口は禍の門

 光陰矢のごとし。まことに時の経つのは早い。世界が相も変わらず混沌としているなかで、のんきに暮らしていて良いのか。つらつらと考えているところではあるが、今の世のキーワードには“隠者”と“利他”があるように思う。隠者は憧れであり鴨長明、兼好法師が好きだが、世の中でもブームらしい。利他についても勉強を始めたところである。私は利他の心は人間が深層に本来備えてるものだと思っている。利他の心が発現しやすい社会がSDGsのめざす社会ではないだろうか。最近、こんなことを考えることが仕事になっている。(2021年7月1日)

2021年6月までの書き込み


英国のシティズンシップ・エデュケーションにおけるエンパシー

エンパシーが最近のマイブームなのだが、遅ればせながらブレイディーみかこ著「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」を読んだ。この本でエンパシーが出てきたきっかけは、息子さんの学校の期末試験の問題だったという。英国の公立学校教育では日本の中学にあたる学年でシティズンシップ・エデュケーションの導入が義務づけられており、その期末試験の問題に出たわけだ。日本では学科として「公民」があり、もうすぐ「公共」が始まる。内容を精査せねば。フランスでは高校高校で哲学を重視する理由について聞いたところ、「例えば、公務員。誰もが幸せに暮らせる社会をめざす者が、幸福の何たるかを考えたことがなければどうする」という当然すぎる返答があったということをとりあげたことがある(2019年3月21日)。日本の初等中等教育はシティズンシップでは大分遅れているのではないだろうか。だから、主権者教育が声高に叫ばれるようになっているのか。検索したら文科省から主権者教育に関する最終報告がこの3月に出たばかりだった。日本も遅ればせながら、というわけだ。(2021年9月2日)

様々なリスクのまっただ中の社会

今日は1923年に大正関東地震が発生した日。ただし、コロナ禍に押されて報道量はイマイチだったような気もする。今週が防災週間とのことで、一昨日から発生2日前、1日前と心の中でカウントしていた。発災前の静けさの中で、必ず来るであろう未来の事象を想像するのも防災の意識を高めるには良いかもしれない。実は我々の暮らす社会は様々なリスクの真っ只中にある。不安で眠れなくなるくらいであるが、人というのはお気軽なものでなかなか災いを“わがこと化”できない。だから安穏と暮らしていけるのかもしれない。でも事象が起きたときに、慌てふためかないような心構えを持っておきたい。実はそれも難しいのであるが、宗教や思想、哲学が人に安心を与えるのではないだろうか。そう思って、いろいろな本を読んでいる。(2021年9月1日)

もう一つの科学

最近本を読む速度が落ちているが、ようやく「科学の社会史-ルネサンスから20世紀まで」(古川安著、ちくま学芸文庫)を読み終えた。リモセン学会誌の40周年記念号では科学者の役割について辛辣に書いてしまったので、今一度確認の要があったのだが、それほど間違ったことは書いていなかったと思う。この本の終章は科学・技術批判の時代について書かれたものであるが、その中に「もう一つの科学」の創造をめざす流れがあることが書かれている。これまでのヨーロッパ近代科学と異なる点は、第一に全体論的・システム論的なアプローチをとっていること。全体は一つの統一体であり、単なる部分の総和ではない。第二は、感性や直感を重視すること。感性的体験に基づく直感的認識こそ、対象のリアリティーに深く接近する有力な道である。第三は、主体と客体の融合をはかってこのリアリティーをつかみ取る。生態学やエントロピーの見地から自然とのハーモニーをはかろうとするという。そして、それは東洋思想の諸要素に近似しているのだという。まさに、御意である。科学哲学あるいは科学思想は現場の科学の先をいくものである。自分は学術界の中では、おかしなひと、あちらのひと、になっている様な気もしているが、実は最先端を行っているという見方もできるだろうか。いずれ隠者となって世の中を見ていたい。もう少し生きねば。(2021年8月31日)

戦争をやる奴はアホや

休日はNHKプラスでドキュメンタリー番組を見ることが多いが、今日もすごい番組を見てしまった。ひとつは「死者は沈黙の彼方に 作家・目取真俊」(こころの時代)。沖縄戦の死者、犠牲者は語らないが、そのナラティブは地元で生まれ育った作家だから想像することができるのだ。そこには真実がある。もうひとつはETV特集「“玉砕”の島を生きて~テニアン島 日本人移民の記録~」。あの戦いの中で住民が受け入れざるを得なかった運命は、とても語ることなどできない辛い体験であった。生き残って、語り始めた人がいたのだ。その辛さに絶句せざるを得ない。戦争の本質はそんなものだ。何があっても戦争はやってはあかん。あの敗戦から76年も過ぎた現在、戦争をわがこと化できない世代が育っているとしても、痛みを感じれば気が付くことができる。痛みを感じなくても、映像を見て、話を聞くことができれば、人の痛みを感じることができるようになるかもしれない。正義のための戦争なんて、ないのではないか。(2021年8月29日)

意識世界と環世界

NHKプラス「こころの時代~宗教・人生」より。今日見たのは「“ノアの箱船”をつくる人」と題された札幌市丸山動物園の本多さんの話。彼は絶滅危惧種のは虫類、両生類の繁殖スペシャリスト。いろいろな人生がある。自分がスポンとはまる場所を見つけることができた人は幸いといって良いだろうな。番組の中で出てきた言葉が「環世界」。それぞれの生き物が見ている世界のことなのだが、私が使っている「意識世界」と似ている。動物の環世界はとても狭い世界かもしれないが、ひとの意識世界は世界を旅することができる移動手段、情報・通信技術、書籍によって拡大させることができる。空間だけではなく、ひとの内面を深めていくことができる。さらに、他人の意識世界をエンパシーによって想像することもでき、精神世界を広げることもできる。ポテンシャルとしては大きな広がりを持つことができる意識世界だが、探求するという営みがないと広げることはできない。意識世界の拡大こそが世の中を良い方向に進めることができる駆動力になると思うが、それを困難にしているのがゆとりのなさなのではないか。現代人はなぜゆとりを失ったのか。再考する必要がある。(2021年8月28日)

社会の底流にある考え方

環境省主催の「健全な水循環と新たな地域づくり」を聴講しました。雑用しながら聴いていましたが、時々ピピッとくる発言で覚醒しました。正確な文言は忘れましたが、フォーキャストとバックキャストの両方が大事なんだという発言があったように思います。最近はバックキャストが流行で、フォーキャストを語ると叩かれてしまうこともあるのですが、両者のベクトルを合わせることが大切なのだということです。滋賀県の琵琶湖担当の方だったと思いますが、バックワードとフォワードを合わせるということは現場の感覚なのだと思う。また、私が良く主張している共感・理念・合理性の考え方を想像させる発言もあったように記憶しています。これもステークホルダーと協働する現場の感覚なのだと思います。私も水循環に関して主張する機会を頂いていますので(9月18日日学公開シンポジウム)、自信を持って主張しようという気分になりました。社会の底流にある現場の感覚を酌み取り、奔流にするのが環境学に関わる大学人の役割ではなかろうか。(2021年8月26日)

持続可能な地球社会の視座

「気候変動の将来予測と影響評価、負の影響への対策実施は、持続可能な地球社会の構築に不可欠である」という文章に出会った。では、なぜ不可欠なのか。そもそも「持続可能な地球社会」とは何か。もちろん、この文章に書かれていることを否定するものではない。否定などできないが、「持続可能な地球社会」を考え抜く必要があるのだ。その際、科学者の視座、市民の視座、都市生活者の視座、農村生活者の視座、等々、様々な視座から考える必要がある。そうすると「持続可能な地球社会」に対する複数の姿が見えてくる。地球社会を総合的、俯瞰的に捉える中で複数のシナリオについて検討することになるはずである。その際、人間を“人”ではなく、“ひと”として捉えてほしい。それもシナリオの中の一つかもしれないが、統率される人で良いのか、それとも喜怒哀楽のなかにある“ひと”として暮らしたいのか、考え抜く必要があある。結局、一人ひとりが生き様を考える習慣を持つことが一番大切なのではないだろうか。(2021年8月25日)

アフガニスタンの復興は小技術・中技術で

アフガニスタンの混乱が気になるところであるが、人が故郷で誇りをもって暮らせる国になってほしい。そのためには、先進国のやり方、考え方をそのまま持ち込むのではなく、地域性に基づき、現地の人々が、現地で実現できる技術で復興してほしい。それが持続可能性を担保することになる。その技術が小技術と中技術(大熊孝の著作から)。小技術は自分でできる技術、中技術はコミュニティーでできる技術。中村哲医師のやっていたことは中技術と言えないだろうか。これがダムとか可動堰といった大技術となると、技術が現場から離れてしまう。大技術も良いのだが、それはアフガニスタンが復興を遂げてからだ。小技術、中技術により農村の暮らしを立て直すことを優先し、都市の復興は徐々に行うのが良い。もちろん、医療、福祉、教育の拠点は都市に置いて良い。その過程でアフガニスタン国民が農村と都市を自由に行き来できる精神的習慣を醸成することができれば良い。しかし、911から20年以上、ソ連のアフガン侵攻から40年以上が経過した。多くの人々が混乱の中で成長し、成人している。人の一生に対する40年の月日は重い。国際社会はアフガニスタンの人々と、その歴史的過程を尊重しながら援助していってほしい。(2021年8月25日)

リスクとベネフィット

学術会議のある分科会でリスク教育の提言を出す議論をしているのだが、ベネフィットを入れるかどうかが論点のひとつになっている。ベネフィットの議論は難しいという趨勢になっているが、近代文明社会、すなわち科学技術によって駆動される社会ではリスクとベネフィットを同時に見極めなければあかん、と思っているのでベネフィットにも踏み込みたい。しかし、ベネフィットはそれ自体の認識が困難で、認識の仕方が多様であり、価値の領域に入り込まなければならないので、“~すべき”と纏める提言では難しいのかなとも思う。結局日和ってベネフィットを扱わない案に賛成することにする。リスク“教育”ですのでしょうがないのだろうが、リスクだけであかん、ベネフィットについても言及はしておくべき、という案も出て安心。もうひとつ、コストも重要という意見が出たが、その通りで、技術は“ある”ということと、社会に“実装できる”ということは別なのじゃ。コストはリスクに含めても良いかも知れないが、安全・安心を行政に負託している日本社会で、国民がコストを意識することは極めて重要じゃ。ベネフィットは扱わないことになったが、科学技術のもたらすベネフィットはそれだけで十分学術会議で議論すべき重要な課題だ。別の分科会で深掘りしてみたい。(2021年8月23日)

ワクチン接種における機会の不平等

ワクチン接種の2回目が終わった。普段行動の遅い自分からすると思いのほか早かった。職域接種のお陰である。待ち時間に読もうと思って持って行った岩波世界8月号に挟んである栞はたまたま「パンデミックが映す命の格差」(内田聖子)の最初のページであった。先進国ではワクチン接種は進みつつあるが、途上国ではそうではない。「平等なワクチン供給」も試みられたが失敗に終わった。人類は命を巨大製薬会社に預けていることにならないか。グローバルな公共財はどうあるべきか。世界は大きな課題を得た。気候変動、巨大IT企業に対しては動きが見られる。世界は変わっていくだろうか。実はアフガニスタンを注視している。タリバン政権は第2期目となるが、野にいる間にSNSを通じて世界の意思を学んだのではないか。世界の意思を強く表出しなければならないなぁ、と思う。(2021年8月19日)

エンパシーは見えない

西日本では大雨が続いているが、ここ千葉では青空が広がっている。報道で水害の様子を知ることはできるが、テレビやPCを切ってしまうと意識から消えてしまう、いわゆる劇場型災害になりやすい。しかし、WEBで提供される雨雲レーダー画像は、リアルタイムで進行している大雨の様子が日本全体の視野でわかるので、現場の状況を想像し、わがこと化することができる。これは技術が促進するエンパシーと言えるかもしれない。ただし、地図の下に人の暮らしがあるということに気が付くことが前提であるが、意外と難しいことなのかも知れない。福島に関わってきた経験からそんな思いもある。でも遠くのハザードを心配する人がいるということを信じたい。エンパシーは簡単に可視化できるものでもないだろう。小さな思い、小さな営みの存在を信じることがまず必要である。それらが集まれば大きな思い、大きな営みになるはずである。ところで、雨雲分布はYahooのページで見ているが、気象庁のものか、それともXRAINとは違うものだろか。(2021年8月18日)

敗戦の日

8月15日、今日は終戦の日か、敗戦の日か。やはり敗戦の日ではないかと思うのだが、そんな時節柄、再放送しているNHK映像の世紀(全11話)を見終わったところ。人類の歴史は何と辛苦に満ちあふれているのだろう。20世紀は戦争、対立と難民の世紀だったが、21世紀は少しは歴史に学ぶことができているだろうか。何とも心許なく、気持ちが沈むのである。しかし、ちょっと待てよ。人類の歴史は総体としては辛く、苦しいものだったとしても、世界のそこここに小さな幸せがあったのではないだろうか。世界を俯瞰すると大きな出来事は見えるが、小さな幸せは隠れて見えない。でも、世界は小さな地域、地域の人々で成り立っている。ひとりの幸せとは何か、どこにあるか。そこを見ようとすると世界はまた違って見えるかも知れない。(2021年8月15日)

縄文人と自然の関係性

現在、南貝塚を発掘調査中の加曽利貝塚に行ってきた。貝塚や住居跡の分布を説明して頂き、縄文人の動線も見えてくると、一瞬数千年前へタイムスリップした気分。当時は今より温暖で、魚介類を産出する東京湾も近く、食料もそれなりにあった。富の集積もなく、平和な時代だったと考えられているが、親爺にはあこがれの時代である。解くべき課題は、環状の貝塚の凹地は縄文人が掘ったものなのか、それとも自然にできあがったものなのか。関東ローム層の上面高度、火山灰層の同定と、その上面高度分布といった情報が少しずつわかってくると、仮説がだんだん浮かび上がってくる。周辺の水系、台地上の微地形、地質構造をなどを総合すると、凹地の成因に関する考え方が浮かび上がってくる。そこから縄文人と自然の関係性が見えてきたような気がするのだ。しかし、証拠が足りない。周囲は住宅地で地層の攪乱もあるし、個人宅では調査(穴掘り)はしにくい時代になった。学術的な課題も夢として持ち続けるしか無いのか。現代の評価の対象となる(狭義の)科学は証拠と論理で検証された仮説の生産プロセスだ。個人では数値的評価の壁を乗り越えることは難しい時代になった。そうではない科学的営みというのもありではないだろか。発掘はまだ続くので、思考も続く。(2021年8月13日)

日本の思想、哲学とはなんぞ

朝のNHKニュースでアイヌの舞を見た。思わず、かっこいい、と思ったが、歴史を知ってほしいとのこと。その通りやな。しんどく、つらい過去があったのだ。それを忘れてはあかん。琉球もそうや。琉歌、三線、カチューシー、衣装、精霊、などなど歴史、文化を共有するコミュニティーには憧れがある。たまたま宮古島の調査報道の記事を読んだ。宮古島では自衛隊の配備が進んでいるが、その施設建設、設備配備をめぐって人の尊厳が冒される事態が起きている。日本人として何を重視したら良いのか。総体としての日本国家なのか。国家を構成するのは“人”である。それは規範的な人であり、顔は見えない。地域では顔があり、名前があり、暮らしがあり、喜怒哀楽を持つ“ひと”が集まってコミュニティーを形成している。どちらも大切なはずだが、国の施策の中では住民も“人”に過ぎないようである。“ひと”を尊重し、地域の諒解を前提としなくて良いのか。仮想敵国の脅威はそれほど深刻なのか。答えは単純ではないが、明治以降の日本は軸となる考え方を失っていることが大問題ではなかろうか。諸外国では宗教やイデオロギーが名目上の基軸になっている。日本であることの思想は何なのだろうか。日本の思想、哲学を考えなければならないステージに至ったのではないかと思う。それがないと“ひと”は諒解しない。(2021年8月12日)

しんどい人、つらい人

朝日朝刊「折々のことば」から。人に悩みを打ち明けた時に、「もっとしんどい人もいるよ」「つらいのはあなただけじゃないのよ」と返されるのはつらい、と。山本ゆりさんのエッセイ集から。コロナ禍になってから世間のことをもっと知らねばあかんと思い、NHKプラスを見たり、オピニオン誌を読むことが多くなってきた。世の中は本当にしんどいこと、つらいことに満ちあふれている。だから我慢せよということでもないのだ。でもそれを知ると自分の悩みなど屁でも無い、と思うのだが、こころが急に強くなるわけではない。自己嫌悪がますます自分を苛むのだ。弱音を吐きながらも粛々と仕事を進めるのだ。時には失敗して自己嫌悪の深みにはまることもあるのだが、それも運命と諦めるのだ。でも、しんどい人、つらい人を知ると、少しは自分を奮い立たせることもできるのだ。知ることが出発点なのだろう。いつか役に立つ機会が巡ってきたときに機能すればよいのだ。(2021年8月11日)

弱音をはいてもいいやんけ

相田みつをの「道」という詩がある。ずっと昔に購入した色紙を書斎に飾ってある。道という詩は二種類あるが、黙って歩く、愚痴や弱音を吐かない、なんてことが書いてあるやつ。自分もずっとそう思ってきたが、最近はそうじゃないのではないか、と思うようになっている。弱音は吐いて良い、弱音を受け止めてくれるコミュニティーがあれば良い、と思う。どうしてもだめだったら、人生を変える。自由に生き様を変えることができる社会こそが皆が活躍できる社会だ。とはいえ、実際には難しい。そんな簡単なことではない。まず自分が人の弱音を受け止めることができること。自分は定年が近いので、強制的に生き様が変わるので、もう少しの辛抱。(2021年8月10日)

草深の森

約束していた印西の草深の森に行ってきました。森の中にある池の水位が下がり、ニホンアカガエルやアカハライモリが産卵できなくなっているという。どうすれば湧水を復活させることができるのか、考えてきた。草深の森は下総台地上位面にあり、皿状の浅い谷が二本合流するところに弁天池がある。池の直下は10年ほど前まで谷津田だったという湿地。おそらく池の基底には常総粘土が存在している。これで泉の湧出機構は説明できる。谷の形成プロセスと地質が相互作用しているのだが、細かな説明は省略。台地上にはスギ、ヒノキ、サワラといった常緑針葉樹、照葉樹や巨木となったコナラがある。モミの木も自生しているのにびっくり。このコナラがキクイムシにやられ、枯れつつある。これも問題。この土地はもともと林床が茅場となっている松の疎林で、松は燃料として定期的に伐られたことで蒸散が抑制されてていたと思われる。よって、植生が管理されなくなったことにより、浸透が少なくなった(蒸散が増えた)ことが湧水が減ったことのひとつの原因だと考えられる。池の水を豊かにするには、上流、少なくとも皿状の谷の部分の植生管理が必要だ。個人的にはコナラを植栽し、定期的に伐採して炭づくりをやりたいと思う。明るい森になれば、様々な里山の植物も復活するだろう。草深の森は私有地で、管理は印西市なので、どのように合意を形成する方法が課題だ。都市と郊外の境界をどのように管理し、少子高齢化、成熟社会の土地利用を行うか、新旧の住民によるコミュニティーをどう形成するか、といった理念に関する対話が必要だ。なお、虫取りが許可されているとのことで、遠方から来た人々が根っこを掘り返したり、虫を呼ぶための蜜袋を放置してしまうことも問題だという。環境に対するリテラシー醸成ももう一つの課題である。(2021年8月9日)

オリンピックを終えて

オリンピックもあっという間に終わってしまったが、よかったなぁ。アスリートたちの物語には感動した。これは否定できない。でも、否定できないことの背後には様々な事柄が隠されている。それらの事柄に気づき、この世界の有様を包括的に捉える努力をしていきたい。一番気になることは、歴史の時間軸の中で日本の現在を位置づけ、未来を展望することができたかどうかだが、そういう意図は伝わってこなかった。世界には様々な立場の人々がいる。それらの方々にオリンピックを祝福していただけただろうか。日本の意思を読み取ってもらえただろうか。ここは確信が持てない。日本は20世紀の経済成長時代の慣性から抜け切れていなかったのではないか。パラリンピックはこれからだ。オリンピック、パラリンピックに深い意味づけをする必要があるのかどうかもわからないが、未来世代はTOKYO2020をどう見るのか。もう少し生きて確かめてみたい。(2021年8月8日)

死後の世界

今日は相次いで亡くなった叔父と叔母の法要と納骨式だった。墓地に出てお骨を墓に納めているときに大雨。おじちゃんがいたずらしよったな。お茶目な人だったが、自分もそのDNAを受け継いでいる。以前、佐倉先生の葬式の時には一瞬突風が吹いた。霊魂は存在している。先日亡くなった立花隆は晩年死後の世界を取材していたようだ。私も死後の世界はあると思っている。無いと思うより、あると思った方が楽しいし、生きる糧にもなりますからね。でも、そこでは個人ではなく、永遠の命の流れに合流していくということなのだと思う。死んでからしばらくは個人の感覚が残るかも知れないが、最終的には根源的な生命の流れと渾然一体となっていくのかも知れない。これは火の鳥やブッダにも描かれている手塚治虫のあの世観。宮崎駿もひょっとしたら手塚の影響を受けているかも知れない。戦い疲れたポルコが天上の飛行機の流れに合流しようとするが、現世に引き戻される紅の豚の一シーン。この世ってなんなのだろうか。健康年齢はおそらくあと10年くらい。時代の精神的習慣から開放され、楽しく誇りを持って残りの人生を暮らしたいものよ。(2021年8月7日)

言葉に限界 人と“ひと”

朝日朝刊、山極寿一の「科学季評」から。タイトルは「気持ち伝わるコミュニケーション 言葉に限界 五感いかして」。コロナ禍に入ってから対面で雑談する機会は確実に減った。オンラインミーティングは“必要な”会話が中心となる。通常の情報交換の中心はメールになっているが、書き言葉では背後にある気持ちは伝えにくい。だから、慇懃なメールが多い。それは、言葉では本意が伝わらないどころか、思わぬ誤解を招きかねないことが皆わかっているからだろう。山極さんの研究対象であるゴリラ社会からは学ぶべき事柄が本当に多いが、気持ちが伝わるコミュニケーションには五感が大切であるということもそのひとつ。御意。でもゴリラのコミュ二ティーは人間社会と比較すると遥かに小さい。気持ちが伝わる社会というのは、小さなコミュニティーではないか。そこでは、“言わなくてもわかる”、が成り立つ。人間社会では、言わなければ、何も伝わらない。昭和型の背中を見せるタイプには生きづらい世の中になった。小さなコミュニティーへの回帰は、田園回帰を通じて、少しずつ浸透してきているように感じる。都市的社会の中でも小さなコミュニティーは可能だろうか。仕事で達成すると、蛸壺になりがち。仕事以外の場で小さなコミュニティーを持つことが、老後の一つのあり方だと思うが、私は隠者になりたいと思っているので、それも難しいかもな。小さなコミュニティ-では“人”が“ひと”になることができる。規範的な人ではなく、もののあはれ、いとおかし、を理解する大和言葉の“ひと”である。最近の私の仕事であるところの主張は五感に頼ることが多い。それは20世紀型の科学とは相性がわるい。人を“ひと”として見つめること、それしか問題の本質を理解する方法はないのではないか。新しい問題解決型科学を確立させたいと思うが、その概念はすでにできていると思う。(2021年8月6日)

努力は報われるか

オリンピックでは日本も頑張っておるなぁ。金メダリストは努力したから報われたのであって、努力すれば報われるわけではないよな。努力という言葉の背後には、常に世界のレベルを注視し、自分の状態と比較し、世界に追いつき、追い越すように戦略的に努力するという意味が含まれている。学生にはこのことを伝えたい。論文を書くということは常に世界のスタンダードを確認し、自分の位置を見極め、世界を超える道を見つけ出すという行為なのだ。何よりも研究の作法に則っていなければならない。それが信頼を生み出す。その上で、論文は論理により世界を納得させなければならないのだ。なかなか伝えることができないのう。私はもう老いた。いろいろな人生があるのだ。広い視野を持って、幸せの確保を目標にしてほしい。(2021年8月4日)

おかしくなっていませんか

抱えているたくさんの仕事の締切がどんどん迫ってくる。催促も来る。頭を使わなければならない仕事なので、脳みそが破裂しそうだ。コロナ禍の“ひとり”も関係しているだろうか。先日結果が返ってきた大学のストレスチェックでは“ストレス反応の状態は普通より少し高め”とのこと。実際に心身が壊れるストレス状態とは想像もつかないほど厳しいものなのだろう。自分の状況はまだまだ軽いということ。最近、自分の発言がどんどん批判的になっている様な気がする。それは自分を認めろ、自分に気付け、という反応なのだろう。発信もしているので“なんじゃあいつは”ということになっていないだろうか。何とか盆休みまでには仕事をかたづけて、しばらく休みたいものだ。近藤がおかしくなっていたら教えてください。(2021年8月3日)

乳酸菌のバランス

ヨーグルトというのは乳酸菌が多種類入っていればうまいというわけではないらしい。LG21起源の自作ヨーグルトの次回分の種が足りなくなってしまったので、整腸薬のタブレットを三粒追加してしまったのだ。フェカリス菌、アシドフィルス菌、ビフィズス菌が成分なので良いだろうと思ったのだが、かみさんに味を見抜かれてしまった(そんなに悪くはないと思うのだが)。LG21菌は胃で増殖でき、フェカリス菌とアシドフィルス菌は小腸、ビフィズス菌は大腸にすみつくということなので、完璧なヨーグルトができたと思ったのだが。3ターン目は変な風味もなくなり、熟成したかなと感じたが、次回分はR1菌で作成。調べたらR1菌は風邪やインフルエンザ抑制効果があるという。これは今の状況にぴったりではないか。ということでしばらくR1を増殖させることにする。自作ヨーグルトもすっかりルーティーンになった。かみさんは甘酒をつくっている。(2021年8月2日)

科学者とは何か

AmazonのAIお勧めで思わず買ってしまった村上陽一郎の著作。そこに書いてあったことは日頃、私が主張していることと同じではないか。もちろん、私よりも遥かに深い学識と、精緻な論考で“科学者”を論じている。この本の初版は1994年で、2011年に18刷が出ている。売れているということだろう。1994年はギボンズのモード論が書かれた年である(日本語訳が1997年)。内山節・大熊孝・鬼頭秀一の三人委員会が1996年(「ローカルな思想を創る」が1998年)、小林傳司の「トランス・サイエンスの時代」が2007年、...科学のあり方、人と自然の関係に関わる著述をたくさん読んできたが、なかなか世の中は変わらないようだ。日本の科学者のマインドは90年代後半に始まる構造改革以降、大きく変わってしまった。ただし、科学者のあり方を問う底流はある。それはいつか奔流となるはずである。ならなければ日本は沈むだけだ。定年も近いし、隠者となって世の中を眺めていたい。(2021年7月30日)

英語にがて

益川さん亡くなってしまったなぁ。親しみやすい風貌で、いつか南門前の横断歩道ですれ違ったとき、知人かも知れんと勘違いし、挨拶しそうになってしまったが、私が知っているだけだった。私が益川さんが好きなのは、英語が苦手だったということ。私も国内回帰した頃から英語はますます苦手になった。そもそも日本の心を英語で伝えることはできん、英語を使うことは背景にある欧米思想に取り込まれていることだ、などと主張し、英語を拒否してきた。しかし、評価社会の中で高評価を得ることができる英語ができないと不利であることは確か。外国人を含めた議論の場で主張できないことはストレスなので、最近また少しリハビリを始めている。半年ほど前、英語は国際語だ、なんていわれて言い返せなかったことがちょっと悔しかったから。でも、なるべくなら英語は使いたくない。日本語で考え、伝えなければならないことが山ほどある。最近、英作文は技術が解決しつつある。日本語で文章を作成し、AI翻訳に放り込むと、結構良い英語を出力してくれる。いずれは会話もできるようになることを期待。その時こそ学術が技術により深化するときだ。(2021年7月30日)

市民科学の時代

千葉県内水面漁場管理委員会に出席してきた。今日の議題は利根川のしじみと、青のり。利根川におけるしじみの漁獲量は減り続け、近年はまったく獲れていない。その理由は利根大堰と関係していると思われるが、実はよくわかっていないそうだ。各漁協は将来資源が回復したときに備えて、毎年採捕許可申請をしており、その承認の委員会であった。この課題に対して科学者は対応できるだろうか。時間がかかる地道な課題に取り組むことは現在の評価制度では難しい。この課題を解決したいという情熱が必要だ。こういうときこそ漁師も含む市民が実行する市民科学の出番ではないか。私は市民科学とは“市民が主体となり実施する科学的研究”で、科学者は目的の達成を共有するステークホルダーのひとりとして参加できれば理想的だと考えている(市民がデータを集めるだけの科学ではない)。これこそ「新しい野の学問」だと思う(2021年5月29日参照)。また、青のりの主要生産地は関西なので、質問したら、やはり千葉県における青のり養殖は北限らしい。ならば、ブランド化できないかと質問したらすでにいすみ市で取り組んでいるとのこと。調査に関する説明を受けて、塩分濃度と水温の調節が鍵だと思ったので、思いついたのが有明海の潮汐灌漑。アオってやつですな。コメントしたら、水門がないのが問題とのこと。一定の生産量を挙げている養殖場はラグーンなので、河川水との交流(低水温、低塩分濃度の要因)、塩淡水境界(地下の塩水の利用)も気になるのだが、研究したらおもしろいと思う。思いつきですが、なかなか若者が取り組めるテーマではないかも知れない。これも市民科学として実現できないだろうか。(2021年7月29日)

社会からの大学への要請

文句ばかり言っていると苦しくなるだけなので、真面目に大学のやるべきことについて考えたい。といっても先日のFE委員会における小林傳司先生のお話からのパクりなのですが、大学に対する社会の要請には三つあるとのことです。それらは、①exellence、②innovation、③social relevance。①の卓越性の評価には論文に対するいくつかのインデックスが使える。小林先生の資料にはノーベル賞?とハテナが付いていたが、今読んでいる村上陽一郎「科学者とは何か」によると、時代遅れの様である。②は産学連携、知財、社会実装が含まれるが、これを評価するのは市場である。“論文を書けば自分ではない誰かが社会に役立てる”というのはPielke(2007)のScience Arbiterであり、論文を書くだけならだけなら①として評価されなければならないのではないか。市場を相手にするためには理系の科学知だけでは不足だろう。③は社会的・人類的課題解決への貢献であり、SDGsや地球環境問題の解決に貢献することであり、その評価者は市民でなければならない。③の実行には科学者が勝手に提案しているだけではダメで、超学際(学際共創)の態度が必要である。ところが、目的の達成を共有すると、科学者の役割は相対化される。旧来の科学者としては受け入れがたいだろう。今、千葉大学は研究大学として①を重視しており、②は少しあるかも知れないが、真の意味における③はまだ十分ではないのではないか。あるいは③の実践者は大学の評価基準からはみ出してしまい、学内で分断が進んでいる状況かも知れない。大学を含む社会全体を俯瞰する視座、視点、視野が大学の持続可能性を担保するために不可欠なのだと思う。 (2021年7月28日)

近藤はB教員

今日の朝刊朝日「折々のことば」(鷲田清一)は心にしみる。「嫉妬する私は四度苦しむ」というものだが、①自分が排除されたこと、②攻撃的な感情に囚われていること、③その感情が人を傷つけること、④自分が凡庸な感情に負ける「並の人間」であること、が四つの苦しみだという(ロラン・バルト)。昨日、千葉大学教員業績評価が公表されたが私はB教員であった。五段階評価の下から二番目。「活動状況が良好」とのことですが、ひとつ下はダメ教員ですので、心の中の自己承認欲求がグリグリくすぐられる。この評価は千葉大学という企業に勤める平サラリーマンの営業成績評価であり、大学の本質的な機能に対する役割が評価されたわけではない、そもそも本質的な機能に対する議論がなおざりにされている状況の下での評価であり、気にすることはないと自分を納得させるのですが、“ひと”の“こころ”というものは弱いもの。自分はまだまだ修行が足りん。大学人は学術の担い手であり、学術は基礎、応用、公共の段階へ順次進んでいくものだ。基礎段階の評価は論文でよいが、応用段階では市場が判断し、公共段階では市民が評価者である。だから、近藤は評価結果を公開し、市民の評価を得たいと思うのですが、まあ、そんな甘いものではないだろう。組織の内部で文句を言っているだけでは一対多になってしまうので、自分は外から主張しようと思う。そういう場を持っていることは幸いであるが、実はそれも学術を巡る世界の分断の表れでもある。日本の学術はのっぴきならない状況にあることが、じわじわと実感されてくる。エリートをめざすだけの大学ではなく、学術に対する哲学、思想をベースにした大学人の行動規範を考えたいものだ。(2021年7月28日)

自作自食 レンジパスタ

ランチの(野菜)自作自食ももう二ヶ月近く続いており、ルーティーンになっている。これで定年まで行けそう。ただし、野菜増量レトルト食品の楽ちんメニューも飽きが来るので、今日はパスタに挑戦。ルクエの電子レンジクッカーにパスタ100g(一束)を半分に折って入れる。塩は1~1.5gとのことだが、わからんので適当。そこに水を150cc加え、600Wで4分加熱し、その後8分間蒸らす。その間に蒸し野菜を調理。今日はズッキーニ丸々一本分を輪切りにして蒸す。ここにパスタソースを混ぜようと思ったが、ズッキーニは塩・こしょう・オリーブオイルで食すことにする。ズッキーニの季節もそろそろ終わり。今年はよく食べた。パスタソースはカスミで見つけた2人分100円弱のレトルト。今日はキノコソース味。麺は水分がうまく飛んでいるので、研究室調理でも楽。固さも問題なし、結構いける。パスタは四束で300円を切った。自作自食ランチは大体一食200円程度で済むので、外食時の半分以下。定年も近いので質素な暮らしに心身を慣らせつつあり。(2021年7月27日)

西行はなぜ出家したか

これが気になっている。直接の理由はいくつか仮説があるが、根本的な理由はこう考える。西行はやりたいことがあった。しかし、自分の力、たとえば権力、知力、腕力、指導力、魅力、といったものが不足しており、達成できなかったことがひとつ。陰には自尊心との確執もあったのではないか。もう一つは、何とか食っていける当時の社会の状況があり(現代の都市社会では無理)、和歌の才能はこころを和ませた。ここが大切ではないだろか。隠者はみな挫折の経験を持っている。挫折といっても外形的なものだけではなく、こころの挫折もあるだろう。勝手なことを考えていますが、自分を西行に投影するのは、いささかおこがましいといえるか。(2021年7月27日)

日本人はなぜ責任をとらないのか

HKプラスでETV特集「白い灰の記憶~大石又七が歩んだ道~」を見た。大石さんはビキニ事件の第五福竜丸の元船員。大石さんと大江健三郎の対談で大石さんが問う。答えは日本人のあいまいさ(「あいまいな日本の私」を読まねば)。あいまいやけん、といわれても空しいが、ではどうすればよいだろうか。多大な犠牲をもたらした技術も、最初はよかれと思って作り上げたものだろう。そのモチベーションは罪ではない。しかし、支配や金儲けがモチベーションだったとしたら、それは責任を問わなければならんだろう。とはいえ時代の背景、時代の雰囲気というものもある。昔の行為自体を責めることは難しいが、時代の変化を認識できたかどうかという点は、組織や事業のトップにいた人は問われてもよいだろう。こりゃあかん、ということがわかった時点で行動することが重要だ。だからこそ、大学人は時代のあり方、時代の変化を見極め、発信しなければあかんのではないか。大石さんの長女の佳子さんの言葉が印象に残る。父の人生は前半はつらかったけれど、後半はとっても豊かな人生だったと思う、と。人生はいろいろだなぁ。(2021年7月25日)

オリンピック:変化の途上

オリンピックの開会式は、最初は“ちょっとしょぼいかな”と思ったが、見ているうちに“これもいいな”へと変わっていった。開会式は国威をかけて、世界を驚かせるもんだ、と思っていたが、時代は変わった。私も生きてきた時代の慣性のなかにあった。この開会式ではアナログ的な演出が、安心感と賞賛を生み出したのだ。一方で、新型コロナとの闘いの最中にある方々のことを忘れてはあかんな、と思う。それがエンパシーというものだろう。今、日本は変化への途上にある。聖火の最終ランナー、大坂なおみ(予想が当たりました)や旗手を勤めた八村塁を見ていると日本人という概念も変わりつつあることを感じる。日本は、そして世界はどこに到達するのか。まず現在の問題を見つめ、未来を展望する。同時に、未来を考え、バックキャストする。この二つの視線が交差するときが、変化の時である。(2021年7月24日)

無事な暮らし

コロナ禍に入る少し前から休日出勤はやめているが、昨日今日と久しぶりに出てきた(実は休日であることを意識していなかった)。オリンピックも始まっており、今日は開会式もあるので、家でまったりとしたいものだと思う。研究者稼業は楽しいことも多かったが、常にやるべきことを抱えており、この数十年、頭を空っぽにしてゆったりしたことはあまりなかった。性格なのでしょうがないが、このところ老いたせいか“無事(事も無し)”を求める気持ちが強くなってきた。無事こそゆとりである。隠者に対する憧れが強くなってきたのはそんなわけでもある。もうすぐ定年なので、達成できるじゃん、とも思うが、いろいろな事を犠牲にしてきた人生だった。そう簡単にはゆとりを取り戻すことはできんだろう。それにしても蒸し暑い。こんな季節は仕事なんかしなくても良いのだ。仕事をせざるを得ないのは、世の中が競争社会だからだろうな。何とか競争社会の仕組みをぶっ壊してやりたいものよ、と思うが、隠者にはそんな力は無いのである。(2021年7月23日)

誰のため、何のため

今日は千葉大学を“よくする”ことをめざす会議があったのだが、何となくモヤモヤしたものを感じてしまう。誰のために、何をよくするのか、という思想あるいは哲学に関わる部分がよく見えないのだ。誰が幸せになるのか、と考えて見ると、管理者、文科省、エリート研究者、といったことが思い浮かぶ。社会の中の大学として、本質的な大学の役割を、時代のコンテクストの中で問いたださなければならないのではないか。同じ思いを抱いている方も多いのではないかと思うが、否定することも難しい、美しい文言に対して、野暮な意見を言っても無駄、という感覚は確かにある。最近、評価に関する仕事も多いが、書類を読んでいると三種類あるように感じる。現行の評価システムへの適応、明らかな疲れ、大学としての矜持の主張。大学は変わらなければならんという思いが大学内に芽生えていることは明らか。その底流を奔流にするためには、外に向かって主張を続けるしかないな(小声で)と思っている。(2021年7月21日)

日本人の自然観と時代

今日の委員会ではもう一つおもしろい情報を得た。統計数理研究所が行っている「日本人の国民意識調査」で70年にわたって同じ項目があるとのこと。それは「人と自然の関係」に関わる質問事項で、①自然に従う、②自然を利用する、③自然を征服する、の三択からの選択である。高度経済成長期には③がぐんぐん伸び、①が下がっているように見えるのだが、1973年の第一次オイルショックを挟んで①と③が逆転し、以降、①が伸び続ける。②は同じレベルを保っているが、1992年のリオサミットの頃に①に抜かれ、以降は①がトップを独走する。人の意識は時代の影響を受ける。オイルショックの苦況、リオサミットにおける気候変動や生物多様性の課題が人のマインドを変えたとすると、現在のパリ協定、コロナ禍、大災害の時代は人のマインドを変える大きなドライビングフォースであるはず。すでに①がトップであるので、さらに①のマインドが増えていくことは間違いない。“自然に従う”の中身はわからないが、日本人にはもともと“もののあはれ”の感覚があった。自然に逆らわず共生するのはアジアのマインドでもある。一方、社会の都市的な部分は自然と分断されている。①のマインドがこれからの日本のjあり方を変えて行くはずであるが、経済優先の20世紀のマインドに負けないようにせねばならん。都市と農村の関係性の変更が必要だ。(2021年7月20日)

文理融合は無理?いやいや

今日のフューチャー・アース委員会のブレークアウトルームで文理融合の話題を出したところ、文理融合は無理、できないのには理由がある、といった意見が出てきた。その理由を明らかにしたいのだが、短時間では議論が煮詰まらない。詰まるところ、文理の対話が少ないことが理由ではないか。同じ問題を異なる視座・視点・視野で眺めているのだが、両者の意識世界が交わらない。お互い、自分の価値観をどうしてわかってもらえないのか、と思っている。だから対話があれば良い。価値観の違いは、ローカルとグローバル、現在と未来、名前があり、顔が見える人と平均的な人、といった観点から説明できるだろう。視座・視点・視野の違いが認識できれば、両者を融合させることができるだろう。文理融合を妨げているもう一つの壁は研究評価のあり方。20世紀型の“一本道の科学”偏重の評価基準、現場の科学者ではなく科学行政のトップが幸せになる仕組みにあろう。ではどうするか。科学の本質とは何か、という問いに対する国民全般の意識を深めていく必要があるが、国民の関心という観点では経済の壁もある。お金が大事だよ、という感覚。文理融合のためには資本主義、すなわち現在の社会のあり方改革の議論が必要になるが、実はその時宜は来ているのだ。(2021年7月20日)

40年ぶりの快挙

この時期、週末は草取りをサボることができない。真夏となり、作業は厳しいのですが、少しずつやればいつの間にか畑はきれいになる。取った後から雑草は生えてくるが、草取りは修行だ。雑草は野積みで雑草堆肥にして、いずれ土に還す。野菜の残渣はコンポスト容器で堆肥化する。3時間もやるとヘトヘトである。シャワーを浴びて体重を量ると、59.8kg。体重が60kgを割るのは40年ぶりである。大学院で一人暮らしを始めて一気に体重が増え、結婚してさらに増え、ピークは70kg近くまで達したこともある。最近体重が減少気味だが、野菜の摂取が増えているからだろうか。昼も自作野菜持ち込みで簡単に済ましている。その後、ビールを注ぎ込み、冷酒を飲みながら夕食。犬の散歩に出かけ、水分補給。風呂に入る前に体重を量ると、61.2kg。けっこうな量を飲み食いをしているのじゃな。後は筋力を付けなければならんと思うが、その前にストレッチングせねがあかんのではないじゃろか。足の疲れがとれないのは筋肉や腱が固いからじゃろう。(2021年7月18日)

自作自食-ヨーグルト

ヨーグルトの自作も始めました。アイリス・オーヤマのヨーグルトメーカー。1リットル牛乳パックに種ヨーグルトを入れて一晩。設定は自動。明治ブルガリアヨーグルト100ccから明治ブルガリアヨーグルト1000ccができました。味はブルガリアヨーグルトそのもの。これは良いものを手に入れました。おなかの調子も良くなりそうです。ルクエのチーズメーカーによるカッテージチーズも週末には楽しんでいます。レモン汁よりお酢の方がおいしいような気がします。自作すれば味もまた格別です。(2021年7月16日)

仲良しグループの政治

酒取引を巡る西村大臣の要請は撤回されたものの後味が悪い。第二次安倍政権以降政治と権力の関係がおかしくなっているが、ますます顕著になってきたようである。様々な背景に思いが至らないのは官僚の知識、経験を活かしていないことと、世間との感覚が乖離していることを意味する。それは仲良しグループを形成して行ってきた政治の顛末であり、権力者が“思う”ことがそのまま政策になってしまう現状の顕れでもある。“思う”ではなく、“考える。なぜなら~であるから”と発言し、“だからこの政策を実施する”、とならないものだろうか。政治は決断でもあり、その背後には複数の選択肢がある。複数の選択肢を提言するのは専門家の役割である。政治家には総合的、俯瞰的観点から政治に取り組んでいただきたいものである。(2021年7月15日)

盛土と残土

7月3日に発生した熱海の土石流災害の地盤工学会による報告を視聴した。やはり専門家の話は聞くものだ。中間報告で、すでに古くなってしまった情報もあったが、谷埋め盛り土に関する意識を新たにすることができた。盛り土災害は自分の講義でも取り上げているが、どうしても危険というニュアンスになりがちである。法律施行後にきちんと造成された住宅地の盛り土は直ちに危険ということはないのである。技術による便益を人が受けているといっても良い。熱海の場合は盛り土というよりも法律を逸脱した残土の投棄といっても良い。源流部の谷埋め残土投棄は危険と高らかに宣言して良いだろう。現実には様々な場合がある。それを地域ごとに診断して判断することが必要な時代になった。普遍性で成り立った20世紀の科学技術では対応不可能なのだ。ただし、技術にも賞味期限がある。盛り土がきちんとメンテナンスされているか、何十年にもわたってモニタリングする必要は残されている。自然の不自然な改変は高度経済成長時代の已むに已まれぬ行為だった。これからの時代は変わらなければならない。(2021年7月14日)

フォーキャストとバックキャスト

土曜日の学術フォーラムにおける私(地球環境変化の人間的側面(HD)分科会担当)のスライドに対して、SDGsがフォーキャストと誤解されるのではないか、というコメントがあった。確かに私はSDGsをフォーキャストの側に位置づけていた。それはSDGsの成立過程では“現在”の問題の解決を願う途上国の切実な思いがあったからと考えているから。古沢広祐先生(國學院大學)の著作(「みんな幸せってどんな世界-共存学のすすめ」、「食・農・環境とSDGs」)を読んでそう感じた。コメントにはエビデンスベースで再検討するなんて答えてしまいましたが、やはりこのことは“感じる”ことで、従来型の科学の作法に則り論理的に説明できることではないのではないか。人間中心の学術では、“感じる”ということを重視しなければあかんのではないかと感じるわけです。一方、SDGsの実施段階ではバックキャストとした方が、人々を引きつけることができるのかもしれない。何となくかっこいいから。バックキャストとして実行した方がムーブメントにつなげやすいのだろうが、フォーキャストを考える部分にこそ人間的側面があるのだと思う。(2021年7月5日)

宮城県上水道民営化に思う

朝日朝刊から。正確には上水道(と工水)の運営権を民間に売却するということであるが、自分としては心配。上水と工水が対象ということであるが、工水の需要減が背景にあるのだろうか。調べなければならないが、自分としては危うい決断なのではないかという思いが強い。県営水道が対象と思われるので都市部に関わる問題だと思うが、人口減少の状況下では切り捨てられる地区が出てくるのではないか。広域水道は人が集住していないと効率が悪くなる。人が土地に依って生きる権利の侵害も心配。この政策は20世紀型の発展モデルの延長にあるように思う。これを機に非都市部の地域では水の保全と地産地消の体制を強化しておく必要があるだろう。20世紀型の都市化、集約化による発展モデルとは異なる未来の創り方が地域にあると思う。生きている限り、そんな地域のあり方を主張しながら注視していこうと思うが、それも楽しみ。(2021年7月5日)

チーズ自作自食に成功

雨が続くと畑が荒れてしまい、心配。収穫も草取りも滞っている。作物が弱り、ズッキーニは腐り始めている。とはいえ雨の中、農作業する気にはなれないところが“楽農”である。先日アマゾンでやたら安いチーズメーカーを見つけて発注したら案の定なかなか届かなかったが、ようやく中国から届いたのでチーズ作りを試みた。牛乳1リットルとお酢少々でカッテージチーズが完成。これがなかなかうまいのだ。リタイアしたら時間はたっぷりある(ことを期待)ので、いろいろなものを自作自食したい。チーズに成功したので、次はヨーグルト。その先には味噌、醤油がある。(2021年7月4日)

高みと実践

今日は日本学術会議の学術フォーラム「...-環境学の新展開-」で話をした。主題は長いので省略。相変わらず自分が頓珍漢なことを話しているのではないかという不安が払拭できないが、それは気にしないことにしよう。それなりに権威のある場なのだが、どうしても違和感を感じてしまう。チェホフの「手帖」にあるパーティーの様なのだ。もちろん他の講演者の分科会、委員会では使命感を持ち、それぞれのミッションを遂行しているので失礼な言い方であることは自覚しているが、高みからの主張であるような気がして、自分としては恥ずかしいのだ。環境問題は人と自然の関係性に関わる問題なので、現場における実践がなければならないと考えている。小さな営み(研究)が重要なのだ、ということも主張したので、きりの良いところでスパッとやめて現場に入りたいなぁと思っている。とはいえ任期は2年残っている。現場に入るということはコミュニティーの一員になるということである。単に関わるということとはちょっと違うと思うのだ。生き様とも関係しているのだが、納得できる生き様で人生を閉めたいと思う。(2021年7月3日)

「思想」、「嗜好」、「習慣」

中島岳志曰く、柳宗悦は、本質を見過ごしてしまう三つの理由としてこの三つをあげているそうです。その通りだと思うが、様々な思想、嗜好、習慣を俯瞰し、尊重できればよいのだと思う。習慣は惰性と置き換えても良いというが、まさにそれぞれの人生の期間における経験の慣性がもたらす意識の世界ではないか。すべてを俯瞰し、外から眺める生き方、それが大和言葉の「ひとり」であるように思う。「ひとり」は「隠者」。隠者は世界の外側に居る。といっても俗世間との交わりを経つわけでもないのだ。鴨長明や兼好法師の生き方がそうであったと思う。隠者になりたいものよ。(2021年7月2日)

「真理」と「真実」

「『利他』とは何か」、を読みながら、思う。利他を学問の立場から論じるのは良いのだが、もっと簡単に「思いやり」で説明しても良いのではないか。「思いやり」には「エンパシー」も含まれているはずだ。一人一人の真実を受け止めることが大切であり、真理によって解決しようという態度は科学的ではあるが、人間的ではない。もっと人間的側面を重視しなきゃあかんと思う。中島岳志氏の章でこんな記述に遭遇。「利他という出来事は、真理的にではなく、個々人の生の真実として経験される」。ある事象の受け取り方は人により異なるが、みな真実なのである。中島氏も指摘しているが、これが証明可能な真理を扱う“科学”とは異なるところである。科学は狭い意味で捉えられるところが多いので、学術という言葉を私は使うようにしているが、真実に迫ることができる学術こそが今の世に求められているものだ。(2021年7月2日)

利他と施し

冒頭に利他について勉強を始めたと書いたが、まずは「『利他』とは何か」(伊藤ほか編、集英社新書)を読み始めたところ。いろいろな考え方があるものだ。利他にも「合理的利他主義」、「効果的利他主義」というものがあるそうだ。前者では「自分にとっての利益」が行為の動機となり、後者では自分にできる最大の善を施すために目の前のことに取り組むのではなく、効率的に稼いで最大限の寄付をするという。それでも良いのだが、利他と施しは違うのではないかという思いに至る。施しはキリスト教から来ているのではないか。そこで検索すると「寄るべのない者に施しをするのは、主に貸すことだ。主がその善行に報いてくださる」という聖書の言葉を発見。やはり利他の背後には神がいる。仏教における布施は決して貨幣や物品だけではない。 検索したら「無財の七施」を発見。仏教の施しはセラピーまで含むといって良いようだ。心の利他といっても良いと思うが、それがエンパシーではないか。キリスト教でも、マザー・テレサが偉大なのは現場に身を置いて苦しむ人々の立場で行動しているからだ。なかなかマザー・テレサにはなれないが、心の利他を考えると誰でも“利他”を実践することができる。(2021年7月1日)

もののあはれ

2021年7月は梅雨らしい天気で始まった。心地よい雨音、ひんやりした空気、濃い緑とその中に散在する夏の草花、しみじみとした気分になる。これを“もののあはれ”というのだろう。ところが各地で大雨になっており、気象庁や大雨地域の行政はてんやわんやの状況になっていると拝察いたします。不安の中で避難なさっている方々も多いはずで、“もののあはれ”などといっている場合ではないのである。なぜ人はハザードに対してこれほど恐れおののかなければならないのか。うまく自然と付き合う術はないのか。自然に対する知性、自然と付き合うための思想、哲学を持ちながら、連携することができる社会であれば(5月6日参照)、自然の営みは“もののあはれ”として感じることもできるのではないだろうか。そんな社会を創りたいものだ。(2021年7月1日)


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