働です。地盤沈下という現象のリスクとメリット(地下水や天然ガスを我々は利用している)を包括的に俯瞰し、折り合いを付ける、すなわち資源の公平な利用を達成するために、あらゆるステークホルダーとの対話と協働が必要ということです。それが治療につながります。それはけっして地盤沈下を止めるというシンプルな行為が目標になるわけではありません。地盤沈下がもたらす現象の関係性、利害関係の複雑性を受け入れ、人と自然の折り合いをどこで付けるか、ということになります。その過程で科学者の役割も相対化されていきます。科学者は変わることはできるだろうか。(2019年3月19日)

事実と真実

学生には迷惑をかけてしまいましたが、T4-5集中をT6(1年間を6期に分けた6番目のターム)集中に変更して実施した「リモートセンシング入門」のレポート締め切りが昨日一杯でしたので、土曜出勤で成績をつけています。私は時々学生にレビューシートを書いてもらい、自分の話したことが伝わったかどうか確認しています。同時に学生から議論も提案してもらい、アクティブ・ラーニングの代替にしています(学生はおとなしいので、なかなか講義中は議論にならない)。講義の序論に対して書いてもらったレビューシートを読み返していると、私が話した「リモートセンシングでは事実はわかるが、真実はわからない」という部分を書き留めてくれた学生が多いことに気づきました。私としては、してやったり感満載といったところです。原因と結果が1:1で対応する一直線の科学ならば、結果が見えれば原因がわかります。しかし、環境は多数の要因が積分され、ひとつの結果があるところに現れます。ひとが関わる問題では、結果を解釈することも難しいことがあります。だから、環境問題に対峙するためには、事実から多様な要因を抽出し、関連づける力が必要であり、それは多くの場合、協働によって成し遂げられるものだ、ということを言いたかったわけです。それが課題解決型科学の超学際(Transdisciplinarity)の考え方なのではないか。今は時代背景のもと、研究者、科学者のあり方が変わりつつある時代。私の考え方を少しでも学生に伝えることができたのではないか、という予感は私を少し幸せにします。ただし、異なる考え方もあったら聞きたい。一方通行の知識伝達は、その集団の均質化を促すから。それが日本の大学の衰退の一因でもあると思う。(2019年3月16日)

大学改革の精神は

代理で大学運営会議に出ましたが、そこで「柴山イニシアティブ」というプランを知り、早速WEBで調べました。柴山というのは現文部科学大臣で、正式には「高等教育・研究改革イニシアティブ」といいます。そこには厳しい内容が書かれているのですが、時代ですのでしょうがねぇなといった感じです。内容をざっと眺めると、やはり少し違和感があります。まず、①なぜ大学がだめなのか、ということに対する包括的な分析がありません。社会的バックグランド、研究者の評価に関する問題、いろいろあるのに踏み込んでいない。現場の“ひと”の側に立っていない。また、 ②何のための改革か、という点が曖昧です。日本のあり方、未来に対する包括的な考え方は見えてきません。解決には協働が必要ですが、文科省のガバナンスの枠内で解決しようとしている。社会のあり方に対する言及もあるのですが、それはステレオタイプに過ぎません。もう一つ、 ③誰のための改革か、という点も曖昧です。日本の中の文科省、トップダウンのガバナンスにおけるトップの幸せのため、という点はわかるのですが、一番大切な国民と国民が構成する社会のため、という観点が薄いように思います。 トップダウンが強すぎて、現場が見えなくなっているのではないか。この社会は霞ヶ関から見える部分だけで構成されているのではなく、もっともっと奥深いものなのだよ。一方、大学は上からの指示に右往左往するだけでなく、明確な哲学を持たなければあかんのではないかと思いますが、経営陣は職員を食わせていく責任があるので(あるはず)、悩ましいところなのだろうな、とご苦労をお察しします。自分だったらどうするかを考えなければあきまへん。(2019年3月14日)

科学技術への過信

今日は二つのミーティングに出席。昼は松戸の園芸キャンパスでスマート農業に関する打ち合わせ。十分こなれた技術と現場の知識、経験をうまく組み合わせることができれば、低コストの援農システムを構築することができるはず。技術はすでに目の前にあるのである。革新は組み合わせでもある。その後、四谷の上智大に移動してエジプトの水問題に関する勉強会。エジプトでは住民から政府レベルまで目の前にある深刻な問題が科学技術の進歩によって解決されると思っていることを再確認。自然、特に水循環や水資源に関する認識がないまま、すばらしい技術が登場するはずという楽観はどのような未来を創り出すのだろう。科学的には持続可能とは考えられないのだが、どうすれば良いのか、という点に踏み込むことも悩ましい。それは、エジプトでは主流の考え方である(と思われる)、“社会はより良いものに向かって発展していく一本道の途上にある”、というヨーロッパ思想に対する反駁になってしまうから。とはいえ、案外何とかなるのかも知れないとも思う。30年前にタンザニアのドドマの水資源評価をした時、水収支的には地下水の利用は限界に達しているという結論を出した。しかし、GoogleEarthでみるとドドマの町は拡大し続けている。地下水位が低下を続けているとすると、持続不可能である。そうでもないとすると、地下水循環の認識不足であったということになる。ティッピングポイントに達するまでに長い時間を要する現象を正しく認識し、社会の持続可能性に役立てる行為を行うことは勇気と根気が必要な行為である。(2019年3月11日)

後悔せぬために

普段と変わらぬ311の朝を迎える。昨日から震災関連の番組がたくさん放送されているので、意識はしているが、やはり普通の朝である。同じ時空を生きてるのに、ひとの“世界”は意識しないと交わることも難しいのだ。あれから8年経つのだが、まだ受け入れることができず苦しんでいるひとがたくさんいる。不見識も甚だしいと怒られてしまうかも知れないが、私だったら運命として粛々と受け入れたいと頭の中では思うのである。もちろん後悔で心の中は張り裂けそうになるだろうが、その時に後悔を和らげるためにやっておくべきことは、人と自然の関係を良好に保つこと、それに基づき、人の生き方、社会のあり方に対して考えを持ち、行動していること。これかな、と思う。(2019年3月11日)

不公平の素因

311から8年、復興から取り残された人々を取材した番組を見た。なぜ取り残されるのか。その原因はどこでも一律の基準を当てはめ、個別性に配慮しない現代社会の精神にあるように思う。それは都市の精神でもある。震災後、東北のある自治体で、“霞ヶ関が提示する支援メニューはたくさんあるのだが、どれも使えない”、という話を聞いた。そのメニューは恐らく役人が深夜まで心身を削って作り出したものかも知れない。しかし、現場を知らず、ひとを知らずに頭で考え出したルールは役に立たず、現場の戸惑いを生み出す。公平を期したはずが、不公平を生み出す。個々の人や地域の様々な事情を斟酌できない仕組みが不都合の源泉になっているのだが、これが近代文明を生み出した欧米思想に発する現代社会の精神なのである。普遍性によって統治するのではなく、人や地域を尊重し、様々な個別の事情を取り込んで諒解を形成していく社会でありたいと思う。近代文明によって駆動される“世界”もあって良いが、そうでない“世界”(それは遅れているということを意味しない)の存在も自覚し、人が相互に二つの世界を行き来できる社会になれば、人は幸せになるのではないか。(2019年3月10日)

無責任の連鎖

年度末のこの時期になって留学生経費が配分され、まとまった額が使えるようになりましたが、ありがたいことです。今年度はジャーナルの投稿料が嵩み、研究費貧乏を実感した年でした。とはいえ執行締め切りまでの時間が短く焦っています(年度内に納品されないと支払いができないため)。その使途についてこんな指示が届きました。

①予算執行振替も可能だが、原則これから執行する旅費や物品費に使用すること。
②予算執行振替は、留学生に関連し、かつ、「教育」目的で使用したもののみ振替対象となること。
③既に契約課へ依頼をしている先生におかれては、内容を確認し、契約課より再度依頼がいく可能性があること。

この予算を教員研究経費と相殺して良いか、という問い合わせが何件かあったことが理由のようですが、大学としてもこう答えざるを得なかったのだろうな、と思います。 予算を留学生経費としたのだから、留学生のために使うのが趣旨である。そうしておかないと上位の階層に怒られる。お上にお伺いをたてると、さらに上に相談し、だれも責められたくないので、こんなことになる。そもそも留学生のための経費とそれ以外の経費ははっきり区別できるものではないので、下々の裁量をもっと認めても良いはずです。日本が縦のヒエラルキーの中で、上も下も足の引っ張り合いばかりしており、それが無責任の連鎖になってしまっていることの現れですな。問い合わせなどせず、教員個人の判断で使えば良いのです。(2019年3月6日)

総合大学の力

DNGL(災害看護グローバルリーダープログラム)の災害時専門職連携(IP)演習に参加してきました。DNGLは文科省からの予算が切れ、来年からは再編成されるのですが、災害時IP演習はぜひともDNGLの5大学連携として継続してほしいものです。ただし、千葉大学以外のメンバー大学はあまり前向きではないとのこと。それは千葉大学以外は小さな大学、あるいは単科大学が多いことに関連しているようです。複合的な課題に対して、教員の多様な専門に基づく連携ができることは総合大学ならではのこと。としたら、総合大学ではますます異分野間の連携が大切になるということ。しかし、評価社会の中で、各分野はどんどん独自の世界に深く沈んでしまう。これでは総合大学としての力を発揮できないのではないか。もったいない。(2019年3月5日)

指標と金による大学改革

最近、正当な評価のあり方について思いを巡らすことが多い。大学も評価の荒波に晒されているところであるが、また大きな波がやってきた。昨年末に、大学への運営費交付金1兆1千億円の1割にあたる1千億円を評価に基づく傾斜配分にすることが決まったとのこと。影響が出るのは来年からなのですが、エライこっちゃ。そのうち、700億円を「共通指標」による評価配分とするということですが、それが下記(2月28日発行学術会議幹事会だよりNo.163からの引用)。

(1)会計マネジメント改革の推進状況(100億円)
(2)教員一人当たり外部資金獲得実績(230億円)
(3)若手研究者比率(150億円)
(4)運営費交付金等コスト当たりトップ 10%論文数(試行)(100億円)
(5)人事給与・施設マネジメント改革の推進状況(120億円)

ここには大学の本来の機能である教育と研究に関する指標が見当たりません。(2)と(4)が研究に関する指標だという見方もあるかも知れませんが、それは一部のエリート研究分野しか重要ではないという、指標を考えた方(誰?)の主張なのでしょう。これで日本を支える人材育成は成り立つのだろうか。一方、大学にも批判されるべき点は多々ある。しかし、それはすべて大学の責任というわけでもなく、現在の日本社会の形成過程で生じてきた日本全体の問題であるともいえる。大学人はそこに切り込んで、問題に対峙し、提案、実践することにより信頼を取り戻さなければならない。これからは金なんかなくても、社会の中で、社会のための研究をやる時代ではなかろうか。そして、それは実際可能なのである。大学人がまず意識を変える必要がある。(2019年3月1日)

理由なき社会における指標による支配

昨日は理由のない社会の息苦しさについて書いた。今日の朝日では佐伯さんが“平成の終わりに思う、にぎやかさの裏、漂う不安”と題した寄稿の中で、成果を客観的な数値で測定することが人のストレスの原因、と述べている。すなわち、指標による評価である。指標による評価は背後にある考え方が明確にされないことも多い。また、一方的な規範により人を評価するということになり、これが多くの人の不安をかき立てるわけである。理由なき社会における指標による支配こそ、今の世の息苦しさそのものである。個性を持つ人の評価を数字で行うことができるわけがない。人の評価は十分な時間と手間をかけて丁寧に行う必要がある。それができないということは佐伯さんが指摘するように、「現代文明の状況」を問題にすべき段階に到達したということである。(2019年3月1日)

理由のない社会

歴史社会学者の小熊英二氏が朝日で、「議論の不足、理由なき要求」、について論じている。最近は上層からの指令に右往左往することが多く、仕事が増えて疲れ気味である。その指令の理念に共感できれば、その仕事は全く苦にならないはずである。しかし、理念が不明であることが多いのである。理念のなさ、理由のなさが息苦しさの一因になっている。“私”が仕事をすれば、上位にいる方々が幸せになるだろうことだけはわかる。理念に共感できない人の名誉のための仕事の生産性があがる訳がないのである。大人の社会的な行動には明確な理由がなければならない。人に力を与えるもの理念ではないだろうか。共感する理念の実現が幸せである。(2019年2月28日)

都合の良い人

沖縄県民投票の結果は辺野古基地建設「反対」が7割とのこと。でも投票率が52.48%とのことで、お決まりの若者へのインタビューでマスコミは「民意を示しても何も変わらない」というコメントを引き出していた。若者は聞かれたからそう答えてしまったというのが本音で、この問題を我がこと化して考えることができなかったということではないか。支配するものからすれば、都合の良い人になってしまっているな。国民国家形成過程で、個人を分断させることによってガバメント(支配)を強化してきた歴史そのものである。とはいえ、近代民主主義国家の国民がこれではいかんのではないかなぁ。すべてのモノ、コトが人任せになってしまっていっている。これは誰を利するのか。(2019年2月25日)

ぐちと主張

朝日耕論、慶応大の坂井さんの「沖縄県民投票の意味」より。「もし私が誰かに殴られ続け、そのまま無抵抗でいれば『あいつは喜んで殴られている』と言われるかもしれない。しかし、殴られつつでも抵抗したならば、そうはいえなくなる。その抵抗は記録されて歴史になり、後世に必ず影響を与える。」 そやなと思う。世の中おかしいと思うことはたくさんある。ぐちをいっているだけならば、状況を受け入れていることと同じ。だから、主張にして発信せねばあかんな。(2019年2月21日)

独創的研究とは

「学術の動向」2月号の特集の一つは本庶先生のノーベル賞受賞であったが、その巻頭言に18年前に日本免疫学会のニュースレターで表記の論争が巻き起こったことが記されており、WEBも残っているとのことで、さっそく拝見した(編集委員に我が千葉大学の学長の名前も見える)。大先生方の考え方を学ばせて頂き、勉強になりましたが、どうも我々が博士課程の論文評価で使うオリジナリティー(独創性)は本来の意味とは違うということに気がついた。本庶先生曰く、独創性とは「独自の考えで始めること」。あなたの研究のオリジナリティーは何ですか、と審査会で尋ねるのであるが、今や学生や若手が独自の考えで始める研究はなかなか成立しがたい世の中になっている。よって若手には独創性を問うのではなく、新規性はありますか、と問わなければいけない。もちろん、新規性の究極に独創性があるのだが、新規性にはレベルがある。若手は一丁前の研究者になる前に、新規性のレベルを少しずつ上げる努力をすればよいのだと思う。一方、我々プロの研究者は、独創的な研究を目指さなければならない。それはTopではなくOnly oneであることは明白だろう。(2019年2月19日)

SOS

今回で2回目の経験でしたが、地球研のプログラム評価委員会が終わった。実に大変な委員会なのですが、そこにはSolution-Oriented Scienceを目指すコミュニティーがあるということが実感されて、ある種の安心感といえるものもある。一方、私が接する機会の多いサイエンスコミュニティーは真理の探究、高インパクト論文生産、予算獲得をトップレベルの目的とし、なかなか課題解決の意味すら合意を得るのは難しいようである。二つのサイエンスの間の溝はまだまだ深いといわざるを得ない。その最大の壁が評価である。人間文化研究機構は文科省が提示した研究評価指標のうち、"Top10%論文率"を拒否したそうだ。それは当然だろう。自分たちのサイエンスがある狭い領域の思想で評価されるということは容認できるものではない。その代わり、新たな指標の提示を求められているそうだ。人文社会科学や環境学には個別性の科学の分野が多く含まれ、評価は本来は個別に行う必要がある。もちろん、個別性を一般性の上位に位置づける考え方が背後にある。そもそも指標で評価するなんてことは本来あってはならないこと。評価を行う者は自分の力、時間をその仕事に徹底的に投入しなければならないのである。課題解決型、問題解決型の科学がSOSを発している。これにどのように対応したら良いのか。それはSDGsの達成、Future Earthの成功と直接関わってくる。(2019年2月15日)

教える、教えられる

正造さんは谷中村の島田青年に宛てた手紙の中でこう述べているそうです(岩波ジュニア選書「田中正造」、佐江衆一著)。

「およそ物事を教えようとすると、人はいやがって聞かないものです。今後は教えようとするより、まず教えられる方針をとることです。正造も谷中村に入ったころは教えようとして失敗しました。 そのころから谷中人民の話をきこうと努めればよかったのに、聴くことは後回しにして、教えることばかりに心がせき、せき込めばせき込むほど反発されて正造の申すことを聴く人もなく空しい徒労となり、三年、また四、五年めから少しずつ谷中の事情もわかりはじめて回顧八年をへて、"聴く"と"聞かせる"の一つの発明をしたのみです」。

教え、伝え、理解してもらうことは難しい。自分がどれほど物知りだというのか。実は何もわかってはいない。伝えるより、まず聴くことから共感を生まれなけれは゛ならないのだ。といっても、同じ理念が共有されなければ、分断が生じるだけである。だから、より広い視野、包摂する力をもって理解する姿勢と、共感を醸成する時間が必要になってくる。いや、そんな力などない。ただただ聴き、一緒に考えるのみ。(2019年2月9日)

現在を救い給え

田中正造に関する本を数冊入手し、読んでいるところですが、今日は岩波ジュニア選書「田中正造」(佐江衆一著)を読み終えたところ。正造さんは病床で、「現在を救い給え、ありのままを救い給え」と大声で叫んで危篤に陥ったとのことです。我々は未来のことを語りがちですが、それは安寧に暮らしていることの証拠。現在の暮らしがひどければ、まず現在をよくすることを考えます。そうすれば現在に続く未来が良くなる。正造さんは実践のひとだったから、現在をよくすることを考えることを考えた。正造の日記にこう書かれているそうです。

「人類のためとなるには、まずその人類の中に入ってその人類となるのである。・・・人のためをなすには、その人類のむれに入って、その人類生活のありさまを直接に学んで、また同時にそのむれと辛酸を共にして、すなわちそのむれの人に化してその人となるべし。こうして、そのむれの人類がみなわが同志となり、これを人を得る法という」。

環境と称して論文を書いていれば、自分ではない誰かが社会の役に立てるはずだ、と思い込んでいる研究者は 人など見ていない。自省しなければいけない。正造さんは憲法を信じ、議会や民衆に訴えれば社会が動くと信じていたが、晩年はあきらめていたようだ。だから、自身から谷中村に入り、村民と一緒に辛酸をなめる生活をともにしたのだが、そこに天国を見ていたのかもしれないという。正造さんの日記から。

「天国はいずこに在るや。天国はこの世にある。この世の外、別に天国はない。もし好んで地獄に落ちれば、これをどうすることもできない。陥らない者は、みな天国にいるのである。みなといえば多くの人のみなか。いや、少しの人のみなである。真に天国に行く人のみなである。真にきわめて少数のみなである」。

幸せとは何か。物質的に満たされることだけではないことは確かである。生まれ育った土地で家族や人々とともに暮らせること以上の幸せはあるだろうか。日清戦争に勝利し、国民国家としての体制を整えつつあった明治政府を動かすことはできなかったが、正造さんの戦いは現在も続いている。資本主義に起因する競争、格差、差別社会のなかで虐げられている人々は今もいるし、新たに登場もしている。国に対抗し、国を変えることは圧倒的な力を必要とし、困難な行為である。虐げられた人々が故郷で幸せになることが圧倒的な力に対抗する方法のひとつなのではないか。そこに天国がある。福島にもきっと天国があると思う。(2019年2月9日)

保険としての大学

朝日朝刊「経済気象台」より。著者の海星さんは、大学とは社会にとっての保険だという。世の中何が起こるかわからないので、その時の知恵袋となれるよう、森羅万象(ユニバース)の解明に日々格闘する場こそユニバーシティーだという。それもそうだなと思う。大学の勉強が役に立たなかったという人は、かけた保険のお世話にならずにすんだのだから幸せ、でも保険が無駄だっていう人はいないでしょ、と。その通りだと思うが、それだけでは研究者である大学教員が極楽とんぼであることを容認するだけではないか。ユニバースを辞書でひくと、「ある問題に関連する全要素を含む集合」とある(手元にあるリーダーズ英和辞典より)。大学教員は蛸壺にはまっているだけではだめで、広く全要素を俯瞰し、総合力を発揮できなくてはあかん。また、海星さんはこう書いている。大学生活とは保険のようなリスクヘッジに立ち向かう場、リスクヘッジには効率や成果主義は単純にはなじまない。効率的経営を目指すあまり(論文生産の効率性および評価指標を上げるための教育、といえるか)、研究分野(教育分野もそう)を絞り込むのはギャンブルに等しい。研究には試行錯誤が必要で、無駄が付き物、という(教育もそう)。大学人の態度はどうあるべきか、ということを明記するのは難しいのであるが、少なくとも地位、名誉、金が目的となってしまってはあかんなと思う。(2019年2月8日)

自分の足しや幅

「人生どうもがいても『結果』がついて回る。だったらそのつど『しっかり傷ついたりヘコんだりすれば、自分の足しや幅になる』(朝日、"折々のことば"より樹木希林のことば)。もとのフレーズは、「口をぬぐって、“ない”ことにしなくてよかった」。私は後悔人間で、一日に何度も後悔しては、落ち込んでいる。本当に生きにくい性格だと思う。それでも、そんな出来事が自分の足しや幅になっているだろうか。そう思って過ごすことが一番大事。(2019年2月7日)

ポスト真実のターゲット

日大アメフトタックル事件で、前監督と前コーチによる反則行為の指示はなかったと警視庁が判断しました。これに対して、学連関係者は除名処分は間違っておらず、処分を変えることはないという。これはどういうことなのか。様々な真実が考えられる。その一つとして、背景には教員-学生-学校-社会の間の悩ましい実態があるのではないだろうか。それは教員はポスト真実社会の中でターゲットにされやすいということ。あるいは、学生は常に守られるべき存在である、という言説。社会は教員を悪者にしたがる。我々は真実を知り、社会のあり方を変えていかなければならないのではないか。批判の矛先が向けられるということがあまりにつらいので、人は現状を容認してしまう。周りの人々は自分の感情を満たすためにスケープゴートをつくってしまう。守られるべき人は誰なのだろうか。いや、何を守らねばならないのか。(2019年2月6日)

国立大学の評価指標

運営費交付金に反映させる大学の評価指標について、追加指標があれば提案せよ、との指令が来ました。皆さん評価疲れで大変でしょうから一本化してあげましょう。だから考えてね、ということらしい。指標案を見ると、エリート指標が並んでおり、息苦しくなります。大学、特に総合大学の評価を限られた指標で行うということは、大学の機能を矮小化することにつながり、日本の未来にとって大きな禍根を残すことにならないだろうか。背後にある一つの思想しか許さんぞ、という脅しを感じてしまいます。日本の科学者は"学術のための学術"だけでなく"社会のための学術"を推進することになっているのですが(日本の展望2010)、後者を評価する指標は含まれていないようです。文科省-大学ラインと学術会議(国際学術会議ISCも同じ方針)の方針が交わらないということは日本の科学にとって由々しき問題なのではないかと思います。とはいえ、評価のあり方は簡単に決めることができるものではありません。まずは、自分の考え方を明らかにしておく必要があります。教育に関しては、学問の体系を教えるカリキュラム、専門性を伝えるカリキュラムをベースに、学際、超学際にアプローチする仕組みがあるかどうか、という点がひとつ。そして、卒業生が母校に対して誇りを持っているかどうか、という点が一番大切だと思います。研究面では、学術の各分野の過去、現在、未来に対する確固たる考え方があるか。学際、超学際を達成する仕組みがあるか、という点が重要だと思います。これらを評価するためには、評者者は少なくとも1年は大学に通い、上記の点を見極める必要があるでしょう。評価は時間はかかるものなのです。評価者が楽するための指標であってはなりません。少なくとも、"やれ、やらんと金をやらんぞ"、と言われてやるのは大学人の矜持を傷つけるものですね。(2019年2月5日)

フューチャー・アースとSDGs

今日のシンポジウムの副題にはSDGsが日本語で入っていました。主催の環境リスク分科会では過去と現実に起きた事象を理解し、未来につなげるというコンテクストで使っている(と解釈しています)。委員の先生方は現場で問題に対峙している先生方ばかりです。SDGsには現在起きている問題、それも目の前にある問題を解決することから、未来を創りあげるというスタンスがあるように思います。一方、フューチャー・アースを推進するコミュニティーは未来志向が強すぎるように感じます。その結果、現在がおろそかになるということは以前も書きました。このことが両者がしっくりとつながらない要因であるとともに、人社系(+環境系)と理工系の間の溝がなかなか埋まらない要因の一つでもあるように思います。(2019年2月3日)

都市的世界の考え方

今日は学術会議、環境リスク分科会が主催する公開シンポジウムに参加してきました。そのタイトルは、「公害病認定から半世紀経過した今、わたくしたちが考えること-持続可能な開発目標の達成に向けて」。このシンポジウムの前に開催された分科会ではこんな発言がありました。「福島(の放射能汚染)については、様々な見解があるので、そっとしておくしかないのではないか」。それは、都市的世界の考え方で、(決して確定的ではない)科学的合理性を前提とする考え方であるように思います。世界全体を俯瞰し、様々な世界を視野に入れると、①科学的合理性だけでなく、②共感と③理念を共有することにより諒解を形成している、ということが現実であると思います。②と③が見えないと、現実が理解できない。だから、そっとしておくしかないと。こういう福島の真実を理解し、説明することがアカデミアの役割だと思います。時間が無く、議論はできなかったのですが、このシンポジウムの2回目(5月)に私の発表があるので、そこまでにコンセプトを明確にしておきたいと想います。(2019年2月3日)

大学教員はつらいよ

人は人を評価できるのだろうか。大学教員は教育者であると同時に、評価者でもある。毎年学位審査の時期になると、否応なく評価をしなければならない。これが事業評価、研究評価だったら粛々と実施することもできるが、学位審査だと、その前に指導がある。十分な指導ができたかどうか、悩むことになる。手取足取りの指導をする良い教員でありたいという願望と現実の間で右往左往する。できればがんばったみんなに学位を出したいと思う。しかし、学位は、研究成果だけでなく、それが適切に説明されたか、研究という行為に対する姿勢が身についているか、という点を含めて評価しなければならない。学位さえ取れば幸せな人生が待っているという場合でも、これらの点にはいかなる譲歩も許されない。しかし、とも思うのである。学位はゴールではなく切符である。だから、進路が決まっていれば甘くしても良いのではないか...。これは絶対のっては行けない誘惑であろう。学位なんてと思う気持ちと、学位の価値を重視する気持ちとの間で揺れ動く。こんな私は教授失格かもしれない。大学教員はつらいよ(寅さん風の言い方)。送り出した学生たちの現在が答えなのだろう。(2019年2月2日)

経済的合理性と環境倫理

大型石炭火力発電所として計画された袖ケ浦火力の開発検討の内容変更というニュースがありました。燃料をLNGとする火力発電所の検討は進めるとのことですが、これで3件あった千葉県の大型石炭火力発電所の計画はなくなりました。ただし、その理由はどれも、十分な事業性が見込めないということであり、CO2排出による地球温暖化の緩和策への対応に対する言及はありませんでした。環境保全対策のコストが背景にあるのですが、あくまで経済的合理性による判断ということらしいです。企業側としては環境保全について述べた方が社会的な利益があるように思えるのですが、収益源としての火力発電所建設に対する制限要因になることを恐れたということだろうか。SDGsの達成、ESG投資、といった世界の流れの中で、経済的合理性のみを考える企業は持続性を担保できるのか。あるいは、資本主義の中で生き残っていくのだろうか。そんな世界は幸せな社会だろうか。(2019年2月2日)

社会のティッピングポイント

野田市の小学4年生の心愛さんの件は、何ともこの社会の閉塞感を感じさせる出来事です。ヤフコメでは学校の“閉鎖性”を指摘する書き込みもありましたが、なぜ組織が閉鎖的になるのか、という点に突っ込まないと根本的な解決にはつながらないと思います。もちろん、失われた命は戻りませんが、なぜ死ななければならなかったのか、その根本的な理由を知ることが社会を変えることにつながり、心愛さんの供養にもなるのではないでしょうか。社会がどんどん閉鎖的になってしまうのは、トップダウンの支配構造(ガバメント)の中で、責任の所在が不明確になっていることにあるように思います。批判があまりにも厳しいので、批判されたくないという思いが閉鎖的な社会をつくっています。社会を変えるためには協働(ガバナンス)を重視する習慣、態度を醸成していく必要があります。人と人、人と社会の関係性を大切にする社会の構築です。ところが、そうなっていないのは日本が“良い国”になったということも関係していると思います。自分の安全・安心に関わることはすべて人任せにしています。医療、教育、警察、消防、...。それが、日本を閉鎖的社会にする要因になってはいないでしょうか。社会の中で個人が責任を持つことを見直さなければならない段階に日本は来ていると思います。この事件に関して森田知事は県の責任に対する明言を避けたとのことですが、これまでの社会システムの中で解決を図るには、業務を担当する部署を強化するということしかなく、それができない状況であるからだと思います(知事としてではなく、政治家としての考え方を聞きたいですね)。日本は社会の変革を我々は真剣に考えなければならない段階にあるのかも知れません。実行は大変なことですが、昨今の様々な出来事が生じる根底にある問題です。難しいからといって看過できない状況に至ったのではないでしょうか。社会のティッピングポイントに至ったということもできます。今は問題を認識し、各自ができることを粛々と行い、その成果を共有することが大切だと思います。おそらく、そこにSDGsの精神があるのではないでしょうか。(2019年2月1日)

大学教員の仕事

私が研究の評価において重視したいことは、“気付き”である。それは、自然あるいは人と自然の関係性に対する認識の深化である。認識が深まっていく過程を理解、記述し、その最深部に自分の新しい認識を位置付ける行為が、研究というものではないか。研究は単なる手続きではない。では、博士課程とは何か。この思惟の方法を身に付ける場である。研究の手続きの仕方を学ぶのは修士課程までである。博士を目指すという行為は、人生そのものである。博士は勉強すれば得られる資格ではない。しかし、研究の手続きこそが大切と考える分野もあるのかも知れないな、とも思う。それはニュートンデカルト的科学、すなわち一本道の科学である。環境の認識とはモードが違う。私はこれまで何人もの博士の学位を出してきたが、実は出せなかった学生もいる。人の人生が私の判断で変わってしまうということの重要性を考えると、正直すくんでしまうこともある。それでも、“気付き”は大切にしたい。とはいえ、ちょっと疲れ気味である。あまり涙は見たくない。一本道の人生ではなく、多様な人生があり得ることを教えるのも、大学教員の仕事ではなかろうか。(2019年1月31日)

夢あるようで、ないようで・・・

同じく、beの記事「生まれ変わったら就きたい職業」ランキング。そのトップが「大学教授・研究者」。世の中のステレオタイプと、今の大学教授・研究者は相当違うようだ。研究者の評価は論文数や獲得予算額によってなされ、どのような目標や理念を持って活動しているか、なんてことが評価されることは少ない。 財務省、文科省、大学、教員のヒエラルキーの中で、上位のものが幸せになるような所作が求められる。もはや、研究は地位と名誉のためといった感覚さえある。私の下の世代ではプロジェクトで育てられてきた研究者も増えており、縦社会への適応も進んでいるように見える。これは由々しき問題である。そもそも今の時代、若者が研究者として生き残り、教授にまでなるのは至難の業である。スポーツ選手と同じだが、こちらは15位。世の中ちゃんとわかっている。私は研究者になろうと思って、一直線に突っ走ってきたが、研究者が幸せだった世代の生き残りと言えるかも知れない。わがままに過ごしてきたが、その代わり、理念は持っている。これからの研究者は「社会のなかの科学者、社会のための科学者」でなければならないはず。SDGsやFuture Earthの登場は世界がこの方向に進んでいることを意味している。私ももう少し頑張ろうと思う。ところで、タイトルはこの記事の副題。夢というのは実現が前提で、バックキャストしながら現在の行動を決めて、最後に達成するもの。夢と単なる想いとは違う。理想と現実の間で苦しみながら育っていくのが人生。(2019年1月27日)

受益と受苦

先の「みちものがたり」の最後にこういう記述がある。(東京の人だったら)「毎朝、渡良瀬遊水池に向かって、手を合わせてもらってもいいと思うんだよね」。谷中村が犠牲になることで、首都圏の治水に貢献したことを覚えておいて欲しいと。明治政府による谷中湖の築造の背景には様々な思惑があるのだが、目的の一つは東京の洪水対策であったことは確かであろう。東京は守られているといって過言はない。しかし、その背後には犠牲を強いられた人々がいるのである。 受益と受苦の関係性が忘れら去られている状況では、日本人は近代文明人とは言えないと考える。文明人というのは文明によりもたらされる利便性のメリットとリスクを認識し、双方のあいだで諒解を持つ人である。それができない日本は犠牲のシステムで運営される社会ということになる。受益圏・受苦圏問題の解決には、この社会をどのようにしたいのか、という理念の合意が必要なのである。(2019年1月26日)

田中正造と下総

朝日日曜版be「みちものがたり」に田中正造に関する記述がありました。足尾鉱毒事件の明治天皇への直訴(明治34年)に失敗した田中正造は、明治39年に強制廃村になる谷中村に住み続けました。100年たっても「正造さん」と呼ばれ、人々に慕われています。田中正造は、明治27年に小金原開墾地(小金牧)の土地紛争問題について政府に質問書を提出しています。また、明治29年には衆議院議長にあてて質問書を提出しました。国策であったはずの東京新田開墾に伴って出現した資本家である地主と小作農民の戦いは戦後の農地解放までその解決を待たなければなりませんでしたが、田中正造の正義感に基づく行動は下総の農民にとって大きな意義があった、と青木更吉は著書「下総開墾を歩く」の中で述べています。あの田中正造が我が下総の問題も見ていてくれたということは私にとって大きな誇りです。 (2019年1月26日)

つくられる社会規範

続いてハラスメントFDがありました。「教員同士の会話に潜むハラスメント」という題であったが、表面的な取り扱いに留まっており、背後にある事情には踏み込まない。一般的な議論しかできないのは当然であり、問題解決のために個々の事情に入り込むことがFDの場ではできないことは理解できる。その結果、我々は聖人君子として振る舞うことを強要され、個別の問題解決からは遠のいていく。この様にしてつくられていく規範が人を苦しめることになっているのではないか。何々はいかんよ、という時には、必ず上位の規範も存在しなければならない。上位の規範に照らして、いかんな、ということを理解できる体系が必要なのではないだろうか。また、人の幸せの達成を考えるときには時間軸を取り入れなければならない。今の問題に対処するだけではなく、人の未来を考えると解が異なってくることもある。今を重視すると管理者の幸せだけになってしまうことも多い。 どうしても抽象的な表現になってしまうが、具体的に書くと、それが“ハラスメント”と言われそうなので、小心の私は書けないのである。(2019年1月23日)

社会規範は普遍的か

職場でコンプライアンス研修がありました。教員は絶対出席しなければならないというお達しで、しょうがなく出席、というのが本音ですが、話を聞きながら背景に何があるのかを考えることも大切かも知れません。資料の最初のページに「社会的信用の確保・維持」という図があり、中心に「法令遵守」があり、その外側を「組織内規則(大学全体・部局)」が取り囲んでいる。卵の黄身、白身といった感じですが、殻にあたる部分に「社会規範(倫理・道徳・暗黙の了解)」とある。これだけみると、御意にございまする、と従うしかないのですが、ここで社会規範とは何だろうと思う。社会規範は社会の了解であるのだが、時代とともに変わるものであるし、ある時突然変わることもある。その時というのは、社会の底流にモヤモヤとしたものを皆が抱えている時である。実は、今がその時ではないだろうか。日本では多数のガバナンス(というよりガバメント)の失敗が露呈している。それは今、社会規範と思われているものが時代遅れになっているということであろう。新しいガバナンスのあり方が求められているのが今この時なのではないだろうか。(2013年1月23日)

暗黙の了解

学術会議のシンポジウム「FUTURE EARTHと学校教育:ESD/SDGsをどう実践するか」に参加してきました。教育は社会全体の将来を行く末を決めるために、最も重要であると考えているので、ESD(持続可能な発展のための教育)がどのように実践されているのか、知りたくて参加しました。非常に勉強になったシンポジウムでしたが、持続可能な社会について皆さんはどのように考えているのか、そもそも何が問題なのか、それを解決するためにはどうすれば良いのか、という観点までは踏み込んだ議論には至っていなかったように思います。もっとも、社会の問題を指摘すると、様々な異見や反発が予想できます。望ましい社会のあり方については、暗黙の了解ということなのだろうか。私は資本主義に根ざす様々な問題が根底にあり、問題解決には社会の組み替えが必要だと思っている。現状の社会のあり方を受け入れて、対症療法のように様々なイベントを企画するだけでは、未来についてまじめに考えていることにはならないのではないかな。それでも、小さくてもたくさんの実践の積み重ねが重要でである。(2019年1月22日)

好きな情景

わざわざ島根県からドローン農業に関する相談に来て頂いた。従業員7名の会社組織で米、小麦、そば、レタスを栽培する農場である。パンフレットの代わりに頂いた、イセキの営農情報誌「ふぁーむ愛らんど」で社員の皆さんと圃場の写真を拝見することができたが、皆さん家族持ち、積極的な経営で家族を養っている。社長さんはまだ若そうだが、経営に対して明確な理念を持ち、達成のためには新しい技術の導入に躊躇しない。近代文明人だなぁと思う。また、情報誌の表紙には福島県広野町の農家の写真。シビアな出来事にもめげず、頑張っている。私はこういう農的世界の情景が大好きである。最近加齢のためか弱気になっていたが、せっかくやってきたドローン農業をさらに深めようかという気になる。家族農業の振興は世界の意思でもある。今年から、国連の「国際家族農業の10年」が始まる。(2019年1月21日)

真理とは方向感覚である

鷲田清一による故梅原猛への追悼文の中で見つけた故鶴見俊輔の言葉(朝日朝刊より)。私にはしっくり心に収まるフレーズである。科学の世界でもよく真理という言葉が使われる。しかし、それは"ひとと交わらない無機質の真理"なのではないか。真理を越えたところにもう一つの真理があるように感じる。それは公害や事故の現場に身をおいた時、歴史的・社会的背景、ひとの内面が垣間見える時に出てくる感覚である。どこを見るか、どこまで見るか、によって真理は変わってくる。科学におけるメカニズムとしての真理、あらゆるものが積分されて現れた本質としての真理、二つの真理が同じ方向を向いたときに科学と社会も交わり、ひとに安寧をもたらす。やはり、真理とは方向感覚である。でも、その時には科学における真理の重要性はどんどん相対化していく。大切なものは何か。じっくり考えねばなるまい。(2019年1月16日)

下総台地の歴史

この連休は青木更吉著「『東京新田』を歩く」(崙書房)という書籍を読んだ。明治維新により東京には失業者があふれ、窮民対策として牧の開墾が計画された。しかし、農業をやったことのない大商人が開墾会社を運営し、送り込まれた人々も農業経験はなかった。大変な苦労があったが、残った窮民は1割程度だという。地租改正を察知した開墾会社は偽装解散し、土地を手に入れて地主になったが、入植者に対する思いやりに欠ける所業であった。資本主義の精神の先取りといえるだろう(貨幣の増殖を一義的な目的とするという点で)。東京新田は失敗だったが、それは農の心があったかどうか、ということにつきると思う。農業には作法が必要なのである。文章を読み進めると、当時の景観や地形、地質に関する記述もある。たとえば、八街では「浅い地下水が地下に分布している」所でサトイモが栽培されている、という。これは台地の皿状地の浅部に常総粘土層が分布し、宙水を形成しているところであろう。地域に関わるということは、地域の地理と歴史を知るところから始まる。明治2~5年頃の話であるが、その後については続編があるので、読み終わったらまた報告する予定。(2019年1月14日)

房州うちわとの出会い

館山に行く用事があったので、房州うちわを買ってこいという指令がかみさんから発せられた。とはいえどこで売っているのかわからないので、ようやく慣れてきたスマホで検索すると、うやま工房という店を発見。行ってみると工房らしきものがあり、用がある方は電話するようにとの張り紙。そこにおばあさんが通りかかり、職人さんを呼んでくれることになった。職人といってもお母さん(この呼称には異論もあるが、あえて使う)で、美容院を経営しているのですが、わざわざ来てくれました。もとは亡くなった父(先のおばあさんの旦那さん)が職人で、野田総理の時代に頂いた勲章が工房の中に飾ってありました。お母さんは房州うちわを製作することができるのでなんとか続けているが、あと2年すると子供たちが美容師になり、店を任せられる。そのときはうちわ製作に専念するのだそうだ。いろいろな製品を見せていただき、3本を購入。すばらしく美しいうちわを手に入れた。実は、少し前に千葉テレビのニンジャジャという私の大好きな番組で房州うちわの工房訪問の放送があったことを思い出し、伺ってみたらお母さんでした。短い番組でしたが、分厚い台本が用意されており驚いたとのことです。縁というもの不思議なもので、すばらしい出会いを経験することができました。ここは南房総市。すぐ前には延命寺という里見家の墓所もある古い寺。房総のなだらかな山並み。すばらしい暮らしがそこにあるような気がする。(2019年1月13日)

「こころ」と「心」

福島について語るとき、この二つの言葉の使い分けに悩むことが多かった。朝日朝刊、山折哲雄のエッセイ「『こころ』と『心』に立つの大河の流れ」を読んでなんとなくわかったような気になる。「こころ」という柔らかな響き、それは和語であり、「こころ」の岸辺には、われわれの日常的な喜怒哀楽のすべての姿が変幻きわまりない枝葉を茂らせ、花を咲かせているという。「心」は漢語であり、中国文明の風光が匂い立ち、日本と中国のあいだのを行き来した知識人の活動が映し出されているという。「道心」、「十住心」、「信心」、「心身脱落」、「観心」。世阿弥の時代になって「初心」を生み、それが世界でも稀な、美意識としての「こころ」の誕生だったという。私が意図していたのは「こころ」であった。(2019年1月12日)

改革に必要なもの

朝日朝刊「異論のススメ」にある佐伯啓思氏の論考。タイトルは「平成の30年を振り返る-失敗重ねた『改革狂の時代』」。確かに平成は改革が横行した時代であった。大学のあり方も大きく変わった時代であったが、その結果どうなったか。ガバナンスの強化は良いのだが、ヒエラルキーの上にいる者の総合力が衰えたことが大学の衰退を招いていると言えないだろうか。狭い世界の中における判断が、より広い世界の現実と齟齬をきたし、全体のガバナンスを悪化させている。とはいえ、佐伯氏が指摘するように『 改革狂』の時代はひとつの過渡期と捉えるべきである。我々は新しい段階に進まなければならないのである。そのために必要なものは何か。佐伯氏は、「『改革』が目指すべきものは我々自身の価値観とともに生み出さなければならない」と述べている。全く同感であり、価値感、哲学が改革には必要なのである。これらに倫理を加えた3点セットが必須となり、それらを時間軸、すなわち時代の変遷の中に位置づけて考える態度が必要である。世の指導者たちは過ぎ去った時代の価値観や哲学に囚われているようである。(2019年1月11日)

科学と社会

ふと思った。科学が海だとすると、社会が陸だ。社会の中には科学者もいる。多くの科学者は外洋に向かって漕ぎ出そうとしている。論文生産の世界である。しかし、実際の外洋は決して恵みの海ではない。生産性(NPP)は低い(これは地理学の知識)。陸のすぐ外側には豊かな沿岸、内湾、干潟があり、社会に恵みをもたらしてくれる(高いNPP)。内陸の閉鎖性水域も大きな恵みをもたらしている。それが今や劣化している。そこを何とかしたいという科学者もいる。問題解決の世界である。今日は印旛沼流域水循環健全化会議の環境体験フェア検討委員会があった。これは印旛沼流域の問題解決を共有するステークホルダーの集まりである。もちろん、科学者だけではない。こんな活動、これはニュートン・デカルト的な科学とはモードが異なる科学の実践、これも科学の目的として社会の中の立ち位置を確立させたい。今年の目標のひとつである。(2019年1月8日)

1915年アルメニアのジェノサイド

YouTubeは私にとってはミュージシャンとの出会いのツールとして大いに役立っている。昨年のヒットはカナダのシンガーChantal Chamberland(シャンタル・シャンバーランド)を知ったことで、すでにCDは2枚手に入れた。アルメニア出身のNara Noïan(ナラ・ノイアン)も気に入っており、YouTubeでBGMとして聞くことも多いのだが、その中に"Les âmes immortelles - The Immortal souls (A hommage to genocide -- 1915)"がある。正月休みなので動画までじっくり見ると、そこには凄惨な映像があった。改めて調べると1915年のアルメニアのジェノサイドの記録らしい。自分にとって新しい知識であった。中東から黒海、カスピ海周辺の様々な国家、民族が闘争を繰り広げた歴史を知ったが、弱者の悲しみは想像するにあまりある。もちろん、この地域だけではなく、世界各地で憎しみ、嫌悪、欲に駆動される争いが繰り広げられてきた。ちょうど「世界の路地裏を歩いて見つけた『憧れのニッポン』」(早坂隆著)を読んだところだが、世界の様々な地域で繰り広げられている事象、それには戦争や差別による悲劇も含むが、それらの真実について少し認識を深めることができたと思う。日本はなんと平和な国であろうかと改めて思う。この平和の中で形成される意識世界は世界の中では特異なものになってしまうかも知れない。しかし、世界には争いだけでなく博愛、対立でなく協調もある。日本に必要なことはまず世界の真実を知ること、その上で、お人好し社会として振る舞っても良いのではないか。世界平和を導く行為は利他である。上記の書物の中にも悲しみだけでなく、利他の行為による心温まる話も含まれている。Nara Noïanの曲はダウンロード販売がメインであり、数少ないCDはいつも品切れだった。Amazonを確認したところ、在庫が出ている。早速発注したが、楽しみである。(2019年1月5日)

印旛沼初詣

初詣として印旛沼の龍神に詣でてきた。初詣はべつに神社仏閣でなくとも良いのだと思う。日本人には八百万の神の心が宿っており、あらゆるものに神を見ることできるのである。青空が広がり、陽だまりは暖かいのが千葉の典型的な冬。私はこれが大好きなのだが、印旛沼には北西の冷たい風が吹き寄せ、波が立っていた。水鳥たちもヨシの群落の陰に身を隠し、じっとしている。龍神も湖底で凍えているに違いない。最近は人間が水位を変えてしまい、ヘドロもたまって温かい地下水が出てこないじゃないか、と文句を言いつつ。そろそろ龍神の怒りも爆発するころではないか。その怒りを受け止めなければね。(2019年1月3日)

スマホデビュー

息子により強制的にガラケイからスマホに変更させられた。使って見るとめんどくさいが、まあおもしろい。ただし、USB Type-Cというものを知らなかった。充電ができない。明日は早速調達に行かねばならない。技術の進歩に追いつくのがしんどい歳になってきた。それでも、これで鞄にはPC、iPod、ルーター、スマホが格納され、電子機器であふれてしまう(ポメラはもう限界)。私は新書か文庫、それと折りたたみ傘は必ず持ち歩くことにしているので、これで鞄がいっぱいである。それに、これからはペットボトルをやめて水筒を持ち歩きたいと思っているので、仕事の資料はなるべく持ち帰らないようにしたい。(2019年1月2日)

都市集中か、地方分散か

朝日元旦版から。昨年10月1日にも引用したが、京大の広井氏らによる2050年のAI予測シナリオから提起された日本社会の課題である。広井氏らは持続可能なシナリオは「地方分散型」と考えている。それはAIが答えを出したからではなく、意味の解釈や価値判断は広井氏らが行ったのである。基本は人が、社会が未来をどうしたいかということである。それは哲学、価値、倫理の領域である。だから、人によって考え方は違う。地王分散型に誘導するためには人々の考え方を変える必要がある。そのためには、なぜ考え方が違うのか、ということを説明しなければならない。それが意識世界、すなわち人が関係性を持ち、考え方を創りあげる範囲、である。東京一極集中は都市的世界の中に留まる狭い意識世界をたくさん作り出している。地方には都市的世界とは異なる農村的世界がある。まず農村的世界を知ることが大切なのだが、その潮流はすでにある。テレビ、新聞、雑誌でもたくさんの農村的世界の紹介に満ちあふれている。田園回帰も確実に進んでいる。いろいろな意識世界を伝えることにより、人の意識世界を拡張していけば、意識世界の交わりが生じる。これこそが多くの問題を解決するほとんど唯一の方法なのではないだろうか。もちろん、都市的世界、農村的世界は共存して良い。人が両者を自由に行き来できる精神的習慣を持つことが大切であることは、この7年間変わらず主張していることである。(2019年1月1日)

印旛沼流域エコミュージアム構想

明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願い申し上げます。昨年の私は少し疲れていました。今年は変わらなければいかんと思っています。何よりも、“口だけ”は終わりにして実行段階に入らなければならないと思います。やらなければならないことは印旛沼流域をエコミュージアムとすること。文科省ホームページによると、エコミュージアムとは「ある一定の文化圏を構成する地域の人びとの生活と、その自然、文化および社会環境の発展過程を史的に研究し、それらの遺産を現地において保存、育成、展示することによって、当該地域社会の発展に寄与することを目的とする野外博物館」。地域の時代を創りあげるための強力なフレームワークになるはずである。まず印旛沼流域地理情報データベースを作成する必要がありますが、これは私が印旛沼流域健全化会議に参加した当初に提案し、組織図の中にデータセンターとして入れて頂いたものの機能に相当します。結局10年以上にわたって組織図の中だけに取り残され、誰か実行することをただ待っている状態になっていた。先月開催された勉強会で私がいつもの通り言及したら、虫明委員長から、あなたがイニシアティブをとるんだよ、とお叱り。最近の私はめっきり実行力がなくなってしまった。思い切り落ち込んだところでリバウンドするために、残る大学人生は印旛沼流域を対象によりよい地域を創成するためのフレーム創りに取り組もうと思う。(2019年1月1日)


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