口は禍の門

2018年度秋期の初日は台風一過で迎えた。以前の台風で外れた物置のひさしが飛ばないかという不安、また風で揺らされた誰かの車の盗難防止クラクションがうるさくて、あまり眠れないまま朝に至った。頭はボウッとしているが、空は秋晴れ。それにしても、この夏は災害が多かった。だから地球温暖化を止めようという方向には行かないのだが、その前にやることがたくさんあるでしょ、ということ。土地の性質は場所によって異なる。災害に対する脆弱性は場所によって異なり、土地は人にとって不公平なのである。では、どうするか。お金をかけて守ろうとか、そこに住むなというのは良策ではないと思う。そこがふるさとである限り、人はそこに住むのである。ふるさとである限り人は一人ではない。ふるさとのことをよく知り、みんなで災害に対応し、その土地に諒解して住むのである。こういう営みが持続可能性を生み出す。脱炭素にも結びつけることができる。そんな社会を創りたいものだ。(2018年10月1日)

2018年度も後半に入るが、今年が例年と違うのは7月1日ですでに梅雨明けしているということ。今夏の米や野菜の生育はどうなるだろうか。私もこれからは毎日早起きして畑の水やりをやらねばなるまい。いつも、大量に作りすぎて畑で花を咲かせたり(大根やほうれん草の花もきれいなものですが)、腐らせたりしているので、今は区画を小さくして、時間差栽培、他品種栽培を心がけている。小さな畑ですが、収穫期には十分な食料を確保できます。すべての家庭が小さな畑や、ダーチャ、クラインガルテン(畑付き別荘)を持つことができれば、食料問題など心配する必要はなくなるのではないか。食料問題は都市の問題でもある。良好な都市と郊外、農村の関係について考えていきたい。(2018年7月1日)

2018年6月までの書き込み


尊厳が足りない

あ、そうだ、と思った。朝日朝刊、記者有論、斉藤さんのコラムから。昨日、障がい者について書いたが、障がい者が何事もなく、どこでも行ける、なんでもできる社会こそ、目指さなければいけない社会のかたちなんだな。障がい者に限らず、皆が「尊厳」への配慮をすること。それが大人の社会だ。困っている人がいたら、手を貸すこと。これは障がい者も健常者もない。基本である。(2018年10月18日)

クレームと行動

どうも気になる。「障がいは言い訳」という文言の入ったポスターを東京都が撤去したという件。杉野さんの語ったことは簡略化されているが、背景は理解できるのではないだろうか。それは杉野さんの覚悟であり、障がいを持って生きるということへの諒解が言葉に込められている。それは想像できないことなのだろうか。一方、障がいを諒解できず、苦しんでいる方々もいるはずである。私たちはその方々に対して何ができるだろうか。ポスターにクレームをつけた方が健常者だとしたら、その方はどんな行動をしているのだろうか。クレームをつければ自分ではない誰かがこの問題に取り組むはずであるという考え方だったら、情けないことである。障がい者にとって現実は厳しいだろう。この世界で生きるということに諒解をつけなければならないのである。その苦しさを"わがこと化"して想像し、自分にできること、それは小さなことかもしれないが、たまたま出会った場面で行動すること。それで良いのではないだろうか。 (2018年10月17日)

世界湖沼会議雑感

2日間しか参加できなかったが、雑感。湖沼セッション(海外)では湿地と湖の定義が議論になったが、ぜひとも地理学を勉強してほしいと思った。定義はちゃんとある。時間軸で見ることも必要。湖はいずれ沼から湿地へ変遷し、陸地になる(ただし、いろいろな場合もある)。空間的には、その地域の地形、地質、気候、植生、土地利用、等々に基づいて理解する必要がある。時空間的見方は意外と浸透していないのか、と感じる。地理学がアピールできる場はたくさんある。湖沼セッション(国内)では、印旛沼の事例を紹介したが、セッションの中で目指す方向は間違っていないことを確信。はやく世界に発信できる成果として纏めないとあかん。この会議の成果はどのように活かせるか。宣言を作成して頂き、それに基づいて我々が行動し、施策に活かす。まだまだ役割は終わらない。これからである。 (2018年10月16日)

行動と成果

世界湖沼会議、午前中の「市民参加と協働」セッションで、富里ホタルの鈴木さんからいい言葉を頂いた。「行動は1対多、成果は多対1」。では研究は、と考える。現状では多くの分野が1対1になっているのではないか。1人が1つの分野の中で閉じている研究。一蓮托生の分野の中で研究のための研究に骨身を削る。しかし、環境に関わる分野はそれではいけない。1の成果に基づき、1対多の行動を通じた実践へ結びつけ、多対1の上位の成果を得る。それが、「社会の中の科学、社会のための科学」を成立させる道筋ではないか。このループを繰り返し、多の成果を達成する。それがSDGs、Future Earthを成功に導く。ローカルからグローバルへの道筋でもある。(2018年10月16日)

音楽はええなぁ

世界湖沼会議のレセプションでは茨城の酒がずらっと並んでおり、また飲み過ぎてしまいました。院生時代に飲んだ筑波地域の酒があるかな、と探し、"一人娘"を見つけておいしく頂きました。ステージでは茨城県出身の津軽三味線奏者のはなわちえさんの演奏。ええなぁ、三味線をやってみようかと思う。水戸工業高校ジャズバンド部のブルービギナーズ、これもええ。特に最後のチック・コリアのスペインでは涙が出てきました。チック・コリアは千葉大に入った年にReturn to foreeverを見つけて以来、好きになり、アルバムをたくさん集めました。レコードの時代が過ぎてからも一部ですがCDを揃えています。レセプションが終わった後、ペデストリアンを歩いてホテルに向かいましたが、筑波大の院生時代に自転車で通った道です。秋の夜のペデストリアンはチック・コリアのMad Hatterのジャケットのイメージがあったのですが、今アルバムフォトを見ると、ひょっとしたら別のアルバムだったかも知れません。院生だった時代はもう30年以上前となりました。人生のステージも確実に進んでいるなぁ。(2018年10月15日)

仮想水と社会

水文科学会で仮想水に関する発表がありました。時間切れでコメントできませんでしたので、ここに記録しておきます。仮想水を経済学の観点からとらえるには、資本主義の本質を理解しなければなりません。資本主義は必要を超える需要を生み出し、貨幣の獲得を限りなく目指す行為です。日本に向かう農産物ベースの仮想水の大きな流れはアメリカとオーストラリアからやってきています。その中身は牛肉、小麦、といったものだと思いますが、それは必要を超える需要を生み出し(皆さんステーキは好きですし、政策により小麦の取引はコントロールされています)、貨幣を獲得するという行為です。日本の水ストレスを緩和するわけでもなく、生産国で水問題が発生し、儲からなくなれば、仮想水輸出量は減るでしょう。牛肉や小麦の価格が高くなっても、国産の製品の流通が増加すれば日本の食料安全保障の観点からは好ましいのではないでしょうか。必要と需要をどうとらえるか、それは我々の生き方とも関わる問題です。仮想水を通して我々の社会のあり方を考えるきっかけが生まれれば、それは素晴らしいことであるし、仮想水を議論する価値になるでしょう。(2018年10月13日)

相田みつを「道」

昨夕ホームに入っている母親を訪問したら、相田みつをの詩集があった。妹が持ってきたらしい。私も相田みつをの書は大好きで、詩集は2冊持っています。詩集といっていいのかよくわかりませんが、日本人の強さ、優しさが凝集されているような書は心が安らぎます。10年以上前に市川のギャラリーで買った絵はがきを何枚か額にいれて飾っていたのですが、久しぶりに取り出すと、"道"という詩が出てきました。当時、いやなことに直面していましたが、この詩で自分の気持ちを整理することができました。

長い人生にはなあ
どんなに避けようとしても
どうしても 通らなければ
ならぬ道
というのがあるんだな
そんなときは...

後は詩集を買ってください。つらかったけれど、今思うと、じっと耐えている自分に酔いしれているところもあったのかなとも思う。高倉健さんの映画のように。それも危機回避のひとつの方法かも知れない。 (2018年10月7日)

技術と社会(2)

スラウェシ島の地震、津波災害について昨日意見を述べたが、この津波は海底地すべり型であったようだ。東北大学の今村さんらの調査に関する記事が朝日に載っていて知った。インドネシアでは地震を伴わずに突然やってくる津波、すなわち海底地すべり型の津波が数多く観測されているが、今回は地震をきっかけとして発生した海底地すべりが津波を起こした可能性が高い。このタイプの津波は警戒システムがあっても対応が難しいが、今回は地震があったので、本来は避難行動を早い段階から始めることができた可能性もあったかも知れない。津波の被害を軽減させるためには科学技術の実装以前に、まず「てんでんこ」。過去の災害から得た教訓を継承することが何よりも大切。スラウェシにも伝承はあった。 (2018年10月7日)

技術と社会

スラウェシ島の地震、津波災害の死者は2000人を超えそうである。現場には日本の援助による津波警戒システムがあったのだが機能していなかったという。何が問題だったのか、しっかり検証する必要がある。【システムはできたが、運用する技術者がいなかった】 これはODAでいつも問題になっていることでもある。教育が重要と思うが、技術者の雇用を確保するにも予算が必要となる。【維持運営のコストを負担できなかった】 予算がないという理由はなんだろうか。・本当に予算がない。・防災当局の意識が低かった。・財務当局が必要性を認識できなかった。いろいろな理由が考えられると思うが、どこがネックだったのかを検証しなければ次に進めない。見栄えの良いシステムを導入するだけでは人の命、財産を守ることはできないのである。ハザードを理解し、ディザスターにならないような備えを人々が自然に行う、それで足りない部分を行政が補う。そんな社会を目指したいと思う。 (2018年10月6日)

私たちとは誰か

2章に進む。そこにこんな文章がある。「どのような社会構造を私たちが選択するのかによって将来の気候変化の大きさが決まる、すなわち私たち人間が温暖化の大きさを決定するのです」。では、私たちとは誰だろうか。自分ではない誰かのことだろうか。二酸化炭素の排出を増加させる施設が作られようとしている時に、それに関心を持たない、気がつかない多くの人々は“私たち”の中に入るのだろうか。その人々は温暖化社会を選択しているということになるのだろうか。地球温暖化問題の重要な観点は作為、無作為がどちらも意思を表示していることと同じであるということ。自分の態度がどんな社会を指向していることになるのか、そこを明らかにすることが温暖化予測の本質的な目的であろう。(2018年10月5日)

中立の立場

古今書院の「おだやかで恵み豊かな地球のために 地球人間圏科学入門」を読み始めたところ。1章でこんな文章を見つけた。「地球人間圏科学は、@既得権益や利害関係からは明確な一線を画し、A中立の立場から社会的合意形成のための客観的データを示すことが求められている」と。確かに、@を前提とすると、Aであるべきであるが、科学者の立場といった場合、異なる価値観や哲学から中立といった意味にとらえられることが多いと考えられる。しかし、私は科学者といえども価値観、哲学から中立ではあり得ないと考える。本書の「はじめに」では「地球人間圏科学は...人間観や世界観をも創出しようとしています」とある。この場合、価値や哲学から中立ということはあり得るのだろうか。価値や哲学に基づいて、人間観、世界観が語られるのではないだろうか。環境に関わる科学者は価値感、哲学を持つべきであるというのが私の主張である。これがないと、あるべき社会の姿が議論できないのではないだろうか。ちょっと突っ込みすぎか。(2018年10月5日)

文句は勝負

私は文句が多い類いの人間であるが、若いときからそうではなかったと思う。若いときは結構まじめに指示されたことに取り組んでいたように記憶しているが...(異論もあるかも)。最近文句が多いのは、文句を言うだけの実績が付いてきたからといえるだろうか。文句を言うからには、どうすれば良いのか、というところまで取り組むつもりなのであるが、私を真似して若手が文句を言うのは危うい。十分な実績を積んでから文句を言うようにしてください。文句を言うということは、勝負に出たということでもあるのだから。(2018年10月4日)

AIが示す日本の分岐点

朝日朝刊の政治断簡の欄から。「2050年、日本は持続可能か」との問いに答えるため、149の社会要因を使った因果関係モデルを構築し、AIを使ってこれから起こりえる「未来シナリオ」を約2万件抽出し、京大の広井さんのグループが比較、検討して政策提言を纏めたというもの。それによると、未来シナリオは都市集中型と地方分散型の二つに分かれ、近い将来に両者への分岐点、その後、地方分散型に進んだ場合は、その持続可能性の分岐点がくるという。持続可能性の観点からは地方分散型が望ましく、その前に政策誘導をすべきということであるが、基本的な考え方はすでにあり、そのお墨付きを科学が与えたということになるのだろうか。未来創造のために科学をうまく使いこなした事例といえるのかも知れない。AIの運用は情報系の専門家だけに任せたのでは未来は危うくなる。この例のように、AI以外の専門家が主体的に関与することによって、AIが有用なツールとなることを示した点が重要だと思う。地方分散のシナリオをAIが示したことは示唆的なのであるが、最終判断は人間が行ったとのこと。このシナリオは広井さんの目指す方向でもあろう。科学技術というのはこうやって使うのだよ、ということ。 (2018年10月1日)

化石大学人

我ながらおもろいことばを思いついた。毎年、この時期に「教育研究等活動実績報告書」というのを提出し、評価を受けなければならない。授業をいくつやりましたか、論文いくつ書きましたか、学生何人もっていますか、委員等をいくつやりましたか、...といった事項を記入し、自分に点数をつけなければならない。それが給料に反映されるそうだ。各項目の点数付けの根拠も曖昧だし、もう歳なので給料があがることもないし、なんといっても面倒くさい。締め切りを過ぎたこの週末にやろうと思ったが、やはりやる気が出ない。出勤すると、やってね、と事務方からのメール。いつもお世話になっているますので、しょうがないのでざっと記入。その送り状に、こんなことやっていると大学人の矜持が失われるじゃん、それでいいんか、なんて書いてみたが、ふとこんなことやっているのは自分が化石化した大学人だからではないか、と気づく。若手教員はこういう状況に適応し、何の疑問もなく提出しているのだろうか。大学人としておもろくないなと思う。大学生活も5年を切ったが、やはり最終コーナーは皆さんに迷惑かけっぱなしで退くということになるだろう。(2018年10月1日)

地球環境問題の解への道

台風襲来前の静けさの中で、調べ物をしていたらたまたまベネッセのBERDという雑誌を見つけた。だいぶ前に休刊になっているようであるが、2007年のReportが気になった。嘉門先生とは私は面識はないが、地盤工学の大家で、以前「地盤環境工学ハンドブック」の項目の担当を依頼されたときの編者の一人であった。京大地球環境学堂の寄付研究部門「森川里海連関学」に関するインタビュー記事の中で彼はこう述べている。

地球環境問題で難しいのは、いきなり地球全体の問題を解決しようとしても簡単にはいかないという点です。我々は「シンク・グローバリー、アクト・ローカリー」といっていますが、あくまでも個別地域の環境問題を積み上げていく中からしか、全体の解は見えてこない。

その通りであると思う。10年前の記事であるが、その後の研究界でこの認識は浸透したのだろうか。今、少しずつその検証に取り組んでいるところだが、案外草の根の認識としてマジョリティーなのかも知れないと考えている。なぜなら、チェーホフのいうように、現実というのは控えめなものだから。目の前にある現実に取り組んでいる人々は、なかなかグローバルの問題解決を考える余裕はない。そこを手助けすることが科学者の役割であり、Future Earthの心であると考えている。ただし、上から目線のエリートにならないように、ともに実践に参加する態度が必要である。(2018年9月30日)

けっして否定できない雰囲気

朝日が「日本の『科学力』」と題する連載をやっている。実感として自由に使える研究資金は少なくなっているのであるが、日本の科学技術予算は全体として増えているという。その理由は「イノベーション」関係の研究費が増えているから。SIP、ImPACT、PRISM、といった略称はよく耳にするところであるが、その目標の中には「重傷者を人工冬眠させる技術」、「台風の進路を変える技術」、「死者をサイバー空間によみがえらせて会話する技術」といったものも挙げられているそうだ。本当にこんな課題に何十、何百億という予算が投じられようとしているのだろうか。そんな馬鹿なとは思うが、そうだとしたらいくつかの理由が考えられる。それは決定組織がエリート村になっていること、その中で語られる美しい文言に対してけっして否定できない雰囲気が作り出されていること。だから彼らには、外形的な研究課題の外側にあり、研究を支える社会の有様が見えていないのかも知れない。このことは私自身も注意しなければならないと思う。Future EarthのTransdisciplinarityやSDGsには、けっして否定できない雰囲気を醸し出す魔力がある。常に研究の目的、社会との関係を確かめながら先に進みたいものだ。(2018年9月29日)

事実の評価、真実の評価 その2

先日、同じタイトルの書き込みをしたところであるが、今日のことをひとつ書いておこうと思う。歳のせいで、評価を行う側の仕事が本当に増えてきた。今日も議論があったのだが(これも名前は公表されている件)、“私はこの方のこういう良い点を知っている。それを評価する。” と発言した。もちろん、資料には書いていない。これは評価という行為ではルール違反という意見もあるかもしれない。提出された資料だけで判断すべきと言われそうであるが、それは事実に基づいて判断せよ、ということである。しかし、本件の結果が公開された場合、関連するステークホルダーは事実よりも、真実で“評価の結果”を評価する。評価の結果が、市井の人々の真実による評価と一致していることこそ、評価を行う機関の信頼性につながる。だから、私は事実だけでなく、背後にある真実を可能な限り見極める努力をして、評価という仕事に取り組みたいと思うわけである。とはいえ、それは大変な仕事である。評価という仕事は“半端ない”仕事であるのであるが、昨今、時間をかけていない、かけられない評価も増えているような気がする。それが日本の底力を損なっているように感じる。(2018年9月28日)

Transdisciplinarity(超学際)のこころとは

千葉大学Futuer Earthタスクフォースミーティングで超学際について話をした。とはいえ、超学際とは何か、という点に関する議論は低調である。超学際に関するコンセンサスがなければFuture Earth(FE)を名乗ることはできないのではないか。私は、FE研究であるためには、@問題解決型、すなわち解くべき問題が明らかになっていなければならない、Aその問題のステークホルダーをきちんと認識していなければならない、Bステークホルダーと問題の解決を共有し、協働作業を行う、すなわち実践がなければならない、と考えている。FEのベースレベルのターゲットは地域になるはずである。それをどのようにグローバルレベルに統合していくのか。それこそ研究者の出番ではないか。話の最後に、二つの文章、フレーズを提示したのだが、ここに再掲しておこうと思う。

『ある控えめな男のためにお祝いの会が開かれた。集まった人々は、ちょうどいい機会とばかり、てんでに自慢をするやら、褒め合いをするやらで時間の経つのを忘れた。食事も終わろうという頃になって人々が気がついてみると−当の主人公を招くのを忘れていた。』

「臨床の知」(中村雄二郎著)の冒頭に出てくる話(チェーホフ短編集より)であるが、集まった人々が「学問」、主人公が「現実」である。何を言わんとしているかは、明らかだろう。

『無言が胸の中を唸っている
行為で語れないならばその胸が張り裂けても黙ってゐろ
腐った勝利に鼻はまがる』

故高木仁三郎の“市民科学者として生きる”から、萩原恭次カの詩。行為で語るのがFEやSDGsではないか。ブダペスト宣言の「社会の中の科学、社会のための科学」は日本ががんばって宣言に入ったと聞いている。だから、学術会議における基本方針の一つにもなっている。我々科学者は自分のことだけでなく、社会のことも考える、そんな時代が来たのだと思うが、まだまだ根付いていない。煙たがられながらも主張し、実践していくのが私の仕事かなと思っている。(2018年9月26日)

思想のない評価

60年の人生の中で初めて和歌山県に足を置くことができた。これで行ったことのない都道府県はなくなったが、通過しただけという県はまだいくつかあるので、そこに行くことは生存期間中の目標。和歌山には学会で来ているのだが、知人から"あの評価の結果はなぜ"という問い(名前が公開されているので)。"あんなによい提案なのに、なぜ採用されないのか"、と感じている方がおられるとのことである。歳のせいか、評価に関する仕事が最近は増えている。この評価のコメントはすでに通知されているので、 制度的なところをお答えしたが、改めて思うことは、"評価には思想が必要、それはオープンにされていなければならない"ということ。今回の件は明らかだったと思うが、昨今は"思想のない評価"が増えてきたと思う。文科省、大学における個人、組織評価に該当するものがあるが、評価項目の考え方や評価の結果を記した文章がまるで理解できないことが多い。だから、評価を踏まえてどうすればよいかがわからない。評価資料作成にも多大な時間を消費しているので、大学の活力を損なっていることは確かである。評価のあり方にも疑義があるのだが、それを指摘するのは大学人の役割でもあろう。歳をとって少しずつ意見を言える機会も増えているので、なるべく発言するのが仕事だなと思っている。それがストレスを高めてしまうことも多いのだが。それにしても今回の痛風はなかなか手強い。ストレスが関係しているのかなぁ。仕事をさぼっても、それもストレスを高めてしまう。一番よいのは人とのおつきあいだと思うが、まったく仕事と関係のないつきあいの場を作っておくことが重要だなと思っている。 (2018年9月23日)

本当の救済は物資ではない

朝日朝刊「てんでんこ」より。東北で支援を続けている僧侶、野口さんはこう考えている。私もそうだと思う。 東日本大震災後、福島に通って痛感したことは、科学よりも、音楽をはじめとする芸術、人とのつながり、といった行為の方が目の前にある問題への効力としては遙かに強いということ。物資や科学は救済のために役に立つが、それだけでは人を救うことはできない。人を救済したいと思ったら、誰のための救済か、何のための救済か、を共有できるか、自分がその活動に身を投じることができるか、どういう枠組みで救済を考えるか、いろいろなことを考えなければならない。研究さえやっていたら、自分ではない誰かが、救済のために役に立てるはずだ、という思い込みから抜け出さなければならない。これこそが、Future EarthやSDGsの心なのではないでしょうか。上から目線のエリートになってはいけないと改めて思う。 (2018年9月20日)

研究における永遠の財とは

いい言葉を見つけたところであるが、ふと研究の世界における永遠の財とは何か、という点が気になった。研究とは新しい知識の生産であり、それを記録する媒体が論文である。だから、いい論文が永遠の財ということになるだろうか。しかし、研究の成果は仮説に過ぎず、反駁されることにより新しい仮説を生み出す。よかれと思った研究が人類の危機を招くこともある。そう考えると論文とは束の間の財に過ぎないのかも知れない。では研究にとって大切なものは何だろうか。それは研究を通じて得た研究者の知識、経験ではないだろうか。それは様々な活動を通じて社会に還元されるべきものである。研究者が還暦を過ぎても、論文数や獲得予算でのみ評価されることは、実は社会にとって大きな損失なのではないか。そんな評価のやり方も長くなり、定年を迎えるまで論文数、獲得予算命の研究者が生まれ始めていることも確かである。資本主義では価値を貨幣に変換し、その増殖を目指す。研究者にとっての論文は資本主義における貨幣とは違うだろう。還暦過ぎたらこれまでの経験を活かして、社会のための仕事をしたいものである。その成果が永遠の財になればよい。(2018年9月17日)

永遠の財、束の間の財

シューマッハーの遺稿集(スモール イズ ビューティフル再論)の中で、心に染みた言葉を見つけた。我々は何を大切にしたら良いのか。それは永遠の財である環境、正確に言うと、自然と人の良好な関係性、となろう。資本主義に駆動される現代社会が追い求めているのは、束の間の財に過ぎない。貨幣を獲得するために、永遠の財を損なっているのが現在の状況だろう。持続可能な社会とは、永遠の財を大切にする社会に違いない。では、どうすれば良いか。シューマッハーは繰り返し都市と農村の関係について述べている。現代の"都市ー農村関係"における農村の再評価が考えられる可能な方向性と私も考える。もうひとつ印象に残った言葉は"中間技術"である。私は最先端から見れば枯れた技術でも、個人が利用可能な技術を駆使することにより、低コスト、維持可能な技術が社会、特に農村を支えることになるのではないかと考えている。これは"怒りの葡萄"(スタインベック)の中の自動車に関する描写から直感を得ている。このシューマッハーの著作は50年前に書かれたものであるが、現在にそのままあてはまる内容である。それだけ世界が進歩していないということかもしれない。(2018年9月17日)

トランスディシプリナリー・アプローチの始動

今回の水文・水資源学会は非常につらいものとなった。初日の朝に痛風を発症してしまったのだが、総会とシンポジウムは出なければならぬ。足を引きずりながら参加したシンポジウムでは竹内邦良先生の話が良かった。学会30周年を迎えた今、「水文・水資源学に明るい未来はあったのか」、という若手の問いかけに対しては、「あったが実現できなかった」。「30年後の今、何が解決できたのか?」に対しては、「(一定の進歩はあったが)社会的問題の解決には至っていない」。「そして、これから−」には、「トランスディシプリナリ・アプローチ(TDA)の始動、積極参加、実践が必要」。私としてはTDAはさらに深堀したいところであり、それは追々主張していくが、気になることもある。若手はトランスディシプリナリティーをどう理解しているのか。昨今の研究者の評価システムのもたらす必然として、若手の"世界"が狭くなっているのではないか、と私は懸念している。若手の自然観、社会観をまず聞いてみたい。そこから若手が意識する"問題"が明らかになる。さらに若手が意識するステークホルダーがわかり、若手の意識する"問題"が可視化されてくるだろう。その"世界"の範囲を皆で検討してみたい。物理が駆動するグローバルを見ているのか、たくさんの小さな世界が相互作用する容れ物としてのグローバルを見ているのか。その見方の違いはステークホルダーに現れる。世界も、個人もステークホルダーであるが、ステークホルダーは階層性を持つ。ステークホルダー間の対立もある。問題に対峙したとき、誰をステークホルダーとして認識しているか。複数のステークホルダーを峻別し、その関係性を意識し、かつ協働するのがTDAである。ある特定のステークホルダーとの関係性を乗り越えた先に現代の問題の解決があるのだと思う。こんな議論をそろそろ本格的に始めなければならない時期である。(2018年9月13日)

ソラノイト−くやしいけれどきれいだと思った−

明日から三重大で学会があるので、今日は早めに出発し、四日市市にある「四日市公害と環境未来館」を訪問した。先月は「イタイイタイ病資料館」を訪問したので、いずれ日本の四大公害病の全施設を踏破したい。公害はそのメカニズムと経緯を知るだけでは理解したことにはならない。犠牲者、関与した者たちの体験、声を聞くことでしか理解できないことがたくさんある。公害の語り部の動画の中で、谷田輝子さんの話は心にしみた。小学4年生の娘、尚子さんが亡くなる場面では涙をこらえながら聞いた。帰りにミュージアムショップで「空の青さはひとつだけ」という書籍を購入したが、それは谷田さんの一家の話を漫画化し、いろいろな方々の思いを綴ったものであった。尚子さんの人生の背後にあった様々な矛盾、葛藤、理不尽、そして幸せ、...ほんの一部であろうが理解することができたと思う。輝子さんの動画の最後に、四日市コンビナートの夜景クルーズの場面があった。「くやしいけれどきれいだと思った」。輝子さんはこう語っていたと思う。この言葉のなかに近代文明、資本主義と人の暮らしの間にある矛盾が込められていると思う。我々は外形的な美しさの背後にある様々な事情を見抜く力を持たなければならない。それが環境に関わる科学者の役割だと思う。(2018年9月11日)

成熟社会におけるリスクとベネフィット

久留里で地下水に関する講演をしてきた。招いて頂いたのは「小櫃川の水を守る会」で、30周年を迎えたそうだ。発端は水源地に建設された産廃施設が水を汚染させるのではないかという地域の懸念にある。科学者として、そして地下水の専門家という立場から言えることは、産廃施設が漏洩事故を起こしたら、まず影響が及ぶのは局地流動系の汚染であり、直下の御腹川に比較的短い時間で影響が出るだろうということ。また、下流の久留里で取水している帯水層に影響が及ぶ可能性はあるが、それは数千年から数万年先のことになるだろうということ。久留里で有名な自噴井の帯水層に関しては、科学的知見から直ちに影響が及ぶことはない、と主張することもできる。この表現はデジャブのようである。311後に枝野さんが、直ちに健康に影響が及ぶことはない、と繰り返していた原子力災害。科学的には年間追加被曝線量100mSv以下では発がん率が高まるという確定的な証拠はない。だから、それより十分低い20mSvという基準を満たせば健康には(直ちには)影響はないということ。とはいえ、これで納得できる人は経済学でいうところのホモエコノミクスの様である。ホモエコノミクスはコストとベネフィットを勘案できるが、20mSvを直ちに容認できる人の場合は判断の基準を科学者に預けてしまっているわけである。これは"文明社会の野蛮人"でもある。直ちに影響はないといわれても、バックグランドを超える被曝は事故によるものである。それは許容しがたいが、ふるさとを取り戻したいという気持ちが20mSvというつらい諒解を容認することになったのである。久留里でも、ふるさとの暮らし、文化を支える地下水が汚染される可能性があることが明らかな場合、"汚染されるとしても遙か未来ですよ"、"川への流出はきちんとモニターして対応しますよ"、といわれてもそう簡単に諒解できないのは当たり前である。この問題は原子力災害と同じく、近代文明のあり方に関わるものである。産廃施設はどこと、誰と関係性を持っているのか。ベネフィットは誰が享受しているのか。リスクは誰が負うのか。私は成熟社会というものは、リスクとベネフィットを分離させない仕組みを持つことが大切だと考えている。水源地にある産廃施設では両者が分断されていることは明らかである。リスクとベネフィットを分断させない合意は可能だろうか。(2018年9月9日)

研究者という何者

私としては、“研究者という人生”、としたいが、どうも最近は“研究者という職業”、が増えてきているような気がする。職場で科研費の申請内容をチェックするということになっているのだが、人生を体現する研究に他人のチェックなど余計なお世話である。科研費の獲得数が職場評価の指標になっているからであるが、誰がそんなことを考えるのだろうか。それは評価者でもある文科省であるが、職業としての研究という思想、態度、習慣がより上位の階層まで浸透してきているということ。研究にとって予算は必要だが、研究のための研究などしたくはない。こんなところに日本の研究力低下の要因があるのではないだろうか。(2018年9月6日)

あなたはどこにいるのですか

北海道で大きな地震が発生。専門家も報道で活躍しているが、ヤフコメでこんなコメント。「後で現場を見てこうだったと理屈を言うのは簡単ですよ!」と。ほとんどの災害(ディザスター)では被害が生じた"素因"を指摘することは専門家であれば誰でもできる。先に言ってほしかったというコメントであるが、私たち地理学者は何十年にもわたって土地の性質、災害の素因を社会に伝える努力を継続して行ってきた。それでもなかなか社会に伝わらないもどかしさはあるが、伝える機会を得たときには、話を聞いてくださったみなさんが理解し、納得して頂けたことはいつも確信することができた。社会の中のほんのわずかな方々かもしれないが、少しずつ理解は進んでいると思う。理屈を言うのは簡単だというあなた。あなたはどこにいるのですか。自分や家族、社会の安全、安心に関心はありますか。もし関心があったら私たちを探してください。私たちもあなたを探しています。(2018年9月6日)

超学際の認識の違い

学術会議のフューチャー・アースの推進と連携に関する委員会は第6回を迎えたが、相変わらずモヤモヤ感が払拭できないでいる。その理由は超学際(Transdisciplinarity,TD)の認識の違いであることはわかっているのであるが、委員会後の研究会におけるJSTの王さんの講演の中で超学際に触れる内容があったので、シートを再掲。

超学際研究の二つの性質
(A)知の統合としてのTD研究
(B)社会問題のソリューションとしてのTD研究

米国でTD=A=SciTS 欧州でTD=B=mode2

なお、SciTSとはScience of Team Science(チームサイエンスの科学)ということである。アメリカとヨーロッパにおける超学際の違いは、すでにGLP News No.11(2015)のEDITORIALでも指摘されていることであるが、ここで再び両者の違いを考えると、こんなことがいえないだろうか。

(A) (B)
理工系 人社系
物理でドライブされるグローバル 地域の集合としてのグローバル
未来をよくするために現在を変える 現在をよくすることにより未来をよくする

かなり穿った見方かもしれないが、 現在のフューチャー・アースは超学際に対する二つの考え方が認識されていないところにモヤモヤ感の理由があると思う。現在の委員会を主導しているのは(A)であるが、(B)は見えているだろうか。この二つの考え方を融合させた先に超学際の実現と、フューチャー・アースの成功があると私は見ているのであるが。(2018年8月28日)

人はなぜ戦争をするのか

書斎から降りたら、かみさんが「この世界の片隅で」を見ていた。私も途中からであったが、見切って涙。戦争とはかくも不条理なものであるが、なぜ人は戦争をするのだろうか。人は歴史の中で十分に世界について学んだはずなのに。それは資本主義のあり方と関係するのではないか。貨幣を獲得することを目的とし、限りない成長を指向する市場経済が、格差を生み、差別を助長する。必要を超える需要を生み出し、その需要を満たすための消費がさらなる格差を生む。人は勝ち続けないと不安に苛まされ、人を攻撃するようになる。こんな風に考えると、今の社会もまるで戦時中のようである。人が、地域が、国が無事である社会は決して敗者の社会ではない。(2018年8月26日)

知的財産を築く営み

いつも勝手に送られてくるTechnologist's magazineという雑誌にノーベル賞学者の梶田さんの記事があった。その最初にあるフレーズが、「ニュートリノ振動を発見したが、いつ役に立つかはわからない。人類が知的財産を築く営みをずっと認める社会であってほしい」。私もそう思うが、知的財産の形成はパトロンの資力に依存する面が大きいと思う。今の日本の科学の原資は国費である。国の税収がこれ以上伸びない現在(異論もあるが)、科学のあり方も変わらざるを得ないではないか。もちろん、国民が何を重要と考えるかによって税金の使途が決められてもよい。宇宙や素粒子はまさに"真理の探究"を目指す分野であり、夢を感じる分野である。ここに投資してもよいと国民が認めれば、研究を推進してもよいと思うが、この場合の研究は外交としての側面が強くなる。国威に関わる研究であり、政治や行政は科学の成果を外交に使う能力を持っていなければならない。一方、地球環境に関わる分野は科学の外交としての側面が強い分野である。リオ1992で合意された気候変動、生物多様性に関わる分野はここを強く認識する必要がある。環境を理解するためには階層性を認識する必要があるからである。グローバルスケールで見えた現象も、ローカルに落とし込むと様々な関係性が見えてくる。それにより、問題の解決(現場の立場)と、問題の共有(研究者の立場)の間で乖離が生じてしまう。科学を一緒くたにせずに、様々な科学があることを国民も認識しなければならない。(2018年8月25日)

解決とは

富山県畜産試験場に招かれ、ドローン農業に関する講演と実習を行った。試験場は呉羽山丘陵の立山を望む北東側斜面にある。眼前に富山平野の農村地域が広がり、その先には剱岳や雄山をはじめ、雄大な立山の山々が鎮座している。こんなところで働くことができれば幸せだなと思いつつ、前方の平野で繰り広げられた不幸の歴史を忘れてはならないと思う。仕事終了後、近くにあるイタイイタイ病資料館まで送って頂いた。イタイイタイ病は公害病の中で唯一、全面解決に至ったということになっている事例である。実は、今月は別々の会議で2回この発言を聞いた。"全面解決"は2013年の合意書調印時の新聞のヘッドラインにもある。 本当に全面解決と喜んでよいのだろうか。それは何でも劇場型にしてしまう都会人の感覚に過ぎないのではないだろうか。ここで繰り広げられた辛苦の歴史を思うと、解決とは苦渋の諒解に過ぎないことは明白である。原因企業の補償によって天地返しが行われ、修復された水田も、時代の波の中ですぐに団地開発が行われたところも多いという。こうして歴史は忘れ去られていくのだろうか。外形的な解決の背後にある苦渋の諒解を忘れてはならない。(2018年8月24日)

インフラとは

日本水フォーラムからニュースレターが届いた。代表理事の竹村さんの巻頭言は"見えないもの"というタイトル。それはインフラのことなのだが、インフラの説明では"構造"ではなく、"機能"を説明しなければならない。しかし、インフラの機能の説明は複合的な機能、地域にあることによって発揮する機能、を理解し、その地域の地理、歴史、さらに未来の中に位置づけないとできないので、難しい。その通りだと思う。実は先日学術会議でグリーンインフラに関する勉強会があり、そこで私は、日本型のグリーンインフラについて、4つの観点の重要性を述べた。@グリーンインフラ(GI)を国土デザインの中に位置づけること⇒二つの世界(都市−農村関係)の理解、社会の組み替えも視野に。A地域ごとに考える⇒普遍性ではなく地域性が大切。B市民の主体的参加、ステークホルダー間の連携⇒超学際による実現。CGIの機能をネットワーク、システムとして活かす⇒多面的機能の発揮。共通する考え方がありそうだ。竹村さんが調べたところ、インフラとは「下部の」という意味と、「見えないもの」という意味があった。インフラ・ストラクチャーとは実は「人々には見えない構造物」ということであった。上部構造の舞台で芝居をする人には、舞台の下部を見ることはない。だから、インフラの説明には「機能の説明」、「インフラと社会活動の密接な関係が必要」と竹村さんは言う。となると、グリーンインフラとは、自然が多面的な機能を持ち、人の暮らしと関係性を持ちながら、社会の中に何事もないように存在しているもの、といえるかもしれない。機能の一部を取り出して、社会の中に配置する、ということではないのだと思う。(2018年8月22日)

犠牲のシステム

盆休みに入った。私は老犬の介護のため留守番。犬の世話をしながらテレビを見ている。先日逝去された翁長氏を巡る対談を聞いていると、言い方は少し異なるかも知れないが、日本は犠牲のシステムで運営されている、情の政治が大切だという考え方が結構共有されているなぁ、と感じる。もちろん局にも依るのだろうが。歳をとって様々な経験が蓄積されてくると、日本のあちこちにいる、図らずも犠牲者になってしまった方々の思いが見えてくる。一方で、多くの方々は、自分が犠牲を強いる側にいるという感覚はないだろう。都市的世界の便利さの中で、資本主義の中に組み込まれながらも、何とか暮らしている。そんな普通の暮らしの外側に、実は犠牲があり、それに我々は支えられている。広島、長崎、そして終戦記念日を迎えるこの時期は、日本人のあり方について深く考える時期でもある。(2018年8月12日)

研究者の矜持

先日の中間評価ヒアリングでは科研費の採択率が低いことが槍玉に挙がった。その対策に関する職場における議論の中で、ある大きな研究機関では、書類の事前チェックを受けるとインセンティブ、それは5万円程度の予算、が与えられるという話を聞いた。自分の研究課題というのは自身の誇り、プライドをかけて実施するものであるので、私としては小銭を"もらって"チェックしてもらうなんてことは考えられないことである。それはわがままかも知れないと思いつつも、昨今の研究者魂はずいぶん変わってしまったのだなと思う。こんなことだと、研究というものはまずます外形的な成果を追うものになり、外形的な評価を巡る競争が研究の質を落としていく。研究のための研究をやるようになったら研究者はおしまいだと思う(大学以外の研究者からは怒られるかもしれないが))。研究者の幸せからは遠ざかる。あるいは、地位、名誉が幸せということになり、何とも幸せが薄っぺらいものになってしまう。日本の研究力が下がっているのは研究者が科学者としての矜持を持たなくなっていることにあるのではないだろうか。(2018年8月11日)

地域の課題解決に参加できる科学者

午後は国交省で会議であったが、災害にも深く関わる内容を扱う委員会。これはやりがいのある仕事であるが、西日本の災害を経て、いよいよ科学者も態度を改めなければならない段階に入ってきたと思う。災害の可能性を指摘するだけでは科学者としての責任を果たしたことにはならない。どうすればよいか、ということを示す必要があるのではないか。従来型の科学者は、それは自分の仕事ではない、自分ではない誰かがやるべき、と考えるだろう。それではダメな時代になったのである。地域の利害に関わる防災、減災は、まさに切ったら血が出る課題でもある。それでも科学者は入っていかなければならないのではないか。その態度が超学際につながるのだと思う。問題の当事者を含む様々なステークホルダーの中に科学者も入り、機能することが求められているのだ。そこでは科学者はエリートになってはいけない。問題の解決は諒解でもあるので、超学際の枠組みの中で科学者の役割は相対化していくだろう。地位、名誉を目指す科学者にはできない仕事である。そう思うのであるが、午前中の仕事は、エリートを目指すための仕事であったように思われる。自分はその方向には行きたくないものだ。地域の課題解決に参加できる科学者でありたい。(2018年8月6日)

評価、批判、信頼の喪失

今日は職場の中間評価のヒアリングで文科省に行ってきた。センター長によるプレゼンは上出来であったが、質問の初っ端で、科研費の採択率が低い件についてコメントが出た。ちょっと不機嫌な態度と口調で、うちの職場の弱点をまず突いてくるとは、背景を勘ぐってしまう。科研費の採択率はコミュニティーの指示を表すというが、分析やエビデンスはあるのだろうか。それは無いだろう。事情は分野によって異なるから。環境RSは複合領域であるので、シャープな支持は無いのである。可能性、関係性を見つけてマンパワーの範囲で一つ一つ解いていく、地道な仕事をこなすのが仕事。質問者はシャープなエリート科学者で、環境に関わる仕事を理解されていないのだなと感じる。本来は評価であるはずだが、それが弱点を突く批判になり、その結果、文部科学行政の信頼が失われていく。それは最悪のシナリオであるが、こんなことが昨今の日本の研究力の低下につながっているのではないだろうか。ただし、うちの職場としても問題はある。今後も拠点制度を維持していくためには、組織にならなければならない。明確な目的と戦略を持たなければならない。(2018年8月6日)

大学で伝えるべきこと

朝日朝刊、大学のあり方に関する解説欄から。中教審でも「教員の研究テーマに過度に限定された授業科目や教育課程」が残る現状と改革の必要性を認めているという。このことは現場でも感じることである。講義や演習の内容が教員の専門分野に偏りすぎると学生の講義に対するモチベーションも高まらないのではないか。そもそも分野ごとに教授すべき内容の体系がなければならない。まじめな学生は先端的なことはよく知っているが、具体的な問題認識能力が身に付いていないために、社会の要求にうまく応えられない。こんな状況を打破しなければならない。大学の生き残りというより、大学が誇りを持って、学生に伝えることができるものは何なのか、ということをはっきりさせなければならない。私の場合は環境を理解し、問題を発見し、問題に対応し、諒解を醸成することができる総合力、精神的態度を学生に伝えたい。(2018年8月6日)

エリートであることより大切なこと

あまりエリートを批判していると、ひねくれているとかコンプレックスと思われてしまうかも。現場に関わってきて何よりも大切だと思うことは"信頼"である。これが問題を理解し、解決に導く最も強い力である。科学技術だけでは問題は解けない。どんなに精緻に予測しても、人は災害を避けることはできなかった。西日本豪雨はそのことを露わにした。現場から災害の教訓を引き出すためには、信頼に基づく対話が必要である。信頼があると、それは生きる力にもなる。地位、名誉、金が人に生きる力を与えるのではない。エリートは、その人をエリートたらしめる集団が必要だが、その集団がこけてしまえばただの人。エリートの地位に安住してしまうから、各所で起きているような変なことが起きるのだろう。限られた人生を充実して生きるには、信頼を得ることが重要だ。ただし、昨今は雑用が増えすぎた。雑用とは自分や社会を幸福にするのではなく、階層の上位を幸せにする仕事。雑用のために時間が消費され、自分の生き様に関わる、やるべき仕事において信頼が損なわれつつある。これが昨今の社会の風潮であり、閉塞感を生み出しているのではないだろうか。信頼が創り出す幸せ、これを実現する社会を創らなければならない。(2018年8月3日)

エリートにはならない

職場の中間評価のプレゼン資料ができあがりました。大学幹部のお力添えでよいものができあがりました。さすがだと思います。ただ、少しかっこよすぎると思うのです。エリートのプレゼンなのです。我々は環境を対象とする科学者です。人と自然と社会の関係性の問題に、現場で対峙する科学者は、エリートであってはならないと思うのです。上から目線で、いいことは言うのだが、現場と交わらない科学者であってはなりません。プレゼン資料には、RS基礎技術から応用までの一貫性という文言が入りました。人材の連携、知の連携、多様な環境問題の発見と解決、という文言もあります。これらの意味するところは重大です。衛星を打ち上げ、画像が取得されたら、その意味を見つけ、現場と共有しなければならない。画像処理によって環境変動のシグナルが見えたら、その意味するところを解釈しなければならない。災害も見えただけではダメ。緊急時に役に立たなくても、後世に残す教訓を読みとり、残さなければならない。我々は環境という複雑、多様な対象と対峙しているのだという意識が必要である。現場に入り込んで、地面からの目線で、真実をみなければならない。だから、エリートにはならない。(2018年8月2日)

人生より大切なもの

そんなものあるだろうか。もちろん、愛に関わる事柄であればあり得るが、組織の中では、愛と同等な、人生よりも大切にしなければならないこともあるのだろうか。所属する組織の中間評価で右往左往しているところであるが、今日も学長はじめ執行部の方々の意見を伺い、プレゼン資料を改善しているところ(ほとんどの作業はセンター長がやっているのであるが)。私は永らく環境、すなわち人と自然の関係、に関わってきたので、理工系の方々とはだいぶ考え方が異なってきたなと感じている。定年まで5年を切ったところで、私の考え方を若い純粋な科学者たちに押しつけることもなかろうと思う。私は組織の外と連携することを旨としてやってきたし、それが少人数で運営する共同利用・共同研究拠点のあり方だと考えてやってきた。文科省の評価を受け、場合によってはおとりつぶしになる可能性もあるというこの作業では自分の考え方、すなわち人生、を殺さなければならないようである。私にはもっと意見を言えと、執行部には言われるが、自由に発言したら御上に寄り添うことにはならない。組織にとってはマイナスであろう。組織の評価であるので、組織の目的を明確にして、その目的に向かって戦略的に配置された人材、その共同作業としての研究の成果をプレゼンしなければならない。ところが、環境を重要と考える私からすると、そうはなっていないのだ。それは研究者のわがままでもあるのだが、環境という巨大な漠とした対象を扱っている研究組織の宿命でもある。大学人の評価が外形的な基準でなされる限り、真に環境を対象とした研究組織はできないのである。組織と人生、病みそうである。(2018年7月31日)

はじめに異端ありき

朝日朝刊、文化・文芸欄から。政治学者の故丸山眞男の言。「正統に対して異端が出てくるのではなく、まず異端が現れ、これではいけない、と正統がはっきりする」。なるほど、「非国民」や「国体」が何だったのか、その結果、はっきりした「正統」とは何だったのか、考えなければならないということ。異端が正統に置き換わることもあるだろうが、困難なことと思われる。それは、正統が権力を持った場合。政治の世界では革命ということになる場合も多いだろう。科学の世界ではどうか。異端が正統に取って代わるのは正常な研究のあり方だと思うが、それを難しくしているのがやはり権力だろうか。地位と名誉と金のための研究を押し進めると、最後には権力に到達する。最近、研究の世界でも階層が強化され、権力の陰を感じることも多いが、それでもまだ世の中と比べたら健全な方かも知れない。(2018年7月30日)

地域主義の復活

私はこれまで、グローバリズムは欧米、ローカリズムは日本あるいはアジア、といったステレオタイプ的な見方をしてきたが、欧米でもローカリズムの潮流は強くなっているようだ。朝日朝刊、デイビッド・ブルックスのコラムでは、次の時代を方向付けるのは、ローカリズム(地域主義)の復活だという。このコラムには共感できる記述がたくさん書かれているので、メモしておく。「成功は、どれだけ大きなスケールでできるかではなく、どれだけ深く関われるかによって決まるのだ」。(理工系の)研究の世界でも、どれだけ大きなプロジェクトを獲得したかではなく、目の前にある問題にどれだけ深く関われるのか、こちらを重視したい。「連邦レベルの政治家が見ているのは、データに還元できる事象だ。だが、地域レベルの政治家は、データ化できるものも、そうではないものも見ているのだ」。評価のための数字か、地域の問題解決か、環境に関わる研究者の態度とも通じる。ただし、研究者だったらローカルな成果をちゃんと大きなフレームの中に位置づける作業はやっているのだ。「連邦の権力は人間味がなく、画一的、抽象的で規則を重視する。一方、ローカルな権力には個性があり、相関的で愛情があり、不規則で、助け合いと信頼という共通の経験に基づく」。関係性を大切にして、信頼に基づき、包括的な視点から問題に取り組むのがローカルな視点であり、これこそが問題に直接接近し、解決できる立場である。「変化を起こすうえで様々な分業がある」。グローバリズムは普遍的な手法の考案を目指す(それが社会に実装され、成功するとは限らない)。ローカリズムは協働を旨とする。この人間味のある緩やかな革命を達成したいものだ。(2018年7月28日)

IFがうばったもの

IFとはインパクトファクターのこと。朝日朝刊beに「研究者の評価に使うのは異論も」という記事。IFは、各学術誌が2年間に掲載された論文数を分母とし、その次の年にこれらの論文が引用された回数を分子にして計算するという。初めて知りました。あまり気にしてこなかったもので。というのも、この定義からも明らかなように、IFでは"より優れたもの"に向かう一本道の科学を重視しているようだ。それは、一般的なもの、普遍的なことをより優れているものと考える価値観につながる。これはいわゆる唯一の超越神を拠り所とするヨーロッパ思想そのものではないか。医療技術、製薬、材料といった分野では適切かも知れないが、環境や災害、文化、社会、地域といったものに関わる分野では適切といえない。後者の分野は、小さな成果を"知識、経験の入れ物"の中に蓄積し、共有することから価値を生み出す科学である。それでも研究者の評価にはIFが無配慮に適用される。それは評価する者にとって楽だからであり、その結果、研究者は哲学を失う。何のために自分は研究するのか、を真摯に考えることがなくなり、地位、名誉のための研究になってしまう。自分の興味を満たす研究は楽しい。道楽といってもよい。しかし、自分が道楽すれば、成果は自分でない誰かが社会のために役立てるのだ、なんて主張はもうやめにしないか。私は環境の研究者。だから、目の前にある問題を解くことが最も重要な仕事である。ただし、研究者であるので、個々の成果を、より大きな"入れ物"、グローバルといってもよいかもしれない、の中に位置づける努力は怠らない。これが私の哲学であるが、IFで哲学は計れない。計る必要もない。(2018年7月28日)

社会のカナリア

科学者は、科学技術の社会への危険を察知したら、すぐに市民に伝える義務がある、という池内了の言(朝日、「折々のことば」より)。その通りだと思うが、結構難しいことでもある。科学技術がもたらす"楽"は我々の暮らしを便利にするだろうが、心のあり方をどう変えるのか。ここを考えないと、危険が迫っているのかどうか、わからない。科学技術が必要を越えた需要を生み出し、貨幣を獲得することを目的とする生き方が、人の価値観を変えていないだろうか。科学技術と幸せの関係について議論を深めなければならない。おそらく両者の相関は低いのではないか。我々はどんな社会を欲しているのか。もちろん、科学者の世界でも議論されていることであるが、その内容が社会に向けて発信され、社会で共有されなければならない。そんな時代が来ている。(2018年7月26日)

「18歳無理ゲー説」から

朝日朝刊、記者の原田さんによる「ネット点描」から。「無理ゲー」とは「クリアが無理なゲーム」で、18歳前後で世界のルールが大きく変わるのは、若者にとって「無理ゲー」ではないか、という意味とのこと。高校までは「受動」、大学や社会では180度転換して「能動」が求められる。無理ゲーをクリアできないのは自分がバカだからだと思っている若者が少なくないそうだ。これは社会の側に責任はないか、という問いかけだが、わかりやすいので受け入れやすいのだろう。ただし、現実は多様である。生徒の主体的な行動を促す教育を行っている高校もたくさんある。大学でも受動的な学生が目立つようになっているが、能動的に動いて人生を切り開くことができる学生もいる。問題は二つの態度を持つ学生の間で格差が広がっていることである。格差といっても倫理的でない格差ではなく、個人の精神的態度がもたらす必然的な格差である。受動的な学生によって大学および社会の負担が大きくなっていることが問題である。こんな格差が生じるのは評価基準が一つだからである。多様な評価基準と、多様な人生の選択を可能にする社会が実現すれば、みんな幸せになれるのではないか。とはいえ、"受動で生きる"という思想が確立していること、様々な生き方の間で尊重があることが前提であるが、それも難しいことである。(2018年7月24日)

BEYOND2030

水文・水資源学会の創立30周年記念シンポジウムがありました。タイトルの2030からすると、SDGsを意識したのかと思いましたが、そうでもないみたい。とはいえ、SDGsを意識した発言はたくさんありました。パネルはどうなるか、ちょっと心配でしたが、若手の考え方も伝わってきて、有益だったと思います。SDGsは世界が切羽詰まって始めた事業であり、Future Earthにも大きなモチベーションを与えているものです。絶対、成果を出さなければならないので、個人的には2030年が楽しみでもあります(それまで生きていられるか)。SDGsの17のゴールは実は入り口であり、すべてがリンクされている。重要なリンクが水であることは論を待たないのですが、さて、何を解くか、若者には問題が見えていないのではないかと感じた。目の前にある問題の解決をステークホルダーと共有することが難しいのかも知れない。連携というのは問題の解決の共有から生まれてくるものである。それが難しくしているのは研究者の評価システムにある。論文、予算至上主義の中で、研究者は論文を書けば自分ではない誰かが成果を社会のために役立ててくれる、と思いこんでいるのではないか。ここを乗り越えることが連携、別の言い方では超学際なのだよ。今は、変革の時。研究者も社会の一員として機能しなければならない。水文・水資源学会も変革の時を迎えている、なんてことを懇親会の冒頭の挨拶で発言してしまったが、さて、責任をとらねば。(2018年7月23日)

二つの世界

初めて成田空港の滑走路側に入った。ひっきりなしに発着する飛行機を近くで見ると、何となくわくわくしてしまう。特別な世界の中にいるような気がする。ところが、全く別の世界がすぐ近くにある。美しい谷津と田園、湧水の里で水を汲む人、濃密な緑の斜面林、庭の広い農家、あちこちに小さな神社とお寺、...この景観はなくなってしまうのだ。台地は削られ、谷は埋められ、新しい滑走路ができ、特別な世界に呑み込まれてしまう。成田空港の機能強化の陰で、失われる暮らし、歴史、自然。受益者と受苦者の乖離がそこにある。解決、諒解の困難な問題であるが、受苦者を知らない受益者にはなりたくないものだ。(2018年7月20日)

防災の考え方の回帰

鬼怒川水害被災者が国に賠償請求するという記事のコピーがMLで流れてきました。被災者の気持ちは察するに余りありますが、自分の安全を他者に依存する段階から我々は脱却しなければならないのではないか。治水の近代化の中で人と川の分断が起こった。災害は人と自然の関係性が弱くなったところで起きる。日本は定常社会に入り、予算で安全・安心が保証される時代ではなくなっています。だから自分たちの地域の安全はまず自分たちで考えなければならない段階に入った。というか、回帰したのではないか。もちろん、行政は災害の補償については十分配慮をするのであるが、その上で人は川とともに暮らすことの意味を考えなければならない。我々は王様に支配される民ではなく、自分で進むべき道を決めることができる近代文明人なのである。災害に備えるということは、今の社会のあり方を組み替えるということでもある。災害に関わる土地条件についてはもう十分すぎるほど、主張されている。より包括的な視点から防災を議論すべき段階に入った。(2018年7月19日)

事業継続計画の先

西日本豪雨で被災した企業の再建は大変なことだと思っていたら、仕組みがありました。BCP(Business Continuity Plan)といって、企業が災害時に損害を最小限にし、復旧、事業の継続、を可能とするため平時から決めておく計画。朝日の記事で見つけたが、「大企業ならばたいてい」との枕詞がついている。しかし、中小企業にこそ必要な計画であるので、検索したら中小企業庁のHPに詳細な説明を見つけた。ただし、BCPの目的は事業の継続であり、被災した従業員の様々な事情に対応できる仕組みになっているかどうかはわからない。それとこれとは別の話、というご意見はもっともであるが、両方を同時に進めることができる寛容な社会創りがその先の課題としてあると思う。(2018年7月17日)

科学マイスターの資格

三連休が終わるが、初日はNPOの方々と谷津で作業。酷暑の中、学生の一人はバテてしまったが、これは楽しい作業でもある。二日目は学術会議の地理教育分科会の会合。平日では欠席が多く、会が成立しないためであるが、これは重要な仕事。三日目は明日提出しなければならない職場の中間評価のヒアリング資料の作成であるが、彼岸の行事の予定が狂ってしまった。これは生産的な仕事だろうか。上位の者が仕事を作り、下位の者がそれを担うが、それで何が生産されるのだろうか。この仕事を生産した方々のための仕事であり、大学の機能を発揮する仕事でないことは確かである。そこで提案であるが、文科省の役人にも学位に代わる資格をつくれないだろうか。学位ではダメなのは、授与大学との結びつきが強くなり、序列化も生じてしまうからである。第三者機関で科学マイスターという資格を付与することはできないだろうか。それは誰でも受けることができるものであり、新しい知識生産のマネジメントを行う文科省の役人の質保証と、文部科学行政を司る誇りの醸成にもつながる。そんなことを妄想しながら書類作成を何とか進めている。(2018年7月16日)

防災、減災へつながる道

西日本豪雨から何を学び、そして実行したらよいのか。長期的には人と自然の分断の修復ということに尽きると思う。ただし、それは日本の社会の組み直しにつながる道でもある。災害が予測されるときに、躊躇なく避難できる社会とはどういうものか。これを考えるには、避難できない事情を考えたらよい。人が自然と分断されていること以外に、貨幣経済、資本主義社会の中で、財産を失うということが、この上なく大きな痛手となってしまったことがあろう。だから、避難指示が出ている最中でも、家の修復を急ぐということが起きる。企業に勤めている人は避難行動が雇用に対するリスクを伴う行為になってしまってはいないか。今の社会システムの中で、命よりも大事なものができてしまったのではないか。この状況から脱却するにはどうすればよいか。幅広い視野、包括的な観点からこの社会の構造を見極め、改善していくことが、結局は防災、減災へつながる道なのだと思う。行き過ぎた貨幣経済、資本主義の是正が長期的な防災、減災への道、そして幸せへ続く道なのではないかな。命より大切なものはないということが、当たり前に共有されている社会。なんてことを、つい主張してしまうのだが、おかしな奴だと思われているだろうか。(2018年7月15日)

災害と目指す社会のあり方

帰宅したらBSフジの西日本豪雨の検証と題する番組をかみさんが見ていた。私も晩酌をしながら見ていたが、これは自民党と土木系のしくんだ番組ではないか、と感じてしまった。地理学分野でも今回の災害の理解は進んでおり、歴史がもたらした人間的側面が大きく作用した災害であったということが明らかになりつつある。土木系とは解は異なるだろう。とはいえ、どちらの主張が正しいか、ということではない。土木系と地理系の目指す社会のあり方が異なっているということである。緊張のシステムと共貧のシステムのどちらに立つかということなのであるが、私は二つのシステムを行き来できる精神的態度を日本人が持つことが大切だと思っている。311以降、主張し続けていることであるが、また強く主張しなければならない場面がやってきた。(2018年7月13日)

世界と日本

今日は大学から出す概算要求の説明に文科省に行った。1時間ほどの説明と対話を行ったが、文科省側は課長補佐と若者3名の対応であった。話の中でどうしても伝わってきてしまうのが、世界の中の日本ではなく、日本の中の文科省という立場である。説明の場で議論をふっかけるのは野暮なので黙っていたが(野暮と感じる精神的態度も問題であるが)、少し寂しい。日本が世界の中で優位性を保っていくにはどうしたらよいのか。官僚だったらここを考えてほしいなぁと思う。私は文科省より、国交省の方がなじみがあるのだが、国交省(の一組織であるが)の方が"日本"という立場で政策を考えているような気がする。私のつきあい範囲がたまたまそうであったのかも知れないが、ひょっとしたら文科省は自らのアイデンティティーに対する迷いがあるのではないか。実用よりも、科学的ということにこだわっていた。それは文科省の"科"の部分に関わることであり、科学と社会の関係に対する迷いがあるように感じた。それは、科学技術主義の限界でもあるのではないか。科学の意味を理解してほしい。今月は、ICSU(International Council of Scientific Unions)とISSC(International Social Science Council)が合併し、ISC(International Science Council)になった記念すべき時である。文科省も科学と社会の関係に関する考察を深めてほしい。(2018年7月13日)

社会は「箱」

これは朝日朝刊「折々のことば」の解説にあったフレーズ。"社会が「箱」である以上は誰もが暮らしやすいものにしなければ"と。社会の中にはたくさんの人、コミュニティー、組織、地域、...がごっちゃに入っていて、関係性を持ちながら総体を作っている。ただし、その総体の範囲は人の意識世界の広さによって様々に意識される。グローバルも同じく「箱」である。だから、"誰もが暮らしやすいものにしなければと"思うわけである。箱全体を見なければならない。人の意識世界を広げなければならない。 (2018年7月12日)

自分の幸福と自分たちの幸福

朝日夕刊「思考のプリズム」(國分巧一郎)より。私たちはいま、自分たちの幸福に対する関心を持てなくなっているのではなかろうか、と。いや、「自分さえよければよい」と思っているのではないか、という反論もあるが、それこそ現代における幸福への無関心を如実に示す証拠であるという。幸福には未来への見通しや理想が欠かせない。だから、「自分さえ」というのは「自分だけは災難を避けたい」という焦りの表現にすぎない。自分の幸福への関心は、"自分たち"の幸福への関心と切り離せない。だから、自分の幸福に関心がないということは、自分たちのそれについても関心がないということ。最近の学生の中にこういった考え方を持つ者が現れてきたなと常々感じている。協働の場においても、与えられることは躊躇なく受け入れるが、何も返ってこない、責任を果たすことがない。"自分たち"の幸せが共有できない。これはこの種の若者の焦りなのだろうか。それは若者が信じる価値を持てずにいることに由来しているという国分さんの考えに賛同する。だが、若者に自身の価値観を醸成してもらうにはどうしたらよいのだろうか。被災の場に連れて行っても、環境や地域をよくしようという協働の場に連れて行っても、それを共有できないという状況を前にして、教員としてどうすればよいのか。それとも、若者の心の中には確実に描写されており、いつか顕れてくるのだろうか。教員はただひたすら価値に対する考え方を主張していればよいのかなぁ。(2018年7月11日)

科学者と現場の分断

西日本の災害はまだ進行中であるが、被災地の衛星画像を職場のホームページに掲載しようという話が出てきた。私は災害の後になって、見えました、という画像を公開して、何か貢献した気になっていることほど格好悪いことはないと思っている。特に今回の災害は、人間側の要因が大きかったことが徐々に明らかになってきており、より精度の高いモニタリングと予測を行えば、防災、減災につながるという考え方の限界がはっきり顕れた事例であると考えている。リモートセンシングを災害の緊急時に役に立たせるためには、現場との連携システムを構築しなければならないが、これはデスクトップサイエンティストにとっては非常に困難な仕事であろう。しかし、画像さえ出せば、自分ではない誰かが、災害の現場で役に立ててくれる、という考え方は修正が迫られているのである。それが、Future EarthのTransdisciplinarityなのだと思う。見えた、ではなく、画像に価値を与える努力をして、それを継承、発信していくのが研究者の仕事である。(2018年7月11日)

理系と文系の溝

朝日朝刊「折々のことば」(鷲田清一)から。これもメモしておきたい。

アジアの多様性を識別するためには周縁からの視点とともに、地表に顔をすりつけるようにして見とおす眼差しも必要です(山室信一)

もちろん、アジアだけでなく世界は多様だ。地域ごとの個性と、外の世界との関係性が、多様な問題を生み出す。これを理解するためには、「地表に顔をすりつけるような眼差しが」必要なのである。それがこの法曹思想家の言う「共感力」を生み出し、問題の理解と解決の糸口になるのである。一方、周縁にいる科学者が地域と接触せず、その結果、上から目線で普遍的だとする解決方法を提案しても、それは真の問題解決とはほど遠いことも多いのだろう。これが理系と文系の間の溝を深くする一因でもある。(2018年7月11日)

早すぎる検証

菅官房長官は、「気象庁が大雨特別警報を適切に発表したかや、同警報を踏まえて自治体が住民に迅速に避難を呼び掛けたかを検証する考えを示した」という(JIJI.COMより)。"72時間の壁"も乗り越えていない段階で、これは早すぎやしないか。日本人の最近の精神的態度からすると、防災業務が割の合わない仕事になってしまう可能性も懸念される。まずは、担当部局や住民は一丸となって進行中の災害に対応してほしい。検証が重要なのは当然であるが、防災、減災は地域の課題であり、住民にとっても行政に丸投げする仕事ではない。自分に関わることは自分で考える習慣を取り戻さないと、日本はますます暮らしにくい社会になってしまうと思うよ。人はスーパーマンではないのだから。誰が幸せになる検証か、ということを考えよう。(2018年7月9日)

世界を組み直すという視点

Wedge誌7月号に再エネに関する記事がある。「再エネ導入に伴う"弊害"を直視せよ」という常葉大学の山本氏の論考では、最終的には「持続可能な発展のために原子力が必要」という結論に達している。確かに再エネには問題もある。しかし、原子力を評価するためには現状を理解した上で、包括的な視点から論じる必要がある。まず経済的合理性であるが、安全対策に要する追加投資、資材の高騰などが考慮されていない。電気の使い方の変化に関する検討もない。発送電分離、電気の地産地消、直流電源の活用、等々。山本氏の主張は現状の繁栄を維持することのみが前提となっているように見える。何より、経済以外の、倫理的側面、文明論的側面に対する視点が欠けている。そもそも"持続的発展"とは"都市的世界"の繁栄という意味に読みとれる。エネルギーに関する議論は、この世界のあり方の組み直し、という視点が必要だと思う。SDGsが出てきた背景には、世界の切羽詰まった状況があるのではないか。2030年に変化の兆しが見えていなければ、世界は暗黒面に取り込まれてしまう。再び、戦いが必要になるだろう。(2018年7月8日)

試せ、自分の物差しで

太田光はおもしろいやつだなと常々思っているが、朝日の「仕事力」のコーナーでおもろい発言を見つけたので、メモしておきます。爆笑問題が若手の頃、ネタを審査しながらダメだしするプロデューサー、ディレクターがいたが、その通りにやってウケたことはなかったという。そのネタをわかっているのは自分たちであり、お笑いの舞台の経験がない人間がネタにアドバイスするなんて、どう考えても違うという。なんでこのことが気になったかというと、職場で提案している概算要求事項に対してご意見してくれる事務方がいる。彼は文科省から異動してきた方で、文科省の意向に添うためにはこうしたらよいというアドバイスをくれるわけです。そのこと自体はありがたいことなのですが、概算要求事項の"こころ"からは相当離れているのではないかと思うわけです。研究、開発の現場にいない方から頂くアドバイスは文科省−大学関係の中での処世術であり、研究者としての"物差し"とはちと違うのではないか。私は副センター長なので、近日中に文科省に説明にいかなければならないのですが、申請当事者が研究者としての矜持を主張することができるかどうか。私は黙っていようと思うのですが、思わずよけいなことを言ってしまわないか心配です。(2018年7月8日)

災害とふるさと

西日本の大雨の被害が拡大を続けている。大変な事態になっているが、失わなくても良かった命、守ることができた財産はあったのではないか。災害時にはいつも思うことである。人と自然の分断と、コミュニティーの崩壊が奪った命、財産はなかったといえるだろうか。もしあったとしたら背景には都市的世界の精神的習慣、資本主義の思想があるのではないだろうか。じゃあ、どうすればいいのか。適切な土地利用計画なんてことを口に出すことはできるが、人の暮らす土地は様々、不平等が存在する。不平等を諒解して可能な限り安全に、また安心して暮らしていくためには、その土地がふるさとでなければならないと思う。多くの人々のふるさとであれば、土地のことを良く知ってハザードに対処し、ふるさとを共有する人々で被害を最小限にとどめる協働ができるのではないか。(2018年7月7日)

人は人を殺してはいけない

原則はこれ。だから私は死刑制度には反対だ。オーム真理教の7人の刑が執行された。それで問題は解決されたのか。諒解が得られたのか。そんなことはない。背後にある事情を知り、よりよい社会づくりに反映させなければ、犠牲者も納得できないのではないか。人が人を殺すことを容認する社会では、安心は得られない。(2018年7月7日)

日本社会の行く末

日本はいったいどうなってしまったのだろう。文科省の役人が汚職事件とは。とはいえ、これは文科省だけの話ではない。昨今頻発する様々な事件を見ていると、日本人の心の中には闇が広がりつつあるようだ。問題を矮小化せず、共通の背景をしっかり理解し、社会の変革に繋げなければならない。問題の一つは、権力のあり方。どうも現行のシステムでは偉い人が権力を持つわけではなく、予算に対する権限が権力を作り出してしまうようだ。もう一つは金と名誉が、競争社会の中で安心を担保する手段になっていること。それは資本主義の特性でもあり、都市的社会の中に閉じこもっていることが症状を悪化させている。人はもっとその意識世界を広げ、様々な多様な世界に触れる必要がある。その過程で葛藤が生まれるかもしれない。しかし、それを乗り越えた先に新しい社会があるのではないかな。(2018年7月4日)

目標の階層性

スーパー・プロフェッショナル・ハイスクール(SPH)制度で関わらせていただいている愛知県立三谷水産高校を訪問した。今年は3年目であるが、私の担当するドローンによる沿岸水域モニタリングでは、高校生が自分たちでドローンを制作し、撮影した画像を解析することができるようになった。もちろん、私は偉そうに勝手なご意見を宣うだけで、何もやってはいないのであるが、高校生は着実に進歩している。三谷水産高校のSPHでは6つの課題に対して各グループがそれぞれ取り組み、高校生とは思えない素晴らし成果をあげているのであるが、文科省からは課題が多すぎるとの意見がついているという。目標が多すぎる、絞れというのはヒエラルキーの上位にいるものが、何か言わなければならない時に、自分の立場を取り繕うための常套句である。複数の小目標に取り組み、その中から関係性を見いだし、大目標を見いだしていくやり方が、新しいものを生み出す。成果が予想される一つの目標を立てて、組織的に取り組むというやり方にとらわれているところに日本の問題があるのではないか。そういうやり方がうまくいったのは自動車、飛行機、コンピューターの開発といった20世紀型の技術であり、その考え方はヨーロッパ思想といってもよく、20世紀まで機能した考え方である。日本の官僚は明治の思想から抜け出せていないのではないか。ここに日本の停滞の要因があるように思う。目標の階層性を意識して、小目標を関係性でつなぐというやり方を浸透させたいものだ。これこそ、Future EarthやSDGs達成の要だと思う。(2018年7月3日)

Future Earth実行の避けられない課題

今日の概算要求に関する会議でFuture Earth(FE)の話題が出たが、千葉大学の事務方のFEに対する評価は極めて低いということがわかった。それは、文科省の大型研究ロードマップに載らなかった、そもそも学術会議から出ていかなかったという点に尽きる。そのことによって、FEはお財布にならないな、という認識が事務方に広まってしまったということなのだろうが、ここに深刻な憂うべき科学と社会の関係に関する問題がある。FEが出てきた背景には、地球環境問題をもう解決できるでしょ、どうにかしようや、という国際社会の切実な思いがある。従来型の論文志向、予算志向の研究では問題は解決できないということが明らかとなり、新しい枠組みが提唱されているのである。それがTransdisciplinarity(超学際、TD)であるのだが、その実現には研究者の在り方自体を変革しなければならない。FE研究計画が学術会議から出なかったのは、物理帝国主義の亡霊がまだ残っているからではないだろうか。これこそ研究と社会の関係を修復するための乗り越えなければならない壁であるのだが。FEには@国際研究プログラムとしてのFEと、ATDの理念に駆動される問題解決を目指す実践を主体とするFE研究の二つがある。@とAのFEが同床異夢にあるのが現在。@を志向する研究者はFEを"お財布"ととらえるが、Aを志向する研究者にとっては問題の解決こそが成果である。双方がなかなか交わらない。この分断を修復することがFE実現の最初の課題である。それが難しいのは根本に研究者の評価の在り方に対する問題がある。どんなに予算をとって外形を飾ったとしても、社会のため、人の幸せのため、ここをとらなければ大学は社会からそっぽを向かれることになるよ。(2018年7月2日)

ストレスの対処法

出勤してメールを確認すると、健診の結果が届いている。確認すると、まあ悪くはないのだが、いくつか要注意項目がある。用語がよくわからないのでWEBで調べると、すべてストレスが関わっている。自分は人一倍ストレスに弱い人間だとの認識はあるので、さもありなんとは思うが、このストレスはいつまで続くのだろう。今日は二つの会議がある。最初は大学の概算要求に関わる会議だが、縦のヒエラルキーの上位を忖度しながら、ああすべ、こうすべ、と議論。研究者だったら信念を貫けばよいのに、と思うが、背後にある人の意識世界の狭さが私には見える。次の会議は我々が評価を受ける会議、というよりはご意見を伺うための委員を我々が決め、委員の先生方に説明して了解を頂くための会議。委員の先生方には本当に感謝です。しかし、実質的な議論ができただろうか、委員の先生方は納得して帰られただろうか。彼らの時間を奪っただけではないのか。いろいろ言いたいことはあったのだが、私も残された時間は長くない。あまり主張はしたくない。もっと主張を強くしてやって来ればよかったのかもしれないが、研究者の精神世界の中では対立を深めるだけかもしれない。まあ、こんな人生でよかったのかも知れないな、と思いながら一杯やっている。ここは豊橋に向かう新幹線の車中。駅弁を食べながら一杯やる、この時間が好き。ストレスから解放されるひと時だ。今日の駅弁は東京駅、利休の牛たん弁当。東京駅の牛たんはもう一軒あるが、どちらもおいしい。明日はまた豊橋から新幹線に乗る予定であるが、地方で駅弁が減少しているのがさみしい。(2018年7月2日)

身の丈にあったインフラ

簡易水道の維持が困難になっているという朝日朝刊の記事。インフラストラクチャーというのは作ったら維持、更新しなければならないが、当然予算がかかる。自治体の資金力が落ちており、これからいろいろなインフラの更新が困難になってくるだろう。学術会議では「グリーンインフラ」について議論する分科会に参加しており、メンバーで勉強会をやった後、提言の執筆に入る予定。私はグリーンインフラは成熟社会に入った日本をどのような社会にするか、という国土形成の考え方の中に位置づけて考えなければならないと考えている。日本の限界はよい社会になりすぎたところにある。日本人は安全、安心に関わることをほとんど外部委託している。警察、消防、自衛隊、教育、医療、福祉、...。そのため日本人はクレームをいうことしかできなくなっているという(アイデアは鷲田清一著「しんがりの思想」より)。自分や自分たちのことは自ら行う、自助・共助をうまく機能させ、その中で、自然の機能、生態系サービスを活かす仕組みを取り入れることができる社会、百姓(百の技能を持つ人)の社会もあり得るのではないだろうか。その社会では「身の丈にあったインフラ」を活用しており、暮らしはつつましくなるのかもしれない。そんな考え方に抵抗するのが資本主義、すなわち、果てなき拡大、成長を前提とする市場主義の一形態、なのではないだろうか。資本主義に変わる新しい社会を創るためには、哲学が必要になる。その哲学が確立すれば科学技術と社会の関係も変わってくるはずだ。(2018年7月1日)


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