口は禍の門

令和2年度の後期、最近の言い方だとT-4(第4ターム)が始まりました。この半年で多くのことが変わり、いろいろな“こと”の次のステージを考えにゃあかんと感じています。役職も増えて考えることが多くなり、頭がパンクしそうですが、重要なことを確認しておきたいと思います。歴史の時間軸の中に位置づけて、“いま”何をすべきか考えること。また空間軸の中に“ここ”を位置づけて、多様な価値を包括的に捉える中で“わたし”の立場を位置づけること。それができれば個人も組織もいずれ現在になる未来における安心を構築できるだろう。とはいえ、どうも最近は残された時間が少ないことが気になっています。“わたし”の次のステージも考えなければあかんと考えています。組織に対しても自分の価値感の押し付けは良くないと思っています。世の中は無常であり、ひとつの正しい生き方などはない。失敗しても良いのだと思う。それが運命というもの。ただし、理不尽な苦しみ、悲しみは避けなければいけないと思う。 (2020年10月1日)

新型コロナウィルスが猛威を振るうなか、あっという間に一年の折り返し点を迎えてしまった。大学の学務もこの異常な事態がしばらくは続きそうです。世の中、苦しいことも多いと思うが、この災禍を変革のきっかけにしなければならないと思うこの頃です。大学人としては講義のあり方が気になります。日本では学問の体系は自分で学ぶ材料は十分あります。だから、大学では教員と学生の相互作用により、視野の拡張、新しい観点、考える力、こういったものを伝えたいと思うのだよ。課題が多すぎるという意見をあるが、返ってきたものを読むと、真面目に社会のこと、未来のことを考えている学生も多い。科学と社会の関係性について、いい相互作用を起こしたいものだ。(2020年7月1日)

2020年6月までの書き込み


理想と現実の折り合い

ここ数日は学術会議の件で心が弱っている。学術会議の関係者であるので、実態はよくわかっている。だからこそ、あまりにも多い誤解やフェイクが心に突き刺さるのだ。言いたいことは山ほどあるのだが、放っておけば嵐は過ぎ去っていくのだろうか。今回の件は歴史に記録される出来事になるだろう。しかし、新型コロナ禍と異なり、国民が“わがこと化”することが難しいのは、学術の衰退(そうはさせまじと思うが)の影響は時間遅れを持ってじわじわとやってくるからである。その経緯を原稿に纏めつつあるのだが、このような状況になった根本的な理由は、学術会議が本腰を入れて“社会の中の科学、社会のための科学”(ブダペスト宣言)を目指すようになったからだろう。それが短期的な成果、それも経済面の成果を求める政治の方針と齟齬をきたしてしまった。このことを国民に理解してもらうための努力は粛々と継続しなければならない。足を引っ張り合う社会のなかで、みんなで堕ちていくのは何としても避けなければならないのだ。一方、学術会議も変わらざるを得ないだろう。学術の全体像をもう一度俯瞰し、個々の分野の振興と、分野間の協働、そしてその先にある社会との協働、共創を進めることができる体制を再構築しなければならない。理想と現実の折り合いを付けなければならないのだが、どんな場合でも日本発の概念である“社会の中の学術、社会のための学術”の達成を念頭に置いて進まなければならない。(2020年10月15日)

自助、共助、公助の意味

今日は静岡大学防災総合センターの行っている教育プログラム「防災フェロー」の担当の実施日でした。最近、首相も自助を強調していることもあり、自助が一番ですかね、というつぶやきを頂いたので、こんな風に答えました。自助というのは、自分と家族は自分で守りたい、共助は、自分たちの地域は自分たちで守りたい、ということだと思います(これは片田先生の講演から学んだこと)。自助、共助、公助は順番ではなく、異なるレベルで相互に協力して助け合うということなのではないかな、と思っています。決して、まず自助、それでだめなら共助、それでもダメなら公助、という順番ではないのだと思う。(2020年10月9日)

当事者と傍観者

これが現代の特徴なのなのかも知れない。学術会議の会員が6名承認されなかった件ではつい発言してしまい、“うるさいひと”になっているのだが、発信してくるのはシニア世代だけなのだ。ここで先日新聞で読んだことを思い出した。現代の若者は大勢につくのだという。じっと様子をうかがっていて、大勢が見えてくると、強い方につくのだそうだ。学術会議の件は市民の皆さんには“学者さんのこと”だから関係ないわ、ということなのかも知れない。しかし、研究職を志す若者にとっては“わがこと”なのではないだろうか。今回の件は研究者の幸せにも関することだと思っているので、若手も関係すると思っているのだが、そこがまだわからない。シニアとしては傍観者ではいられないことだと思うのだが、若手の意見を聞いてみたい。でも、まだ早いか。若者も考えているのだろう。(2020年10月6日)

学術会議の仕事

学術会議の6名の会員の任命が拒否されてしまった件で、報道では学術会議批判も目にするようになりました。ヤフコメを読んでいても、ここぞとばかり責め立てる輩も出てきましたが、彼らは学術会議の仕事はおそらく何も知らないだろう。私が連携会員になったのは、いろいろ主張していたら“ではお前やれ”ということで推薦頂いたからです。私は環境に関わる講義では最初に科学史、科学論を論じていますが、ブダペスト宣言の4番目「社会の中の科学、社会のための科学」は重要だと思っており、Science(日本語では学術が良いと思う)も時代とともに変わるという認識を持っています。2010年の学術会議の出した「日本の展望2010」では“学術のための学術”と“社会のための学術”は峻別されており、学術会議も重要だなという思いを持ちました。その後、“社会の中の科学”が吉川先生(元ICSU、学術会議会長)のご尽力によるもので、それが学術会議の精神となっていることを知りました。日本発なのです。さて、私は会員の推薦によって連携会員になったのですが、このコ・オプテーションというやり方は何となく気になっていました。大学は大綱化から法人化に進み、文部科学省による支配が強められており、数値指標による評価制度が課せられた中で、研究者に社会のことを考える余裕がなくなってしまったことが理由なのかも知れないと思っています。志を同じくする有志を集めようということ。今、多くの研究者は社会と分断され、社会のことがわからなくなっています。その結果、学術会議、文科行政、研究者、社会の間の分断が進み、学術の全体像が見えにくくなっているように思います。日本の研究力が低下し続ける中、学術会議は日本の学術の復活に向けての橋頭堡なのではないか。学術会議の仕事を大切にしていかなければあかんと思っています。(2020年10月5日)

細分化から統合へ

最近はネット上でワークショップやシンポジウムがオープンで開催されるようになり、楽しみながら勉強させてもらっています。今日は日本農学会が主催するシンポジウム「水と農学」に参加させて頂いた。これまで知らなかったが、日本農学会は学会の連合体でした。JpGUもそうですが、だんだん学問分野の統合は進んでいくのではないでしょうか。そうならないと、社会に対する学術の役割を果たすことができないという思いもあるのではないか。JpGUは文部科学行政におけるロービイストとして機能するためには窓口を一本化し、数の論理を活用するという説明があったが、時代は社会に眼を向けざるを得ない状況になっているように思う。シンポジウムの総合討論で司会から、科学の成果の社会実装に対する課題が提示されましたが、残念ながら活発な議論には至らなかったと思う。高校生もたくさん聴講しているとのことで、どなたかから“若者に興味を持ってもらうことも社会に対する貢献”といった発言もあったように記憶している。同感で、直ちに役に立つかどうかわからない科学の成果も、わくわく感を醸成し、若者が科学の世界を目指すような活動も立派な社会貢献といえるだろう。ただし、多くの分野でうまく説明しきれていないようにも感じる。(2020年10月3日)

学問の自由とは何か

とんでもないことが起きた。学術会議の会員の一部が菅首相が任命しなかったという。まったくおかしなことであるが、報道では“憲法で保障された学問の自由が侵された”というヘッドラインが目につく。では学問の自由とは何か。自由には①他者からの干渉が存在しないことを意味する「消極的自由」と、②理性あるいは真の自己に従って自律的に行為することを意味する「積極的自由」 があるという(8月20日の記事参照)。学問の自由の自由が①の意味で捉えられてしまうと、学者さんはのんきでいいねぇ、ということになってしまうだろう。学問の自由は②の意味であるはずだ。さらに学問の自由には科学者としての社会に対する責任が伴う。なぜなら、科学という行為にはパトロンが必要だから。最初のパトロンは貴族だった。貴族の支援のもとで科学者は知的好奇心を満たすことができた。その後、貴族の衰退と国民国家の成立、科学技術の進歩により、科学者のパトロンは国家になった。ただし、国家は税金で運営される。民主主義の成熟とともに、科学者のパトロンは国民という意識が生まれなければならない。近年は地球市民という意識も生まれている。それが“社会の中の科学、社会のための科学”であり、SDGsやFuture Earthにつながる考え方である。ところが、国家において代議制民主主義が機能しなくなると、国家は自らがパトロンとして振る舞うようになる。振り返ると国立大学も法人化以降、国の支配が強まるとともに、研究力は衰退してきた。今回の件が日本の科学の衰退にダメ押しの一発となることを危惧する。ここでさらなる心配は今回の件を日本の学術コミュニティーが危機と認識できるかどうかということである。ここで団結して健全な科学(学術)の発展に向かって進むことができれば日本の科学には希望が残されているといえる。(2020年10月2日)

何かが足りない

年度の半分が終わる今日は節目でもあるので近況について書いておこうと思う。何よりも心身の調子が悪いというのが一番。身体が疲れやすくなっているのは歳のせいではあろうが、酒もあるか。ここ数日は涼しくなったので、冷酒から燗酒に変更。紙パックのでかいやつを買ってくるので、つい飲み過ぎてしまうのだ。それはそれで楽しく、自制するしかないのだが、精神の状態もよろしくない。それがなんだかよく解らない。何かが足りない感じ。ここ1年くらいは週末は休み、家では仕事をしないことにしている。趣味に励んでいるのだが、どうも頭はオンとオフが切り替わっていないようである。遊びきっていないのだと思う。考えるべきことが多すぎて、頭の片隅で常に何かがバックグランドで動いている。何とか、切り捨ててしまいたいと思うが、そのためには昼間徹底的に仕事をする必要がある。とはいえ、人は機械ではないのでそれも難しいのである。結局、足りないものはゆとりであり、ゆるさなのだ。定年前に獲得することができるだろうか。(2020年9月30日)

未来を語るなら、現在を見つめよ

気候変動はもともと予防原則のもとで、全人類の共通の課題として取り組むことが合意されたのが1992年のリオサミットであった。10年余りを経て、どうやら人間活動の影響がありそうだという合意が得られた。今、我々は頻発する気象災害を経験しているところだ。だから、“気候危機”の現実を見つめるためには「もし温暖化がなかったら」という発想が役に立つと朝日の科学社説担当の村山さんは言う(朝日朝刊、社説余滴)。しかし、仮定の話をすると「目の前の現実を見つめた方がいい」と諭されるだろう(困ったものだ)と言う。いやいや、現実をもっと見つめた方が良いのだ。未来を語る“いい人”になる必要など無い。未来を語るなら、そこにつながる現在をしっかり見つめ、現在と未来の関係性を明らかにし、現在の問題を解決することから未来を創り上げるやり方が、最も科学的で、唯一実現可能な方法ではなかろうか。もちろん、この場合の科学とは理工系だけではなく、人文社会科学を含む広義の科学、学術である。現在と未来のリンクは極めて多様で複雑なので学際を避けることはできない。問題を解決するためにはさらに様々なステークホルダーとの協働が不可欠である。ほら、その行動はSDGsやFuture Earthそのものではないか。だから、この10年ほどは科学者を含む人類にとって重要な10年なのだと思う。(2020年9月20日)

フューチャー・アースの壁

今日は学術会議第24期最後の「フューチャー・アースの推進と連携に関する委員会」であった。この3年間、プログラムとしてのフューチャー・アース(FE)はあまり進展しなかった。その理由はかなり明白だと思う。まず理系の研究者と文系の研究者の世界観が交わらなかったこと。理系がよかれと思って推進するアイデアも、文系には押し付けと捉えられてしまった場面もあるだろう。次期が始まる前に世界観について分野を超えて対話する必要がある。その際、時代の認識を共有し、社会の変革に対する哲学、思想を確認できれば良い。次に深刻なことが研究者の評価基準である。FEは課題解決型科学であるので、数値指標の追求は意味がない。目的の達成を共有できる仕組みを評価システムに取り入れなければならないが、この点は時代が動きつつあることを期待したい(8月29日参照)。これらの状況が改善すれば、研究者が個々の問題に取り組むことができるようになるだろう。哲学が議論されていれば、個々の成果の比較研究、メタ解析を通じて、より上位の課題にアプローチできるだろう。それが社会の変革である。時代を読む必要があるのは、日本が定常社会に向かう縮退社会に突入しているからである。論文を書けば自分ではない誰かが社会に役立てるという考え方は20世紀の成長期の考え方である。これからは一番対象のことを知っている自分(研究者)が課題、問題解決に関わらなければならない。こういう意識改革を実行することができるか。それが日本が新しい世界の中で信頼されるかどうかの鍵である。(2020年9月14日)

「外」から見た毒性学ー時代の中の科学

学術会議のオンライン公開シンポジウム『毒性学研究のこれから~「外」からみた毒性学~ 』を視聴しました。私も参加している環境リスク分科会が共催だったので勉強しておこうと思ったわけですが、このタイミングでメインPCが昇天し、心が動揺している中での視聴でした。そのため集中できなかったのですが、いろいろ勉強になる点がありました。毒性学は何となく専門が異なり、異分野の中にいる雰囲気を感じていましたが、市民と対峙する毒性学という観点からは、同じ思考の中におり、自分の考え方を位置づけることができました(と勝手に思っています)。講演者の中谷内さんの“共感を共有する”(とおっしゃったと思いますが)は、科学的合理性だけでは市民の諒解を得ることは困難であり、共感基準が必要ということと同じかも知れません。話の中で“二重過程理論”という考え方を知りましたが、これは人の判断の基準には感情と合理性があるが、以外と感情が強いということかと勝手に判断しています。人が納得し、諒解して判断することの背景には何があるのか。それがわからなければ社会のための学術(科学)にはなり得ない。このことを考える学術の分野はたくさんある。こういう現場を抱える分野はあえて科学行政におけるエリートの立場はとろうとしない。分野を「外」から見て、社会の中における立ち位置を確認しようとする分野こそ、社会の変革に必要な学術であり、時代が必要としている科学なのではないか。(2020年9月11日)

新型コロナ禍におけるリモートセンシングのポテンシャル

日本沙漠学会が行った「海外調査への新型コロナの影響についてのアンケート」の結果が送られてきた。結果は予想通りで、皆さん大変苦労なさっている。この苦難を乗り越えるためには、これまで現場で培ってきた信頼関係の存在が必須であり、オンラインでゼロからのスタートは困難であるということが共通の認識であった。現地で“感じる”ことの大切さを主張する意見も複数あり、デジタル化が解決策ではないことは明らかである。これは野外科学者ならば誰でも同意できることである(これがわからないひともいることも確かであるが)。一方、対応に関する回答の中に衛星画像解析の委託を考えているというものがあった。もちろん、リモセンが現地調査を超えることはできないが、画像判読は相当なポテンシャルを持っているはずである。地理屋としては自信を持って言える。ただし、デジタル画像処理に関する知識・経験、課題に関する知識、現場の経験を融合させなければならない。衛星画像を判読する技能はどれほど日本の技術者、研究者に根付いているだろうか。少し不安である。ちょうど昨日開催された学術会議HD(地球環境変化の人間的側面)分科会でシンポジウムとジャーナル出版を行うことが決まったが、私の分担が「リモートセンシング研究におけるポストコロナ社会への取り組み(仮題)」であった。何を主張すべか、と考えあぐねていたが、内容の方向性が少し見えたようである。(2020年9月9日)

流域治水-理念から実践へ

この用語はいろいろな言い方があり、日本では1970年代くらいから提唱されているにも関わらず、異なるセクター間の協働、協創が必要であるため実現が困難な課題であった。最近の水害の頻発は流域治水も理念の段階から実践の段階に移るべきことを求めているようだ。今日のNHKスペシャル「“最強”台風接近 どう守る 命と暮らし」では流域治水の考え方にも少し触れているだが、少し物足りない感じだった。どうしても“最新の技術により、高精度で予測し、人の行動を促す”という方向に人の関心は行ってしまいがちである。かっこいいのですが、それは災害対応の最後の手段だと思う。時代の時間軸をはっきり認識し、世代単位の時間はかかるが、安全で安心な地域を創るやり方、それが流域治水だと思う。流域治水を考えるためには、治水だけではなく、地域計画、経済システムのありかた、等々、社会の変革が必要になってくる。短期と長期の課題を峻別し、人にとって最も良い治水の方法を地域ごとに考えること、それが流域治水だと思う。Nスペの後半ではそんな取り組みの必要性についても取り上げられていたことは良かったが、問題だね、難しいね、だけではなく、どうしようか、という点にもっと踏み込んでほしかった。滋賀県では取り組みが始まっている。その担い手の瀧さんも登場していたが、きっと言い足りなかったに違いないと思う。(2020年9月4日)

ESD(Education for Sustainable Development)とは

学術会議の公開ワークショップ「新型コロナウィルス禍の下での持続可能な発展のための教育の推進」に参加しました。ESD(Education for Sustainable Development)とは何なのかという点は常にモヤモヤ感があり、個別事例を聞いても何となくすっきりしないのですが、それは根本的な議論、合意が進んでいないからだろうか。理念とか哲学が必要なのだと思うが、自分なりに考えると、「関係性の認識」なのではないかと思う。生態系、地球環境、食育、等々いろいろな課題があるが、個々の課題を通じて、自分と関わりを持つ外の世界の存在に気付くための教育ではなかろうかと思う。「関係性の認識」は「分断の修復」に繋がり、SDGsの達成に結びつけることができる。こう考えると個々の課題を全体の中に位置づけ、SDを考えることができるようになる。でも、どこかでちゃんと議論されているはずだと思う。それを探して読むことが面倒なだけなのかも知れない。(2020年9月4日)

老いの気付き

テレビショッピングでよく見かけるハニカム構造のジェルクッションというやつをアマゾンで購入した。デスクワークが増えてお尻の血の巡りが悪くなっているものだから。ちょっと小さめだけど、使い心地は悪くはない。というわけで今まで使っていた座布団と交換することになるのだが、その座布団は30数年前に都立大学に着任したときに、東急都立大駅近くの店で購入したもの。表面はボロボロになっているのだが、捨てることができない性格なので使い続けてきたが、永らくお世話になりました。思えば1987年に都立大に着任してから33年経った。辺りを見渡すと千葉大着任以来、25年使っているものもたくさんある。筑波大学時代から手元に置いている研究資料の入った段ボールもあり、中身は40年以上経っている。老いたものだと改めて思う。でも、後2年と少々。新しい人生に移行できるだろうか。(2020年9月3日)

自利と利他

若者が職場の将来を考えるKJ法の集いを開催してくれた。私は頭の回転はゆっくりとしているので、後から考えるといろいろな事が関係してるなぁと思う。組織の構成員がバラバラになってしまうのも、元をたどれば評価システムのあり方にある。研究者として生き残るということは、数値指標を高める必要があり、そのためには論文を生産し続けなければならない。だから、専門性を狭めていくことが有利になる。その過程で(本来の)科学の目指すべき本質とズレが生じてしまうこともある。学部・研究科の教員だったら、まぁそれでも良い。学問の体系を教える重要な仕事があるから、個人の研究はシャープな方向に進むことができる。しかし、共同利用・共同利用を任務とする研究センターでは、専門性の狭隘化は各メンバーのベクトルが交わらなくなることを意味している。リモートセンシングは手法であり、環境を理解し、問題の解決を求める“お客様”に対応するためには多様な専門分野に対応できなければならない。ただし、それでは論文の増産ができないため、現在の評価制度では不利を生じてしまう。自利を追求するだけでなく、利他の精神が必要なのだが、評価の仕組みがそれを拒んでいるわけだ。とはいえ、社会は変わりつつある。その流れに乗ることが教員の未来に繋がるだろう。ただし、その前段階にはハードタイムが待っている。(2020年9月2日)

日本の学術の進む道

日頃から文部科学行政や大学運営の批判をしているので、自分の位置づけをしたいと思い、学術会議のフォーラム「学術振興に寄与する研究評価を目指して」にネット参加した。世の中の底流には同じ思いを共有するサイレントマジョリティーが確かに存在し、自分としては“安心”ということになった。底流はいつか湧昇流となって世の中を変えるだろうか。フォーラムの主題である“何のための評価か”という問いに対して評価する側からは、“それは単純なことで、資源配分のためだ”、という意見が表明された。それが学術の世界をゆがめているという現状の認識があまり共有されていないように感じる。そのことは、“大学評価は組織評価であって個人評価ではない。個人評価は大学が責任を持つべき”、という発言で背景がわかるのであるが、財務-文科-大学-個人のヒエラルキーの中で大学がすくんでしまっているという状況がある。これは社会心理学の課題だとも思うが、大学はもっと個性を発揮して良いということだ。評価なぞやめてしまえ(ボイコットしたら)という発言も飛び出したが、それも一案である。“国に逆らうと損をする”という考え方を行政の現場で聞いたことを思い出す。大学が評価をボイコットしたら文科省はどう対応するだろうか。確固たる哲学を持って反駁できるだろうか。もちろん、大学が確固たる哲学を持っていることが前提であるが。一番重要なことは学術が持つ本質的な意義を我々が主張できることである。そのためには時代の時間軸の中で日本の状況を諒解し、世界の中における日本の“個性的な”役割を創り出さなければならない。日本は定常あるいは縮退社会に入ったのだから。ただし、それは文化の退行ではない。(2020年8月29日)

モンサント社-その後

モンサント社といえば巨大バイオ企業で、農家にしてみれば勝手に畑に紛れ込んだきた遺伝子組み換え菜種が権利侵害だとして訴えられ、道義的にどうかと思うことも、力ずくで“法的に正しい”ことにして農家を苦しめ、貨幣の増殖を目指す阿漕な企業というイメージだったが、一昨年、ドイツのバイエル社に買収されていた。そのバイエル社はモンサント社の負の遺産に苦しんでいるという。岩波「世界」9月号の天笠さんの記事「独バイエル社和解へ-アグリビジネスを揺さぶるグリホサート問題」。モンサント社は除草剤のランドアップでも有名だが、その主成分グリホサートに発がん性が2015年にWHO、2017年にカリフォルニア州の機関で認められ、多くの訴訟がもたらされることになった。すでにいくつかの判決も出ているが、裁判所が支払いを命じた金額には多額の懲罰的損害賠償金が含まれているという。バイエル社は和解を目指したが、被害者側には容易に受け入れられる内容ではない。モンサント社は資本主義の権化のような企業だったが、その行く末は資本主義の終わりの始まりではないかという気がする。ランドアップの発がん性については我々も人ごとではない。日本は小麦を輸入に頼っているが、輸入小麦にはグリホサートが検出されるとのこと。製品化されると、例えばパンとして食卓にもあがる。低濃度だからリスクは少ない、ですまされるのだろうか。普遍性を目指すグロ-バル資本主義では企業の淘汰が進み、世界は均質化されていく。勝者と敗者が分断され、敗者の背後に忍び寄るリスクは隠される。こんな社会の幸せ、安全、安心とは何か。(2020年8月23日)

理想的路線と現実的路線

洋上風力発電に関する委員会があったのだが、日本のエネルギー安全保障とも関係する重要な課題である。私が一番気になったのは、日本には発電機メーカーがないということ。日本は再生可能エネルギーを世界に先駆けて開発、社会実装していくことが世界の中の信頼に繋がると思っているのですが、企業は体力が落ち、理念を主張する気力が残っていないという事なのだろうか。右肩下がりの時代こそ、理念を主張してほしいと思うが、貨幣経済のもとでは儲けがないと理念も失われるのか。国の支援により、発電機の製造に参入するメーカーが出てくることを期待したい。日本は既存の石炭火力を廃止するだけでなく、輸出にも制限を加える決定をしたばかりであるが、そうするのならば再生可能エネルギーに対する圧倒的優位性を持ち、世界に向けて普及を図らなければならない。今はちょっとコストが高いけど、日本にはこんな優れた再生可能エネルギー利用技術があるので、当面は高効率石炭火力を輸出するね、で良いのではないかと思う。変化というものは底流をつくりながら、徐々に起こしていくものだと思う。脱炭素に関しては世界的な流れができているが、日本が現実的路線を行くのであれば、堂々と主張してほしいと思う。(2020年8月21日)

科学者の立ち位置の難しさ

富永さんの記事の上は前原子力規制委員長の田中俊一氏のインタービュー記事がある。その主張はタイトルにもある「一にも二にも透明性」。専門家の議論の過程、内容をすべてオープンにすべし。新型コロナの専門家会議は非公開で行い、議事録も作成していないのが問題だと。その通りだと思う。田中さんは尊敬に値する優れた方だと思うが、都会人の感性を持っているのではないかと思う。現在は飯舘村にも居を構えているが、精神的習慣は都市的世界の人間なのかなと思う。科学的合理性を重視する議論をしているように感じるが、それはPielke(2007)でいうと、Linear ModelにおけるScience Arbiterなのではないか。でも現場との関わりを持っているので、Stekeholder Modelなのだろうか。Stakeholde ModelではStakeholderすなわち問題の現場も含む多様な関与者との関係が問題になる。現場が舞台のSolution-oriented Scienceは当然Stakeholder Modelとなり、現場との信頼の醸成が必須になる。現場には国レベルと当事者レベルがある。特に当事者レベルでは科学的合理性だけでなく、共感(エンパシー)と理念(あるいは原則)を共有することが重要だと思う。Issure AdvocateならばStakeholderはひとつであり、"世界"を選択しなければならない。田中さんの場合は、日本なのか、福島あるいは阿武隈の避難区域の人々なのか。Honest Brokerであれば、様々な"世界"を認知し、かつ尊重し、複数の提案を行うことができるはずである。近代文明人として科学技術の成果を享受しながら、リスクも理解し、文明の利器を使いこなして暮らすひとつの世界を夢見るとしたら、それは世界が近代文明社会であるという前提のもとでのIssure Advocateである。人間というもの理解、社会のあり方の理解、多様性の尊重、人と自然の関係性といった観点からまだ見えていない世界があるということだ。では、Honest Brokerならば、どう行動するのか。科学者の行動すべき現場は、実は階層性を持っているのだ。Honest Brokerの複数の提案の背後には異なる価値観がある。そこをどう乗り越えたら良いのか。科学者も人である以上、Issue Advocateにしかなれないのか。どの立場にしても、一番大切なのは信頼の醸成である。後は選択であり、それは政治家の仕事である。(2020年8月20日)

消極的自由と積極的自由

日本人は隷従になれすぎているのではないか。時々掲載される豊永郁子氏の政治季評にはいつも学びがある。隷従になれすぎているとは良く感じることでもある。お上の指示を待ち続ける日本人、何を信じて良いかわからない日本人、それが隷従の態度を産み出しているように思う。「レ・ミゼラブル」の6月暴動の場面では「二度と奴隷にはならない」と謳われているのだが、日本語では訳出されていないという。記事によると自由には、他者からの干渉が存在しないことを意味する「消極的自由」と、理性あるいは真の自己に従って自律的に行為することを意味する「積極的自由」があるという。なるほど、日本人が意識している自由は「消極的自由」というわけだ。一方、古代ギリシャにおける自由は「主人や支配者を持たない」ということにあった。それが、統治への関与に繋がった。すなわち、平等の観念に基づき、かわるがわる治め、治められること(ただし、当時は奴隷と女性は別だった)。古代では「消極的」と「積極的」の両方の自由があったということだろうか。だから、ギリシャは思想的にも優れた哲学を持っていたのか。コロナ禍の日本では、政府は消極的自由を重んじ、国民は積極的自由の主体に仕立て上げられていると豊永さんは言う。日本人はまだ自由の意味が理解できていないということだろう。自律的に考え、行動するが、義務と権利を峻別し、責任を放棄しない自由というものを意識せにゃあかん。それにしても、ギリシャの時代に比べて世界が大きくなりすぎた。(2020年8月20日)

ゼロリスクを志向する人々とは

工藤さんの記事にはもうひとつ重要な観点が提供されている。「ゼロリスクを志向する人々は愚かで怖がりすぎなのではない。信頼という社会資本を利用できず『眠れなくなった』人だ」。「眠れない」というのは代議制民主主義のもとで人は通常「眠って」おり、根本的改革が必要な時は「目覚めて」熟議するのだが、信頼が崩れた状態では自力でリスクに対応しなければならないので「睡眠不足」になってしまうという話が前段にある(ここはルソーの指摘か)。市民のゼロリスク志向の強さは事故、災害、公害などで専門家や為政者が嘆くことであるが、それは結局、専門家や政治家と市民との間で信頼が失われているということに過ぎない。工藤さんは言う。「人はどう頑張っても、近代が想定した『合理的な存在』にはなれない」。これは私が到達した合理基準だけではだめで、諒解形成には共感基準、理念基準が必要ということを意味するのではないか。(2020年8月13日)

信頼と数値指標の関係

朝日夕刊に「にじいろの議」というコラムがあるが、今日の記事は非常に参考になった。PHP総研の工藤郁子(ふみこ)さんの投稿。私は「信頼」こそが物事をうまく進める最も重要な観点であると主張しているが、「信頼が強く意識されるのは、それが失われつつあるときだ」という。いや、そのとおりだな。そして「数値化」がどうもキーワードらしい。米国の科学史家セオドア・ポーターは、政治力のある部外者が専門家を疑うときに「数値化」が進むと分析したとのこと。これは現在進行中の大学評価、研究評価の実態そのものではないだろうか。「ある部外者」が組織を減らしたい、無くしたいと考える。だから「数値化」が進むわけだ。そこには哲学や理念はない。さらに工藤さんは言う。「既知の問題ですら妥当な指標を絞るのは難しく、数値と判断の間隙に恣意は入りうる」。その通り。だから、「数値化の進行が専門家集団の裁量と自立性を失わせる点も注意しなければならない」。まさに大学人は裁量と自立性を失っているといえる。トップダウンの指示に対して理念を問題にせず、如何に要求を満たすかのみに労力が割かれる。これでは大学は衰退するばかりであるが、その責任の一端は大学人にもある。(2020年8月13日)

うるせぇじじい

歳をとってだんだんそうなっちゃうねぇ。職場の評価対応の会議でつい余計なことを言ってしまった。何を言ったかは常日頃の主張と変わっていないので、ホームページの中を探してください。対文科省の現実対応はコロナで言ったら短期的な闘いに対応するので、私の言ったことはちょっと的外れなのだとは思う。今後、コロナとの共存、そして共生の段階に移っていく時に理念的な議論が必要になるので、私の主張も少しは意味を持つだろうと勝手に思う。狭い世界に閉じこもり、外形的な格好良さを追求するだけでは大学は持たないと思う。現在から未来へ繋げなければならないのだが、未来は所詮わからない。だから現在に対する対応が意味を持ってくる。若者がサイエンスをやりたいという気持ちは尊重しなければならないが、サイエンスに対する勘違いもあるような気がする。未来は良くしなければならない。しかし、私の"思う"未来が、皆の"思う"未来と異なっても当然である。私の"思う"未来は、世界をなるべく広く俯瞰し、考え続けてきた結果なので自分としては組織外に向かって主張を続けるのだが、組織内に向かう主張と齟齬があってはならない。結局、うるせぇじじいとして"ひとり"で残された2年余りを過ごすということになるのだろう。それが年寄りの役割かも知れない。(2020年8月11日)

お金は誰のものか

お盆休みも近くなり、何となくのんびりとした気分になっているところです。世の中それどころではない方々がたくさんいるのに申し訳ないなと思っているところで、またまた期末評価の仕事が降りてきました。評価は必要なのですが、本質的ではない評価、哲学がない評価は大学を疲弊させるだけなので、理念的な事を述べておりましたら、こんな言葉が。「そうはいっても、文科省がファンディング・エージェンシーだからな」。そう言われるとしょうがないなとも思いますが、ちょっと考えてみる必要がありそうです。ファンディング・エージェンシーのいうことは聞かなければならないというのは、ファンディング・エージェンシーがパトロンだということです。でもお金は文科省のものではありません。税金ですので国民のお金であり、文科省がその運用を付託されているに過ぎません。19世紀以前の科学者のパトロンは貴族でしたが、お金は貴族のものでした。だから、貴族は科学者の提案がおもしろい、あるいは重要だと判断したら自分のお金で予算を付けました。その段階で科学者の満足と貴族の満足がマッチしたわけです。振り返って現在の状況を見るとどうなっているか。文科省は貴族ではないし、お金は文科省のものではない。だからこそ、本質的な課題に対して予算を付けて、本質的な評価をしなければならないのです。では、本質的な課題とは何か。それは様々な考え方があると思いますが、一番重要なことは哲学(基本的な考え方)がしっかりしていることです。その哲学は時代と空間的な世界の中にきちんと位置づけられなければならない。すなわち、やるべきことは時間軸と空間軸の中で存在理由が示される必要がある。そして、評価は目的が達成されたか、である。先日、ある会議で、文科省には哲学がない、と言ってしまいましたが、強者の仲間入りをして、肩肘張ることが哲学だとしたら日本は危うい。科学者と(国民が負託する)ファンディング・エージェンシーの満足が本質的な方向でマッチしなければならない。(2020年8月7日)

異分野見聞報告

学術会議の土木工学・建築学委員会全体会に招待して頂きました。災害関係の分科会に参加しているからだと思いますが、分野の考え方がわかり、参考になりました。いくつかメモしておきます。少し前に免震・制震のデータ改竄問題がありました。海外ではカヤバ事件と呼ばれているそうです。ニュースは知っていましたが、しょんもないことやってら、というくらいの雰囲気で聞いていました。実はこれが日本の信頼性を大きく損なっており、日本の科学技術の衰退にも繋がり、日本が深刻な状況にあること認識しました。私も水文分野では多少は業界とつながりがありますが、日本の科学者、業界を含む社会全体を包含する広い視点で学術に取り組むことの重要性を再認識しました(その実現を損なっているのが研究者の評価システムではないか)。災害の話題も多かったのですが、分野の特性でしょうか、科学技術主義で問題を解決するという姿勢が垣間見えてしまいます。しかし、地域を重視し、地域の選択としての災害対応を考えるといった雰囲気も少しあったように思います。現在は多様な考え方がまだ十分融合していない時代なのではないか。驚いたのは、科学と社会の関係性の再構築、教育の重要性、を主張する発言が遮られてしまったことです。遮った科学者の世界観、意識世界が垣間見え、今後の学術のあり方に対する課題が見えてきたように思います。私の思い込みかも知れませんが、会員、連携会員の年代を鑑みると、20世紀の慣性と、21世紀の定常ないし縮退社会の現実対応をめざした変革の間でまだしばらくはせめぎ合いが進むのではないか、そんな予感を得ました。最終的にはポストコロナ社会としての新しい社会、それがどういうものになるかは、これからの努力次第なのですが、新しい社会が見えてくると思います。(2020年8月4日)

梅雨明け

今日は梅雨明け。空の色が違う。これは夏の色だなと思う。暑いのは好きではないのだが、夏も良いものだと思う。それにしても8月までひっぱるとは、今年の梅雨前線はがんばった。人間社会に多大な影響を与えたが、我々は自然とのつきあいかたを再考しなければならない。今日は、取り壊した家の床下から出てきた井戸の検査。井戸は廃止も再生も金がかかる。ならば再生させてうまくつきあう術を見いだそうと思う。50年ぶりに出てきた水は冷たく、澄んでおり、子どものころに手押しポンプで汲み上げた地下水そのものだった。この井戸は関東ローム層を抜いており、成田層上部のいわゆる本水といってよいと思う。数100m先には土壌汚染の現場もあるのだが、地形から考えると、おそらく流線は交わらないだろう。水道システムはいつまで維持可能かわからない。地震もくるだろう。資源は複数のソースを持つことが安心につながる。この水が役に立つ日がいつか来るに違いないと思う。(2020年8月1日)

ポストコロナ社会中間まとめ

7月も終わりになり、いろいろな制限が解除されるかと思ったら、まだまだ苦しい状況は続きそうです。ポストコロナ社会について考え続けていますが、現時点での結論は、世界はローカルに回帰するだろうということ。ただし、ローカルに閉じこもるのではなく、持続可能なたくさんのローカルが結びついてグローバルを構成する、そんな世界です。ローカルな世界は地場の資源を循環させることによって、必要をまかなうことができる世界になります。必要を越える分はたくさんのローカルの間でシェアすればよい。ローカルといってもルーラルだけではなく、アーバンも含まれる。アーバンは最先端の科学技術に駆動される世界を目指しても良い。それでも人はルーラルとアーバンを行き来することができる精神的習慣を持つことができれば良いと思う。そして様々な関係性(あるいはリンク)を認識できる力を持つ。それは"尊重"を基盤に置く社会であり、それが誰一人取り残さない世界を導くのではないか。ただし、世界が良い方向に進まない可能性もある。それを修正する機会を科学者でもある大学人は持てる。ありがたいことだと思う。(2020年7月31日)

科学者の矜持

評価の仕事はいやなもんだ。限られた情報に基づき、限られた時間で、指示通りにやれと言われても、本当に学術の価値を評価できているのか。そんなことわからん、といっても結果は人様に大きな影響を与える。学術の評価は、哲学(基本的な考え方)を表明して頂いた上で、それを時代の中に位置づけ、成果は多様な観点から眺め、なにより時間をかけて行わなければならない。このような評価が行われないから日本の学術の劣化は必然である。もちろん、頑張っている科学者もいる。資料を読んでいると、そんな科学者の矜持が感じられることがある。声なき声を少しでも汲むことが、"社会の変革"に繋がっていくのではないか。組織の論理を変えるには、個人の信念が必要なのだと思う。強い個人にならなきゃあかんと思うが、最近の自分は...。(2020年7月30日)

文部科学行政の行く末

今日はある会議があったのですが、最後にフリーディスカッションということになったらいつの間にか文部科学行政批判になってしまいました。私も調子に乗って一席ぶってしまったのですが、皆さん溜めていらっしゃる。我慢するというのは日本人の特質でもありますが、マグマの圧力は高まっているのではないだろうか。私が話したことは、日本の科学技術のあり方は転換期なのではないかということ。科学技術(両者は一体不可分なのでこの言葉を使います)は国の経済力と比例している(これは科学技術の発展にはパトロンが必要ということで別に論じています)。今、日本は縮退社会に入った(特にポストコロナの財政再建で日本は苦しい時代に入る)。縮退社会では格差や不公平が広がる。負担を如何に分担するかということが大きな課題になる。科学技術も成長下におけるあり方とは異なってくる。論文を書けば自分ではない誰かが社会の役に立たせるわけではない。社会との関わりは科学者自身が考え、ステークホルダーに納得してもらわなければならない。今後の科学は外形的な成果基準だけではなく、本質的な評価ができなければならず、さらに貢献基準、未来基準が必要になるだろう。今、世界はボトムアップで駆動される時代にはいった(反する流れもあるが)。文部科学行政も大学が主導でボトムアップの改革があっても良いのではないか。現在の文部科学行政には哲学が見えない、なんてことを言ってしまいました。事務方には文科省から来ている方も多いので、現状を理解して頂ければと思います。この会議の本題は科研費を如何に獲得するか、ということだったのですが科研費もいろいろ問題を抱えていると思います。トップダウンの指示に如何に従うか、ではなく本質的な議論をボトムから上げていく必要があると思います。(2020年7月28日)

上下流問題の先にあるもの

今朝のNHKニュースで流域治水をとりあげていた。先日、滋賀県の例を取り上げたが、地域ごとに取り組みはある。少しずつ、進んでいくと思われるが、今後大きな問題となるのが上下流問題だろう。昨年の台風19号でもその兆候があった。下流のために何で上流が苦しまなにゃあかんのや。もっともである。治水の下流優先原則は、高度経済成長と、下流に大都市があるという日本の特徴を背景として諒解されてきた。しかし、時代は変わった。下流も上流も守られなければならない。それは長い道であるが、土地利用のあり方、そして社会のあり方を変えて行かなければならない。今年も水害が頻発した。秋にも起きるかも知れない。来年も、その先も。直近の問題に対応するだけではなく、長期的な課題を同時に視野に入れて、時には苦しみを受け入れながらも、社会の変革に向けて進まなければならないのだろう。その時、公平な負担をどのように実現するのか。上下流問題の先には未来を創るための大きな課題がある。(2020年7月17日)

現在を語る覚悟

未来を語ることは容易い。しかし、現在を語るには覚悟が必要だ。苦しんでいる人がいるから。進行中の災害に関連して未来を語るには、思想、哲学と提案、そして実践がなければならない。そんなことを言ったら何もできなくなってしまうではないか、という意見もあるだろうが、研究者であれば経験と専門性に基づいた提案をし続けることが大切だ。水害に対しては、人が低地に集住しなければならない社会のあり方の修正がある。これについては多くの提案がすでにあるので、理念の段階から実践の段階に移す努力を為さねばならない。現場をどうするか。滋賀県のように家屋の移転や改修を促す仕組みが必要である。河道近傍は堤防の強化だけではなく、水防林の設置はできないだろうか。流水の濁りが緩和されるだけでも被害は小さくなる。ダムは下流に守るべき命と資産があれば計画しても良いと思うが、所詮寿命は50年である。いずれにせよ、土地利用の誘導は世代単位の時間がかかる。理念を明確にしなければならないが、そのためにも自然と人の分断を修復する必要がある。遠回りかも知れないが高校における「地理総合」の必履修化は長期的な視点における実践の一つである。様々な努力を見える化していくことも人の考え方を変える契機になる。(2020年7月16日)

災害の外側にいる人に必要なものー現場に心を置いたエンパシー

またあの時の感覚がよみがえる。 「福島にはもう住んじゃいけないのだよ、住めないのだよ」。何度聞いたことか。安全な場所に身を置いて、科学的合理性だけに基づき、問題の当事者の思いをわがこと化できずに、そのことに気が付きもせず、よかれと思って発する助言。今日は学術会議の防災学術連携体による緊急集会「九州等の豪雨について」が開催されたので聴講した。そこで出てきた言葉。「危険性の高い土地には居住しない」。もっともだ。でも、居住者にとってはそこがふるさとであり、様々な事情があってそこで暮らしているのだ。住むなといわれてもすぐには対応できない。安全な場所に身を置いた“いい人”の発言である。土地利用の誘導には世代以上の時間がかかる。だから理念を明確にして着実に進まなければならない。熊本県の蒲島知事は理念は明確であったが、水害が来るのが早すぎた。滋賀県では県独自のハザードマップ「地先の安全度マップ」を作成している(国の基準の先を行っているため、補助金が出ず、県予算で対応したとのこと)。県の職員はそれを持って地道に地域を巡って説明し、県は移転や改築に補助金を出している。こういう努力を払って初めて信頼が生まれ、人と自然の関係性が回復する。現場に心を置いて、エンパシーを発揮することが、災害の現場の外側にいる我々が心しなければならないことである。滋賀方式を広めねば。(2020年7月15日)

科学と社会の関係に関する誤解

JpGUのネット開催もトラブルは多いが全体としてはうまくいっているような気はします。開催自体がシステムの改良に大きく貢献するのではないか。今日は「『知の創造』の価値とは何か:研究評価の理想と現実・説明責任」という魅力的なタイトルのセッションがあったので聴講しました。そのスコープの一部を引用しておきます。

近年日本では、科学と研究者の理想がないままに、被引用数やインパクトファクターを安易に評価指標として用いてきた。その歪みとして、組織や研究者の業績評価における論文崇拝主義や、科学技術のように直接的な課題解決を得意とする学問分野への偏重を招いている。

ここ10年ほどはドメスティック人間になって英語はダメダメになってしまったので内容はよくわからなかったのですが、チャットにひとつだけあったコメントが気になりました。大意は次のようなものだったと思います(誤訳があったらご容赦ください)。これは上記のスコープの後半とも関連します。

特定の社会的な問題に予算を投入しても、科学的な発見に繋がるとは限らず、そんな要求に流されると科学がゆがむぞ。社会にとって有益な成果は、時間はかかるが科学者の好奇心に駆動される科学から生まれるのだ。  

こういう趣旨だったとすると科学と社会の関係に対する大きな誤解があると思う。好奇心に駆動される科学、基礎科学はどんどん推進すれば良い。我々が気付かなければならないのは科学はパトロンによって成り立っているということ。19世紀までの科学のパトロンは貴族だった。科学者(当時は哲学者だったかも知れない)は、貴族にその課題の重要性を説き、貴族が納得すれば資金を得て、好奇心を満たすことができた。産業革命後、科学は技術と一体化され、科学技術は儲かることが明らかとなり、第二次世界大戦を経て、科学は戦争にも役立つことが認識された(ブッシュ主義)。その後、科学は経済的覇権をとることに役立ち、国民国家の発展に寄与できることから国が科学の主なパトロンとなった。日本では経済成長時は科学の成果は国家の威信として外交にも活用できた。しかし、低成長から定常社会、縮退社会に入った現在、パトロンのための科学も重要になってきた。そのパトロンとは、税金を負担する国民である。新型コロナ禍は国家財政を弱体化し、これからしばらくは財政再建が国家の重要な課題になるだろう。その前に苦しむ国民を救わなければならない。社会のための科学がますます重要になってきた。もちろん、好奇心に駆動される科学は大切だ。しかし、重要だから重要であるという論理は成り立たない。なぜ重要かという強固な論理を(理系の)科学者は持たなければならないのだ。(2020年7月14日)

諒解して暮らす

九州で水害が発生し、人の平穏な暮らしが奪われつつある。人吉盆地から流出する球磨川は典型的な狭窄部を形成し、過去の水害を想起させるが、報道でも昔から水害常襲地帯であったと伝えられている。国土地理院がさっそく球磨川流域の浸水推定図を公表したが、凡例によると浸水深は10m近い。国交省の重ねるハザードマップでみても概ね浸水域は想定された範囲に入っているようだ。今回の水害も起こりえる場所で起きたといえる。現在、緊急時の対応は進んでいるが、今後の復興期、平穏期に向けて何をやっておけば良いのか。危険な場所に住むなとはいえない。なぜならば、そこは“ひと”の“ふるさと”だから。土地の脆弱性を理解し、備えつつ、諒解して暮らすという習慣が必要なのではないか。そのためには、地域で話し合って事前復興といった対策を進めるのも良い。そうすれば被災も運命として諒解できるだろうか。そのためには平穏時に、楽しく、少し豊かに、誇りを持って暮らす、ということができなければならない。災害を始め、あらゆることが社会の変革に向かっているのではないか。(2020年7月5日)

さくらんぼの実る頃

未来はわからない。新型コロナ禍が進行する中、7月を迎えるとは半年前には思っていなかった。この数ヶ月ですっかり心身が鈍ってしまった。本は結構読んでいるのですが、今日は趣向を変えて鞄の中に「時には昔の話を」(宮崎駿・加藤登紀子、徳間書店)を放り込んで出勤。パラパラとめくっていてああそうか、と気が付く。今がさくらんぼの実る頃だ。でも、さくらんぼの実る頃は本当に短い。紅の豚は私の一番好きな宮崎作品であり、ポルコ・ロッソが私にとってかっこいい男のひとりである。もちろん、ジーナがかっこいい女の代表。ポルコの「ひとり」の生き方に共感するところがある。でも、徹底していないところもいい。エンディングでフィオがピッコロ社のジェット機でホテル・アドリアーノの上空を飛ぶが、ちゃんとポルコのサヴォイアが係留されているのが見える。「時には昔の話を」の歌詞では、「どこにいるのか今ではわからない」なのですが。過ぎ去った昔を振り返るのも悪くはないものだ。(2020年7月1日)


2020年6月までの書き込み