口は禍の門

 定年まで一年を切ったところであるが、最近は過去を振り返ることが多い。それは老いたということでもあるが、振り返るに足る十分な過去の蓄積ができたということでもある。世の中は未来志向の傾向が強いが、過去を歴史の中に位置づけることによってしか未来を展望することはできないのではないか。過去を単なる経験としたままで未来を展望するとどうなるか。かの国の大統領の過ちはそこにあるように思う。自分の過去を時代のコンテクストで眺めることによって見えてきたこともあるが、それは個人の見解に過ぎない。しかし、共感する人が増えることにより未来を創る原動力になるかもしれない。それは容易なことではないが、一隅を照らすことができれば人生の味わいは深まるだろう。(2022年4月1日)

 時間の進み方は歳を重ねるごとに早くなる。元気に活動できるのは残り10年足らずだろうが、あっという間ということになるだろう。ここで黄昏れてしまうのは一直線の時間しか認めない欧米的な態度である。かつて日本の農的世界にあった循環する時間を取り戻すことができれば、安心して老いていくことができる(内山節の哲学より)。そんな暮らしに対する憧れはあるが、“ひとり”であること受容し、残りの人生を無事に過ごして生きたいと思う。伝統回帰はスパイラルな回帰であり、循環する時間の中で新しい暮らしを創造したいものだ。(2022年1月1日)

2021年12月までの書き込み


ボトムアップによるカーボン・ニュートラル達成の試み

カーボン・ニュートラル実現のためのボトムアップ型アクティビティーである佐倉市小竹の「竹炭整備リレー」に参加してきた。2月に続いて今回で2回目。今日は電動ノコギリを持参し、竹を切りまくった。運動不足がたたり身体はガタガタになったが、涼しい風が心地よい。竹はその場で燃やし、竹炭を生産。浅い穴を掘り、竹を投入して燃やす。最後に水を散布するのがミソらしい。燃え尽きたら灰になってしまうからね。半日の作業で回収したCO2量は概算で1t超とのこと。お土産でもらった炭をうちの畑に散布。わずかではあるが土壌改良になるかも。子供も含む50名の参加者が楽しく汗をかいたが、このような活動がもっと広まると良い。カーボン・ニュートラルは世界における喫緊の課題だが、高みからかっこいいことを言って満足しているだけではかっこ悪い。まずは実践して、広めることが大切。カーボン・ニュートラル時代の精神的習慣の醸成から未来が拓ける。クルベジ野菜の惣菜と竹の子ご飯のおいしかったこと。冷やし甘酒も絶品であった。(2022年5月22日)

傘がない

井上陽水の曲ではないが、傘がないのだ。環境アセスメントの案件では、委員会の所掌範囲をいとも簡単に超えてしまうのだ。行政の縦割りのため、案件を総合的に扱うことができないのだ。縦割りはアンブレラ(傘)となる仕組みがあれば、効率的ともいえる。でも、傘がない。行政機構の上位、あるいは政治家が傘になれば良いのだが...。背景には“環境”のマジックワード化がある。環境アセスメントでは環境は自然の意味なのである。漁業とか災害とかは別の部局が担当するのだ。しかし、環境とは人、自然、社会が相互作用する範囲のはずだ。英語のEnvironment、フランス語のMilieuであるはずだ。すべて関係しているという意識の元で考えなければアセスしても人や自然、社会の一部にとって良いことにしか過ぎなくなる。(2022年5月20日)

劇場型環境問題

朝日夕刊から。ヨハネスブルク支局長の遠藤さんの記事。タイトルは「アフリカ干ばつ 気候変動 ひとごととせず」。アフリカの角と呼ばれる地域で起きている干ばつは私も気になっていた。状況だけでなく、個人、NGO、政府、国際機関等が何を行っているか知りたいと思っていた。それについても若干触れられていたが、記事の最後は「気候変動対策にさらに力を入れるきっかけにしてほしい」と結ばれている。それは絶対否定できないことであるのだが、気候変動に視座が移ったとたん、干ばつの現場は読者の視界から消える。劇場型環境問題と化するのである。災害や環境問題は“現場の現在”をキーワードとして伝えてほしいと思うのだ。この瞬間に苦しんでいる人がいるということ、それに対して多くの方々、機関が何とかしようとがんばっていること、その延長線上に気候変動があるというストーリーで伝えてほしいのだ。もちろん、あんたは何かやってんの、何ができるの、という批判は甘んじて受け入れるが、現場の現在を知り、何とかしたいという精神は失わずに持ち続けていたい。その上で気候変動を考えたい。(2022年5月18日)

研究者の矜持

教員会議の後の教授の打ち合わせでこの言葉を使ってしまったのだが、今の大学では矜持を持つ研究者はどれだけいるだろうか。ここで矜持の意味を手元の明鏡国語辞典で調べると、「自分の能力をすぐれたものとして抱く誇り。プライド。」とあった。けっして研究という行為の価値を社会の中で位置づけて、自分の研究の価値を高めようとする精神、という意味ではないのだ。地位、名誉を得て抱く誇りもあるのだろうか。むしろこの方が一般的で、社会も認めているのかも知れない。それが日本の研究力低下の一因ではないか。他に良い言葉はないだろうか。(2022年5月18日)

縮退の時代の必然

大学の教育研究評議会報告の項目に、調達費用削減の取り組みというものがあった。コンサルティング会社を入れて診断した結果、最大で4億円超の節約ができる可能性があるとのこと。これまでは部局ごとに納入業者が異なっていった品やサービスを一括発注することにより安くしようという魂胆らしい。節約自体は結構なことだが、大きな業者ほど有利になり、個人事業主が受注するのは困難になるのではないか。大会社にとっても、社員の幸せになるだろうか。貨幣獲得を目的とする資本主義の仕組みのなかの従業員の生きがい創成というわけにはいかんだろうな。小さく弱いところから切り捨てられていくのは豊かな時代を経験した後の縮退の時代の必然であるように思う。だとしたら過去からの慣性に囚われず、縮退の時代にあわせた生き様を模索する必要がある。それは都会ではなく、農山漁村にあるような気がするのだが、定年後に実践といきたいものだ。(2022年5月18日)

落ちぶれたって○

朝日朝刊、鷲田さんの「折々のことば」の解説から。○には噺家が入り、「出世したって噺家だし、落ちぶれたって噺家」となる。古今亭志ん朝が落ち込んでいる時に父の志ん生が言ったのだという。「ついでに生きてる」が父の口癖で、息子は「世の中ついでに生きてたい」(河出文庫)を著す。芸人や職人は落ちぶれたって「ひとり」の世界を生きていくことができる。だから、生きていることがついでになってしまうということか。鴨長明の「数奇のなかでの往生」に通じるように感じる。そんな境地に入りたいものよ。○に研究者が入ったらどうだろうか。落ちぶれた研究者は箸にも棒にもかからないということになりそうだ。それは研究者が文科省や資金配分機関が雇用主の従業員だからだ。従業員としての研究者は地位、名誉が損なわれると自信を失ってしまう。研究者が職人、芸人であれば、大衆の暮らす世界が技や成果を試す対象だ。「ひとり」でことに取り組みながら、ついでに生きてんのよ、と飄々と大衆とともに生きていくことができそうだ。大和言葉の「ひとり」とは大衆と自分を切り離した状態ではない。職人として大衆とともに歩む研究者、それは市民科学者の姿でもある。たかが研究者として地域の問題、課題に取り組みたいものだ。落ちぶれたって研究者、なのだ。いや、研究者という鎧も脱ぎ捨ててよいのだ。そうすれば落ちぶれることなどありやしない。(2022年5月12日)

人生を味わい深く

そうなりたいものだなぁと思うが、味わい深いとはどういう感覚だろうか。艱難辛苦を乗り越え、涅槃に達した時に現れるものだろうか。夜半にチキチキ音がするので(足音です)見に行ったら、うちのくろみさんのうんこちゃんがあった(くろみさんについてはうんこちゃんと呼んでいる)。暗い中、寝床から抜け出して、あっちこっちにぶつかりながら指定の場所に到達し、用を足して戻っていったというjことだ。老チワワのくろみさんはもうすぐ16歳。眼はほとんど見えず、心臓も機能低下、足腰も弱っている。でも本犬はそんなことちっとも気にしていないに違いない。すべてを受け入れて粛々と生きているのだ。ここで、ハッと気づく。すべてを受け入れることによって人生の味わいが生まれるのではないだろうか。犬から学ぶことも多いのだ。(2022年5月11日)

役割の相対化の受容

午後は防災学術連携体のシンポジウムを聴講した。タイトルは「自然災害を取り巻く環境はどう変化してきたか」。ハザード研究、ディザスター研究、現場における実践が取り上げられており、良かったなと思う。ただし、手を上げた各学会がそれぞれ講演を行うだけだったので、ハザード・ディザスター・現場をカバーする俯瞰的な視点は見えなかった。そこに向かうステップとして位置づけることができるのだろう。学術には基礎・応用・公共のフェーズがあると考えているが、防災という課題では公共、すなわち現場における実践が先行する。勝手にやっている基礎や応用では置いてけぼりになる可能性もある。基礎・応用・公共の連携が大切なのだが、目的達成の共有の枠において研究者の役割は相対化される。ひとの暮らしを守るために、相対化を受容できる研究者、研究分野を育てることが喫緊の課題だと思う。研究者が防災という課題の中で機能を発揮するには、研究の目的を論文ではなく、問題の現場における目的の達成とすることができる精神的習慣が必要なのだ。(2022年5月9日)

見解の価値

午前中は一年近く放してしまった学術会議のある分科会であった。大先生には怒られてしまったが、精神が萎えてしまっており、しばらく進めることができなかった。この分科会は極めて重大な課題を扱っているが、それだけに難しさもひとしおである。客観で構築できる学術とは異なり、主観の領域に踏み込まなければ真実が理解できない領域だと考えている。だから、見解を出したとしても普遍性はないのだ。現代哲学に普遍性がないのと同じである。見解は客観性、普遍性ではなく、どれだけ同意する人々がいるかによって時代における価値が決まる。時代の精神を創り出す営みでもある。難しいのだが、そんなことをいっている場合でもない。頭を使わなければならないが、自分の頭は劣化が始まっているのだ。(2022年5月9日)

悲しき人間

探していた「イソップ寓話集」(岩波文庫)が本棚から出てきた。おなじみの古代ギリシャ時代の寓話集であるが、何カ所かに付箋が挟まれている。最初に読んだときに、人間の悲しい性が語られている話に印をつけていたもの。憎しみから逃れられない話、嫌いな奴が不幸に陥るをの見るために自分の命さえ差し出すことができる話、敵を殺せるのなら敵とともに死ぬことも甘受できるという話、など。いやなことが次々と起こるこの頃だが、人間(動物として語られているが)の性は何千年も変わっていないのだろうか。ウクライナを契機として改めて世界各地で起きた争い、差別や誹謗中傷などを思い出す。人間ってのはつくづく悲しいものやな。進歩やら発展やらというが、人間の心は変わることができるのだろうか。科学技術が進歩しても、それを使う人間の心も進歩しなければ近代文明人とはいえないのではないか。チンパンジーはもはやボノボにはなれないのだろうか。(2022年5月8日)

楽農報告

連休もほぼ終わりだが、今年は畑仕事に精を出したおかげでだいぶきれいになってきた。課題は野菜をいかに消費するか。昨年秋に収穫予定のホームタマネギは葉が枯れたら収穫しようと思っているうちに葱坊主がついてしまった。廃棄しようとしたのだが、食えるんじゃないか、との声があり、食べてみたらいける。たくさん収穫したが、すぐ新玉のシーズンだ。がんばって食べねばならぬ。もっと大きくなるはずと思い込んで収穫時期を逸したニンジンはスジがあってだめ。これは廃棄して堆肥にする予定。種から育てたズッキーニ、枝豆を移植。さらに種をポット植え。時間差で収穫する予定。昨年飛んだコキアの種が大量に発芽しており、もったいないので一部移植したが多過ぎ。除去を始める。もったいないなぁ。ホウレンソウ、春ダイコンは収穫期をずらして少量ずつ種まきしたつもりだが、すでに収穫適期となっている。これもがんばって食せねばならないのだ。花の種をたくさん蒔いたのだが、これも発芽し、開花が楽しみ。芝生もようやく青くなってきた。夏にはチェアリングができるようになるかも。定年後は畑に出勤となるだろう。同じ時空の中で戦争が進行中である。(2022年5月5日)

晴耕雨読ー考えることの価値

連休初日の29日は雨だったので読書三昧、晴れの30日は畑仕事に精を出す。1日は午前中の晴れ間に畑で作業し、雨が降り始めた午後は読書。自分だけ満足しているのは家族には申し訳ないが、理想的な暮らしだなぁ。山折哲雄の3冊を読み終えた後は、「マンガで実用 使える哲学」(平原卓、柚木原なり)を読み始める。私のようなにわか思想家には哲学をおさらいするのに便利である。ハナ・アレントの「全く思考していないことが、最大の犯罪者のひとりになる素因だった(エルサレムのアイヒマン)」はロシアの現実を理解するキーポイントになりそうである。山折哲雄からは老人パワーを頂いた。今まで老人はワキの人間として扱われてきたが、実はシテの役割を担う存在なのではないか。いろいろ考えるということが、自分の人生だけではなく、この社会にとっても重要なのだなと改めて思う。(2022年5月1日)

絶望的な不均衡ー科学者と当事者の間

まとめ買いした山折哲雄の3冊目「ひとりの覚悟」(ポプラ新書)からはまたいろいろ学ぶことができた。最近のマイブームは「ひとり」、「死」(老いましたのできちんと向かい合わなければなりません)、そして「日本人のこころ」なのであるが、碩学の話を聞いていると科学者にまつわる話も登場する。現実では解くべき問題に対する対応において結果責任はすべて当事者が負う(ここでは出生前診断の話題でした)。最終責任は科学者の側にはまわっていかない。そこに科学者と当事者の間に大きな不均衡の溝があるという。もちろん現場において当事者と交わって、心がかすめ取られる直前まで現実と向き合う方法をとる分野もあるが、それは人文系や社会系がほとんどだ。山折氏も文系の学者なので、氏いうところの“絶望的な不均衡”は理系の科学者に対する批判と捉えて良いだろう。このことは自分も環境問題や事故といった課題に対峙しているときによく感じることである。美しく倫理的な発言の背後に現場との乖離を感じてしまうことも多い。科学と称する営みの目的が現場の目的と乖離していることは災害や、グローバルな環境問題ではよく経験する。大学運営にも少し関わっているが、大学における研究の目的は文科省の覚えめでたくなることであり(千葉大は研究大学)、研究の本質的な意味が議論されることはない。もっとも総合大学における分野が広すぎて議論が難しいことは確かであるが、科学者としての教員と運営の当事者としての目的の不均衡と捉えることができる。それでも時々発言はしてみるものの、空しいのである。現実と交われば研究者の“意識世界”は広がっていく。だとすると自分の変化は必然だとは思うが、禄を食む組織人でもあることが重荷でもある。早く身軽になりたいものである。(2022年4月30日)

主語を忘れた正義の声

山折哲雄「老いと孤独の作法」(中公新書ラクレ)を読み終えたが、頭にこびりついたのが「主語なき普遍主義の声-主体を亡失した正義の言葉」。ある事象の真の原因を指摘することはできても、責任は歴史や社会が負っており、...そのことは“みんな”で考えなければならないという主張。それは自分ではない“みんな”なのである。その事象を“わがこと”として受け止める言葉や声はどこからも聞こえてこないのだという。胸を短剣で突き刺されたようである。背景には身を挺して実践を行ってきた古の賢者たちがいる。自分も歳をとり、この世の諸問題に対して発言をしなければならない立場になってきたが、問題をわがこと化して、行動しなければ、恥ずかしいだけである。とはいえ行動には知識、経験、勇気が必要だ。自分の様な小心者にできることではない。「市民科学者として生きる」(高木仁三郎)で引用されていた萩原恭次郞の詩が頭に響く。「無言が胸の中を唸っている/行為で語れないならばその胸が張り裂けても黙ってゐろ/腐った勝利に鼻はまがる」。だから、隠者となり、小さく生きたいと願うのである。(2022年4月29日)

普遍性と真理

ヤスパースについて調べていて“哲学の本質は真理を探究することのうちにある”という文言に出会った(平原卓さんのホームページ)。科学技術主義者からは“哲学は普遍的な成果を持たない”と批判されているという。それは内山節の“現代哲学には普遍性はない”でもすんなりと理解できる。一方で、科学者は“科学は真理の探究だ”なんていう。ははん、なるほど。普遍性とは真理の一部を構成するものなのだ。だから“科学は普遍性の探究だ”といった方が正しい。世の中は普遍性では理解さえできない問題に満ちあふれている。科学だけでは問題の解決や諒解にはほど遠い。だから、本質を理解するためのオルタナティブ・サイエンスが必要なのだ。サイエンスは普遍性を探求するが、オルタナティブ・サイエンスは真理の理解をめざす。こういうことなのではないか。(2022年4月26日)

数奇のなかでの往生

山折哲雄の「ひとり」に関する本を三冊買い込み、まず「『ひとり』の哲学」(新潮選書)を読み始めた。若い頃はこういった書籍を読むことは苦行だったが、最近は面白く読めるようになった。修行の成果かもしれん。その中で鴨長明の言葉に出会った。「数奇というのは、風流の道、風雅の道である。その風流、風雅にこころを澄まし、そこに全身を投入していれば、その果てに訪れる往生には価値がある。ありがたい往生ではないか」と。一日に一度は「死」について考えるという習慣も確か山折哲雄から教わったものだと思うが、好きなことやってりゃいいんだよ、ということ。そう考えると生きるのが楽しくなる。暮らしの必要さえ満たすことができれば、あるいは庇護者が社会のなかに位置づけられていれば。そんな社会を実現したいもんだ。(2022年4月23日)

馬とジョッキー

今日は午前中から環境アセス委員会の現地視察だったのだが、外にいるだけで身体がやたら疲れた。毎日の犬の散歩と週末の畑仕事で運動はしているつもりなのだが、ぐったりだ。不調の原因はメンタルにあると思っているが、やはり心と身体は一体なのだ。おそらく自分の馬とジョッキーがてんでんバラバラの方向に向かおうとしているのだろう。馬とジョッキーは心の中にいる。東畑開人の「なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない」(新潮社)から。心は一つではないのだ。社会の精神的習慣に縛られた「やるべきこと」(ジョッキー)と、心が「やりたいこと」(馬)の間に齟齬があり、身体が翻弄されているのだ。今日の環境アセスでも手続きと理想の間で揺れ動いてしまう性格が疲れを増幅している。アセスはやりがいはあるのだが、日常の仕事では、“やらにゃあかん仕事”と、“やりたい仕事”が齟齬を来しながら、心の容量を超えてしまい、一部が“やりたくない仕事”に変わってしまい、やらないことが自分を苛むのだ。後11ヶ月で定年で、その後の一年の間にはやりたい仕事にシフトしようと企んでいるのだが、人はそれをわがままと呼ぶのだろう。(2022年4月22日)

仏像のまなざし

久しぶりの出張だった。最後の出張から2年以上経て再び京都。後泊にしてもらったので三十三間堂に仏像に会いに行った。大好きな千手観音が千体も並ぶ圧倒的な雰囲気の中に身を置く。仏像の冷たいまなざしに射貫かれるのが好きだ。仏様は人の些末な願いなど叶えてくれないのだ。もうどうしようもない状況になったときに、心の深層に諒解を与えてくれるのが仏の救いなのだと思う。1000の眼で世間を眺めながら、何百年も考えつづけている。偉いもんだと思う。その姿を見ていると、まぁ、何とかなるだろうという気持ちになる。三十三間堂を出て、目の前の京都国立博物館に向かう。ここでは空也上人像に会うことができた。六波羅蜜寺ではなく、浄土寺の空也上人。帰りに東京国立博物館に出張中の六波羅蜜寺の空也上人と会おうかとも思っていたのだが、浄土寺の空也上人に会えてよかった。疲れて早々と京都を後にしたが、明るいうちに帰宅できたので畑作業に取りかかる。畑にいると心が落ち着く。最近は花が好きになっているのだが、西行の影響だろうか。人生も晩年となり、世間のしがらみと自分の生き方の間で齟齬がめだってきた。畑にいると落ち着く。(2022年4月16日)

進歩とは、発展とはなにか-宮本常一の疑問

「忘れられた日本人」を読んだ。底本は1960年に出版されたもので、その後、岩波文庫に収録されたが、ちょっと大きめのワイド版は年寄りにはありがたい。内容は昭和14年から日本全国をくまなく歩いた宮本常一が地域の古老たちの語りをまとめたもの。昭和以前の村には、現代において“村社会”が持つ否定的な意味合いとは異なる、貴重な経験知、生活知やコミュニティーを持続させる方法など、現代社会が学ぶことができる知恵がたくさん存在していた。現代社会を駆動している規範から一歩引いて見ると、そこには時代を背景とした豊かさや幸せが見えてくる。それは進歩や発展に対する疑問提示でもある。網野善彦は解説の中で常一の言葉を引いている。「...その長い道程の中で考えつづけた一つは、いったい進歩というのは何であろうか。...発展とは何であろうかということであった」。常一の死の三年前に書かれた「民俗学の旅」からの引用である。この常一の疑問は1978年に発せられたものであるが、それから40余年を経て、その疑問はますます膨らむばかりである。進歩や発展といった概念は絶対神の存在を前提とするヨーロッパ史観から出てきたことは既知のことがらであり、思想的にはすでに時代遅れであろう。新しい社会へのトランスフォーメーションは達成できるのであろうか。(2022年4月12日)

対話の効能

先ほど価値観の主張は好まないと書いたのだが、実は自分が長を務める学術会議の小委員会、分科会に自分の価値観に類するものを投げてしまった。しばらく活動を止めてしまったので、言い訳がてらということもあったのだが、2名から返信があった。ありがたい。コロナ禍で人同士の交流が制限される中で、ロシアのウクライナ侵攻という大問題を抱えてしまった現在、必要なものは人同士の対話であるように思う。オンラインだと話はできるが対話が難しいのだ。しかし対話こそが新しいことを生み出す原動力なのだと思う。対話には普遍的なことを求めるのではなく、多様性を認めあうことができるという効能があるのではないだろうか。今までの学術会議の提言では“普遍性”の存在を暗黙の前提としていたように思う。しかし、世間の問題を理解する大前提として多様な考え方、価値観、習慣等の認識と受容がある。それは普遍性を追求する態度からは出てこない。相手の話をただ受け止めて理解する対話が今必要なことではないだろうか。(2022年4月11日)

価値の普遍性

研究室の窓から整地作業中の東大生研千葉実験所跡地が見えるが、戦中の古い建物がとうとう壊されてしまった。資材を節約して建てられた建築史上価値のある建物とのことで、保存運動もあったと聞いているのでちょっと残念な気もする。ある人にとって価値があるモノでも、その価値には普遍性がないのだ。私も定年まで一年を切り、職場の占有スペースの整理が始まっているが、自分が価値を置いていたモノが実は他人にとっては取るに足らないものであるいうことも否応なく実感させられる。モノの価値とは時代の雰囲気がつくり出すもので、価値を認める人や社会の中で価値を獲得するのだ。だから主張すれば良いのだが、自分の価値観を声高に主張するということは好まない。より普遍的な価値はモノではなく、コトに求めたい。コトにはひとを取りまく自然(シゼン)も含まれる。それを自然(ジネン)として一体化するところに価値を求めたいなぁと思うこの頃である。(2022年4月11日)

学術の覚悟と空気

ここ数日考えていることがある。それはウクライナの地名の呼称変更の件である。私自身も抵抗なく受け入れていたのだが、地名呼称の原則では日本社会の中で議論を起こすべきとのこと。日本語で定着している呼称を維持するのか、それは連帯が理由なのか、専門家の見解ではきちんと議論すべきとのことです。2次的には国際的な動向も加味してもよいが、当該国が自国の言葉でどう読んでいるかは3次的だそうだ。在日ウクライナ大使館は2019年にウクライナの地名のカタカナ表記に関する申し入れをしており、有識者会議で議論がされている。結論は出なかったが方針は出ていた。そしてロシアのウクライナ侵攻後に日本政府は地名呼称を変更することになったわけだ。実は日本が採用した呼称はウクライナ政府の案とは異なっている。ウクライナはウクライーナ、キエフはクィィヴにしてほしいとのことだった。いろいろ事情はあるのだが、そもそもグルジアがジョージアに変更されたのはロシア語読みではなく英語読みにしてほしいとのことだったが、ジョージアの人たちは自国を「サカルトヴェロ」と呼んでいる。ウクライナも英語では「ユークレイン」のままだ。フランスは呼称の変更はしないとのこと。日本だってマルコポーロに由来するジャパンですが、別に気にはしない。他にもいろいろな事例があり、現地語の発音に忠実であることが正義とは限らないとのことだ。今回の日本における呼称変更は“ウクライナ支援およびウクライナとの一層の連帯”が理由とのことだが(3月31日付外務省文書)、その意味するところは実は深い。学術としてはきちんと議論を喚起したいが、ウクライナ支援の空気が議論を許さないかも知れない。それは社会に対する忖度でもあるが、学術を担うものも社会の中で暮らす一個人なのだ。徹底的に糾弾されるのはひととして避けたい。学術には覚悟が必要だ、といわれても悩ましい。怯んでしまうのは「人間だもの」(相田みつを)。学術会議における議論から。(2022年4月8日)

良寛-宗教と芸術

隠者マイブームが続いていますが、山崎昇著「良寛」(清水書院、人と思想No.149)を読み終えました。良寛は決して不遇な人生を送ったわけではなく、自分を生き抜いた、幸せな人生だったのだな。名主見習いはうまくいかなかったが、それは良寛の個性が当時の社会の規範とはずれていたからだろう。それでも世間は良寛を認めてたくさんの庇護者に囲まれて暮らすことができた。それは宗教と芸術が背後にあった。仏の教えに従う清貧の暮らしと同時に権力嫌い、般若湯が大好きという世俗的な側面が大衆に受け入れられた。それを可能にしたのが漢文、和歌、書といった芸術だ。良寛は才能があったのだ。そこが私のような俗人とは異なるところだ。さて、私の解釈は如何に。それにしても個性豊かな“ひと”を生かすことができる当時の社会のあり方はうらやましくもある。現在を生きる人間は近代社会の規範にがんじがらめに絡め取られており、自由な生き方ができない。いや、世間を俯瞰すると意外とそれが可能なことがわかるかも知れない。宗教は思想であり、日本では様々な思想にアプローチすることができる。芸術も身近にあり、暮らしの中に浸透している。コロナ禍、紛争、格差社会、等の後に来る社会がなんとなく見えてはいないか。そんな社会を見極めたい。(2022年4月7日)

社会と科学の関係性の変化

イラン・チャバイさんはここ数年、地球研の仕事で年に一度お目にかかるが、最初に会ったときに「イランには行ったことがないけれど、乾燥地域は好き」などとぬかしてしまった。恥ずかしい。イランさんが地球研ニュースNo.86で述べている(世界を考察する刺激的な方法 私たちはダンスを踊る必要がある)。

・あらゆる分野の知見を総動員することが、深く入りくんだ世界のシステムに対処する唯一の方法だと思っています。
・予知できない状況に順応する唯一の綱は、つきつめると「学習」。...社会的学習は、さまざまな方法で社会のあらゆる階層の人たちを取り込む過程です。順応的ガバナンスは、相互的な過程であればそれだけで成功するでしょう。
・生きることは学ぶこと、好奇心を抱くことです。...社会的、相互的で、さまざまな分野を統合した集合的な学習過程が、私にはきわめて重要に思えます。
・私の見解では、とりわけ自然科学やそれに関連する専門知識の要素が強いプロジェクトでは、「コミュニティー・エンゲージメント」、「相互学習」、「超学際の概念」が十分に活用されていないという問題があります。
・データはみずからしゃべりません。私たちが解釈するしかないのです。しかも、文脈のなかでデータを解釈するには、複数分野の専門知識が必要です。
・科学の専門家としての研究者は、なにをすべきかを社会に発信することが役割ではない。むしろ、「社会的プロセスとはなにか」、「科学の社会参画、つまり科学と社会とが協働する条件を評価しなおすには、科学はなにをすべきかを問いかける」ことです。つまり、科学がいかに規範的であるかを受け入れ、その価値を正しく評価する必要があるのです。
・「科学は純粋で客観的」というナラティブは認識を変えるべきです。「科学に価値がない」とはだれもいいたがらないが、科学は社会とつながっていることに気づくべきです。超学際は、科学がみずからの役割を社会において再発見する道具なのです。

これを読むと安心する。最近の不調は、自分の考え方と(私が所属する範囲の)科学者の世界の考え方が交わらないことが原因の一つでもあるのだが、同じ考えを共有する人、場があることは心強い。科学の営みによって生産された知識には普遍性はあるだろうが、科学と社会の関係性は変わる。科学の役割、価値はある時代の社会が醸し出す空気のなかで創り上げられる。だから、社会が変われば、科学の役割も変わるのだ。どうも社会は変わりつつあるように思えるこの頃である。(2022年4月6日)

運の貯金

辛いとき、悲しいときは運を貯金していると思えばいいんだよ。今朝、ラジオで聞いた萩本欽一さんの言葉。なるほどなぁ、と思う。未来を信じて、粛々と今を生きればよいのだ。自分を諦めたり、自暴自棄になったりしてはあかんのだ。メモしておきます。(2022年4月5日)

ふるさとの誇り

桜満開の大和田機場の公開に合わせて開催された印旛沼流域圏交流会のWAIWAI SALONのまとめの指令を受けていたのですが、時間がなくなり出番はありませんでした。話を聞きながら考えていたことをメモしておきます。最初の水資源機構と印旛沼の水管理のお話では、陰で私たちの暮らしを支えてくれている“黒衣”の存在を知ることが大切なんだよ、ということが大切だと思いました。それは“ふるさと”の認識につながります。ふるさとといっても、“そこ”で生まれ育ったということだけではなく、“そこ”と関係性を持つことによってふるさとになるという感覚も昨今は出てきたと思います。次の山田先生のお話は印旛沼以外の地域のお話でしたが、他のふるさとの取り組みも知り、学び合うということが大切と解釈しました。ふるさとは連携することができるのだ。最後に山田先生からトップダウンというお言葉がありましたが、やはりトップダウンのアクションも重要。今までの印旛沼流域水循環健全化会議ではボトムアップを重視してやってきましたが、両方が大切。それには人材が必要で山田先生に期待しています。印旛沼を巡る取り組みはふるさとを認識し、そこに誇りを創り上げるということから進みたいと考えています。(2022年4月2日)

冴えてる一言ー水木しげるの哲学

水木しげるファンの久坂部洋さんのブログは知っていたので、書評で発見した久坂部さんの新刊を速攻で購入、一気に読み切った。そのブログを知ったのが2020年11月だったが、その後、何冊か書籍、マンガを読み、私も水木しげるファンになっていたところだった。水木さんの人生観で共感するところは「仕方ない」という点だ。その現実、運命に抗わないという姿勢は過酷な体験から得られたものなのだろう。厳しい現実を乗り越えてきたものに共通する精神的態度なのではないだろうか。大学の先生は理想を述べがちであるが、水木さんには一刀両断に切り捨てられるのだ。自分も大学人なので切り捨てられる身ではあるが、多少は現実に近づこうと努力はしているつもりである。決して現実を脇において未来を語ることはしないつもり。科学者の未来志向は科学者の存在する場と時代が生んだ精神的習慣に過ぎないが、高度経済成長下では一定の意味を持っていたと思う。しかし、コロナ禍やロシアのウクライナ侵攻を始め、世界は混沌としてきた。経済成長は永遠に続かないのだ。そんな時代を背景にして水木哲学は価値を高めているように思える。表記の本からではないが、水木しげる幸福の七ヶ条を再掲していきます。第一条:成功や栄誉や勝ち負けを目的に、ことを行ってはならない。第二条:しないではいられないことをし続けなさい。第三条:他人との比較ではない、あくまで自分の楽しさを追求すべし。第四条:好きの力を信じる。第五条:才能と収入は別、努力は人を裏切ると心得よ。第六条:怠け者になりなさい。第七条:目に見えない世界を信じる。ただし、自分としては理想も語りたいのだ。(2022年4月1日)

一年後

来年の今日は退職の辞令を頂いているはず。何事もなく一年を過ごすことができれば、その日は慶びの日となるに違いない。最近の自分の研究、というか活動は研究大学としてのラインから外れてしまったように感じている。ラインといっても文科省、大学、部局と連なるラインであり、そのラインの研究に対する理念は自分と異なるということである。定年後は市民科学者として新しいサイエンス、オルタナティブサイエンスを実践したい。この一年はそのための準備に費やされることになる。その対象の一つが印旛沼流域である。この流域の中では研究者も一人のプレイヤーだ。近藤先生ではなく、近藤さんとしてやっていきたい。高みから偉そうなことを言うのはそろそろやめにしたいものだ。(2022年3月31日)

南無阿弥陀仏とは

鈴木大拙著「禅のつれづれ」(河出書房新社)を読んだ。一度では理解はできないが、心に残ったことがある。他力は自力、自力は他力。他力といっても自分が受けて自力とならなければ救いにはならない。では絶対他力とは何か。阿弥陀仏は現世における些末な願いを叶えたりはしてくれないのだ。人が絶対絶命の状況に陥ったとき、意識の底層において諒解を授けてくれることが仏の救いではないか。意識の最底層であらゆる命はつながっていると内山節が書いていたことを思い出す。その命のつながりは手塚治虫が描く永遠の生命の流れかも知れない。火の鳥はいるのだ。人は運命に逆らおうとすることから苦しみが生じる。だから南無阿弥陀仏とはケセラセラである。なるようになる。運命に身を任せて生きるということが南無阿弥陀仏なのではないか。自然法爾(じねんほうに)というが、ありのままに生きるということは自然(じねん)として生きるということで、自然(しぜん)の一部として生きるということ。ただし、こういう生き方は現代では難しい。(2022年3月29日)

防災学術連携体WEB研究会趣旨説明

防災学術連携体のWEB研究会を水文・水資源学会が担当したので、趣旨説明として下記を話しました。

水文・水資源学会は「水」に関わる諸分野の研究者、実務者、教育者等が集う学 術団体で、ひとつの学会というよりも連合体の性質も兼ね備えております。
そのため、ひとつの事象に対して総合的、俯瞰的な観点から取り組むことができ るという特徴を備えている学会であると自負しております。
「災害」も水文・水資源学会の重要な課題ですが、人間が関わるディザスターに 対しては「内なるまなざし」と「外からのまなざし」、すなわち災害を中から診 るか、外から診るか、の両方の観点を持ちたいと考えています。
「内なるまなざし」の観点から今年度は「流域治水」をテーマとした水文学フォ ーラムを2回開催しました。流域治水はトランスディシプリナリティの領域に入 っており、「内なるまなざし」が必要と考えたからです。
1回目は環境社会学をルーツに持つ滋賀県の流域治水について、永年関わってこ られた京都大学堀先生に住民と行政を交えたフォーラムを開催して頂きました。 2回目は総合治水から流域治水、そして流域マネジメントへと繋がる国交省系の 系譜について東京大学名誉教授虫明克巳先生にお話を頂きました。
その他、昨年の「ぼうさい国体」では広島大学名誉教授開發一郎先生に津波被災 後の地下水の保全に関するお話を頂きましたが、現場に深く入り込み「内なるま なざし」にアプローチできたのではないかと考えております。
一方、ハザードに関する科学の直接的対応は「外からのまなざし」といえるので はないかと考えております。今回は外から災害を診る「リモートセンシング」、 「観測」、「モニタリング」、「モデリング」、「予測」等に関する最先端の話 題を水文・水資源学会から中北先生、樋口先生、芳村先生に提供して頂く予定で す。
必ずやって来るハザードに対して防災、減災を達成し、人がその土地で暮らすと いう諒解を形成するための望ましいあり方は「内なるまなざし」と「外からのま なざし」が交わるところにあるのではないかと考え、水文・水資源学会はその活 動を継続していきたいと考えております。

科学が社会に受け入れられるためには、「外からのまなざし」だけではなく、「内なるまなざし」を理解する必要があると思います。両者が交わるところに諒解が生まれます。研究会の参加団体はほぼすべて理工系で、人社系はおられなかったように思いますが、それがちょっと残念でした。連携体の行く末が少し心配です。(2022年3月28日)

楽農報告

昨日は天気が悪く、今日の午後はオンライン会議だったので、午前中に大急ぎで春ダイコンの種を蒔いた。これで一安心。今年は手入れをしっかりやっているので畑がきれいだ。菜の花も一角にあるのだが、それより収穫遅れで開花したカブの花の黄色が鮮やかだ。ブロッコリは淡い黄色。種類によって色の濃さが違うみたい。水仙はほったらかしでも毎年白い花を咲かせている。手をかけていないヒヤシンスも頑張って咲いている。花桃、桜も咲き始めた。プランターの花もきれいだが、雑草の花もきれいなのだ。オオイヌノフグリ、ホトケノザ、ハコベ...かわいそうだが抜かせてもらう。一日に何回も畑を眺めに出てしまう。午後は地理総合や災害に関わる会議だったが、大雨時に農家が田んぼや畑を見に出てしまうのは本能だ。それを危ないから見に行くなというのは研究者の上から目線であるように感じる。科学的合理性だけでなく、人間の心理や農耕民族の本能を考慮したリスクコミュニケーションができないものだろうか。なお、この会議はボランティアが基本なのだが、業務依頼がないと動けない状況が垣間見えた。大学はまだしも独法の研究者は管理が厳しくなっているのだろうか。日本の教育、研究力の将来に対する不安も心をよぎる。春だというのに世の中は不安が増しているようだ。(2022年3月27日)

理想と現実の間

水環境部会の審議が終わった。基本的に事務局の原案通りに承認ということになったのだが、これからが本番だと考えている。部会ではもう少し突っ込んだ案を望む声もあったように思うが、理想的な環境行政といった場合、理想とは何か、誰が実施するのか、を考えなければならない。理想には社会的合意が必要であり、多様な価値観と対峙しなければならない。また、低成長時代に入り、行政の予算、人員は縮小傾向にある。実施主体は行政という日本人の精神的習慣は見直さなければならない。実施主体はすべてのステークホルダーであり、目的達成のための協働を行う時代になったのだ。そのためにも環境行政を見つめ続けなければならない。だからこれからが本番となる。理想と現実の間で折り合いをつけながら、よりよい方向に向かって進む時代になった。皆がステークホルダーになると、総合的、俯瞰的な視点が得られる。それが社会の変革につながるのだと思う。(2022年3月24日)

“ひと”を思う

ウクライナのゼレンスキー大統領が日本の国会で演説を行った。その姿は立派なものだったと思う。日本の政治家たちも絶賛しているようだが、戦争を肯定し、後押しする空気に流されるだけではいかんと思う。一番大切なことは大和言葉であるひらがなの“ひと”を思うということだ。名前があり、顔が見え、暮らしの中に喜怒哀楽がある“ひと”を救うことだ。それは数で表される“人”が武器を持つ戦いだけではないだろう。“ひと”を守るためにはどうすれば良いか。皆で知恵を出し合いたいものだ。ロシアにも“ひと”はいる。ロシアでは“国”はプーチンであり、国と“ひと”が分断されている。その分断を修復するにはどうしたらよいか。“ひと”を思うということは、国際社会の中にすでに底流があるように感じている。(2022年3月24日)

望ましい基準とは

千葉県もようやく河川の水域類型を見直しすることになった。正確には生活環境の保全に関する水質環境基準の水域類型の見直しを行うということだ。その手続きを審議する明日の部会の予習をしているのだが、改めて環境基準とは何かと考えてみる。環境基本法によると、「...生活環境を保全する上で維持されることが望ましい基準」ということになる。提案された手続きでは、水質測定の実績に基づき、すでに達成できている類型、ここではBODと大腸菌数の近年の実績から将来も維持できる類型に変更することになっている。高度経済成長終焉以降、努力して改善してきた水質を現状以上に悪化させない基準ということで、法の趣旨にはあっていると思う。では地域や人、あるいは生態系にとって望ましい基準とは何だろうか。よりよい人生、よりよい社会のあり方を考える近代哲学に普遍性がないように、望ましい基準にも多様な考え方があるだろう。理念的な観点から行政が望ましい基準を設定することは困難である。それは市井からボトムアップで出てきて、時代の精神的習慣になった基準でなければならない。それはあらゆるステークホルダーの合意として形成される基準であるはずだ。その合意形成のアクションはSDGsをはじめとしてたくさんある。(2022年3月23日)

まなざしの置き場

ウクライナに関する情報はなるべく取り込むようにしているが、ほとんどは“外からのまなざし”によるものだろう。“外からのまなざし”には、ロシア、ウクライナの対立と右往左往する世界、善と悪の二項対立、そんな状況が見えるが、現実はそんなに単純ではない。“内からのまなざし”によるウクライナとロシアの状況はなかなかわからない。ウクライナの人々の悲痛な叫びが内からの発信だろうという声もあるだろうが、その背後に何があるのか。まなざしを現場に置きつつ、状況を俯瞰することによって見えてくるもの、それを見つけなければならない。国際地理学連合(IGU)の国内委員会に出席したが、ウクライナ危機に対してIGUが発出した宣言にロシアの地理学コミュニティーから1000人規模の署名があったとのこと。それは統制前のことであり、現在、ロシアの地理学者は極めて厳しい状況下にあるが、内なるマグマは確実に圧力を高めているのだろう。地理学界ではドンバス地方の調査もあり、一般市民にとっては頭上の国旗よりも、生活の安定の方が大切だと捉えているとの調査結果がある(山崎さんの資料)。内なるまなざしを用いて、“ひと”を見ることができれば、世界は平和に向かうことができるのかも知れない。(2022年3月22日)

心と頭の相互作用

バイオリズムというのは疑似科学と言われているが、確かに自分には心の状態に周期性がある。計算してみると先週末はかなり低調だったようだ(納得)。月末は調子よくなりそうだが、4月始めはまた低調になるようだ。自分の周期はバイオリズムよりは長いように思われるので、単純に信じたりはしないが、身体・感情・知性の周期に別の周期の要因が重なっているのかも知れない。低調の時は頭ではわかっているつもりなのだが、心がついていかない。心が“こころ”の領域に入り込むのだ。心は天賦のもので変えることはできないが、頭は鍛えることができる。頭と心が相互作用をすると考えると、学ぶことによって心を鍛えることは可能なのではないか。低調期には本を読む速度が鈍るが、高調期に挽回したいものだ。未読の書籍が大分たまってしまった。(2022年3月22日)

楽農報告

連休は仕事の材料を山ほど持ち込んだのだが、結局何もできなかった。どうも最近の自分の“心”は弱くなり、“こころ”となって“もののあわれ”に流されてしまうのだ。畑に置いたプランターに花を配置し、さらに花の種をポットに蒔く。固い土地を鍬で耕し、草取りに没頭する。2日目でぎっくり腰の懸念があったが、何とか持ちこたえた。畑で作業をしていると没頭してしまうのだ。菜の花だけでなくカブとブロッコリの黄色い花、所々で咲いているヒヤシンスも美しい。桃の花も赤い蕾をつけている。きれいになった畑を眺めていると心が和む。これが“農”の感覚なのだろうか。(2022年3月21日)

口先ではなく身体を動かそう

印旛沼流域水循環健全化会議の第1回水辺活用・連携部会が開催されました。冒頭で挨拶せい、とのことでしたのでこんなことを話したと思います。偉そうなこと言っておりますが、第3期の最初ですので記録して後で見返そうと思います。

・印旛沼流域水循環健全化計画の第3期では急に出世して水辺活用・連携部会の 部会長を務めさせて頂くことになりましたが、実は極めて重要かつ困難な役割と 認識しております。
・このような部会という場では20世紀まででしたら行政が考えた案に意見を述べ れば良かったのですが、現在は協働・共創、すなわち共に動き、共に創るという 時代になりました。
・背景には混沌とした社会があり、特に日本では人口減少、それは生産年齢人口の減少でもあり、低成長社会の原因のひとつとなっていることがあります。
・すなわち低収入の時代を迎えており、成長期であった20世紀のやり方が通用しない時代になっているということです。ということは 低コスト、低負荷の社会 を構築しなければならないということでもあると思います。
・その社会は持続可能社会あるいは持続可能な地域でもあり、健全化会議の目標でもあります。そのような社会、地域を共に動き、共に創ろうといっても、ボラ ンティアをやってくださいとはなかなかいえません。
・まずは部会における対話、議論を通じて情報交換し、モチベーションを高めるところから始めたいと思います。
・水辺活用・連携部会では「五感」を大切にしたいと思っています。現在はインターネットを通じて視覚、聴覚は交換できるのですが、嗅覚、味覚、触覚はなか なか伝えることはできません。
・ここに活動のヒントがあるのではないかと感じています。部会では計画立案、実行、検証、改善をベースにしながらも、まずは一緒になって考えることを重視 したいと思います。
・アイデアが生まれたら、背後に印旛沼流域の人々、意思を持った市民がいるということを意識して実践の方法を考えたいと思います。

口先だけではなく、自分がまず動かねばならぬ、と思っています。これからは流域を巡る活動も仕事として重視したい。(2022年3月15日)

幸せのあり方

NHKの「福島モノローグⅡ」を見た。富岡町に一人とどまり、動物たちの世話を続けている松村直登氏。福島モノローグは二作目だ。原発事故10年目に稲作を思いついたという。100年以上前に入植した先祖が開拓した田をよみがえらせる。しかし、除染後の田は表土が取られ、代わりに入れられた山砂には礫も混じっていた。その土地で無農薬で、化学肥料を使わない米を取るのだという。文明の利器や農薬を使わない稲作は大変な作業だ。それでも松村氏はやり遂げた。彼が幸せかどうかは外からのまなざしではわからない。でも、稲作を通じて天地と一体になり、命ある動物たちと暮らす中に幸せがあると考えても良いのではないか。養蜂も始めたとのことだが、松村氏はそこに神秘を見るという。全くおこがましい考えではあるが、自然(じねん)として自分もその中の存在であることを認識する中に幸せの一つのあり方があるのかもしれない。家があり、土地があり、管理機があれば何とか生きていくことはできる。幸せは人の心が決めるのだ。(2022年3月13日)

外からのまなざし

ETV特集「揺れながら 迷いながら~民族研究家・結城登美雄が見た三陸~」を見た。震災後、何が人々を浜に引き留めるのか知りたいという。“ひと”は“ふるさと”で安寧を得る。結城さんのまなざしは「内からのまなざし」だ。ふと思い立ち、結城さんの「地元学からの出発」を手に取ってパラパラめくるとチェックが付いたページがあった。そこには「私はつくずく思うのだが、自分でそれをやろうとしない人間が考えた計画や事業は、たとえそれがどれほどまことしやかで立派に見えても、暮らしの現場を説得することはできないのではないか」とある。昨日は配信期限ギリギリでETV特集「原発事故 幻のシナリオ ~埋もれた遮水壁計画~」を見た。福一の事故後、地下水は懸念事項であった。水文学の仲間の間では上流からの流入はピット(地下水位を下げる)、あるいはグラウチングで地下水の流入を止め、台地面には遮水シートを設置して浸透を防ぐ、というものだった。当時産総研の安原さんが頑張って主張したのだが伝わらなかったのは、民間事業者である事故当事者が予算を負担すべきという政治、行政の論理だった。東電は企業継続を優先させて自前の予算を組むことをせず、実現はできなかった。ETV特集では原子炉を取り巻く遮水壁設置の計画の顛末が描かれていたが、緊急事態に対して霞ヶ関は平常時の論理で対応することしかできなかった。菅内閣の崩壊という政局の混乱で政治が指導力を発揮できなかったという事情もあったのだが、それは政治、行政が現場の状況をわがこと化しておらず、事業の重要性を認識することができなかったということに尽きる。自分もちょっとは考えたが、自分でやろうとしない人間が考えたことに過ぎなかった。その後、貴重な時間を浪費し、凍土壁が建設されたが、それは既存の技術に予算はつけられないが、開発要素があれば国も対応できるという論理を思いついたということで、緊急時の論理が構築されたわけではない。苦しんでいる当事者の立場で政策を組み立てることができなかったことは、エンパシーの欠如を意味している。日本は諸外国の信頼も失った。原発事故を巡る対応の拙さは日本の衰退のほんの一面を映しているに過ぎない。外からのまなざしで、如何に立派なことを言っても現場を納得させることはできないのだ。そのことに気付けば処理水・汚染水放出問題の折り合いも見えてくるのではないか。外からのまなざしでは処理水、内からのまなざしでは汚染水。科学的合理性の押しつけではなく、対話が必要なのだが、対話が重視されることはなかったようだ。さて、人々を浜に引き留めたのは、そこには自然とともに生きる暮らしがあるから。それは農村も同じだ。人の幸せは自然と一体となる中にあるのではないか。(2022年3月13日)

犠牲のシステムからの脱却

今日は11年目の311だ。福島の原子力災害被災地域では放射能雲が阿武隈にかかった315が運命の日だったが、311から悪夢は始まっていた。昨日の朝日新聞に山木屋でお世話になった源勝さんの記事があった。年齢は74歳とあった。私も64歳になったが、源勝さんの64歳はそれどころではなかったわけで、黄昏れているわけにはいかんと思う。この11年の源勝さんはじめ、山木屋の方々の苦労と努力は並大抵なことではなかった。2017年の避難解除からも5年が経過しているが、暮らしが元に戻ったわけではない。源勝さんの自宅前にダリア園があるが、記事で亡くなった奥さんの章子さんが栽培を勧めたものだったことを知った。研究室には章子さんから頂いた折り紙で作ったくす玉が飾ってある。道をゆっくりと歩いていた章子さんの姿を思い出す。11年という時間は十分長いのだが、あっという間に過ぎ去るものだ。山木屋に行きたいが、どうも体調が悪くて訪問する自信がない。実は体調だけではなく、山木屋に対して何もできない自分への後ろめたさもあるのだと思う。山木屋に視点を置いたときの“内からのまなざし”で何が見えるか、多少は理解できたと思うが、それが山木屋を遠ざけてしまうことにもなっている。現在の自分の役割は内と外からのまなざしを通して、福島の外に福島を発信することと割り切ってきた。発信すべきことは“犠牲のシステム”で国を運用してはいけないということだ。大多数の幸せのために少数を犠牲にしながら20世紀後半の日本は発展を遂げたが(ここ数年、日本の公害を総括する仕事に関わらせて頂いた)、21世紀に繰り返してはいけないということ。日本人が“文明社会の野蛮人”であってはいけないということを主張してきた。科学技術の便益を享受するには謙虚でなければならない。しかし、世界では少数の犠牲はやむを得ないという考え方で運営している国もある。それではあかん。犠牲のシステムからの脱却はSDGsの達成とも関連している。(2022年3月11日)

"by All"と"for All"

今日はある国際シンポジウムの国内委員会があったのだが考えさせられることを聞いた。国交省が推進する流域治水の英語訳は"River Basin Disaster Resilience and Sustainability by All"である。日本の優れた施策として海外にも普及させたいと思ったが、途上国では"by All"となるとモラルハザードが起こりがちとのこと。ラインの担当者は“みんなでやるのね、じゃオレはやんなくていいね”、となっていいとこ取りになってしまうらしい。"for All"となると、みんなのためということでラインも動かざるを得なくなるとのこと。なるほど、海外支援ではそこまで考えなければあかんのか。日本では考えられないと一瞬思ったが、昨今の政治、行政、司法の場では看過できないモラルハザードが実際に起きている。日本人はすぐに他人事にして忘れてしまうのが悪い癖だ。日本の政治が信頼を失うと、その計り知れない影響がじわじわとやってくる。モラルを再構築して、"for All"を実質的にしていかないと、日本の凋落は進むばかりだ。(2022年3月10日)

ウクライナの農民

ふと思う。ウクライナの年老いた農民は避難せず、粛々と春を迎える準備をしているのではないか。自分だったら避難したくない。土地から離れたくないのだ。冬小麦が育っているはずだ。作物を置いてはいけないのだ。百姓だったらしばらく暮らせるだけの食料はある(食料不足は都市問題でもある)。日本的な感覚では天地と一体となって無事を祈りながら過ごす。ウクライナの老農民は神を信じて粛々と日常を営なむ。そんな気がするが、現状は厳しい。(2022年3月8日)

平和の共有

昨日は身体がやけに疲れており、畑には出なかった。週に1回は手を入れたいので今日の午前中は畑仕事にする。取り壊した古屋の床下だった土地は硬く、小石がたくさんあるので開拓が進んでいなかったが、防草シートを通路として張ったら畑のデザインが引き締まった。作物畑、花畑、芝生の配置がはっきりしてきた。この時期、そんなに雑草は多いわけではないのだが、あちこちの草取りを行う。黙々と作業をしていると心が落ち着く。宇根豊流にいうと天地と一体になるということだろう。畑の中で平和を感じる。しかし、世界では平和とはほど遠い状況が進行している。平和を味わっている場合ではないのだが、自分がまずやるべきことは世界をよく見ることだろう。その上で自分の考え方をはっきり持つことだ。となると、パラリンピックでロシアとベラルーシが参加できなかったことが残念だ。選手を“ひと”ではなく“人”として見ているということだ。国が対立しても、“ひと”としてつながることが突破口になると思うのだが、心を持つ“ひと”であるがゆえに容認できないこともあるのだろう。ウクライナだけではなく、ミャンマー、香港や中東の国々はじめ、世界各地で起きている紛争、対立、差別、格差なども等しく認識しなければあかんなと思う。それらの状況をしっかり見て、考えながら、自分自身は目の前にある課題に取り組むことが大切なのだろう。平和を世界で共有したいものだ。(2022年3月6日)

時代は変わる

The Times They Are A-Changin’ 40年前のソ連のアフガニスタン侵攻の時は事実は知れたが、現場で何が起きているかは良くわからなかった。30年前の湾岸戦争の時は戦闘の状況が中継されたが、テレビを消すと人々の意識からは消えた。20年前に始まったアフガニスタン戦争は長引くにつれ、兵士、市民の苦しみが明らかになっていった。そして、ウクライナ。インターネットによって外から見えた戦争だけではなく、内からのまなざしが世界に向けて発信された。それは諸国の結束を促し、プーチンは孤立を深めているようにみえる。古い時代の意識のままにとどまっているプーチンに、時代の変化を伝えることになるだろうか。(2022年3月5日)

原発攻撃の意味

ちょっと待て。これは看過できることではない。本当に原発が攻撃されているとしたら、プーチンは世界を敵に回すことを決断し、まずはヨーロッパ全土を危機に陥れることを狙っているとしか考えられない。すでにリーダーとしての能力は損なわれているといってよい。エンパシーを発揮する段階は過ぎたといえる。人類の叡智を発揮する時が今なのではないか。ただし、戦争は避けなければならない。自分にできることは、今この時空に問題の解決のために奔走している方々が確かにいるということを信じて祈ることだ。福一の事故でどれだけ多くの涙が流れたことか。つい興奮してしまったが、原発攻撃が電力供給網の寸断を狙った軍事における戦略だとしても、その意味は行為者の意思を超えて拡散していく。(2022年3月4日)

空気の存在

3月2日に国連安保理は時代遅れではないかと書いてしまったが、国連としてはきちんと機能したといえるようだ。朝日朝刊の星野さんの記事「安保理の限界逆手『孤立』醸成」はそのとうりやな。安保理で決議案が否決されたが、ロシアが拒否権を使ったことに意味があった。その後、国連総会の「緊急特別会合」でロシア非難決議を採択することで、ロシアの孤立感を醸成した。そこには“空気”が存在したのではないか。かつて日本を開戦に導いた、山本七平いうところの、あの“空気”である。もちろん、この場合は悪い“空気”である。今は良い“空気”に導かれているのかも知れないが、プーチンの孤立が深まるにつれ、落とし所が難しくなるかも知れない。ロシアの孤立が深まると、ロシア国民の苦しみ、悲しみが大きくなる。勝者と敗者の区別をはっきりさせるのが欧米流だとしても、空気に流されてロシアを徹底的に痛めつけてしまっては未来に禍根を残すだろう。それは歴史が語っている。ここは冷静になる時だ。日本流の曖昧さも時には有用かも知れない。多くのウクライナ国民が苦難の最中にいる。それはロシア国民にとっても苦難である。国とは何か、国民とは誰か。国民国家のあり方について深く考えなければならない。いい方向に向かって進みたいものだ。(2022年3月4日)

価値の評価

教員業績評価委員会たるものに代理で出席した。大学にとって極めて重要な課題を扱うところだと思うのだが、内容は悩ましい。指標による評価は教員を数字で表し、普遍的な尺度で格付けしようというものだ(もっとも部局によって基準は異なるが)。教員は顔が見えず、名前がなく、数字で表される“人”ということになる。しかし、研究者でもある教員には顔があり、名前があり、暮らしがあり、心がある。ここで心とは教育研究に対する固有の目的や主張のこととしよう。教員は漢語で表される規範的な人ではなく、大和言葉における“ひと”なのだ。研究の結果生産される新しい知識の価値を評価するとともに、新しい知識の実践、実装の実績を評価しなければならないのではないか。それは定性的な評価になるが、多くの教員に対して実行するのは困難だ。だからといって中身は問わないというのは大学の未来にとって危うい行為ではないだろうか。教育・研究機関は哲学、思想を持たなければあかんと思う。経済成長期の慣性で生き残っている大学は、今後の低成長期の社会では苦戦を強いられるだろう。社会貢献に対する評価もあえていじらないということだそうだ。これは大学の学術に対するスタンスの提示を放棄することになるのではないだろうか。学校教育法には「大学は、その目的を実現するための教育研究を行い、その成果を広く社会に提供することにより、社会の発展に寄与するものとする」とある。学術の成果をどのように社会に提供したか、どのように社会の発展に寄与したか、はトップレベルの重要性を持つはずだ(論文さえ書けば、自分ではない誰かが社会に役立てるということか)。教育研究という行為の価値の評価に踏み込まなければならない。とはいえ、価値に普遍性はない。その時代のものである。だからこそ、大学は教育・研究に対する哲学を示さなければならないのだ。こんなことを書いているが、承認してしまったので主張する資格はないかも。隠者なのでいいか。(2022年3月3日)

プーチンの靴を履く

すなわち、エンパシー(イギリスでは“他人の靴を履く”というらしい)の観点からウクライナの事変の解釈を試みるとどうなるか。そうすると、ソ連崩壊後に東ヨーロッパが“欧米”、すなわちプロテスタント、カトリック系のキリスト教徒の勢力に蹂躙される状況を見て、正教系の過去の栄光を取り戻したいと考えた過程が見えくるような気もする。今に見ておれ、やられた分はやり返すのだと心に誓って今に至ったのではないか。NATOが介入したユーゴスラビアの内戦では悔しい思いをしたことだろう。あいつらがやるならこっちもと思った動機もわかるような気はするが、やってはいかんこと、すなわち戦争はやってはいかん。この世においては力がすべてという思いはわからんでもないが、徳によって統治するということを目指さねばあかん。世界は変わりつつあるのだ。SDGsをはじめたくさんの採択が途上国の活躍で実現している。力に対しては別の力で対抗するのだ。プーチンの過ちは世界を俯瞰して人の精神的習慣の変遷を理解することができなかったところにあるのではないか。それは強大な権力を手にしたため、時間を経るにつれて自身の意識世界を狭い範囲に閉じ込めてしまったことによっている。そのため、旧ソ連の国々がEU、NATO加盟へと向かう理由を考えることができなかったのかもしれない。ソ連崩壊から30年を経て世界は変わりつつある。情報は一瞬で世界を駆け巡る。人権重視の姿勢が世界で強まっている。世界を味方にしなければ思いの成就はできないのだ。ここを見誤った。栄光は取り戻すのではなく、新しい考え方によって創り出すものだ。強い“欧米”がやってきたことは確かに“勝てば官軍”だ。でも同じことをやっては悲しみを量産するだけだ。悔しいだろうが、徳による統治を目指せばよかった。今回の事変でいろいろなことが時代遅れになっていることもわかった。国連の安全保障理事会もそのひとつ。人類皆兄弟でいこうじゃないか。なお、ここに書いたことは仮説ですが、現代は実証主義による科学の限界も露わになってきている。(2022年3月2日)

過去の栄光

それは数多くの要素が相互作用して生み出された、その時代の賜だ。だから過去の栄光を取り戻すためには総合的、システム論的アプローチと時間が必要だ。明日の栄光に向かって力尽くで進んでも得られるものではない。かの国の大統領はそこがわかっていないようだ。それにしても権力とは何だろうか。砂上の楼閣なのではないか。楼閣が崩れていくのを見ることになるだろうか。その後の時代が良いものになるとしても、犠牲の上にしか築くことができないのだとしたら、この世は悲しいものだ。(2022年2月28日)

独裁者の末期

歴史の中では独裁者の末期というのはどれも似通っているような気がする。政権運営集団による支持は恐怖によって生み出された虚構であり、大衆の心は離れてしまっている。一方でリーダーも孤独と恐怖を感じているのだろう。それでも権力は失われない。この状態は歴史のように悲劇によって終焉するしかないのだろうか。悲劇の程度は国際社会の動向にかかっている。どんな国もいろいろな問題を抱えているが、自由に発言し、議論できる社会はいいものだ。民主主義がちゃんと機能しているうちはなんとかやっていけるだろうが、最近の世界はちょっと危うい気もする。国家と大衆の分断が露わになってきたような気がする。それでも以前と異なることは状況を世界が見ているということ。それは望みでもある。大衆がつながることができる。自分に何ができるわけではないが、しっかりと見ていること。それしかできないが、それが大切なことだ。今、歴史を見ている。(2022年2月27日)

楽農報告

どうも畑仕事は始めると止まらない。昨日耕した場所にスナップエンドウを6本移植。一列に配置して、里芋が出回ったときに両側に種芋を移植するつもり。カリフラワーを3本移植。ニンジンを播種。作業をやり過ぎないようにせねば。まだ春は始まろうとしているところ。かの国の農家は春作の準備はできるのだろうか。(2022年2月27日)

楽農報告

今日は暖かくて好い日だった。ジャガイモ予定地にシャドー・クイーンを植え付け。インカ系を植えたかったが、大袋しかなかった。紫のジャガイモは人気がないのだが、自分は好き。スティックセニョールを3本移植。一つの区画を小分けにして、ホウレンソウ、春ダイコン、春菊を作付け。広すぎると食べきれないのだ。残りの時間で春耕を進める。去年切り花用のミックス種の団地にした区画は秋にはカリフラワー、ブロッコリ、キャベツ畑になったのだが、今はたくさん2世が育っている。これを移植して花畑の団地を作成。うまく根付いてくれよ。今日は丸一日畑仕事に費やしてしまったが、同じ空の下で戦禍に怯える人々がいる。農民は戦争などしないのだ。(2022年2月26日)

ヨーロッパコンプレックス

こういう言葉があるのかどうかはわからないが、これが人間の本質的な部分で様々な対立、紛争、戦争の要因になっているのではないだろうか。ロシアは歴史的にヨーロッパに対する憧れとコンプレックスを同時に内面に抱えていたようだ。それが紛争の要因の根っこにあるように感じる。それは日本をはじめとする多くの国々でも同様である。20世紀までのミレニアムの後半の世界を支配したヨーロッパ思想では、神の創った世界に一番近いところがヨーロッパであった。そんなことの影響もあるだろう。ヨーロッパの文化が持つ外形的な部分に対する憧憬はなんとなく理解はできる。しかし、ヨーロッパが世界の中心になったのは500年くらい前だろうか。それまではイスラムが世界の中心であった。世界は今また変わろうとしている。他の文化にコンプレックスを抱くよりも、自分の世界の文化に誇りを持ち、他文化、多文化を尊重する姿勢を持ちたい。最近、少しずつ日本の古典を学んでいる。すると、自然と一体となる日本人の心情というものが誇らしく思えてくる。日本という国は自信をなくしつつあるように見えるが、古い時代の日本人の心情を新しい形でよみがえらせ、誇りを取り戻したいものだ。それは気候変動、カーボン・ニュートラル、資本主義の限界、といった現代の課題に対応できる精神的習慣を生み出すに違いない。紛争を解決する思想的基盤としての力にもなるだろう。多様な文化を尊重することができれば、ヨーロッパコンプレックスを克服し、世界を安寧に導くことができるのだと思う。(2022年2月25日)

悪い権力

権力とは何だろうか。なぜ人は支持するのか。昔のことだが誹謗中傷、嫌がらせを受けた経験がある。最初は耐えられるだろうと思っていたが、相手が地位を利用した行為に出てきたとき、心の中に恐怖が生じた。その時、悪い権力はこのようにして形成されるのだと思った。今、世界で権力を行使する者は威嚇、恫喝、暴力によって人の心に恐怖を植え付け、ひとりでは反抗できない状況をつくり出して見かけの支配を行使しているのだと思う。恐怖が従属を生み出す悪い権力である。自分の辛い経験は心の傷となって残っているが、そうなってしまったのは対話が拒否されてしまったからだと思う。世界は、対抗ではなく対話を行う努力をけっしてやめないでほしい。(2022年2月25日)

国、人、ひと

“国”とは何だろうか。難しい定義はできるだろうが、外形的にはリーダーの顔が“国”の象徴だ。リーダーには政策を支持する小さな集団を持つ。実はそれが“国”なのではないか。一方、市井には名前があり、顔があり、暮らし、そして心がある“ひと”がいる。“国”と“ひと”が分断されている状況が現代の多くの国家の姿なのではないか。では兵士は何か。数字と機能で語られる“人”が兵士なのではないか。でも“人”は“ひと”に戻ることができるはずだ。“国”と“国”が分断されても、“ひと”と“ひと”がつながることができれば、そこに一縷の望みがある。(2022年2月25日)

楽農報告

そろそろ農の営みを再開しなければあかん。先週末やる予定だったが、天気が悪かったため延期したジャガイモの植え付けを本日行う。男爵が好きなのだが、ホームセンターで欠品していたため今年はメイクイーンだ。1kg分の植え付け完了。楽農は適当にやれば、適当に採れるのだ。まだジャガイモ用に耕した畑地が残っているので次の週末にインカ系を植えようと思う。今日は春が感じられる好日なので堆肥、肥料、石灰を撒いて秋野菜の収穫が終わった畑地を耕す。耕運機が壊れているので三本鍬を使う。老いた身体にはきつい作業だが、老人の体力低下問題は動かない老人が多い都市問題でもあるので、トレーニングと考えてがんばる。これで新たな播種予定畑の準備ができた。週末は暖かくなるというので野菜や花の種を蒔こうと思う。楽農2022のモチベーションが高まってきた。周囲には庭のない住宅が多い。農ある暮らしはポストコロナ社会のあり方の一つだと思うが、東京大都市圏に取り込まれたこの辺りでは都市化はまだ進行中だ。一方で世帯の高齢化も進んでおり、空き家も散見される。数十年後に都市問題の深刻さが顕在化した後に、次のステップに向けた変化が始まるのだろう。畑があるのはありがたいが、定年後に維持できるかどうかは怪しい。(2022年2月23日)

大自然に鍛えられる

世阿弥について学びたいと常々思っているのだが、今日は岩波「世界」2月号で馬場あき子と藤沢周の対談「佐渡の世阿弥を語る」を読んだ。世阿弥が佐渡に流されたのが72歳の時で、都に帰ってこられたのは80歳頃であったという。世阿弥は強くなって帰ってきたようだが、佐渡で世阿弥を鍛えたものは大自然であった。大きな自然を観察できたことで苦悩に対して屹立していられたという。ますます世阿弥を勉強したくなってきたが、まずは「ワールド イズ ダンシング」を注文。漫画は芸術だよ。藤沢さん曰く、若い人たちに世阿弥が響いているという。それは今の時代が世阿弥の時代と同じ修羅だからというが、それはシニアの世代も同様だ。何か心のよりどころを見つけねば。今、西行を読んでいるところだが、西行の歌はこの世阿弥に関する対談でも出てくる。日本人にとって和歌というのは大切なものだ。自然を詠んだ歌が数多いのは(近代化以前の)日本の民は自然と自分を一体として捉えてきたからだろう。だから自然と向き合うことで心を強くすることができた。コロナ禍で籠もってばかりいるが、この春からは大自然の中に埋もれる機会を増やしたいものだ。心を鍛えないとやってられん。(2022年2月20日)

町会のメリットとは

近所に最近越してきた若者が、町会はメリットがないのでやめるとのこと。確かに自分が役員の時は大変だったし、できればやりたくないのが本音だ。しかし、行政の末端を担う機能はないと困ることも多い。防災、美化、町内の機能チェックと行政への報告、など町会が果たす機能は多様だ。町会の運営を担って頂く方々には感謝するしかないのだ。もちろん町会加入は任意であるが、地域における自分の暮らしの快適さの維持に関してはフリーライダーにはなりたくないものだ。日本は生産年齢人口減少の時代、すなわち低収入時代を迎え、何でも行政に付託できる時代は過ぎ去ろうとしている。個人主義が浸透している都市域では近い将来、地域ごとに個別の小さな問題が多発するだろう。その根底に日本が経済成長の中で築いてきた都市的社会の抱える大きな問題があることを意識しなければならない。もう時代は低成長あるいは縮退社会なのだ。増税、行政機能の有料化、などいくつかの案は考えられるが、実装はそんなに簡単なことではないだろう。ならば、どうするか。おそらくステークホルダー間の対話を通した合意形成が唯一の道なのではないか。高齢化社会における社会的弱者の存在、経済的格差、など困難な課題について相互に理解することがまず必要だ。この社会の実態の理解のための対話の後でようやく問題解決のための議論が始まるのだ。大変な時代に遭遇したものだが、都市的社会の限界が現れてきたといえる。自分としては小さなコミュニティーの中で暮らしたいと思う。都市的な精神構造の中に居たくはないのである。(2022年2月20日)

「ぼく」のメッセージ

谷川俊太郎(作)と合田里美(絵)の「ぼく」が届いた。最初は子供に向けた「死ぬな」というメッセージが表現されていると思っていたが、絵本の中で表現されているのは「しんだ」ことだけである。読み返すにつれて、「しんだ」という設定以上のメッセージがだんだん姿を現してくる。それは、こんな社会をつくった大人に対して、そんな社会の中に生きる子供をきちんと見てください、というメッセージ。では、“こんな社会、そんな社会”とはなにか。大人が見ている“こんな社会”と、子供が見ている“そんな社会”の見え方が異なっているのだ。ある程度の豊かさが享受できる社会の中で、時代の規範に縛られて生きていることの息苦しさ。子供はそんなことを感じているのだろうか。「なにも ほしくなくなって なぜか ここに いたくなくなって」という「ぼく」は多くの子供たちの共通する思いなのかも知れない。では生きている大人は何をするべきか。「ぼく」を通して考えるのがこの絵本なんだな。編集部からのメッセージにも書いてあった。コロナ禍、紛争、差別、格差、などなど様々な課題があらわになってきている現在を前にした谷川さんからの強烈な要請がこの絵本だと思う。(2022年2月19日) 

産みの苦しみ

すごいことを聞いた。産総研(つくば)では若手研究員の任期付き雇用が廃止されたとのことだ。現在雇用されている任期付きの若手研究員も来年度から希望者はパーマネント雇用に転換できるそうだ。それ自体はすばらしいことではあるが、日本は生産年齢人口減少が始まっており、それは税収の減少と直結している。予算が伸びない中で、中堅以上にしわ寄せがいくことは必至であろう。新しい時代に向けた産みの苦しみが始まっている。さて、どうするか。研究とは自己実現の営みでもある。研究者としての給与は抑え、研究職のワークシェアリングをしながら、副業で社会への成果還元を図るといったことも可能ではないだろうか。そうすると基礎科学の分野は不利だとの批判も出ようが、基礎科学分野の方々も初等・中等教育の一部を担うことで収入を確保することはできまいか。まずは低収入でも低コスト、低負荷で暮らすことができる社会の構築が必要だ。そうなると、かえって自由な発想の研究ができるのではないか。もちろんビックファンドが必要な研究課題は国がサポートすればよい。一番の壁はこの20年ほどで研究者のマインドがエリート化していることかも知れない。でも、それは古い進歩主義から脱却できれば乗り越えることができるだろう。低収入、低コスト、低負荷社会は20世紀型のマインドを乗り越えた先にあるものだから。数十年はかかるかもしれないが、人間の叡智を信じると、以外とうまくいくのではないかという気もする。それとも歴史は繰り返すだろうか。世界はきな臭くなってきたところである。(2022年2月17日)

有機農業を巡る日本とヨーロッパ

岩波ブックレット「有機農業で変わる食と暮らし ヨーロッパの現場から」を読んだ。有機農業は理想ではあるが、日本では普及は難しいと感じていた。コスト、労力がかかること、また、日本の大多数の消費者は野菜を選択する基準として外見的な美しさ、価格を重視し、“社会の変革”の中に野菜の購買を位置づけるなんてことは苦手だろうと思うからである。千葉エコ農産物も苦戦しているように、日本でも底流はあるのだが普及は進まない。ところがヨーロッパではここ20年ほどの間に大きな変化が起こっていたようだ。有機農業の普及が社会のあり方と関連付けられ、確実に食と暮らしが変わりつつある。ヨーロッパと日本の違いは何なのだろう。ヨーロッパでは市民教育やシチズンシップ教育が重視されているように(日本は主権者教育がようやく始まろうとしている)、人と社会の関係性の意識に違いがあるのかもしれない。あるいは、日本の農業政策の基盤となる考え方、すなわち資本主義、成長主義に要因があるのかもしれない。しかし、日本にも地域づくりと一体となって農を捉える営みも確実にある。ヨーロッパから20年遅れて有機農業が日本でも普及する時代が来るのだろうか。ただし、それは低コスト、大量生産の大農主義と背後にある資本主義の旧来の考え方にとっては不都合かもしれない。ヨーロッパに牽引されながら日本も少しずつ変わっていくように努力せねばなるまい。とはいえ、日本発となるアジアの思想を打ち出すことができないのはなんとなくさみしい。(2022年2月15日)

ぼくはしんだ-底流にあるもの

社会の底流にあるモノ、コトを捉えることが重要だと思っているが、今日もひとつ見つけた。NHKのETV特集を見逃し配信で見たのだが、そのタイトルが「ぼくは しんだ じぶんで しんだ 谷川俊太郎と死の絵本」。絵を描く合田里美との2年間のやりとりのドキュメンタリーであり、「子供の自死」という課題に対する模索の記録である。絵本のタイトルは「ぼく」。さっそく注文しようとしたがHonya Clubでは売り切れ(新本はアマゾン以外で買うことにしている)。すぐに入手できないのは残念であるが、世間にはこの絵本を購入しようとする人々がたくさんいることに気がつく。世の中にはおかしなことがたくさんあるけれど、それに気付いて考えよう、わがこと化しようとする人がいるということだ。この気付きはなんとなく安心をもたらす。(2022年2月13日)

科学と資本主義の類似性

もう少しで「戦後日本の労働過程」を読み終えるが、もう一回読まないと理解できないだろうな。それでも重要なことに気がついた気がする。この本は高度成長を経た1970年代頃までの日本において資本と労働の関係がどう変わったかということが書いてある。20世紀初頭にテーラー・フォードシステムが登場してから労働者が単なる従業員に変わっていく中で、戦後の日本はQCサークル、年功序列、生活給のような独自のシステムによって労資関係が維持されて高度成長を達成したと理解した。資本による労働者の支配が絶妙な仕組みで達成されたいえる。私の理解が正しいかはさておき、労働者を科学者、特に大学の研究者、資本を文科省と置き換えてもなんとなく通じてしまうように思うのである。ただし、大学の研究者に変化が起きるのは90年代以降の構造改革政策以降である。80年代頃までは研究者は職人であった。しかし、大綱化、法人化と進む“改革”の中で大学の研究者は職人から給与生活者へと変わっていった。文科省、というよりも文科省より上位の政治の意思だと考えられるが、政治が研究課題を決め、外形的指標による評価システムで研究者の自尊心をくすぐり、政治による研究者のコントロールを可能にした。だいぶ穿った見方だが、広井良典の「科学と資本主義の類似性」はこのことをいっているのかも知れない。科学者である大学の研究者は現状をどう認識しているのか。多くの研究者がこの現状に適応してしまっているようにも見える。学校教育法では「大学は、その目的を実現するための教育研究を行い、その成果を広く社会に提供することにより、社会の発展に寄与するものとする」とある。社会の発展とは何なのか。誰が企図し、実現するのか。大学人は政治の従業員ではないのだから、自立的に自らの行動を決めなければならないのではないか。(2022年2月12日)

まなざしの位置

内山節の「戦後日本の労働過程」を読んでいるのであるが結構難解で、なかなか進まない。ついつい買ってあった宇根豊の「農本主義のすすめ」をつまみ読み。2ページ目で「これは外からのまなざしでは見えないものです」という文章に出会う。“これ”というのは“農の大切なもの”なのだが、“農の本質”は“農の場”にいないと見えないということ。では環境、すなわち人、自然、社会の関係に関わる“科学”はどうだろうか。科学は“外からのまなざし”ではないのだろうか。“現場の本質”は現場に長い時間入り込んでいないとわからないのではないか。では“長い時間”とはどれくらいだろうか。何十年も現場に通って、現場の人になってしまった研究者を知っている。福島では現場に入り込んで、人生を変えた研究者も何人か知っている。昨日まで委員会に参加していた研究所では予備研究数年と本研究5年で一つのプロジェクトが終わる。この間に若者たちは現場に通い続けるのだが、この期間で十分だろうか。彼らはその期間内で成果を上げなければならない。“内からのまなざし”を得るためにはエンパシーを発揮する必要がある。幸いなことにエンパシーは訓練によって身につけることができるらしい(ブレイディみかこ)。若者たちは現場でエンパシーを発揮する期間を過ごすことによって“環境の本質”を知ることができるだろう。ただし、それは文科省的な成果とは相性が悪いのだ。それでも現場で“内からのまなざし”に接近できたときの感動は何物にも代えがたい価値を生むのではないか。(2022年2月11日)

精神的習慣の変わる時

ここ数年ほど参加している地球環境問題を課題とする西国の研究所の三日間にわたる委員会が終わった。なかなか疲れるイベントであるが、文科省に寄り添うだけの場では得られないことを学ぶことができる場でもある。昨今のトップダウンの研究評価は数値指標にばかり頼り、“本質的な研究評価”が行われることがなくなっている。これでは科学行政に関わる上位のものの一時的な幸せは得られるだろうが、現場の研究者は不幸になるばかりである。そう思って機会があるごとに発言はしているが、遠吠えに過ぎないことは重々承知。しかし、現在の研究評価を巡る規範は“今”という歴史過程の中の一時点における精神的習慣に過ぎず、いずれ変わるはずなので遠吠えは続けようと思う。この委員会の最後のパートで、研究評価のあり方に関する議論になった。その議論を聞いていると、解決策は模索中であるが、世界各地の研究者が同じ思いを抱いていることが確認できる。アメリカでは国立科学財団(National Science Foundation)が(単なる数値評価ではない)研究の“インパクト”の評価のあり方に関する検討を始めたという。中国では一昨年に数値指標に頼らない評価のあり方の検討を始めていることは知っている(結果は聞いていない)。本質的な研究評価を目指す底流は確実に強くなっているのだ。世界が不穏になる中、SDGsも進行している。必ず近いうちに人間社会における精神的習慣の変化という節目がやってくるはずだ。その時を期待しながら、一時の精神的習慣に飲み込まれないように、多様な視座、視点、広い視野を持つように心がけようと思う。(2022年2月10日)

科学の先端性

昨日のクルベジのイベントは印象深かった。カーボン・ニュートラルに関しては学術会議でも重視されており、自分も分科会を代表して議論に参加する意思表明だけは出している。(狭義の)イノベーションではないオルタナティブなカーボン・ニュートラルへの道筋、それは土地利用や社会の構造、精神的習慣の変更といった内容を考えていたが、現場はすでに先に行っていたのだなという思いを強くする。そこで科学の先端性という言葉が気になった。ニュートン・デカルト的な一直線の科学ならば先端がありえる。一方、環境問題に対峙する科学ではあらゆる関連する要素と要素間の関係性を探索し、あらゆるステークホルダーとの協働により目的を達成する。達成といってもたいていの場合は諒解に過ぎず、複合性、包括性、総合性といったものはあるが、科学だけは先端ということでもないのだ。経験知、現場知、職人知が目的を達成し、後から科学知が追いかけるという場面は科学技術の歴史の中でごく普通にあったことだ。そもそも先端を追いかけるというのは古いヨーロッパ思想ともいえる進歩、発展指向の精神であり、それは20世紀にすでに批判を受けている。ところが科学の営みの評価では先端性が重視されることが多い。その基準は論文数、獲得予算や如何に報道されたか、といったことになる。それでは科学の営みが知の領域(アカデミアの領域といった方が良いかも)においてしか展開できなくなる(守田志郎、内山節)。先端の意味を問い直さなければならない時代がやってきたのではないだろうか。(2022年2月7日)

草の根の実践が先行するカーボン・ニュートラル

昨日の「折々のことば」をメモしておく。「小さな草の根の変化の積み重ねなしに、国や国際レベルの大きな変化を望む近道はない(岸本聡子)」。御意。これは自分の信念でもある。環境に関わる課題ではたいてい研究成果が論文になる前に現場における草の根の積み重ねがあるのだ。今日は佐倉にある荒れた竹林の整備と、その後の竹炭作りのイベントに参加してきた。できあがった炭は畑にすき込んで野菜を育てると同時に、J-クレジット制度を利用してカーボン・ニュートラルに貢献し、稼ぎも得ることができるという。主催した北総クルベジの喜屋武さんは畑作で炭を使うことが当たり前になれば日本のカーボン・ニュートラル達成ができるという壮大な夢を語っていた(と思う)。日本クルベジ協会というのもあるが全国組織だろうか。カーボン・ニュートラルでは山梨県が取り組む4パーミルイニシハティブもある。学術会議でもカーボン・ニュートラルが重大な課題になっているが、実は市井ではすでにアクションが始まっているのだ。優れた研究でも現場における実践と交わらなければ研究者は「科学の権威者(Science Arbiter)」に過ぎない。荒れた竹林や森林の炭素と、作土の中の炭素は機能が違うのだ。古い時代のサイエンスの目的は論文を書くことであった。しかし、新しい時代のオルタナティブ・サイエンスでは課題の解決が目的になる。論文の数や獲得予算で競う研究は成り立たない。SDGsとカーボン・ニュートラルが達成される2050年における研究者の姿は変わっているだろうか。十分に成熟した低収入・低コスト・低負荷社会では大衆自体が研究者になっているかも知れない。そこまでは生きてはおれんが予言しておこう。(2022年2月6日)

楽しい関係性

今日は「まるごといんばぬま2021年度シンポジウム」に招待して頂いた。「まるごといんばぬま」というのは印旛沼を中心にして集い、なんか楽しいことをやろうという集団である。人と社会と自然の様々な関係性を紡いで、楽しむことによって未来を創る。シンポジウムのテーマ「人を繋ぎ、思いによりそい・未来へ紡ぐ」はそんな意味ではないかなと思う。実にいろいろな方々がこの場に集い、その思いを話してくださった。印旛沼流域水循環健全化会議ともゆるい関係性を持っているのだが、それぞれ思いを持つたくさんの人、集団の関係性の中の一つに過ぎない。これらの方々が力を合わせれば健全化会議の目的に叶うすごいことができそうな気がするのだが、そんなことを考えるのは上から目線だ。まず健全化の営みが楽しくなければならない。そうすれば目的の達成が共有できる。健全化会議の第3期が始まったばかりだが、重い責任を担うことになった。楽しさを第一に考えた活動を企画せねばあかんと思っている。そうすれば「まるごといんばぬま」と楽しい関係性を築くことができる。(2022年2月5日)

犠牲のシステムのままではあかん

北京冬季五輪が始まった。アスリートたちにはがんばってほしい。競技自体は楽しめるのだが、今回はちょっと冷めた目で五輪を見ることになるだろう。中国には苦境の最中にいる仲間がいる。苦境が確かにあることはすべてを残して突然見えなくなってしまった教え子の存在からも明らかだ。中国の友人は良い人たちばかりなのだが、国としての中国とは何なのだろうか。中国の主役は中国の大衆ではなくなってしまった。中国の意思を語るのは共産党の、それも一部の幹部に過ぎない。中国をよくするために犠牲はしょうがないのだとする考え方は「犠牲のシステム」による国造りである。“何を選択するか”を決めるのは国ではなく大衆でなければならない。今、中国の大衆には消極的自由はあるが、積極的自由がない。責任ある大衆になれない苦しみがある。中国は政治と大衆が分断されている状況にあるが、いつか主体的な大衆が復活することを願う。日本においても高度経済成長は「犠牲のシステム」で達成されたともいえるが、その段階は過ぎ、日本は成熟社会に向かっているはずだ。政治と大衆の分断も懸念されるが、中国を見ながら日本のことも心配しなければならない時代なのだ。(2022年2月4日)

科学と現実

職場は理系の研究センターですが、運営に関する会議がありました。未来を見据えた議論において、研究対象としての「環境」、「災害」という言葉がいとも容易く登場することに違和感を感じるのです。環境は環境問題、災害はハザードではなくディザスターを念頭に置いているはずですが、現場のリアリティーがどれだけ認知されているだろうか。昨今の災害の頻発、そしてコロナ禍の中で問題のリアリティーに直面した人々は確実に増えていると思われます。医療技術やモビリティー、通信といった個別の分野に対しては人々は科学に大きな恩恵を感じるでしょう。しかし、生業や人生が大きなダメージを受けたときに、環境や災害を対象とする科学が実は遠いところにあったことに気がつくのではないだろうか。これまで科学は“社会のための科学”でなければあかんと考えてきたが、それでは不十分で、これからの世は“社会に受け入れられる科学”でなければあかん。日本の現状の中に科学(理系の狭い意味で捉えた科学)を置いて眺めると、そんな気がするのだが、若者には“やってみなはれ”といって見守るしかない。価値観がますます多様化する時代ですので年寄りは発信はするが、干渉はしないようにしたい。(2022年2月3日)

基礎、応用と公共

来年度の融合理工学府(大学院組織)の履修要項の最終チェックをしているのですが、改めて「学府の目的」を読み返すとこんなことが書いてある。「自然科学における真理の探求と、それらを基盤とする工学的な方法による人類の幸福と社会の持続的な発展を目的に、以下に示した知識・能力を有する人材を養成する」。この文章は学術の基礎と応用に基づき、公共の福祉に資するという意味だと解釈できる。私はタイトルの三つを学術の目的と考えているが、公共とは“大衆”と考えている。英語のPublicの訳なのだが、日本語にすると意味が変わってしまうような気もする。考えねばなるまい。公共を大衆の意味で使うということは“ひと”、すなわち顔が見え、名前があり、暮らしがあり、様々な事情がある人間を対象とするということである。学府の目的の「以下」に書かれた人材の姿には“ひと”の側面が薄いように思う。学術の成果があれば、人は合理的に行動するということが前提となっていると考えられる。だから、人類の幸福と社会の持続的な発展に容易く結びつけることができる。もっとも融合理工学府は理学と工学の融合なので(それも十分達成されているとは言い難いが)致し方ないことなのだろう。ここに人文・社会系が融合すれば、“ひと”が見えてくるのかも知れないが、それは簡単なことではないだろう。ポストコロナの時代における大学は“ひと”を重視しなければ時代遅れになっていくような気がする。総合知がますます重要な時代になると思うから。(2022年2月3日)

農村の営み

朝日朝刊の「専門誌に聞け」というコラムが今日から農文協「現代農業」になった。この雑誌は震災前からだから、もう10年以上購読している。自分も小さな畑は耕しているが、楽する農なので作物を育てる知恵が役立つことがそれほどあるわけではない。それでもこの雑誌が面白いのは、農村や地方の営みがよくわかるからなのである。農に関わる世界の動向もわかり、実にスコープの広い雑誌である。この世はざっくり都市的世界の住民と農的世界の住民で構成されているが、都市的世界の論理で運営されがちである。それは都市的世界の住民の“意識世界”の範囲で運営されているということでもある。しかし、世の中には都市よりも遙かに広い農的世界が広がっている。農文協の雑誌は「季刊地域」と「うかたま」も定期購読しているが、これらの雑誌を眺めると農的世界の営みがよくわかる。都市的世界の情報は巷に氾濫しているので、農的世界とあわせるとこの世の有様がだんだんわかってくるのである。自分の“意識世界”が拡大し、この世を俯瞰的な立ち位置から眺めることができるような気もする。そうすると、この世の中をどうしていったら良いのか、どうしたいのか、というアイデアも浮かんでくる。それを様々な機会を通じて主張しているのだが、さて自分の考え方は共感を得ることはできるのだろうか。(2022年2月2日)

仕事と生きがい

結構大きな会社の現場の不祥事のニュースが散見される。どうも世の中で大きな変化が起きているのではないか、そんな気がする。それは会社と社員、あるいは資本と労働者といった方が良いかも知れないが、両者の関係に大きな変化が生じているということ。昔は会社と社員は一体だった。新卒一括採用、終身雇用制、年功序列の中で生活給として家族まで一体として会社が面倒を見る体制のもとで、社員のモチベーションを高めていった。それは資本側の戦略でもあったが、うまく機能して経済成長を達成した。しかし、低成長時代では給料は上がらず、技能も修得できず、社員のモチベーションを維持することが困難になると同時に、まだまだ豊かな社会の中で人は依存体質を強めていき、図らずも不祥事を起こしてしまう。これはメンバーシップ型雇用の限界を示すと考えられるのだが、ジョブ型雇用への転換の準備はまだできていない。こんな時代に若者がやるべきことは技能の修得なのではないか。職人として生きる、あるいはジョブ型雇用に備えるために技能を修得しておくのだ。それが生きがいにつながるのではないか。稼ぎではない、生きがいを生む仕事。(2022年2月1日)

デパートの時代の終焉の後にくるもの

セブン&アイ・ホールディングスが、傘下のデパート「そごう・西武」を売却する方向で最終調整に入ったというニュースを見た。デパートが少なくなっていくことは私の世代にとっては寂しい気がするが、それは高度経済成長期に育った世代の思いであり、若者の感覚とは異なるのかも知れない。デパートの品物は高級で質が良いというイメージがあるが、そういう品に対する需要が減ったわけではないと思う。ネットワークが発達した現在、デパートに出荷しなくても専門店の存在は発信できる。人は商品に物語を求める時代になった。店舗が遠くてもネット通販で入手できるし、時間があるときに店舗を訪問することも楽しみのひとつとなった。となると、専門店は地方に根を下ろしながら、じっくりよい品の製造に取り組むことができる時代になったのかも知れない。それが技能の復権、職人の復権の時代であればなかなかおもしろい世になるなという期待もある。(2022年2月1日)

黒丸来迎

夢か、現か。夜中に金縛りに遭った。天井に何かの気配。それが降りてきて私の身体の上に立つ。足の感触が4ヶ所あるので動物のようだ。姿は見えない。その足を掴もうと試みるが手が動かない。しばらくしたら私の身体の中に入ってきたような感覚。おそらく数年前に天国に行った黒柴の黒丸がやってきたに違いない。「お父さんが逝くときに阿弥陀如来を連れて来てね、天女様もお願いね」、と頼んでおいたから。でも、間違って来ちゃったので、その時が来るまで守ってくれるということなのだろう。その後、寝てしまったが、水上を筏のようなものの上で仰向けになって寝ながら流されている自分を見た。夢ですけど、疲れているようだ。(2021年1月31日)

SDGsが登場した背景-世界に対するエンパシーを持とう

朝日夕刊で書家の石川九楊さんはこう述べている。「ぼくはSDGsという言葉は嫌いです。貧困や飢餓を終わらせるといった当たり前過ぎることをわざわざ目標として掲げなくてはならないという事態は恐るべきこと」。SDGsが登場した背景には歴史的な経緯があること、「リオ+20」でSDGsを提起してリードしたのは先進国でも新興諸国でもなく、コロンビアやグァテマラのような中南米の中小国であったということを記憶してほしい。まさに「恐るべき事態」の現場が国連の仕組みを活用してSDGsの採択を獲得したのだ。採択の場にいた國學院大學の古沢宏祐先生の著作を読むと想像できる。日本もいろいろな問題を抱えてはいるが、それでも世界の中では豊かな国だ。世界の諸国に対するエンパシーを持たなければならない。SDGsは理想であるが、まず理想を掲げて、それに向かって進むということはごくごく当たり前の行為である。石川さんは言う。「子供たちや孫たちに、いったい、どんなかたちの日本を、世界を手渡すのか。コロナウィルスの感染拡大を機に、もう一度、根本的に、深く考えてみる必要があります」。日本において議論自体は始まっていることは、日本の政策に関する基本計画や報告書やアカデミアの提言などを読むとよくわかる。厳しい現実に向き合ってきた世界の諸国でもコロナ禍の前に子供たちに手渡す世界のあり方に関する議論は始まっていた。SDGsはそのステップのひとつだ。このことに気付くこともエンパシーの力だろう。なお、記事は「日本語の乱れ コロナ禍で加速?」というタイトル。手書きが減っていることが変な造語を生み出しているという考え方には納得。(2022年1月29日)

未来を語るには

脳みそが破裂しそうだ。地球環境問題を解決しよう、未来を創造しよう、といった課題に関する提案を読んでいるのだが、解決の先に何を見るか、どんな未来を見るか、といったことには思想が必要だ。しかし、思想は個人のものであり、普遍的なものではない。ある思想が価値を持つのは共感してくれるたくさんの人を獲得した時だ。だから全く個人的な思想に基づいて提案を読んでコメントしなければならない。辛く苦しい作業は面白くはあるが、締め切りが精神を蝕む。環境問題を理解したり、未来を創造するには、現在の社会を形成している“時代の精神”を理解しなければならない。それは世界の歴史と空間の中におけるあらゆる主体の相互作用で形成されているものだ。その関係性を紐解き、“時代の精神”の成り立ちにアプローチできた時に、多様な未来を展望することができるのである。しかし、現在のアカデミアは論文によって評価される。それも取り組む時間を限定されて。そのことが真摯に、自由に未来を語ることを蝕んでいるような気がする。(2022年1月28日)

科学と社会の信頼関係

問題に対峙したときに、ステークホルダー間の信頼こそが問題解決に向かう道筋であることは、これまでの環境問題研究で十分明らかになっていることだと思う。しかし、コロナ禍では専門家としての科学者は信頼されただろうか。朝日朝刊の「明日を探る」欄で、横山広美氏は科学と社会のコミュニケーションの3段階について述べている。それは、緊急時のクライシスコミュニケーション、緊急時よりは余裕のある段階でのリスクコミュニケーション、そして平常時の科学コミュニケーションである。クライシスコミュニケーションでは社会の構成員に、この危機は制御可能であることを示し、恐怖を煽らない、一貫したメッセージであることが重要と述べている。あぁ、そうやな、と思う。制御可能であることを示すことが大切なのだ。社会とつながるためにはステークホルダーの納得感が大事なのだが、コロナ禍では十分な納得感が得られなかったようである。横山氏曰く、信頼を構築するためには専門家の「能力」と「意図」が伝わっていなければならないのだが、「意図」を読み取るのが難しいという。だから、丁重なコミュニケーションが必要なのだ。では、「意図」はどのようにしたら伝わるのか。横山氏はロジャー・ピールケ(ペルキーかも)の提示した科学者と政策の関係図から「リニア・モデル」と「ステークホルダ・モデル」を取り上げている。横山氏は今回のコロナ禍で「リニア・モデル」の重要性が増したと感じる人が多いのではないかと述べているが、そうだろうか。リニア・モデルのPure Scientist(純粋な科学者)は社会との関わりは持たない。Science Arbiter(科学の権威者)は、社会との関わりは一方通行である(論文の中に書くだけ)。社会にその意図を伝えようとするのならば、それは「ステークホルダー・モデル」のIssue Advocete(論点主義者)に近いのではないか。科学者と社会の関係が一方通行(リニア)ならば、それは単なる「知の権威化」である。Issue Advocateを束ねるHonest Broker of Policy Alternative(複数の政策の誠実な仲介者)こそ、専門家集団に求められる態度ではないかと考える。ただし、コロナ禍では十分に機能していないようなのだが、それは科学者、政治、行政、市民の分断が進んでいることとも関係している。(2022年1月27日)

人は「支配者側にまわろうとする」

今日の朝日朝刊「折々のことば」(鷲田清一)の解説文から。もとの文章は「今日、政治的であるということは、政治するということをしか意味しない」(福田恆存)。支配しようとすると政治が政治家のためのものになるという。その通りやなと思う。大学でも上層部が支配に回ろうとすると、誰のためか、何のためか、ということが変わってくる。それは意図してのことではなく、現在の政治に支配された文部科学行政のもとではそうならざるを得ないのだろう。管理者を務めてくださっている方々には感謝なのだが、本来は教員、職員と学生の幸せのためが先に来て、その先に社会のためがあるはずだと思う。今の自分のモヤモヤ感は支配されたくない気持ちなのか、それともわがままなのか。こんなことを考えながら運転していたら、ラジオから「支配からの卒業」のフレーズが。尾崎豊だそうだ。自分もあと一年で卒業。自由な身の上になるはず。(2022年1月25日)

生き様を変える

64歳になってしまった。歳など無視(六四)してくださいと言いたいところだが、老いが数字で迫ってくる。最近の自分は疲れている。「仕事」と「稼ぎ」のバランスが崩れているようだ。バランスを崩した結果、文句ばかり言うようになってしまったが、軽薄な近代批判でもある。内山節は言う(「里の在処」全集版の守田志郎「むらの生活誌」解説」)。「近代批判を近代的な学問の方法を用いて行ったのでは、学者としては自己矛盾である」。矛盾を乗り越えるためにはどうすれば良いか。それは、現場と「時空を共有」することである。すると、「知が権威化されること」、「学問が知の領域においてしか展開しえぬこと」、「観察者と観察される対象としての大衆の関係」から逃れることができる。定年まで一年であるが、少しずつ生き様を変えていきたい。(2022年1月23日)

多様な生き方

最近、暗いニュースが多い。苦しんで、苦しんで、大勢の人を傷つけ、時には殺めてしまう。そんな人は一つの生き方しかないと思い込んでいるに違いない。生き方というものはたくさんあるのだ。本を読んでいてこの文章に出会う。<金もうけをしたいなら都市の方がいい。しかし悔いのない暮らしをしたいなら村の方がいい。村には本当の豊かさがある>(内山節、「里の在処」より)。人の価値観は、その人が関わりを持つ範囲で形成される。それを私は意識世界と名付けた。私が関わる若者はほとんどが都市生活者だろう。東京で仕事、すなわち金稼ぎ、をするよりほかに道はない。そのためには、優秀でなければならない、と思い込んでいないだろうか。若者には意識世界を広げる習慣を持ってもらいたい。そう思って、今日の集中講義でも勝手なことを話しているが、農山村の暮らしに関する話も多くなる。自分には山村に対する憧れがあるから。若者には違う世界のことを知ってほしい。昨日の講義では阿武隈の山村の話をした。もちろん、科学と社会の関係性に関する重い課題がある場所である。学生に私の意図は伝わっただろうか。でも、意図が伝わったとしたら、理系の研究・教育組織のなかで路頭に迷うことになるかも知れない。それも罪深い。(2022年1月22日)

研究の本質とは

歳をとると研究評価の仕事が増えるのは宿命か。今日もある案件を提出し、次の案件に取りかかったところ。たくさんの提案を読んでいると、科学者と組織の考え方が交わらない場面に何度も出会う。科学的に重要であるということが、その案件の趣旨とそぐわないのだ。組織の担当者は、メンバーがたくさん論文を書いて、リーダーシップをとり、組織のステータスをあげることを望む。それぞれの提案はみな科学としては重要であるが、本来は研究の価値は社会が判断するものなので、視座をどこに置いているか、多様な視点が活かされているか、視野は広いか、といった部分が気になってくる。財源は元を正せば税金であり、組織はパトロンではないので社会を意識したくなるが、評価作業では組織の意向に沿った判断をすることになってしまう。組織の意図を汲んだ提案は大抵外形的にもしっかりしており、高く評価しやすいのだが、目的の達成にどこまで迫ることができるのか、目的の本質にアプローチできているのか、もっと深掘りしてみたい提案もある。大学運営の枠組みに中の営みなので、そこまで考える必要はないのだが、やはり研究目的の達成のさらに先にある本質との関係性が気になる。とはいえ研究の目的は階層性を持つので、考えすぎには注意しなければならない。(2022年1月21日)

貢献基準とは何か

オンライン集中講義で私の講演資料を使った話をしました。その中で学術の評価基準として○成果基準、○貢献基準、○未来基準が必要という話をしたのですが、表記の質問を頂きました。学生に返した解答が以下。ここでは科学(英語のScienceに相当し、日本語の科学よりは広く、学術といった方が良いと思いますが、とりあえず科学としておきます)の社会に対する貢献を考えようと思います。貢献の程度は科学と社会の関係性の中における諒解によって客観化されると考えています。ということは科学の貢献度を判断するのは社会全体であるわけです。科学史の中では現代の科学の営みのパトロンは国家、よって納税者に変わってきました。だからこそ日本の社会全体が日本の科学の評価者であるわけです。現在の代議制民主主義の元では政府が国民の声を代弁するわけですが、現政権は構造改革と称する新自由主義的思想に立脚しています。だから短期的な利潤を追求することにより、諸国とのパワーバランスをとろうとする。政府にとって重要なのは日本学術会議ではなく、総合科学技術・イノベーション会議であるわけです(どちらも内閣府の組織)。さて、貢献度を決めるのはあなたなのですが、科学の側も努力をしなければなりません。論文を書いて数値指標を高めればそれで責任を果たしたわけではなく、科学の本質的な価値を科学者は語らなければなりません。とはいえ、貢献度の評価は定性的な評価になるでしょう。特に人文社会系の研究ではそうです。重要なことは、あなたが過去から現在を経て未来に続く時間軸と、世界という空間の中であなた自身と科学(学術)の成果をどう位置づけるのか。それが一番大切です。私の考え方なのですが、学生は受け入れるだけではなく、自分が諒解できるかどうか考えて、異見があったら返してほしい。対話こそが相互尊重、相互理解の要です。(2022年1月16日)

縮退の時代の現実

国交省の統計不正の件を批判してしまったが、その後、背景には人手不足があるという産経新聞発のニュースを知った。ということは、背後には日本が縮退フェーズに入ったという厳然たる現実がある。もう、今までと同じやり方はできない。新しいやり方を考えるために、時代に紐付けられた習慣は改めなければならない。本質は何なのか、何が重要な仕事なのか、何をやるべきなのか。時代のコンテクストの中で考え、決めなければならない。(2022年1月16日)

国家統計に手を抜く政府は、国家運営をやる気がない

朝日朝刊2面のこのフレーズは頭にガツンと一発食らわされたような思いだ。英国のポール・アリン氏はそう言い切る。国交省の統計不正が及ぼす影響の大きさが、だんだんと“わがこと化”されてくる。日本という国が坂道を下り始めていることも改めて認識せざるを得ない。国家は巨大なシステムだ。その一部で動機はともあれ、不正が行われたということはシステムの一部を改修すればすむということではない。記事にあるように修正の動機を持つことは言うまでもないが(現場の担当者を責めるというやり方ではなく)、システム全体の挙動を認識した上で、影響の全体像を明らかにしなければならない。最も深刻な影響は世界の中における日本の信頼性が損なわれているということであるが、それは信頼を基軸に動く様々な営みに機能不全を引き起こすということだ。なんとかせねば、と思うが、それは所詮“緊張のシステム”(栗原康)の中における対処だ。時代の流れを読んだ上で、“共貧のシステム”に向かう道があって良い。この二つのシステムは二者択一ではなく、共存することも可能であるということがかねてからの主張だ。それは都市的世界と農的世界の共存である。低収入、低コスト、低負荷社会に否応なく進まざるを得ない時代であることを認識し、ポストコロナ社会の構築を進めなければならない。それは言うのは簡単だが、価値観の変更を伴う極めて困難な道のりでもある。どう実現するかというと、世の中にある可能性の芽を探し、育てることだ。すでに芽はたくさん出ている。(2022年1月16日)

試験に人生をかけること

週末の共通テスト実施における受験生を含む関係者の方々のご苦労は察して余りあります。朝日「天声人語」の筆者が受験生から聞いた言葉が「この試験に僕の人生かかっていますから」。 人生をかけて取り組む、という意気込みはあって良い。うまくいけば良いが、失敗しても気にすることはない。ドリフターズの長さんではないが、“はい、次、行こう!”で良いと思うよ。世間には様々な生き方がある。人生を限定してしまっているとしても、それは時代がつくり出した精神的習慣に囚われている過ぎないかも知れない。世間の底流にあるものを探し出すことが、若者の人生の選択を容易にすることもあるだろう。日本ではWEBで様々な取り組みを知ることができる。書店に行けば様々な実践や経験が書かれた本や雑誌を見つけることもできる。いろいろなところに視点を置いて、視野を広くして世間を眺めて見てください。その時は上機嫌でやること。そうすれば気持ちが楽になると思うよ。(2022年1月14日)

自分の機嫌は自分でとる

あ、そうやな、と思う。朝日朝刊「耕論」の上条百里奈さんの文章の中のフレーズ。自分も若い頃は自分の思い通りにならなくて不機嫌になることも多かった。老いてからも不機嫌はあるのだが、昔ほどではなくなってきたな、と感じる。それは、いろいろな人生、いろいろな考え方を知り、多少は意識世界が広くなったからだろうか。自分の心は訓練でコントロールできるようになることを知っていることもあるかもしれない。そのことは武田双雲の「上機嫌のすすめ」(平凡社新書)で知った。昔、落ち込んだ時、それは意識世界が狭かった時に読んだ本だ。少し元気をもらった。武田双雲もストリート書道から始め、世間の有様を知ることによって「上機嫌力」を身につけていったのだ。ブレイディーみかこさんの著作からは「エンパシー」も訓練で醸成できること知った。イギリスのシチズンシップ教育の目的でもある。心というものは修行で変わっていくものなのだ。他人は誰も自分のことなど気にしてはいないが、自分が上機嫌でいれば、他人との間の垣根も低くなり、関係性の構築にも役に立つ。もちろん、「ひとり」でも良いが、上機嫌が「ひとり」を強くする。(2022年1月13日)

大学ファンドの行方

朝日朝刊社説のタイトルは「大学ファンド 研究力は高まるのか」。大学ファンドが思い通りの成果を出せるのか、かえって足かせになるのではないか、という疑念が呈されているが、私も同様な思いである。背後には20世紀における経済成長を背景とした成功体験があるシニアの方々の“古き良き時代よもう一度”という思いがあるのではないか(それは、歴史ではなく自分の“時代を背景とした成功体験”に基づく考え方だ)。一方、若手の精神的習慣が私の世代とは大分変わっており、異論を表明することができなくなっているという状況はないか。この30年ほどの間で研究のプロジェクト化が進み、若手の成功の条件は、好奇心というよりも、プロジェクトの意向に沿うことになっているように感じるからである。そもそも研究力とは何か。金稼ぎの力か、見栄を張る力か。背後には内閣府、経産省に主導される科学技術行政に文科省が寄り添う形になっていることがある。経済のための科学、社会のための科学のどちらも必要であり、前者は総合科学技術イノベーション会議、後者は日本学術会議が担っているのであるが、政治も含めて世間がその違いをわかっていないということは社会全体の未熟性を意味していないか。政策は時代背景を咀嚼した上で立案されなければならない。少子高齢化、生産年齢人口減少といった日本の現実を見極めた上で、よりよい社会に向かうために大学が何をすべきか。それは新しい科学、オルタナティブ・サイエンスの確立ではないかと自分は考える。幸いなことに、それはあまりお金をかけなくても実行できるかも知れない。“社会の中の科学、社会のための科学”は貨幣ではない価値の尺度を持つはずだからである。大学ファンドはうまくいかないと思うが、ここに記して、隠者となって見続けていようと思う。(2021年1月9日)

大学人として何を伝えるのか

今日は学部3年生向けの「リモートセンシング入門」をオンラインで実施した。土曜半日を4回とオンデマンドを組み合わせて2単位とするのだが、何を伝えるか、が悩ましい。そう思う背景には、リモートセンシング技術を伝え、技術の可能性を述べるだけではほとんどの学生にとっては役にたたない知識になるだろうという思いがある(ほとんどが異なる分野の学生で、カルチャークラブ的な内容になってしまう)。リモートセンシングの対象である環境の本質に気付く、そんな“講義”でなければあかん、と思う。そこで、今日は序論なので前半はいつもの科学と社会の関係について話し(ほとんど説教だが)、後半では事前課題として学生が自身で選んだ人と自然の関係性に関する事象について説明を聞き、コメントする。世界ではどんなことが起きており、その背景には何があるのか。その地域の外側とはどんな関係性があるのか。学生の気付きになれば良いと思っている。ひとりでも気がついてくれれば、成功である。昨今の大学の授業(講義と呼びたいのだが)は学問の大系からは離れ(ここでは専門教育を考える)、大学人の研究のお披露目、自分がほしい学生を育てることが目的と化している。もちろんすべてではなく、異論もあると思うが、20年位前の文科省の報告でも指摘されていた。シラバスを作成して、その通りに実施することが大学の授業になったのはいつからだろうか。それでは、授業は単なる知識の伝達で、学生が“意識世界”を広げていくことにあまり寄与できないのではないか。そんな気がするが、昭和世代のぼやきでもある。(2021年1月8日)

競争の階層性

仕事始め早々組織運営に関する打ち合わせがあったが、トップダウンの圧力が強すぎて組織の理念が運営に反映できない。悩ましい状況だ。ふと気がついたことは、縦のヒエラルキーの階層ごとに競争があり、しかも競争の土俵が違うということ。文科省は省庁間の競争の中で政治を見ている。大学トップは大学間の競争の中で、文科省を見ている。末端の部局では教員間の競争の中で大学トップを見ている。教員間の競争はけっして本意ではないのだが、その様な精神的習慣が押しつけられている。そして重要なことは階層の上位が下位を見たとき、人間は数字になるということだ。その時、階層間の分断が生じ、何のための競争か、という点が曖昧になる。これが大学の研究・教育力の低下の根本的な原因だと思う。人間を“ひと”として見ることのできる大学運営はできないものだろうか。根本は大学や大学人の持つ哲学なのだが、今や大学の哲学が失われており、それは現在の日本の状況と同期しているのだ。(2021年1月4日)

ひとのこころはわからん

読み散らかした本がいっぱいあるのだが、「西行-魂の旅路」(西澤美仁)を読み始めてしまった。なぜ西行は出家したのか、が気になっていたが小林秀雄によると、そんなこと興味ないことだという。そう言われればそうだ。訳を詮索しようとしたとて、ひとのこころはわからんのだ。西行は出家当初は山里を転々としながら都にもよく出入りしていたようで、久保田淳によると草庵への憧憬があったという。なんとなくわかるような気もする。まだ自然という概念はなく、人と自然は一体であった時代であるが、だからこそ自然の中の庵で暮らしたいという思いがあったのかも知れない。和歌には自然を愛でるものが多いので、日本人の心情といえるだろう。失恋が動機という説もあるが、そんなことは詮索することもないな。ひとの思いはわからんだけではなく、ひとつでもないのだ。(2021年1月3日)

自然・農に浸る

今日で正月休みも終わり。あっという間の休憩だった。酒も飲み過ぎたが、明日からは減酒。仕事が始まらないうちに今年の目標を決めておきたいと思ったが、これしかないな。自然といっても身近な自然が良い。人と自然の関係性により存在する里山が良い。農は暮らしの基本となる労働だ。農に浸りながら手仕事で何かを作りたい。野菜、花、木工、ガーデニング、...。来年は定年で低収入目前ですので、低コスト、低負荷の暮らしに移行しなければいかん。今年はバッファ期間だ。大学の仕事もせにゃあかんが、論文のための研究は卒業した。自分の専門は今や地域計画学といっても良いのではないか。ここはやりたいことがあるので軸足をシフトしていきたい。(2021年1月3日)

思い込みに気付くこと

正月休みに内山節を読み返しており、「哲学の冒険」を読み終わったところで備忘録を残しておきたい。「労働とは何らかの作品をつくること」。これは内山哲学の核にあたるのだが、研究の世界で考えると作品とは論文のことだろう。確かに論文を仕上げると充実感が得られる。しかし、評価は国から大学を貫くヒエラルキーの世界の中だけの評価だ。評価の中で社会との関係性が失われている。論文の本来の目的は社会との関係性を創ることなのではないか。「科学的真理だけが真実だと、私たちはどこかで思っていないでしょうか」。人の中には科学(理系の科学と考えてよいだろう)を無条件に崇拝する人がいるが、それは思い込みに過ぎないのではないか。いろいろな事象の人間的側面が大切なのだ。「日本には競争する自由が誰にでもある、というだけなのですよ」。競争がいいものを生み出す、というのも思い込みに過ぎない。それが敗者の不幸を生んでいる。ヨーロッパの労働者にとって最大の最大の恥は、仲間同士で競争することだという。世の中には気がついてみると単なる思い込みに過ぎなかったということが多い。それに気が付くことが、社会を変えていく。書き留めておきたいことはまだまだあるのですが、この辺にしておいて、次の本に進みます。(2022年1月2日)

新年のご挨拶

今年も年賀状を書いていませんので、お送り頂いた方には心よりお詫び申し上げますとともに、皆様のご無事をお祈りいたします。書かなくなったのは現代社会の精神的習慣に飲み込まれ、年末に心の安穏が得られなくなってからですが、年賀状は明治以降の習慣であり、移動・通信手段が発達した現在では本来の意味は薄れてきたかも知れません。関係性を確認するという意味はあるかも知れませんが、それも契約社会である欧米の習慣のような気もします。2022年は現役最後の年ですので、少しずつ人生の軌道修正をしていきたいと思います。昔の大学人ですから、わがままです。トップダウンの指令に従順にはなれないのは、(自由人という意味の)アナーキストだからかも知れません。大学人は自由な主張(使命感と責任がある積極的自由による主張)ができる存在だと思っていますが、それも疲れてきましたので、やはり行き着く先は隠者となります。(2022年1月1日)


2021年12月までの書き込み