口は禍の門

 時の経過の早さに驚きつつ、あっという間に老いていく我が身を憂う。大学人としても最終コーナーを回ってゴール間近となり、人生のフェーズも変わってきた。この数ヶ月はずいぶん勝手な主張を行った。講演や雑誌の記事など。さて、どれほど世間に伝わっているのかが気になっていたが、もう気にしないようにする。マジョリティーが自分の主張をわかってくれないと嘆くのはばからしい。ひとりにでも伝えることができればそれでよし。底流を構成できればよいのだ。底流のまま表層には浮かんでこないかもしれないが、それでよい。なぜなら隠者だから。(2021年10月1日)

 光陰矢のごとし。まことに時の経つのは早い。世界が相も変わらず混沌としているなかで、のんきに暮らしていて良いのか。つらつらと考えているところではあるが、今の世のキーワードには“隠者”と“利他”があるように思う。隠者は憧れであり鴨長明、兼好法師が好きだが、世の中でもブームらしい。利他についても勉強を始めたところである。私は利他の心は人間が深層に本来備えてるものだと思っている。利他の心が発現しやすい社会がSDGsのめざす社会ではないだろうか。最近、こんなことを考えることが仕事になっている。(2021年7月1日)

2021年6月までの書き込み


学ぶのは未来か過去か

トイレではもちろん新聞も読むが(だからお尻の調子が悪くなる)、朝日の近藤康太郎のコラムはいつもおもしろい。多事奏論より。岡崎体育の新譜「おっさん」のサビの部分「今を 未来を 学べる人になりたい」。康太郎は、"それはちゃう、おっさんこそ過去に学ぶのだ"と主張するが、まさに御意。そもそも、"未来"はわからないので学べない。"今"を知ることから展望するものだから。"今"を学ぶ点は少しは同意するが、過去からの時間軸の中で位置づけないと"今"の意味がわからんのだ。やはり、過去に学ぶことが大切なのだ。ただし、岡崎体育のこの部分は納得。「ズレていく/世間との軋轢が生じてしまって/当たり前のこと解らなくなる」。自分にぴったり当てはまる。ただし、何が当たり前かということは時間軸の中で位置づけないとわからん。過去に学んでみたまえ。人は自分が生きた時代から逃れることはできない。おっさん、上等。(2021年11月27日)

ひとりでいい

JAFMateの12月号をトイレで読んでいる。"幸せってなんだろう"というコラムが毎号あるが、今月はヒロシ。そのタイトルが"ひとりでいい"。ヒロシは"幸せ"からは"自由"を連想するという。ヒロシの自由はひとりであること。寂しさは否定できないが、"ひとりで生きていく"という想いは持っているという。様々な関係性がある世の中で、"ひとり"なんて無理であることはわかっている。ただし、"みんなでいないといけない"という考え方は好きではないという。ヒロシの自由は積極的自由。自分の人生に責任を持ちながら、"ひとり"を諒解し、楽しむ。世捨て人というわけではなく、世間との関係性もちゃんと持っている。仕事は"人生のひまつぶし"。これもいい。ヒロシは隠者ですな。縮退の時代のひとつの生き方だと思う。ヒロシの著書を読みたくなってきたな。(2021年11月27日)

未来のための暮らし

友人宅へお呼ばれしてブラジル式バーベキューを堪能してきた。職場は東京だが、千葉の田舎から通勤している。広大な敷地で様々な取り組みを行っているが、これは持続可能な未来(発展する未来というより)へつながる暮らしともいえるだろう。内山節が「地域の作法から」(農文協人間選書)の中で、「これからの百年、21世紀に我々は子や孫に何を残していったらよいのか、と考えたとき、指針となる大切なことは五百年前、千年前でも今と変わらぬことだ」と述べ、次の五つをあげている。再掲しておきます。

①自然の恵みを受けながら暮らした
②農業を中心とする一次産業があった
③手仕事の世界、生業があった
④暮らしをつくる労働があった
⑤何らかの共同性を持ちながら生きた

友人の田舎暮らしはこれらのすべてを満たしている。だから、友人の田舎暮らしは自分のためというより、未来のための暮らしといって良い。友人は日本国籍は取得していないが、日本が経験した20世紀の歴史の後に続く21世紀型の暮らしのスタンダードとなるべきものといっても良い。もちろん、都会は都会として存続するだろうが、世界を向いたコンパクトな高機能都市として機能し、都会と田舎はネットワークで結ばれ、人は田舎と都会を行き来できる精神的習慣を持つ。これが私が考える理想的な未来でですが、すでに少しずつ実現されつつあるように見えます。(2021年11月23日)

人生の苦しさ

愛を語る瀬戸内寂聴さんの追悼番組(クロ現+)を見ていてふと思った。人生の苦しさとは、“愛さなかったこと”ではないか。環境問題や事故に関わり、また、昨今の難民問題、紛争、差別、といった問題を注視していると、苦しい状況にある人間が何であんなに強くなれるのだろうか、と思うことがしばしばあった。今、わかった。それは愛があるからだ。家族や邦に対する愛があり、それを共有する仲間がいると、人は強くなれる。人生において、このことに何時気付くのか、それが人生を決めることにもなる。でも、何時でも良いのかも知れない。人はひとりで生まれ、ひとりで死ぬことを思えば、人生の終盤になって気がついても、その時はその時。苦しさから解放され、穏やかに人生を閉じれば良い。(2021年11月21日)

楽農報告

午前中にホームセンターに行き、売れ残りのタマネギの苗を発見。淡路島のもみじ3号。100株で税込み220円。育ったら儲けもん。先日移植した種は中手。これは晩生の品種なので、時間差で収穫を期待。一気に収穫すると食べきれないので。パッケージの記載を備忘録として記載。植え付け深さは2~3センチで、葉の分岐点より上には土をかけない。極端な乾燥や肥切れでトウダチが多発することあり。最終追肥は3月中旬までで、遅れると貯蔵性が悪くなる。いいことを知った。農業は経験値が役に立つ。秋まきのダイコンとカブは2週間ずつ間を空けて3カ所に播種したのだが、日当たりの違いか、最後の区画の生育が早く、差があまりなくなってしまった。食べきるのが大変。(2021年11月20日)

宇宙の気配

日も暮れ、完全に夜の領域に入っている。8階の東向きの研究室の窓から下側の縁が光った月が見える。会議で月食のクライマックスは見逃したが、まだまだ月食ショーはたけなわである。月の輝く部分と地球を結んだその先、自分の背中側の遙か彼方に太陽があるはずだ。今、自分は北緯36度にいる。頭の中に丸い地球と、自分の居場所と、月の位置と、太陽を置いてみる。老いて空間認識能力も落ちており、何が何だかわからなくなるが、ふと、そこに宇宙の気配を感じる。(2021年11月19日)

組織とひと

人事の話はやなもんだ。組織運営に哲学がないと、人か組織か、どっちが大事かという話に結局なってしまう。私は人、それも“ひと”を大事にしたいと思うのだが、その場合は組織の目標を明確にして、支え合いながら目的の達成を共有する体制を作らなければならない。それでこそ組織である。しかし、現実はそうならなかった。それは日本の新自由主義的政策の中で大学も研究者も外形的な成果を競うエリート主義に陥ってしまったからだと思う。競争といっても目指すところが階層の上位の意向に沿うための競争だからスポーツとは違う。エリート主義に基づく組織中心の人事ではどうしても不公平が生じる。組織の礎を構築する仕事は評価の対象から外れてしまうからである。それは上位の階層のガバナンスの能力の欠如ともいえる。自分も上に立つ立場であるので組織の観点からはガバナンスの意識が欠如していたといえる。それは古い時代の一匹狼型の研究者の習慣を引きずっているからだ(それが悪いわけではない)。メンバーシップ型でもジョブ型でもない、非常に中途半端な体制に日本の科学は陥っている。それが科学の世界における日本の低迷の原因だが、それはエリート科学の分野で低迷しているだけで、実は強い分野もある。しかし、現在の体制では組織の枠から外れる主張は空しくなるだけなのである。(2021年11月19日)

広域水道の持続可能性

インフラの老朽化は以前から問題として意識されているが、具体策がなかなか聞こえてこない。もっとも、具体策があるとすると社会のあり方の変更となるので、行政的には難しく、政治的には経済成長で解決、すなわち先送りということになってしまうのだろう。インフラの中でも広域水道の持続可能性については心配しているところであるが、日本水フォーラムのニュースレターに「日本水道の課題-インフラ衰退国の危機」という寄稿を見つけた。著者は日本水道工業団体連合会専務理事の肩書きを持つ宮崎さん。やはりハードの維持の問題と、水道技術者の減少が深刻な問題だという。水道というのは意識されにくい問題なのだろう。水道の蛇口の向こう側に人はなかなか意識が向かない。しかし、意識しないということは日本人が“文明社会の野蛮人”であることを意味している。近代文明人であるのならば、未来を予見して計画的に対処しなければならない。宮崎さんは一層のインフラ投資が必要だというが、それだけではもう対応できない社会になったと思う。少子高齢化、低成長社会では税収は期待できない。私は社会のあり方の変更が必要だと思うが、具体案がなければ根拠なく経済成長を期待する態度と変わらない。少なくとも、社会のあり方を考え、提案していかなければならない。私としては分散居住と水源の多重化、すなわち地下水の利用が一つの案である。(2021年11月17日)

“エモい”と“もののあはれ”

WEBで偶然“エモい”という表現を知った。若者ことばということで、親爺が知らなくても当然なわけだ。ヒットしたのはDIAMONDonlineで、そこでは「おじさん構文」と「エモ文体」に共通点があり、「おじさん構文」は“中高年がやりがちな主にSNS上での上滑りしたコミュニケーション”とのこと(フリーライターヒオカ)。エモはエモーショナルの略で、“感情の変化”が起こったときに使われる若者ことばだというが、その特徴はひらがなの多用にあり、アンニュイ、メルヘンチックな雰囲気を醸し出すという。上等じゃんと思うが、記事を読むとあまり良い意味では使われてなさそうである。親爺が使っちゃあかん、ということか。私が思うに、ひらがなは大和言葉で、そこからはエモが多分に醸し出されてくるのである。まさに、紫式部の“もののあはれ”、清少納言の“いとをかし”である。Wikipediaによると落合陽一もエモいをこの二つの表現で説明している。ただし、落合はこれらを一見ムダなものと考えているそうだ。一見というところに意味が込められているのかもしれないが、エモは日本人の情緒を形成する、ムダどころか、生きる力を育む大切な気持ちではないだろうか。こういう“こころ”の存在を忘れると生きづらい世の中になってしまう。少子高齢化、低成長の縮退社会に突入し、次なる時代を形成する上でエモは大切だと思うが、それをベースにエモーショナル・エンパシーからコグニティブ・エンパシーを醸成できれば良いのではないかな。それにしても炎上しないようにエモ文体を使う場をわきまえることが世間では大切みたい。(2021年11月15日)

奄美・アイヌ 北と南の唄が出会うとき

またいい番組を見た。NHKはいろいろ言われてますが、現場は矜持を失っていないのだなと思う。奄美とアイヌは2000kmも離れているのに、その音楽は共鳴し合う。なぜか。そこには自然と共生して暮らす人々、人と自然の無事を祈る人々に共通する何かがあるのではないか。心の深層に宿る何かが。共鳴し合う二つの唄は、とても心地よく安寧の感覚を呼び起こす。しかし、その唄には悲しい響きもある。それが差別による辛苦の歴史によるものだとしたら、我々は深く考えなければいけない。それは、この社会の有様を変えることにもつながる。(2021年11月13日)

演者と大衆のコラボレーション

朝日朝刊のコラム「多事奏論」、編集委員の吉田純子さんの論考。今秋のショパン国際ピアノコンクールでは一般の方々がリアルタイム配信を通じ、詳細な情報を共有していたという。だから、メディアは勝負の結果を伝えるだけだと、その役割が問われることになる。演者たちは個性を発揮し、観客は順位に一喜一憂しながらも、祭りの後はそれぞれの「推し」のもとに帰っていく。もはや勝敗はそんなに重要なことではないのだ。アーティストの多様かつ繊細な個性に向き合う時代が来たのだ。それは商業主義による芸術の支配に新風を吹き込むことにならないか、という。科学もそうだ。現在の科学の評価では数値指標による勝負が重視、というかそれだけになっているが、実は数値指標による競争は人類にとって意味は僅少であり、個性が大切なのである。真鍋さんが好奇心と言ったのは、科学の作法に基づいて新しくかつ重要な知識を生産するという営みに対する科学者の渇求である。芸術では演者と大衆のコラボレーションができつつあるが、実は科学の世界では遅れているような気がする。だから、トランスディシプリナリティーが重要なのだ。数値指標ではない科学の真の意義を問わなければならない。このコラムのタイトルは「コンクールに思う 音楽の本質 競争ではなく個性」。これを科学に置き換えると「研究評価に思う 科学の本質 競争ではなく個性(独創性)」とでもいえようか。科学の価値を評価するのは大衆でなければならない。(2021年11月13日)

大学の矜持の消失

教授だけで集まって組織の将来構想について話し合う。当たり前のことですが、そこにはどうしようもないしがらみがある。上層部の意思に従わなければならないという思い込み。上層部とは大学の上層部だけでなく、国の上層部まで含む。大学運営に対する上層部の思想、哲学が見えれば良いのだが、伝わってくるのはエリート志向のみ。日本の状況を時間軸と世界の広がりの中に位置づけ、大学のあり方を決断した上での運営であるようには見えないのである。もちろん国は強い。寄り添わざるを得ない上層部の事情もわかる。しかし、大学の存在意義はお上の事情より、遙かに重要である。大学人は職場としての大学だけでなく、学界、政策、地域と関係性を持ち、俯瞰的な立場から提言を行うことができる存在であったはずであるが、その機能は失われつつある。なんてことは自分が定年間近だからいえることであり、サラリーマン化した若手はそんなことはいえないかも。日本の大学は大綱化、構造改革以降の政策の中でその矜持を失った。(2021年11月12日)

前へ進まない生き方

瀬戸内寂聴さん、逝ってしもうたなぁ。寂聴さんの源氏物語全10巻は2巻目の途中で止まっているが、はよ読まねばあかん。寂聴さんの人生は波瀾万丈だったと伺っているが、振り返ってみれば良い人生だったのではないかなぁ。それは仏の教えでもある。寂聴さんは前へ進む意思があり、師を見つけることができたことが人生のポイントだったのではないか。でも、前へ進むという意思は昭和の生き方なのではないだろうか。前へ進まない生き方というのもあるのではないか。それは令和の生き方になるのかも知れない。寂聴さんを偲びながら思う。(2021年11月11日)

偉そうな発言

今日は学術会議の地理教育分科会の中にある自然地理学・環境防災教育小委員会がありました。ZOOMが再起動を繰り返し、おかしな状況でご迷惑をおかけしてしまったので、後でメールで送った意見が下記です。まずは、 地理教育の現状、大学の講義について。

 千葉大では自然地理学は絶滅危惧種です。学内で講義名に地理学を名乗れるのは教育学部社会科教育分野のUさん(人文地理)だけかも知れません。
 ただし、地域研究、民俗学、経済学、ランドスケープ学などには地理学に近いセンスの方がおりますので、地理学が学術諸分野を包摂する概念、理念を打ち出せれば、地理総合の連結先になるような気がします。
 千葉大学では教養科目は普遍教育と呼んでいますが、自然地理学の文言は見えず、地域科目(横断科目)、教養コア科目(環境コア)と名付けられた科目の中に関連する講義が見えます。
 私は環境に関わる講義の最初に、地理学とはなんぞや、という話をし、個別課題には地理学的視点を入れ込んでストーリーを作っています。
 地理学不振は大学大綱化と、続く構造改革(新自由主義政策)による法人化といった流れの中で生じてきたもので、研究評価のあり方とも大いに関係してると思います。根は深く、挽回には哲学、理念の深化が必要で、時間もかかりそうな気がします。
 まさに、SDGsの社会の変革が地理学の再興につながると思います。

次は学術会議の「提言」の方式が変わったことに対する対応について。

 第25期に入り、提言のあり方が変わってきたことにより、力点の位置も変えざるを得なくなってきたように思います。自然地理学が突出するのではなく、広い分野を包摂する主張の中で、自然地理学の目的を達成する戦略が必要かと思いました。
 一番重要なことはカーボンニュートラルや災害といった問題に対応し、持続可能社会を構築するための「地理的思考力」だと思います。それは自然観、地球観、社会観、人間観といった地理的な“~観”になります。この主張をベースにしたいと思っています。
 周辺分野にいると良く感じることですが、カーボンニュートラルや災害といった課題は視座が異なると、対応は異なります。人はステレオタイプ、言説で考え方が左右されますが、アカデミアは異なる視座に基づく複数のシナリオを提言できなければならないと思っています(PielkeのHonest broker)。
 トップレベルの主張に基づき、そのためには下位の主張で何が必要かという提言、見解を纏めるというストーリーが学術会議から発信する提言、見解として採用されやすいのではないかと思います。

最近は抽象的で偉そうなことばかり発言しています。ひょっとしたら勘違い、空気読まない発言なのかも知れませんが、発信しないとそれもわかりません。隠者になるつもりですので、発信はしておこうと思います。では自分は何をやるか。目の前にある問題に取り組みたい。数多あるローカルの課題の一つに全身全霊で取り組むことが最も大切なのではないかと思っています。(2021年11月8日)

“ひと”として生きること

うれしい便りが届いた。先日、原子力災害により奪われた“ふるさと”の回復を希求する方々とミーティングを行ったが、少し元気を取り戻しつつあるとのこと。一審の判決は、原状回復の請求権は認めるが、原状回復の方法については原告らが特定すべきで、それが特定されていない、とのことだったという。原告に考えろというのもおかしな話だと思うが、それが日本の司法のあり方でもある。それでもふるさとに帰りたいという思いから、わらにもすがる思いで私を訪ねてくれたのである。その結果、原状回復は困難な道であるが、そこに至る道に気付くことができたという。私が何を話したのかというと、ウィズコロナならぬウイズセシウムということになると思う。かねてから主張している暮らしスケール、里山流域の放射能対策であり、放射性セシウムとは共存することになる。それは解決ではなく諒解であり、苦渋の決断でもある。ふるさとに対する思いが諒解を生み出す。そして、原子力災害被災地の外にいる日本人はこのことを理解し、近代文明の災禍に見舞われた方々に報いるべきである。それができなければ日本は近代文明国家として原子力を利用する資格がないといえる。なんとか帰還を実現させたいと思うが、それは茨の道であり、ふるさとの回復がどんな“しあわせ”をもたらすのか、正直わからない。それでも、ふるさとの回復に対する思いを尊重することが“ひと”として生きることだと思う。ふるさと、しあわせ、ひと、は大和言葉としてひらがなで書き、感性の領域の意味を含ませている。(2021年11月5日)

コンパクトシティーと田舎

文句ばかり言ってもしょうがないので、提案をひとつ。私が考えるカーボン・ニュートラルへの道は、これ。機能満載の省エネ都市で世界最先端を目指すと同時に、良好な農山漁村で安寧な暮らしができる。インターネットにより人はどこにいても能力を発揮でき、二つの世界を行き来できる精神的習慣を持つ。大きな政府による雇用と兼業で、必要を満たす収入は確保し、低収入でも持続可能で、低コスト、低負荷な社会を構築する。田舎では食料、エネルギーを地産地消し、余った分を都市に供給する。一番大切なことは教育で、徳によって得た信で統治される国、社会。理想的ですが、実現可能であるような気もする。(2021年11月4日)

気候変動対策と現実

朝の準備をしながら見ていたNHKで、「“気候変動を選挙の争点に”動き出した市民」というニュースを見た。確かに気候危機対応を政治に要求する必要があるのだが、誰が、何をするのか、という点を“わがこと化”して考えなければならない。もはや、誰かにやってくれ、というステージではないと思う。カーボン・ニュートラルを実現するには社会の組み直しが必要だ。それは価値観の変更を伴う。場合によっては痛みも伴う。皆が関与者にならなければ解けない問題だ。イノベーションでクリアできるのだという楽観論もあるが、道筋を明らかにしながら議論したいものだ。製鉄を水素還元で行うためには膨大なエネルギーが必要なので、SMR(小型原子炉)も視野に入れねばなるまい。その時は近代文明人としての哲学を日本人は明らかにしなければならない。カーボン・ニュートラルで気候変動に対応するのはもはや手遅れかも知れない。一方、少子高齢化、生産年齢人口減少の時代を日本は迎えている。新しい価値観に基づく社会を構築することにより、少しずつカーボン・ニュートラルに進む道があると思う。その時は力勝負の外交ではない手段、すなわち徳によって諸外国と付き合っていかなければならない。気候変動を政策課題に取り上げ、現実と未来の折り合いをどうつけていくのか、もっと議論が必要だ。ニュースを見ながら思う。(2021年11月4日)

楽農報告

図らずも今日は休日であった。直前に非常勤をやっている大学から連絡があり、気がついた。そこで、タマネギの苗100株を購入し、移植。これで安心。中手の苗なので、来年5月には収穫を期待。ついでにハーブ園だった区画に菜の花を播種。新春早々には黄色の花が見られることを期待。期待がたくさん。(2021年11月3日)

意思と行動

朝日朝刊、今日の「折々のことば」は「日常では、行為を意思に還元することで、問題がこじれてしまうことが多々あります(中島岳志)」。中島さんは、思いや感情はふとその人に訪れるものではないかという。そこから生じる意思によって行動が統率されている状態が自由であると。だから、意思のない謝罪は伝わらない。これは意思と行動が統合されていないということになるが、これは実はよくあることだ。意思が役割によって与えられると行動に無理が生じることもあるだろう。でも、役割によって意思が強化されることもある。役割の重要性が自覚され、行動を促すということだ。でもエンジンを吹かしている状態なので、いつまで持続できるか。社会の中でやっていくのはなかなか大変だ。はやく隠者になりたいものだ。(2021年11月2日)

隠者の姿勢

選挙は終わったが、日本の政治はあまり変わらないような雰囲気だなぁ。各党の政策をきちんと調べたわけではないが、現在の日本を歴史の時間軸と国内外の空間軸に位置づけ、解釈した上で未来を展望する主張がなかったような気がする。政治の哲学を語ってほしかったと思うが、大衆には哲学的主張は無駄だよ、ということだろうか。成長か、成熟か、何をやるのか、どうやって達成するのか、論理的思考によって説明してほしいなぁと思うが、よくわからなかった。政権は現実と対峙しなければならないので折り合いが必要なのだが、現実に真っ正面から向き合うという姿勢も見えなかったなぁ。特に外交は腹の探り合いなので、腹を割ると言うことは難しいのかもね。簡単なことではないことはわかるので、隠者として眺めていると結構おもしろい。しかし、世間はどんどん弱っている。そこを傍観するのも心苦しい。方丈記の鴨長明も事変に対して行動している人を賞賛するが、自分では何かをやったという記述はないという。隠者というのはそういうものか。(2021年11月1日)

老い、老い、どうした

老いた。小選挙区の投票をしたつもりが、入場券の方を入れてしもうた。ボウッとしていて、気がついたら手に記入用紙がある。手続きをしてもらって比例区投票完了。何やっちょるんだろ。単なる老いか、脳みその劣化か。頭のキレは確実になくなっている。記憶力は減退し、検査をしたら確実にボケと判定されるだろう。まぁ、晩年というのはこういうもの。人生の黄昏が迫っているが、受け入れてしまえばこっちのもの、とならないかなぁ。(2021年10月31日)

楽農報告

今日はサツマイモを収穫せにゃあかんかった。ベニアズマは残りの6株分を収穫したが、たくさん採れた。全部でハーフサイズの収穫箱3箱分で、しばらく楽しめそう。でかいやつが多く、形は悪いが線虫の被害もなく、質は良い。里芋も初収穫。1本だけでかくなったやつがあったので収穫したらすごい。最初は1個の種芋なのに、どうしてこんなに採れるのか不思議。丸い芋の部分だけでなく、茎の下の部分もとてもうまかった。これもしばらく楽しめる。サツマイモの後を耕し、タマネギに備える。11月中旬に移植したいが、苗を買うのもタイミング。ホームセンターではすぐ売り切れる。いざとなったら高いがネットで入手する予定。モロッコインゲンはまだ収穫できている。秋ブロッコリも採れ始めている。大量のダイコンが生長しつつある。昼はおろし蕎麦で使ったが、うまかった。ダイコンは使い切ることができるか。そうそう、サツマイモの蔓の中から、カボチャが1個出てきた。落ち穂から勝手に生えてきたやつだが、今秋はカボチャ2個が収穫できている。秋ジャガはもう少しかかりそうだ。(2021年10月30日)

人生ってなんやろか

それは永遠の課題じゃ。死ぬまでの暇つぶしという人もいる(「折々のことば」で読んだ)。人生に価値を求めて苦しむ人もいる(遠藤周作がそうかも)。価値がないと思われる人生こそ尊いという哲学者もいる(カント)。人生山あり谷ありだが振り返ってみると以外と平らというのはシッタカブッダの教え。谷に深く沈み込んでしまった人生もある。人様々なのだが、それは運命なのか、宿命なのか。人は自分の人生から逃れることはできない。無事(内山節流、事も無し)に生きることが幸せなのだが、失ったものはあまりにも大きい。(2021年10月29日)

科学の成果のトリクルダウン

やはり、これはないと言って良いのではないか。今日は、まだ避難指示が解除されていない浪江町津島の方々とミーティングを行った。自分に自信がない質なので、終わってから言い足りなかった、余計なことを言ったのではないか、などと落ち込む。確実にわかったことは、“福島”に関する膨大な数の論文の内容は現場には伝わっていないということ。“福島”で研究者は幸せになったが、“福島”の人々には伝わっていない。やはり、科学と社会を結ぶことが重要であり、それは論文を書くよりも遙かに大変な作業である。自分の考え方を説明したが、具体的な策はあるのか、誰が実行するのか、という質問には答えられなかった。自分がやる、という元気も若さもなくなっている。自分にやれることは何だろう。(2021年10月29日)

日本人のこころ

人生いろいろで、つらいこと、苦しいことも多いのだが、ふと“こころ”が和む瞬間がある。最近、通勤経路を南回りに変えているのだが、花見川を渡る橋から富士山が見えることに最近気がついた。水面の向こう、堤内地の草っ原の上に雪をかぶった富士山が頭を出しているのだ。職場からは東京湾の向こうに前山も含めた全体が見えるのだが、これも良いものだ。“もののあはれ”を感じて“いとおかし”。自分は日常のちょっとした光景に深い趣を感じることが多い。これは自分でも気に入っている精神的習慣なのだが、平安の時代から引き継がれている日本人のこころなのだろうか。豊かな自然に恵まれた湿潤アジアのこころなのかもしれない。でも、冷たい風も必要な気がする。大学のゲートで窓を降ろすと、風が落ち葉を吹きながす、さらさらという音が聞こえてきた。頬に冷気を感じる。これも良いものだ。やはり、“もののあはれ”は四季の移り変わりに敏感な日本人のこころなのではないか。(2021年10月29日)

日本の研究力低下の理由(主張)

文句だけではいかんので、考え方を説明しよう。学術というフレームの中には基礎、応用、公共が含まれる。これらの3つは順番ではなく、相互に作用する学術のモチベーションである。科学技術の歴史の中では、基礎→応用→公共と進む場面は希であり、応用あるいは公共が先行し、基礎が後追いすることも多い。さらに資本主義のもとでは経済が大きく関与する。だから学術(基礎・応用・公共)と社会(福祉、教育、経済、...)の関係性を十分理解して研究を立案する必要があるのである。環境(人と自然の関係性)や災害(人とハザードの関係性)を研究テーマとする場合は特にこの考え方が重要で、研究者の意識世界を拡大して全体の中に基礎・応用・公共の側面を位置づける必要がある。その上で、それぞれの研究計画を立てれば良い。学術的な価値と社会における価値は一致するとは限らない。狭いヒエラルキーの中だけでの研究はいずれ価値を失うかもしれない。(2021年10月28日)

日本の研究力低下の理由(文句)

昼休みに職場の次期計画に関する議論があった。こういう場では積極的な発言は控えるようにしている。それは、メンバーの意思が文科省、大学、部局と連なるヒエラルキーの論理に寄り添うことを目的として、学術としての本質に迫ろうとする議論ではないように感じるから。文科省の先には内閣府、経産省、そして新自由主義的政策をとる現政権がある。そういう勢力に支配されたくはない。ならば、もっと主張すればいいじゃん、という考え方もあり得るが、構造改革以降、研究の評価基準が変更され、20年以上経った現在では現役研究者の精神が適応してしまったように思われる。だから、私の主張は現役研究者の幸せとは相容れなくなっている。これは実に巧妙な政策だったと思わざるを得ない。日本の科学技術政策において研究者の支配に成功したが、結果として日本の研究力は低下した。こういう事情の全体像がだんだんわかってきた。だから、自分は外に向かって主張することにしている。たとえ少数でも誰かの考え方に影響を与えることができれば、だんだん広まっていく。まぁ、そんな簡単なことではないのですが、隠者だからそれで良いのです。(2021年10月28日)

エンパシーとシンパシー

飯舘村の長谷川健一さんの訃報を見つけた。今日が通夜とのこと。飯舘村の光景がまぶたに浮かんでくる。長谷川さんとは面識はないが、集会ですれ違ったことはあるかもしれない。享年68歳、甲状腺がんというのが何とも切ない。手元に長谷川さんの写真集「飯舘村」がある。悔しさがにじみ出ており、理不尽、不条理の念いが湧き上がってくる。ご自宅のあった飯舘村前田には何度も行った。村の北部に位置するが、ここから伊達にかけて空間線量率が高かったのだ。人生に明暗は付き物だが、あんまりだと思う。原子力災害は進行中であり、終わりが見えない。偉そうなことを書いているが、これはエンパシーだろうか。相手の立場で考えることはできているだろうか。エンパシーは訓練によって身に付けることができると言うが、“他人の靴を履く”(ブレイディみかこ氏いわく)ことはそんなに容易くできるとは思えない。自分の視点から捉えている限り、手前勝手なシンパシーに過ぎないのではないか。原子力災害被災地の真実には、まだまだ見えていない人間的側面があると思う。自分は福島の外にいて、自分の経験を福島の外に向かって発言することしかできなくなっている。そんな自分がふがいない。(2021年10月26日)

複雑な問題の対処法

今日は千葉県環境審議会水環境部会が開催された。議題は手賀沼と印旛沼の湖沼水質保全計画の素案に関する審議。1期5年の計画の8期目の計画ですので、もう35年もやっていることになる。それでも手賀沼、印旛沼の水質は十分に改善することはなかった。それは時代の精神が水質改善とは相容れなかったからだと思う。今や縮退社会の中で時代の精神が変わろうとしている。目的達成の契機がやってきた。目的の達成には、用意周到な戦術が必要であり、目的自体の変更さえも必要になってくる。冒頭の挨拶で述べたことを思い出しながら書き留めておく。

新型コロナウィルスの感染者も減っております。まだまだ油断は禁物ですが、終息の可能性も見えてきました。コロナ後を考えなければなりませんが、コロナ前と同じで良いでしょうか。現在進行中のカーボン・ニュートラル、SDGsの達成は 社会の変革を伴う試みです。日本は少子高齢化、生産年齢人口の減少の時代を迎えており、成長を課題解決の前提にはできないのではないか。成長社会から成熟社会に変わらなければならないのではないか。湖沼水質保全計画も同じコンテクストで考えなければならない課題である。沼の水質は文明社会人である我々の生活習慣の反映である。沼を見ながら、社会の変革を目指さなければならない。

こんなことを言ったと思います。かなり理想的ですが、議事録として残すことによって、今後の議論の踏み台にならないか、という期待があった。しかし、理想を言っても少数のシンパにしか伝わらないことは確かだ。部会終了後、委員から議論する時間が不十分だとの指摘があった。事務局の事情、苦労もわかるので、時間内で閉めてしまったが、確かにその通りであった。この問題は極めて複雑で様々なセクターが関係しているので、議事録には理想を残し、あとは現場からボトムアップの活動により解決法を探さなければならないという思いもあったのだが、委員の方々に対しては議論を深める仕組みを作らなければあかん、と反省。課題は連携であり、連携するための意見交換を円滑にしなければあかん。また課題を得た。(2021年10月25日)

楽農報告

週末農業を二回さぼってしまったので、もう三週間も畑がほったらかしになった。幸い秋となり、雑草に覆い尽くされるということはなかったが、収穫が遅れてしまった。今日は落花生(半立)とサツマイモ(ベニアズマ)を収穫。落花生は発芽で失敗することが多かったので、ポットで丁寧に発芽させて移植したものです。移植時に少し密植気味だったのでうまく育つか心配していたのですが、うまく採れました。さっそく、茹で落花生で頂きましたが、美味しゅうございました。サツマイモは50年以上床下だったところを耕した土地で土作りがなっちゃいない畑だったのですが、さすがサツマイモ、でかいのが採れました。これも美味しゅう頂いています。ホームタマネギ、ニンニク畑の雑草取り、大根、カブの間引きを行い収穫に備えましたが、大根はそろそろ食べ始めないと消費しきれません。里芋もそろそろ収穫しなければ。なるべく自給率を高めたいと思っているのですが、土地の維持も大変。(2021年10月23日)

好奇心と科学的探求心

ノーベル賞受賞が決まった真鍋先生が「好奇心」について言及したことにより、研究者を含む多様な方々が科学の駆動力としての「好奇心」を語るようになった。この言葉がマジックワードになってしまわないかちょっと心配である。科学の駆動力としては「科学的探求心」といった方が良いのではないだろうか。好奇心は個人の嗜好である が、科学の営みは常に全体を俯瞰しながら行われる。知識が生産されていく過程を精査し、新しい知識を加える営みで、それは科学の作法に基づ いて行われる。その過程で探求の対象が重要であることが主張されなければならない。真鍋先生の「好奇心」という言葉の真の意味をとらえ損ねると、科学の価値が正しく伝わらないといった事態もあり得る。注意せねばなるまい。(2021年10月22日)

科学の本質とは

昨日は偉そうなこと書いてしもうた。でも、科学の本質とは何か、考えつづけにゃあかん。科学技術といっても良いが、“人”がダイレクトに入り込まない科学技術にはこんな考え方もある。玉尾(2019)によるStokesの4象限モデルで上田良二の4象限モデルの可視化を図化したものである(玉尾公平、学術の動向2019.6;Stokes,D.K.(1997): Pasteur's Quadrant, Brookings)。 理工系の科学の分類であるが、ほとんどの研究は③純正末梢あるいは④応用末梢であろう。それでもよいのだ。①応用基礎、②純正基礎に向かう道筋を常に考え続けていれば良い。③、④にいるのに、①、②のつもりでいるのが一番かっこ悪いと思う。この図は学術全体からみると一部分に過ぎず、人間や社会に係わる軸が画面と直角方向にあるはずだ。それが③、④を①、②に繋げる道筋なのだ。科学技術は社会を視野に取り入れることによって、より本質化の方向に進み始めていると思う。これを理解しないと取り残されてしまう。(2021年10月21日)

研究者の矜持と日本の科学力

今日の教員会議では文科省による職場の期末評価の結果に関する報告があった。さて、どう対応するかという議論では文科省に寄り添う、覚えめでたくするにはどうすれば良いか、という表面的な議論にどうしてもなってしまう。本質的な議論にはならないのである。議論する場が違うということもあるが、理念については議論する雰囲気にはなかなかならない。環境、災害に言及するのであれば、本質的な議論が必須なはずである。なぜならば、環境問題や災害の事実の裏には真実があり、そこを理解しなければ人のための科学にはならないからである。そもそも研究者には“人”が見えていないという仮説も成り立つ。いわんや、“ひと”との関係性は業績を競う研究の場においては視野の外側になってしまう。人とは独立した純粋科学の立場からは、現象理解の本質的な部分の議論を深めてほしい。歳をとった自分は研究者の矜持とは何なのだろうか、と悩んでしまうが、もはや文科省キングダムにおけるエリートになることが矜持になってしまったのだろうか。思えば、国立大学大綱化から法人化にいたる流れは、構造改革と称する新自由主義政策と同期し、その中で研究者のマインドも変わってしまったといえる。研究界の本筋から離れたところにいた私は心配しながら状況を眺めていたが、いよいよ現実になってしまったといえる。理念的な話をしても一部の理解者に伝わるだけであり、現場の研究者にとっては“わがこと化”できない現実は認めざるを得ない。とはいえ、研究者としての矜持は持ってほしい。少なくとも環境、災害に言及するのであれば。ここがあやふやになっていることが日本の科学力の低下の本質的な理由だと考えている。(2021年10月20日)

学術、政治、行政、大衆の関係性

午前中に日本学術会議の機能や改革に関する説明会があった。昨年の首相による任命拒否事件から幹事会メンバーは本当にご苦労なさっていることは伺っているところであるが、何となく突っ込みが足りないような気がする。個々の会員、連携会員および細分化された分野がどんな世界を見ているか、それぞれの視点、視線方向、視野を明らかにした上で、学術会議として学術界と、社会全体を俯瞰しながら学術と社会の関係性を見つめ直さなければならないと思うが、そこまで踏み込めていないように感じる。この視座に立つということは、複雑な社会を複雑なままで見ることになるので、当然ながら様々な考え方が出てくる。それを包摂するのが学術会議の視座であってほしい。これまで発出していた「提言」の改革が具体的な課題であったが、各分科会等では「見解」を出すという考え方は私は賛成である。なぜなら環境問題では答えはひとつではなく、複数の提案を行うという形式にならざるを得ないからである。学術セクターは複数の案を提案するが、政治が決断し、行政が実行し、大衆は諒解するという流れがなければあかん。ただし、これが機能するためには学術、政治、行政、大衆すべてがこの仕組みを受け入れる態度を持っていなければならない。コロナ禍ではそれぞれのセクターが分断されており、信頼関係が構築されていないことが図らずも明らかとなった。この構造を明らかにすると、快く思わない人たちもいるでしょう。学術会議の改革は必要だが、すべてのセクターの意識の改革も同様に必要なのだ。関係性を取り戻さなければいけないのだ。(2021年10月18日)

しがらみがとれる時

今日は東京国際フォーラムでふるさと回帰フェアをやっているはずだ。NPO法人ふるさと回帰支援センターのサポート会員なのでプログラムが手元にある。東京へは行けないのでプログラムを眺めながら、北海道から沖縄まで約220の自治体のブースをヴァーチャルで巡り歩く。ふるさと回帰の潮流は確実に強くなり、いずれ奔流になるかも知れない。自分の中で田舎志向がどんどん強まっている。移住相談もしたことがあるが、そうは簡単には踏み切れない。しがらみが多すぎるのだ。でも、しがらみがとれる時がいつか来るだろうか。(2021年10月17日)

「生活」と「人生」

ETV特集「遠藤周作 封印された原稿」を見た。遠藤の未発表の原稿が発見された。その謎を追うドキュメンタリーだが、遠藤は表記の二つの間で葛藤があった。「生活」と「人生」は「アスファルト」と「砂浜」と言い換えることもできる。アスファルトの道は歩きやすいが、ふりかえっても自分の足あとは残っていない。でも、砂浜では足あとが一つ一つ残っている。足あとが残らない人生はつまらないか。こんなことに悩むのが人生なのだ。遠藤はキリスト教徒だというが、一神教をベースとするヨーロッパ思想の影響もありそうな気がする。だから、若いときは「砂浜」を歩もうとした。遠藤のキャッチフレーズは「生活ではなく人生を」だったと番組ではいう。最終的にわかるのは、どちらも大切ということ。カントによれば「価値がないと思われる生を生きる行為こそ尊い」という。人が必死に生きようとする姿を描いたドキュメンタリーに人は感動するではないか。 生きること自体に価値がある。内山節の「稼ぎ」と「仕事」も思い出す。稼ぎは食っていくための金稼ぎ。仕事は人、自然、社会の関係性の中で価値を持つ営み。現実ではどちらも必要。篭山京はこう言う(「怠けのすすめ」、農文協「人間選書」39)。生活は「働くこと」と「暮らすこと」から成り立っているが、この順番を考えなきゃあかん。「働くこと」を先に持ってくると、何のために働くのかが問題にならざるを得ないと。やはり「暮らすこと」が先ではないか。人生のステージにおいて順番は変わるのかも知れないが、昭和、平成、令和と変わる中で時代の精神的習慣というものは確かにあった。どちらも大切にしていきたいが、様々な中間があって良い。(2021年10月16日)

戦略的研究の必要性

最近「戦略的研究」という言い方をよく聞くように思うが、よく考えるとほとんどは「戦術的研究」になっていることに気付く。戦略的研究とは、「理解を助けるための概念枠を強化したり、他の知識分野との結合を拡大するような研究」だという(村上陽一郎他訳「動的定常状態における科学」ジョン・ザイマン著より)。「人間の行動の根源についてもっと深く理解しないで、犯罪を真に解決する見込みがあるだろうか」という説明がわかりやすい。自分が最近取り組んでいることはまさにこれではないか。問題解決型科学における概念枠の構築、文理融合の実現、は戦略的研究といえるのだろうか。いや、戦略的研究を企画するための基本的考え方の提案であり、この考え方に基づき、研究課題と計画を構築しなければあかん。実はカーボンニュートラルやポストコロナ社会はまさに戦略が必要な課題、解くべき問題である。(2021年10月15日)

だらだらいくか

これは自分がそうだと思うので納得。「『下手に正義を掲げて突っ走ってしまったら、すごく偏った人間になり』そうだから」。朝日朝刊「折々のことば」(鷲田清一)の解説にある文章。最近の自分は何となく偉そうなことを主張しているが、それは本心でもある。しかし、心の中には「偏った人間」になってしまったのではないかという思いが渦巻いている。だから、いろいろなものを読んで確認しようとしている。自分の主張も世間の思想の流れの中にあるという確信は得つつあるのだが、自分だけが正義ではないことはわかっている。だから異なる思想も理解したい。しかし、世間は広く多様である。そのうち溺れてしまいそうな気もする。あせる。折々のことばの主題は「半分靴紐がほどけていて全力では走れなくて、仕方なくだらだら歩いているくらいがいいのかも知れない(学生運動に参加したある若者)」。だらだらいくか。隠者をめざしているのですから。(2021年12月15日)

平等と公平はどう違うのか

岩波世界11月号の新村聡氏の論考の題目。副題は「新自由主義から福祉国家へ」。非常に勉強になった。記事の最後に要点が纏められているので、備忘録として再掲しておく。

・経済的不平等(経済格差)をめぐる議論では、所得や資産の絶対額の不平等に目が向けられやすい。しかしそれだけでは、新自由主義のあとにどのような社会をめざすべきかが見えてこない。
・平等を考えるときには、公平つまり比例的平等が重要である。公平な分配に関しては、貢献原則と必要原則の優先順序が大切であり、福祉国家では必要原則が優先されて、公的責任で人々のさまざまな基本的必要が充足される。それを通じてすべての人に健康で文化的な最低限度の生活を実現することが、福祉国家のめざす生存権の平等である。

本文から補足すると、まず平等を論ずる場合は「何の平等か」を問わなければならない。平等は人間の多様な属性のうち特定の属性に注目してはじめて言えることだからである。次に、平等には二つあるということ。ひとつは「数の平等」、もうひとつは「比例的平等」で、前者が平等、後者が公平と呼ばれることが多い。公平な分配に関しては新自由主義は貢献原則を重視し、福祉国家は必要原則を優先する。さて、どちらの社会が望ましいか。必要を満たした上での貢献への配慮ができれば良いのではないかと思うが、“必要”と“つくられた需要”の境界は人によって異なるだろう。福祉国家への道は、哲学、思想が大切なのだと思う。それは政治、行政、大衆の間の信頼に基づく対話や教育から生まれる。そうだとすると現在の日本では最も大切な部分が欠けていることになる。(2021年10月14日)

研究組織運営のリアリティー

職場が大学の次期計画期間における拠点として認定されたので(お取り潰しの危機を今回も乗り越えたということ)、認定申請書を見直して具体的な計画を議論しようということになっていますが、気候変動、災害、環境変動、食糧を問題、課題の解決という視座から取り組むという部分が気になる。それは問題の現場とのリンク、問題のリアリティーの認識が弱いと感じるからである。研究を行えば(論文を書けば)、自ずから社会に役立つという楽観論(これが社会からの批判の要点でもあるのだが)に基づいているように感じる。しかし、計画とその成果を評価するのは文部科学省であり、お上も現場とのつながりは弱いように思う。問題解決の達成は当事者を含むステークホルダーによって評価されなければならないはずであるが、その仕組みがないのである。だから問題解決ということがレトリックとして語られることになるが、評価者がだれかということを考えれば、それも研究組織運営のリアリティーということなのかもしれない。それでいいんだろうかと思うが、現役研究者の精神的習慣を変えることは難しいし、おこがましい。(2021年10月13日)

破壊的イノベーション

JSTの創発的研究支援事業に関する大学の仕事で、破壊的イノベーションという言葉を知った。調べたところ、既存の市場が新たな技術や製品の登場によって奪われることで、メインフレームからスマホ、銀塩写真からデジカメ、スマホといった変化がそうらしい。JSTは文科省所管の法人であるが、やはり市場が重要で、背後には内閣府、経産省の影が感じられる。応募者はその点を意識した方が良いのではないだろうか。破壊的イノベーションの対となるものは持続的イノベーションで、一本道の科学(ニュートン・デカルト的科学)と整合性がありそうだ。だから創発的と銘打って、多様な組み合わせ、新しい関係性の発見を促しているのではないか。でも、破壊的イノベーションは人の精神的習慣、価値観の変更を伴うはずだ。JSTの目的に関する記述では“人文科学のみに係わるものを除く”となっているそうなので(ウィキペディア)、破壊的イノベーションの創出は難しいのではないだろうか。ただし、法律を見たら“人文”という単語はないので変わったのかもしれない。深読みしすぎかもしれないが、評価者リストをみると人文系はいそうもない。私も老いましたので、こんなことばかり考えるようになってしまいました。(2021年10月12日)

流域治水に至る道

これまでは挨拶の概要は頭の中において、アドリブでやってきたのだが、最近は話すべきことを忘れるようになった。脳ミソの劣化は確実に始まっている。今回は水文・水資源学会が開催する第3回水文学フォーラム。テーマは「流域治水」。国の施策にも取り入れられ、流行と言えばそうなのだが、その考え方にはひとつではない歴史があり、かつ多様である。我が学会では地域づくり、街づくりとしての流域治水を考えたい。締めの挨拶を直前に書き下ろした。

第3回水文学フォーラムにご参加頂きありがとうございます。
滋賀県の山田様、鍛冶(漢字はあっているでしょうか)様、葛巻(かずらまき)町の中井様、安田清明(きよあき)様、安田忠(ただし)様には貴重なお話を頂きありがとうございました。
また、流域治水の推進役のひとりでもあります京都大学の堀先生には、フォーラムの企画にご尽力頂き感謝しております。
実は、滋賀県の流域治水についてお話を聞きたかったのには理由があります。
ここに「水と人の環境史」という古い本がありますが、環境社会学の鳥越先生、前知事の嘉田先生の編集によるものです。
琵琶湖北岸における人と自然の関係性について纏めた本ですが、これが生活者の視点から安全・安心をとらえる滋賀県の流域治水のルーツなのではないかと思っています。
このルーツからつながると思われる論文のリンクを、資料を掲載したホームページに張りました。嘉田他(2010)「生活環境主義を基調とした治水政策論」という論文ですが、これが滋賀県の流域治水のポジションペーパーに相当するのではないかと思っています。
著者の一人の瀧健太郞先生からは、以前、地先の安全度マップを持って県の職員が地域に出かけて説明を行うとともに、県は制度をもうけて、時間をかけて地先の安全度を高める努力をなさっているという話を伺い、感銘を受けたことがありました。その実践を広く知って頂きたいという思いもありました。
千葉県では2代前の知事だった堂本暁子さんが「環境は滋賀県に学べ」という言葉を残しているそうです。
このオンラインフォーラムには日本各地から参加頂いておりますが、ぜひ滋賀県の経験を知り、地域ごとの流域治水達成に役立てて頂ければと思います。
最後に、オンラインフォーラムの運営にご尽力頂いた水文・水資源学会の担当者の方々、山本さん、吉田さんにお礼を申し上げたいと思います。
本日は、ありがとうございました。

以前から私が“思っていること”を書いてみた。滋賀県で積み上げられてきた流域治水へ至る道は、“もうひとつの水文学(alternative hydrology)”といえる。これまでの水文学をnormal hydrologyと捉えると、両者は融合してnew hydrologyにならないとあかん。そういう時代になったということだ。時代を創っていくということは、トップの哲学と、それを理解し、実践する職員が大切であることもよくわかった。さて、どう実現するか。(2021年10月10日)

旧い時代の慣習による差別

あるミュージシャンが適応障害になったというニュースがあった。この際勉強しておこうと思って調べたら、オレもそうじゃん、ということになった。世の中いろいろ、人生いろいろで大変なことばかり。ここら辺で気分を入れ替えて、がんばろう、なんてことができない時代になっちゃったのだな。一昔前だったら病名など付かなかっただろう。誰でも乗り越えなければならないちょっとした壁だった。でも、現在ではその壁が高くなり過ぎちゃった。乗り越えることができない。ここで、がんばれ、なんて言っちゃったら、古い時代の慣習による差別ということになっちゃうかも。世代間エンパシーがないともいえるかも。壁に突き当たっても、支え合いながら乗り越え、成長、成熟できる社会。そんな社会をめざしたいもんだ。それは人と社会の精神的習慣を変えなければならないが、実は意外とヒョンと変わるものかもしれない。コロナウィルスが促しているような気もするが。(2021年10月9日)

協調性は必要か

「私はまわりと協調して生きることができない」、これが真鍋さんが日本に帰りたくない理由だというが、これが気になっている。なぜかというと、オレもそうじゃん、協調性なんかないやん、と思っているから。でもオレは好き勝手なことをやりながら、日本で何とかやってくることができた。それはひとりで研究することができる研究分野にいたからかもしれん。昭和の時代の気候モデリングの分野では計算機資源を獲得するために人と交わる手腕が必要だったのでアメリカに渡ったのかなぁ。アメリカに行ってからは科学の進歩と同期して、リーダーになることができたことが研究を纏めることができた理由ではないかな。時代も真鍋先生の活躍を後押しした。現在は研究には予算、研究資源、チームワークが必要になった。組織的に、そして戦略的に論文を生産しなければ評価されない時代になったのだ。こういう状況では下っ端の研究者には協調性が求められる。研究者に協調性が求められるのは時代が創り出したものなのだ。それが日本ではマイナスに働き、アメリカではどちらかというとプラスに作用するのだろうか。そうだとすると、リーダーシップのあり方、研究者のマインドに違いがあるのではないか。研究界におけるリーダーシップは、どれだけ論文を生産したか、というよりも研究課題とその達成可能性および価値を俯瞰的な視点から、狭い研究領域を超えた社会全体の視座から眺めることができる能力で判断されなければならないのだ。リーダーにそのような資質がないと、若手研究者は“優れた成果かどうか”、ではなく、“優れた成果になったかどうか”、を目指すようになる。協調性は必要だが、それを乗り越える資質を若手の中に見出す力をリーダーは持たなければあかんなと思う。(2021年10月8日)

真鍋淑郎先生のノーベル賞受賞決定

すごいニュースが飛び込んできた。真鍋淑郎先生がノーベル物理学賞受賞決定。地球科学の分野でノーベル賞が受賞できるとは思いもよらなかった。祝福すべきことであり、ノーベルの遺言通り「人類に対して最も偉大な貢献をした人」と認められたということだ。ただし、ノーベルは「前年に」という意図であった。これから様々な報道がなされると思うが、いろいろ考えなければならないこともある。真鍋先生の功績は気候モデリング分野の礎を築いたという点にあり、パイオニアであったことがすごいのである。もちろん気候変動は喫緊の課題になっており、科学は強化せねばならない。しかし、科学の時代は基礎、応用から公共の段階にすでに入っており、気候変動という問題には、人・自然・社会を俯瞰する視点を持ち、現実に対峙しつつ未来を展望し、全体が調和するやり方で対応しなければならない。気候予測もすでに問題の部分を占めるに過ぎない段階になった。もう20年ほど前、真鍋先生の記事を批判したことがある。その記事では乾燥地域における地球温暖化の影響がシンプルかつ悲観的に語られていたので、人と自然の関係は地域ごとに複雑多様で、地域ごとに現場に入り込んで深く観察しなければわからん、といったことをメーリング・リストに書いた。若気の至りであるが、それを友人が真鍋先生に転送したのだ。真鍋先生からは丁重な返事を頂いたが、先生は科学の限界と現実への対応をきちんと峻別していたのだと思う。21世紀も20年を過ぎた今、科学と社会の関係は確実に変わってきた。現実に対応しながら未来を展望する科学を創らなければならないと思う。(2021年10月5日)

法顕64歳の旅立ち

岩波科学に記事を書き、見本として頂いた10月号を読んでいたら驚くべきことが書かれていた。写真家の大村次郷の「絲綢之路遊学」。 中国東晋時代の天竺求法僧、法顕が長安を旅立ったのは64歳の時だという。その後14年にわたる旅を終え、生き残って帰京することができたのも法顕ただひとり。すでに78歳ではないか。最近の自分は完全に黄昏れている。自分でも元気を無くしていると思うのだが、法顕の人生を知り、改めて自分の人生を見直さにゃあかんなと思う。なぜ法顕が偉業を達成できたのか。ひとつは求法僧としての使命感だと思われる。自分が元気をなくしているのは使命感が揺らいでいるからではないだろうか。もちろん、まだ達成したいことはあるのだが、年寄りが若いもんにあーせい、こーせい、と指示する時代ではないだろう。これからの人生は隠者でいきたいと思っているのだが、まだ自分の心の中で諒解が形成されていないということなのかもね、と思う。いずれ解脱する日があることを信じて、修行を続けましょ。(2021年10月1日)

リスクコミュニケーションとは

リスコミとは何か。これがずっと気になっていた。リスコミとは相手との信頼関係の中で、対話しながら諒解を形成していく行為だと考えている。ところが、世の中では科学的合理性を理解させて、行動を促すことをリスコミと称しているように感じていた。それでは専門家が自分と相手を分断させて、高みから客観的な判断を与えるという極めて傲慢な態度となってしまう。それではうまくいくはずがない。朝日朝刊の神里さんのコラムによると、リスコミで肝心なのは、「リスクに対する情報や意見の『相互交換』のプロセス」だという。だから、リスコミで最も重要なのは「信頼関係」となる。主張している共感(エンパシー)、理念(地域、コミュニティーや社会のあり方)を共有した上で科学的合理性を当てはめることにより生まれる信頼が重要なのだ。だからリスコミを行うときの視座が重要で、どんな世界を見ているか、ということを意識しておかなければならない。ステークホルダーは階層性を持ち、対立だってあるのである。リスコミに対する基本的な考え方は社会の底層にあるのだが、なかなか実践が出てこないのは専門家である研究者、技術者の意識世界の狭さにあるのだろうか。(2021年10月1日)

時間をかけたことの語り

朝日朝刊「折々のことば」の解説にあった文章「時間をかけたことしか身に付かない」が心に留まった。最近の自分はスペシャリストというよりジェネラリストである。とはいえジェネラリストたることは大変なことで、そうは簡単に自分がそうであるとはいえない。様々な関係性を見出して深掘りしなければならないからで、スペシャリストである方が簡単なのである。どうしても発言に自信が伴わないのである。しかし、もう定年も目の前で、結果として時間はかけてきた。問題解決型科学、超学際(学際共創)、科学と社会の関係、などなど。自分の主張が伝わっているとは思えないのだが、もうこれで人生を進んでいくしかないのだろう。今日の折々のことばに取り上げられた文章は「声が大きな人をそんなに気にする必要はない」(辻山良雄)。自分なりに語っていればよいのだ。なにせ隠者をめざしているのだから。(2021年9月30日)

クソデカ主語

こんな言葉があるんだ。朝日朝刊投書欄から。「私たちは」、「我々は」といった「大きな」主語を使うことによって、少数派の意見でも多数派に見せかけてしまうという。投稿者は日本人は多数派に流される傾向があり、少数派を批判するために使うのが「クソデカ語」であり、少数派の心を殺していることになるという。そうだろうか。「私たち」、「我々」とは誰ですか、と問えばいいのではないか。世の中における対話を復活させたいものじゃ。そこで、歌詞を一つ紹介したい。ハンバート・ハンバートの「23時59分」という曲から。「我々は宇宙から来て 我々は宇宙に還る/我々の住むこの世は 黄昏のせまる世界...」。我々とは誰だろうか。後は歌を聴いてください。YouTubeにあります。サザエさん一家と23時55分の2曲が入っているやつ。(2021年9月28日)

しあわせな状態としあわせな気持ち

毎月届くJAFMateに「幸せって何だろう」というコラムがあるが、今月は作家の万城目学氏。なかなか良いことをいう。しあわせには表記の二つの形態があるという。確かにそうだ。万城目氏はしあわせな気持ちを感じることはないが、状態としては極めてしあわせなのだそうだ。自分はしあわせな気持ちはしょっちゅう感じている。愛犬とのふれあい、夕方の晩酌(夜まで待てない)、などなど。でも、しあわせな気持ちはすぐ消散する。端から見たら自分はしあわせ以外の何物でもないだろう。現実は厳しい。いろいろあるのだ。結局、自分はしあわせかといったら、「しあわせはいつもじぶんのこころが決める」(相田みつを)。何歳になっても修行が必要だ。解脱、涅槃が人生の目標なのだ。(2021年9月26日)

価値とは何か

先週の地理学会シンポジウムでは価値について言及した。では価値とは何か。阿武隈山地における原子力災害のコンテクストの話だったので、それは“ふるさと”の価値ということになる。様々な営みの末に“ふるさと”となった土地は“ひと”の営みがあり、自然との良好な関係性がある。そこで暮らす人々にとってかけがえのない価値を持つ総体が“ふるさと”である。他の“ひと”の思いを尊重するということが価値を認識するということである。その価値を地域の外側に向かって発信しなければならない。そこで、原子力災害で失われたものとして、自立を挙げた。土地、家、管理機そして家族やコミュニティーがあれば十分自立して暮らしていけるシステムが失われたのだ。このことは現場でいろいろな人と話をした中で確認してきたことである。アカデミアっぽく言えば、家計の計算に自給経済、交換経済を含める帰属計算を行うと、以外と豊かな家計の実態が見えてくるということである。今、コロナ禍で安心して暮らせる社会が模索されている。山村はそんな社会の一つである。もちろん、理想ではあるが、確実に現実解の一つである。その暮らしを守るちょっとしたセーフティーネットは日本だったら作ることは容易いのではないか。(2021年9月21日)

じべたでうごく

先週の学会週間はきつかったが、何とか乗り切った。終わってすっきりというわけでなく、何となくもやもやしているのだ。高みから偉そうなことを話したような感じで、話の中身も雲散霧消してしまったのではないか。科学者というのは、その行為の結果をうれしそうに話していればよいのだと思う。評価はアカデミアのなかで行えば良い。しかし、問題解決を志向するのであれば、評価は大衆によって行われなければならない。現場に深く入り込んで、目の前にある問題の理解を試み、人がどのように諒解を形成していくのかを見極めなければならない。その行為の中で、専門性が活かされて、ほんの少しだけ役に立てれば、仕事をしたということになるのではないか。もう老いたのでアカデミアの世界からは少し距離を置いて、じべたに降りて動いていきたいと思うのである。(2021年9月23日)

挨拶いろいろ

先週は水文・水資源学会/日本水文科学会合同大会、学術会議シンポジウム、日本地理学会シンポジウムが連続してあり、疲れた。オンラインなので身体が疲れるわけないが、精神的な疲れはある。老いた。挨拶は通常は頭の中に置いておいて、アドリブでやってきたが、今回は四回もあったので原稿を作ってみた。

まずは合同大会の開会挨拶、懇親会の乾杯の挨拶、閉会の挨拶。成熟社会を目指さにゃあかん今こそ連携の時なのではないか、ということを言いたかったのですが、ひとりでも頭に残った方がいたらうれしい。

水文・水資源学会/日本水文科学会合同大会にご参加頂きありがとうございま す。いよいよ合同大会が始まります。
この一年間、二学会連携による合同実行委員会にはオンラインシステムの構築に多大な努力をはらって頂きました。心より感謝申し上げます。この大会期間中も裏方としてサポート頂いております。
このことに気がつくということは、最近議論が深まっているエンパシーといって良いかも知れません。ブレイディみかこさんの本で有名になりましたが、他者の立場で考えるということです。
これが水文学とどう関係があるかというと、水文学は複合領域の学術であり、同じ水文事象でも視座、視点が異なると全く違って見えることはよく経験することです。
このことを認識することが社会の中の水文学として問題解決能力を高めるのではないかと思いますが、これもエンパシーと言えるかも知れません。
今日から四日間、二つの学会が異なる視座、視点で水文学的事象を見つめるとどうなるか、エンパシーを発揮するとどうなるか、相互作用を期待しております。
オンライン大会の印象はいかがだったでしょうか。
対面学会ですと席を外すことも多いのですが、今回はかなり集中して聴講することができました。
皆さんの研究成果を伺っていて感じたことは、水文学分野の中においても、新しい組み合わせ、すなわちオリジナリティーの新発見が可能なのではないか、ということです。
例えば、私が若い頃に学んだ水文素過程の認識の成果をモデルに組み込めないだろうか、とか、多様性に対する地理学的な認識をもっと結果の解釈に使えるのではないか、といったことです。
とはいえ、私の若い頃と比べて、現在は蓄積された知識の量が膨大になっているので、それも難しいのだろうなと思います。
唯一突破可能な対策が対話、会話、議論ではないでしょうか。今回は、この素晴らしいシステムを合同実行委員会に用意して頂きましたので、ぜひとも“話す”ことから新しいアイデアを得てほしいと思います。
では、飲み物の準備はよろしいでしょうか。
今回は水文・水資源学会、日本水文科学会の合同大会ですが、連携は当然ながらHydrology分野の発展につながる営みです。その上で、さらなる日本のHydrologyの発展を祈念して、乾杯の音頭をとらせて頂きたいと思います。
乾杯!
水文・水資源学会と日本水文科学会がはじめて合同で行った学術大会はいかがだったでしょうか。今回の合同大会は両学会合同の実行委員会はじめ、多くの方々の努力、協力によって実現しました。心より御礼申し上げます。
さて、世の中はコロナ禍で混乱の最中にありますが、コロナ後の未来をどうするかという重要課題が出てきました。一方、日本は人口減少時代に入ると同時に、否応なく低成長時代に突入しています。過去からの慣性で未来を設計するか、それとも成熟社会のあり方を考え、目指すか、重要な岐路にあると思います。
この状況の中で、学術としての水文学はどんな方向を目指すか、考えなければならない時が来たと思います。
難しいことではありますが、一つの方法は水文学分野の連携だと思います。今回の合同大会をきっかけとして、まず、水文学分野の連携を強化するとともに、学術分野全体の中に水文学を強く位置づけ、さらに社会の中の水文学として地球社会の未来に貢献して行ければと思います。
来年は2回目の合同大会を京都大学で開催する予定です。連携の実質化をさらに進め、サイエンスとしての価値および、社会の中の水文学としての機能の強化に努めていきたいと考えております。
では、水文学フォーラム、京都大会で再会したいと思います。

これは学術会議の公開シンポジウムの開催の挨拶。これも時代の変化を見極め、連携して水問題に取り組みましょう、ということを言いたかったのですが、20世紀に活躍した研究者、その研究者に育てられた若手研究者の習慣を変えるということは大変なことだとは自覚しています。人の人生に関わることですので。

日本学術会議公開シンポジウムにご参加頂きありがとうございます。今回は、「『水』と『水循環』の研究最前線」がテーマです。
我々の暮らしに水が必要不可欠であることは論を待たないと思いますが、水の利用の持続可能性が脅かされているという共通の認識があると思います。
振り返れば、1990年代後半に水危機が注目された時期がありました。しかし、世間の関心はその後冷めてしまったようにも見えます。とはいっても水問題が解決されたわけではありません。ますます深刻さを増して、我々の眼前に立ちはだかっていると思います。
そのことに気づくとともに、どうすれば良いか、を考えなければなりません。まず①水文学の成果を知って頂き、②みんなで社会のあり方を考え、③連携する、ことによって水環境を、そして、社会を良くしていくという営みが大切だと思います。
この公開シンポジウムが、そのような営みを加速するきっかけになれば幸いでございます。
今日はよろしくお願い申し上げます。

相変わらず偉そうなことを言っていますが、自分は時代の波に乗っているだろうか。定年後は隠者になって、世の移り変わりを眺めていたい。(2021年9月20日)

同じ言葉の異なる出自

グローカルは環境社会学から出てきた言葉で、日本語では“地球的地域主義”、すなわち地域を主体として考え、地域(ローカル)の集合体としてグローバルがあるという考え方だと思っています。しかし、地域経済分野では、地域の経済活動(ローカル)が世界的(グローバル)なサプライチェーンに組み込まれていることを背景にグローカルという言葉が創り出されているということ。グローバルのためのローカルというニュアンスになり、これでは意味合いが逆になります。どちらが先かわかりませんが、環境社会学が先なのではないか。世界的なグローバル志向の中で、現場に深く入り込む社会学がグロ-バルに対応するために生まれた言葉であるという点は説得力があります。しかし、言葉というものは一人歩きを始めると意味が変わってしまうこともある。それでもプライオリティーは尊重したいなと思います。結局力関係なのかなぁ。(2021年9月8日)

老いの深まり

歳をとると自分の立ち位置がわからなくなってくる。学会の総会で挨拶をしたのだが、今回は原稿を書いたので記録しておく。何を偉そうなことを言ってるのか、と自分でも思うが本心でもある。3つの要請は小林傳司先生の講演資料からのパクリで、大学に対する社会からの要請でしたが、学会も同じだと思って拝借しました。

本日は水文・水資源学会2021年度総会に出席頂きありがとうございます。
第17期理事会も任期の半分が過ぎましたが、この1年はすべてコロナ禍の中、という異常な事態で活動を行ってきました。
人も社会も深刻な影響を受けており、危機的状況と言っても過言ではありません。
学会活動も様々な制約を受けてきましたが、反面、今という時が学会の本質を考える時かも知れないと感じています。
学会に対する社会からの要請として、excellence、innovation、そしてsocial relevanceがあります。excellenceの評価指標は論文ということになると思いますが、innovation、social relevanceは現場、そして市民が評価者でなければならないと思います。
水に関わる諸分野の連合体として問題解決を志向する水文・水資源学会は、この3つを同時に達成することを時代の要請として再認識し、活動していきたいと考えているところです。
本日の総会はよろしくお願い申し上げます。

ひとというものはいつまでも若いときと同じだと思いこんでいるが、まわりからは見る目は違う。大先生に名誉会員の資格を授与する時は特に、何て僭越な、と思いつつ自分の老いを実感する。自分とは何なのだろうか。自分の老いに気付く度に、老いが深まっていく。単なる老いにいくか、それとも老成にいくか、今が分かれ道なのかもしれない。(2021年9月7日)

英国のシティズンシップ・エデュケーションにおけるエンパシー

エンパシーが最近のマイブームなのだが、遅ればせながらブレイディーみかこ著「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」を読んだ。この本でエンパシーが出てきたきっかけは、息子さんの学校の期末試験の問題だったという。英国の公立学校教育では日本の中学にあたる学年でシティズンシップ・エデュケーションの導入が義務づけられており、その期末試験の問題に出たわけだ。日本では学科として「公民」があり、もうすぐ「公共」が始まる。内容を精査せねば。フランスでは高校高校で哲学を重視する理由について聞いたところ、「例えば、公務員。誰もが幸せに暮らせる社会をめざす者が、幸福の何たるかを考えたことがなければどうする」という当然すぎる返答があったということをとりあげたことがある(2019年3月21日)。日本の初等中等教育はシティズンシップでは大分遅れているのではないだろうか。だから、主権者教育が声高に叫ばれるようになっているのか。検索したら文科省から主権者教育に関する最終報告がこの3月に出たばかりだった。日本も遅ればせながら、というわけだ。(2021年9月2日)

様々なリスクのまっただ中の社会

今日は1923年に大正関東地震が発生した日。ただし、コロナ禍に押されて報道量はイマイチだったような気もする。今週が防災週間とのことで、一昨日から発生2日前、1日前と心の中でカウントしていた。発災前の静けさの中で、必ず来るであろう未来の事象を想像するのも防災の意識を高めるには良いかもしれない。実は我々の暮らす社会は様々なリスクの真っ只中にある。不安で眠れなくなるくらいであるが、人というのはお気軽なものでなかなか災いを“わがこと化”できない。だから安穏と暮らしていけるのかもしれない。でも事象が起きたときに、慌てふためかないような心構えを持っておきたい。実はそれも難しいのであるが、宗教や思想、哲学が人に安心を与えるのではないだろうか。そう思って、いろいろな本を読んでいる。(2021年9月1日)

もう一つの科学

最近本を読む速度が落ちているが、ようやく「科学の社会史-ルネサンスから20世紀まで」(古川安著、ちくま学芸文庫)を読み終えた。リモセン学会誌の40周年記念号では科学者の役割について辛辣に書いてしまったので、今一度確認の要があったのだが、それほど間違ったことは書いていなかったと思う。この本の終章は科学・技術批判の時代について書かれたものであるが、その中に「もう一つの科学」の創造をめざす流れがあることが書かれている。これまでのヨーロッパ近代科学と異なる点は、第一に全体論的・システム論的なアプローチをとっていること。全体は一つの統一体であり、単なる部分の総和ではない。第二は、感性や直感を重視すること。感性的体験に基づく直感的認識こそ、対象のリアリティーに深く接近する有力な道である。第三は、主体と客体の融合をはかってこのリアリティーをつかみ取る。生態学やエントロピーの見地から自然とのハーモニーをはかろうとするという。そして、それは東洋思想の諸要素に近似しているのだという。まさに、御意である。科学哲学あるいは科学思想は現場の科学の先をいくものである。自分は学術界の中では、おかしなひと、あちらのひと、になっている様な気もしているが、実は最先端を行っているという見方もできるだろうか。いずれ隠者となって世の中を見ていたい。もう少し生きねば。(2021年8月31日)

戦争をやる奴はアホや

休日はNHKプラスでドキュメンタリー番組を見ることが多いが、今日もすごい番組を見てしまった。ひとつは「死者は沈黙の彼方に 作家・目取真俊」(こころの時代)。沖縄戦の死者、犠牲者は語らないが、そのナラティブは地元で生まれ育った作家だから想像することができるのだ。そこには真実がある。もうひとつはETV特集「“玉砕”の島を生きて~テニアン島 日本人移民の記録~」。あの戦いの中で住民が受け入れざるを得なかった運命は、とても語ることなどできない辛い体験であった。生き残って、語り始めた人がいたのだ。その辛さに絶句せざるを得ない。戦争の本質はそんなものだ。何があっても戦争はやってはあかん。あの敗戦から76年も過ぎた現在、戦争をわがこと化できない世代が育っているとしても、痛みを感じれば気が付くことができる。痛みを感じなくても、映像を見て、話を聞くことができれば、人の痛みを感じることができるようになるかもしれない。正義のための戦争なんて、ないのではないか。(2021年8月29日)

意識世界と環世界

NHKプラス「こころの時代~宗教・人生」より。今日見たのは「“ノアの箱船”をつくる人」と題された札幌市丸山動物園の本多さんの話。彼は絶滅危惧種のは虫類、両生類の繁殖スペシャリスト。いろいろな人生がある。自分がスポンとはまる場所を見つけることができた人は幸いといって良いだろうな。番組の中で出てきた言葉が「環世界」。それぞれの生き物が見ている世界のことなのだが、私が使っている「意識世界」と似ている。動物の環世界はとても狭い世界かもしれないが、ひとの意識世界は世界を旅することができる移動手段、情報・通信技術、書籍によって拡大させることができる。空間だけではなく、ひとの内面を深めていくことができる。さらに、他人の意識世界をエンパシーによって想像することもでき、精神世界を広げることもできる。ポテンシャルとしては大きな広がりを持つことができる意識世界だが、探求するという営みがないと広げることはできない。意識世界の拡大こそが世の中を良い方向に進めることができる駆動力になると思うが、それを困難にしているのがゆとりのなさなのではないか。現代人はなぜゆとりを失ったのか。再考する必要がある。(2021年8月28日)

社会の底流にある考え方

環境省主催の「健全な水循環と新たな地域づくり」を聴講しました。雑用しながら聴いていましたが、時々ピピッとくる発言で覚醒しました。正確な文言は忘れましたが、フォーキャストとバックキャストの両方が大事なんだという発言があったように思います。最近はバックキャストが流行で、フォーキャストを語ると叩かれてしまうこともあるのですが、両者のベクトルを合わせることが大切なのだということです。滋賀県の琵琶湖担当の方だったと思いますが、バックワードとフォワードを合わせるということは現場の感覚なのだと思う。また、私が良く主張している共感・理念・合理性の考え方を想像させる発言もあったように記憶しています。これもステークホルダーと協働する現場の感覚なのだと思います。私も水循環に関して主張する機会を頂いていますので(9月18日日学公開シンポジウム)、自信を持って主張しようという気分になりました。社会の底流にある現場の感覚を酌み取り、奔流にするのが環境学に関わる大学人の役割ではなかろうか。(2021年8月26日)

持続可能な地球社会の視座

「気候変動の将来予測と影響評価、負の影響への対策実施は、持続可能な地球社会の構築に不可欠である」という文章に出会った。では、なぜ不可欠なのか。そもそも「持続可能な地球社会」とは何か。もちろん、この文章に書かれていることを否定するものではない。否定などできないが、「持続可能な地球社会」を考え抜く必要があるのだ。その際、科学者の視座、市民の視座、都市生活者の視座、農村生活者の視座、等々、様々な視座から考える必要がある。そうすると「持続可能な地球社会」に対する複数の姿が見えてくる。地球社会を総合的、俯瞰的に捉える中で複数のシナリオについて検討することになるはずである。その際、人間を“人”ではなく、“ひと”として捉えてほしい。それもシナリオの中の一つかもしれないが、統率される人で良いのか、それとも喜怒哀楽のなかにある“ひと”として暮らしたいのか、考え抜く必要があある。結局、一人ひとりが生き様を考える習慣を持つことが一番大切なのではないだろうか。(2021年8月25日)

アフガニスタンの復興は小技術・中技術で

アフガニスタンの混乱が気になるところであるが、人が故郷で誇りをもって暮らせる国になってほしい。そのためには、先進国のやり方、考え方をそのまま持ち込むのではなく、地域性に基づき、現地の人々が、現地で実現できる技術で復興してほしい。それが持続可能性を担保することになる。その技術が小技術と中技術(大熊孝の著作から)。小技術は自分でできる技術、中技術はコミュニティーでできる技術。中村哲医師のやっていたことは中技術と言えないだろうか。これがダムとか可動堰といった大技術となると、技術が現場から離れてしまう。大技術も良いのだが、それはアフガニスタンが復興を遂げてからだ。小技術、中技術により農村の暮らしを立て直すことを優先し、都市の復興は徐々に行うのが良い。もちろん、医療、福祉、教育の拠点は都市に置いて良い。その過程でアフガニスタン国民が農村と都市を自由に行き来できる精神的習慣を醸成することができれば良い。しかし、911から20年以上、ソ連のアフガン侵攻から40年以上が経過した。多くの人々が混乱の中で成長し、成人している。人の一生に対する40年の月日は重い。国際社会はアフガニスタンの人々と、その歴史的過程を尊重しながら援助していってほしい。(2021年8月25日)

リスクとベネフィット

学術会議のある分科会でリスク教育の提言を出す議論をしているのだが、ベネフィットを入れるかどうかが論点のひとつになっている。ベネフィットの議論は難しいという趨勢になっているが、近代文明社会、すなわち科学技術によって駆動される社会ではリスクとベネフィットを同時に見極めなければあかん、と思っているのでベネフィットにも踏み込みたい。しかし、ベネフィットはそれ自体の認識が困難で、認識の仕方が多様であり、価値の領域に入り込まなければならないので、“~すべき”と纏める提言では難しいのかなとも思う。結局日和ってベネフィットを扱わない案に賛成することにする。リスク“教育”ですのでしょうがないのだろうが、リスクだけであかん、ベネフィットについても言及はしておくべき、という案も出て安心。もうひとつ、コストも重要という意見が出たが、その通りで、技術は“ある”ということと、社会に“実装できる”ということは別なのじゃ。コストはリスクに含めても良いかも知れないが、安全・安心を行政に負託している日本社会で、国民がコストを意識することは極めて重要じゃ。ベネフィットは扱わないことになったが、科学技術のもたらすベネフィットはそれだけで十分学術会議で議論すべき重要な課題だ。別の分科会で深掘りしてみたい。(2021年8月23日)

ワクチン接種における機会の不平等

ワクチン接種の2回目が終わった。普段行動の遅い自分からすると思いのほか早かった。職域接種のお陰である。待ち時間に読もうと思って持って行った岩波世界8月号に挟んである栞はたまたま「パンデミックが映す命の格差」(内田聖子)の最初のページであった。先進国ではワクチン接種は進みつつあるが、途上国ではそうではない。「平等なワクチン供給」も試みられたが失敗に終わった。人類は命を巨大製薬会社に預けていることにならないか。グローバルな公共財はどうあるべきか。世界は大きな課題を得た。気候変動、巨大IT企業に対しては動きが見られる。世界は変わっていくだろうか。実はアフガニスタンを注視している。タリバン政権は第2期目となるが、野にいる間にSNSを通じて世界の意思を学んだのではないか。世界の意思を強く表出しなければならないなぁ、と思う。(2021年8月19日)

エンパシーは見えない

西日本では大雨が続いているが、ここ千葉では青空が広がっている。報道で水害の様子を知ることはできるが、テレビやPCを切ってしまうと意識から消えてしまう、いわゆる劇場型災害になりやすい。しかし、WEBで提供される雨雲レーダー画像は、リアルタイムで進行している大雨の様子が日本全体の視野でわかるので、現場の状況を想像し、わがこと化することができる。これは技術が促進するエンパシーと言えるかもしれない。ただし、地図の下に人の暮らしがあるということに気が付くことが前提であるが、意外と難しいことなのかも知れない。福島に関わってきた経験からそんな思いもある。でも遠くのハザードを心配する人がいるということを信じたい。エンパシーは簡単に可視化できるものでもないだろう。小さな思い、小さな営みの存在を信じることがまず必要である。それらが集まれば大きな思い、大きな営みになるはずである。ところで、雨雲分布はYahooのページで見ているが、気象庁のものか、それともXRAINとは違うものだろか。(2021年8月18日)

敗戦の日

8月15日、今日は終戦の日か、敗戦の日か。やはり敗戦の日ではないかと思うのだが、そんな時節柄、再放送しているNHK映像の世紀(全11話)を見終わったところ。人類の歴史は何と辛苦に満ちあふれているのだろう。20世紀は戦争、対立と難民の世紀だったが、21世紀は少しは歴史に学ぶことができているだろうか。何とも心許なく、気持ちが沈むのである。しかし、ちょっと待てよ。人類の歴史は総体としては辛く、苦しいものだったとしても、世界のそこここに小さな幸せがあったのではないだろうか。世界を俯瞰すると大きな出来事は見えるが、小さな幸せは隠れて見えない。でも、世界は小さな地域、地域の人々で成り立っている。ひとりの幸せとは何か、どこにあるか。そこを見ようとすると世界はまた違って見えるかも知れない。(2021年8月15日)

縄文人と自然の関係性

現在、南貝塚を発掘調査中の加曽利貝塚に行ってきた。貝塚や住居跡の分布を説明して頂き、縄文人の動線も見えてくると、一瞬数千年前へタイムスリップした気分。当時は今より温暖で、魚介類を産出する東京湾も近く、食料もそれなりにあった。富の集積もなく、平和な時代だったと考えられているが、親爺にはあこがれの時代である。解くべき課題は、環状の貝塚の凹地は縄文人が掘ったものなのか、それとも自然にできあがったものなのか。関東ローム層の上面高度、火山灰層の同定と、その上面高度分布といった情報が少しずつわかってくると、仮説がだんだん浮かび上がってくる。周辺の水系、台地上の微地形、地質構造をなどを総合すると、凹地の成因に関する考え方が浮かび上がってくる。そこから縄文人と自然の関係性が見えてきたような気がするのだ。しかし、証拠が足りない。周囲は住宅地で地層の攪乱もあるし、個人宅では調査(穴掘り)はしにくい時代になった。学術的な課題も夢として持ち続けるしか無いのか。現代の評価の対象となる(狭義の)科学は証拠と論理で検証された仮説の生産プロセスだ。個人では数値的評価の壁を乗り越えることは難しい時代になった。そうではない科学的営みというのもありではないだろか。発掘はまだ続くので、思考も続く。(2021年8月13日)

日本の思想、哲学とはなんぞ

朝のNHKニュースでアイヌの舞を見た。思わず、かっこいい、と思ったが、歴史を知ってほしいとのこと。その通りやな。しんどく、つらい過去があったのだ。それを忘れてはあかん。琉球もそうや。琉歌、三線、カチューシー、衣装、精霊、などなど歴史、文化を共有するコミュニティーには憧れがある。たまたま宮古島の調査報道の記事を読んだ。宮古島では自衛隊の配備が進んでいるが、その施設建設、設備配備をめぐって人の尊厳が冒される事態が起きている。日本人として何を重視したら良いのか。総体としての日本国家なのか。国家を構成するのは“人”である。それは規範的な人であり、顔は見えない。地域では顔があり、名前があり、暮らしがあり、喜怒哀楽を持つ“ひと”が集まってコミュニティーを形成している。どちらも大切なはずだが、国の施策の中では住民も“人”に過ぎないようである。“ひと”を尊重し、地域の諒解を前提としなくて良いのか。仮想敵国の脅威はそれほど深刻なのか。答えは単純ではないが、明治以降の日本は軸となる考え方を失っていることが大問題ではなかろうか。諸外国では宗教やイデオロギーが名目上の基軸になっている。日本であることの思想は何なのだろうか。日本の思想、哲学を考えなければならないステージに至ったのではないかと思う。それがないと“ひと”は諒解しない。(2021年8月12日)

しんどい人、つらい人

朝日朝刊「折々のことば」から。人に悩みを打ち明けた時に、「もっとしんどい人もいるよ」「つらいのはあなただけじゃないのよ」と返されるのはつらい、と。山本ゆりさんのエッセイ集から。コロナ禍になってから世間のことをもっと知らねばあかんと思い、NHKプラスを見たり、オピニオン誌を読むことが多くなってきた。世の中は本当にしんどいこと、つらいことに満ちあふれている。だから我慢せよということでもないのだ。でもそれを知ると自分の悩みなど屁でも無い、と思うのだが、こころが急に強くなるわけではない。自己嫌悪がますます自分を苛むのだ。弱音を吐きながらも粛々と仕事を進めるのだ。時には失敗して自己嫌悪の深みにはまることもあるのだが、それも運命と諦めるのだ。でも、しんどい人、つらい人を知ると、少しは自分を奮い立たせることもできるのだ。知ることが出発点なのだろう。いつか役に立つ機会が巡ってきたときに機能すればよいのだ。(2021年8月11日)

弱音をはいてもいいやんけ

相田みつをの「道」という詩がある。ずっと昔に購入した色紙を書斎に飾ってある。道という詩は二種類あるが、黙って歩く、愚痴や弱音を吐かない、なんてことが書いてあるやつ。自分もずっとそう思ってきたが、最近はそうじゃないのではないか、と思うようになっている。弱音は吐いて良い、弱音を受け止めてくれるコミュニティーがあれば良い、と思う。どうしてもだめだったら、人生を変える。自由に生き様を変えることができる社会こそが皆が活躍できる社会だ。とはいえ、実際には難しい。そんな簡単なことではない。まず自分が人の弱音を受け止めることができること。自分は定年が近いので、強制的に生き様が変わるので、もう少しの辛抱。(2021年8月10日)

草深の森

約束していた印西の草深の森に行ってきました。森の中にある池の水位が下がり、ニホンアカガエルやアカハライモリが産卵できなくなっているという。どうすれば湧水を復活させることができるのか、考えてきた。草深の森は下総台地上位面にあり、皿状の浅い谷が二本合流するところに弁天池がある。池の直下は10年ほど前まで谷津田だったという湿地。おそらく池の基底には常総粘土が存在している。これで泉の湧出機構は説明できる。谷の形成プロセスと地質が相互作用しているのだが、細かな説明は省略。台地上にはスギ、ヒノキ、サワラといった常緑針葉樹、照葉樹や巨木となったコナラがある。モミの木も自生しているのにびっくり。このコナラがキクイムシにやられ、枯れつつある。これも問題。この土地はもともと林床が茅場となっている松の疎林で、松は燃料として定期的に伐られたことで蒸散が抑制されてていたと思われる。よって、植生が管理されなくなったことにより、浸透が少なくなった(蒸散が増えた)ことが湧水が減ったことのひとつの原因だと考えられる。池の水を豊かにするには、上流、少なくとも皿状の谷の部分の植生管理が必要だ。個人的にはコナラを植栽し、定期的に伐採して炭づくりをやりたいと思う。明るい森になれば、様々な里山の植物も復活するだろう。草深の森は私有地で、管理は印西市なので、どのように合意を形成する方法が課題だ。都市と郊外の境界をどのように管理し、少子高齢化、成熟社会の土地利用を行うか、新旧の住民によるコミュニティーをどう形成するか、といった理念に関する対話が必要だ。なお、虫取りが許可されているとのことで、遠方から来た人々が根っこを掘り返したり、虫を呼ぶための蜜袋を放置してしまうことも問題だという。環境に対するリテラシー醸成ももう一つの課題である。(2021年8月9日)

オリンピックを終えて

オリンピックもあっという間に終わってしまったが、よかったなぁ。アスリートたちの物語には感動した。これは否定できない。でも、否定できないことの背後には様々な事柄が隠されている。それらの事柄に気づき、この世界の有様を包括的に捉える努力をしていきたい。一番気になることは、歴史の時間軸の中で日本の現在を位置づけ、未来を展望することができたかどうかだが、そういう意図は伝わってこなかった。世界には様々な立場の人々がいる。それらの方々にオリンピックを祝福していただけただろうか。日本の意思を読み取ってもらえただろうか。ここは確信が持てない。日本は20世紀の経済成長時代の慣性から抜け切れていなかったのではないか。パラリンピックはこれからだ。オリンピック、パラリンピックに深い意味づけをする必要があるのかどうかもわからないが、未来世代はTOKYO2020をどう見るのか。もう少し生きて確かめてみたい。(2021年8月8日)

死後の世界

今日は相次いで亡くなった叔父と叔母の法要と納骨式だった。墓地に出てお骨を墓に納めているときに大雨。おじちゃんがいたずらしよったな。お茶目な人だったが、自分もそのDNAを受け継いでいる。以前、佐倉先生の葬式の時には一瞬突風が吹いた。霊魂は存在している。先日亡くなった立花隆は晩年死後の世界を取材していたようだ。私も死後の世界はあると思っている。無いと思うより、あると思った方が楽しいし、生きる糧にもなりますからね。でも、そこでは個人ではなく、永遠の命の流れに合流していくということなのだと思う。死んでからしばらくは個人の感覚が残るかも知れないが、最終的には根源的な生命の流れと渾然一体となっていくのかも知れない。これは火の鳥やブッダにも描かれている手塚治虫のあの世観。宮崎駿もひょっとしたら手塚の影響を受けているかも知れない。戦い疲れたポルコが天上の飛行機の流れに合流しようとするが、現世に引き戻される紅の豚の一シーン。この世ってなんなのだろうか。健康年齢はおそらくあと10年くらい。時代の精神的習慣から開放され、楽しく誇りを持って残りの人生を暮らしたいものよ。(2021年8月7日)

言葉に限界 人と“ひと”

朝日朝刊、山極寿一の「科学季評」から。タイトルは「気持ち伝わるコミュニケーション 言葉に限界 五感いかして」。コロナ禍に入ってから対面で雑談する機会は確実に減った。オンラインミーティングは“必要な”会話が中心となる。通常の情報交換の中心はメールになっているが、書き言葉では背後にある気持ちは伝えにくい。だから、慇懃なメールが多い。それは、言葉では本意が伝わらないどころか、思わぬ誤解を招きかねないことが皆わかっているからだろう。山極さんの研究対象であるゴリラ社会からは学ぶべき事柄が本当に多いが、気持ちが伝わるコミュニケーションには五感が大切であるということもそのひとつ。御意。でもゴリラのコミュ二ティーは人間社会と比較すると遥かに小さい。気持ちが伝わる社会というのは、小さなコミュニティーではないか。そこでは、“言わなくてもわかる”、が成り立つ。人間社会では、言わなければ、何も伝わらない。昭和型の背中を見せるタイプには生きづらい世の中になった。小さなコミュニティーへの回帰は、田園回帰を通じて、少しずつ浸透してきているように感じる。都市的社会の中でも小さなコミュニティーは可能だろうか。仕事で達成すると、蛸壺になりがち。仕事以外の場で小さなコミュニティーを持つことが、老後の一つのあり方だと思うが、私は隠者になりたいと思っているので、それも難しいかもな。小さなコミュニティ-では“人”が“ひと”になることができる。規範的な人ではなく、もののあはれ、いとおかし、を理解する大和言葉の“ひと”である。最近の私の仕事であるところの主張は五感に頼ることが多い。それは20世紀型の科学とは相性がわるい。人を“ひと”として見つめること、それしか問題の本質を理解する方法はないのではないか。新しい問題解決型科学を確立させたいと思うが、その概念はすでにできていると思う。(2021年8月6日)

努力は報われるか

オリンピックでは日本も頑張っておるなぁ。金メダリストは努力したから報われたのであって、努力すれば報われるわけではないよな。努力という言葉の背後には、常に世界のレベルを注視し、自分の状態と比較し、世界に追いつき、追い越すように戦略的に努力するという意味が含まれている。学生にはこのことを伝えたい。論文を書くということは常に世界のスタンダードを確認し、自分の位置を見極め、世界を超える道を見つけ出すという行為なのだ。何よりも研究の作法に則っていなければならない。それが信頼を生み出す。その上で、論文は論理により世界を納得させなければならないのだ。なかなか伝えることができないのう。私はもう老いた。いろいろな人生があるのだ。広い視野を持って、幸せの確保を目標にしてほしい。(2021年8月4日)

おかしくなっていませんか

抱えているたくさんの仕事の締切がどんどん迫ってくる。催促も来る。頭を使わなければならない仕事なので、脳みそが破裂しそうだ。コロナ禍の“ひとり”も関係しているだろうか。先日結果が返ってきた大学のストレスチェックでは“ストレス反応の状態は普通より少し高め”とのこと。実際に心身が壊れるストレス状態とは想像もつかないほど厳しいものなのだろう。自分の状況はまだまだ軽いということ。最近、自分の発言がどんどん批判的になっている様な気がする。それは自分を認めろ、自分に気付け、という反応なのだろう。発信もしているので“なんじゃあいつは”ということになっていないだろうか。何とか盆休みまでには仕事をかたづけて、しばらく休みたいものだ。近藤がおかしくなっていたら教えてください。(2021年8月3日)

乳酸菌のバランス

ヨーグルトというのは乳酸菌が多種類入っていればうまいというわけではないらしい。LG21起源の自作ヨーグルトの次回分の種が足りなくなってしまったので、整腸薬のタブレットを三粒追加してしまったのだ。フェカリス菌、アシドフィルス菌、ビフィズス菌が成分なので良いだろうと思ったのだが、かみさんに味を見抜かれてしまった(そんなに悪くはないと思うのだが)。LG21菌は胃で増殖でき、フェカリス菌とアシドフィルス菌は小腸、ビフィズス菌は大腸にすみつくということなので、完璧なヨーグルトができたと思ったのだが。3ターン目は変な風味もなくなり、熟成したかなと感じたが、次回分はR1菌で作成。調べたらR1菌は風邪やインフルエンザ抑制効果があるという。これは今の状況にぴったりではないか。ということでしばらくR1を増殖させることにする。自作ヨーグルトもすっかりルーティーンになった。かみさんは甘酒をつくっている。(2021年8月2日)

科学者とは何か

AmazonのAIお勧めで思わず買ってしまった村上陽一郎の著作。そこに書いてあったことは日頃、私が主張していることと同じではないか。もちろん、私よりも遥かに深い学識と、精緻な論考で“科学者”を論じている。この本の初版は1994年で、2011年に18刷が出ている。売れているということだろう。1994年はギボンズのモード論が書かれた年である(日本語訳が1997年)。内山節・大熊孝・鬼頭秀一の三人委員会が1996年(「ローカルな思想を創る」が1998年)、小林傳司の「トランス・サイエンスの時代」が2007年、...科学のあり方、人と自然の関係に関わる著述をたくさん読んできたが、なかなか世の中は変わらないようだ。日本の科学者のマインドは90年代後半に始まる構造改革以降、大きく変わってしまった。ただし、科学者のあり方を問う底流はある。それはいつか奔流となるはずである。ならなければ日本は沈むだけだ。定年も近いし、隠者となって世の中を眺めていたい。(2021年7月30日)

英語にがて

益川さん亡くなってしまったなぁ。親しみやすい風貌で、いつか南門前の横断歩道ですれ違ったとき、知人かも知れんと勘違いし、挨拶しそうになってしまったが、私が知っているだけだった。私が益川さんが好きなのは、英語が苦手だったということ。私も国内回帰した頃から英語はますます苦手になった。そもそも日本の心を英語で伝えることはできん、英語を使うことは背景にある欧米思想に取り込まれていることだ、などと主張し、英語を拒否してきた。しかし、評価社会の中で高評価を得ることができる英語ができないと不利であることは確か。外国人を含めた議論の場で主張できないことはストレスなので、最近また少しリハビリを始めている。半年ほど前、英語は国際語だ、なんていわれて言い返せなかったことがちょっと悔しかったから。でも、なるべくなら英語は使いたくない。日本語で考え、伝えなければならないことが山ほどある。最近、英作文は技術が解決しつつある。日本語で文章を作成し、AI翻訳に放り込むと、結構良い英語を出力してくれる。いずれは会話もできるようになることを期待。その時こそ学術が技術により深化するときだ。(2021年7月30日)

市民科学の時代

千葉県内水面漁場管理委員会に出席してきた。今日の議題は利根川のしじみと、青のり。利根川におけるしじみの漁獲量は減り続け、近年はまったく獲れていない。その理由は利根大堰と関係していると思われるが、実はよくわかっていないそうだ。各漁協は将来資源が回復したときに備えて、毎年採捕許可申請をしており、その承認の委員会であった。この課題に対して科学者は対応できるだろうか。時間がかかる地道な課題に取り組むことは現在の評価制度では難しい。この課題を解決したいという情熱が必要だ。こういうときこそ漁師も含む市民が実行する市民科学の出番ではないか。私は市民科学とは“市民が主体となり実施する科学的研究”で、科学者は目的の達成を共有するステークホルダーのひとりとして参加できれば理想的だと考えている(市民がデータを集めるだけの科学ではない)。これこそ「新しい野の学問」だと思う(2021年5月29日参照)。また、青のりの主要生産地は関西なので、質問したら、やはり千葉県における青のり養殖は北限らしい。ならば、ブランド化できないかと質問したらすでにいすみ市で取り組んでいるとのこと。調査に関する説明を受けて、塩分濃度と水温の調節が鍵だと思ったので、思いついたのが有明海の潮汐灌漑。アオってやつですな。コメントしたら、水門がないのが問題とのこと。一定の生産量を挙げている養殖場はラグーンなので、河川水との交流(低水温、低塩分濃度の要因)、塩淡水境界(地下の塩水の利用)も気になるのだが、研究したらおもしろいと思う。思いつきですが、なかなか若者が取り組めるテーマではないかも知れない。これも市民科学として実現できないだろうか。(2021年7月29日)

社会からの大学への要請

文句ばかり言っていると苦しくなるだけなので、真面目に大学のやるべきことについて考えたい。といっても先日のFE委員会における小林傳司先生のお話からのパクりなのですが、大学に対する社会の要請には三つあるとのことです。それらは、①exellence、②innovation、③social relevance。①の卓越性の評価には論文に対するいくつかのインデックスが使える。小林先生の資料にはノーベル賞?とハテナが付いていたが、今読んでいる村上陽一郎「科学者とは何か」によると、時代遅れの様である。②は産学連携、知財、社会実装が含まれるが、これを評価するのは市場である。“論文を書けば自分ではない誰かが社会に役立てる”というのはPielke(2007)のScience Arbiterであり、論文を書くだけならだけなら①として評価されなければならないのではないか。市場を相手にするためには理系の科学知だけでは不足だろう。③は社会的・人類的課題解決への貢献であり、SDGsや地球環境問題の解決に貢献することであり、その評価者は市民でなければならない。③の実行には科学者が勝手に提案しているだけではダメで、超学際(学際共創)の態度が必要である。ところが、目的の達成を共有すると、科学者の役割は相対化される。旧来の科学者としては受け入れがたいだろう。今、千葉大学は研究大学として①を重視しており、②は少しあるかも知れないが、真の意味における③はまだ十分ではないのではないか。あるいは③の実践者は大学の評価基準からはみ出してしまい、学内で分断が進んでいる状況かも知れない。大学を含む社会全体を俯瞰する視座、視点、視野が大学の持続可能性を担保するために不可欠なのだと思う。 (2021年7月28日)

近藤はB教員

今日の朝刊朝日「折々のことば」(鷲田清一)は心にしみる。「嫉妬する私は四度苦しむ」というものだが、①自分が排除されたこと、②攻撃的な感情に囚われていること、③その感情が人を傷つけること、④自分が凡庸な感情に負ける「並の人間」であること、が四つの苦しみだという(ロラン・バルト)。昨日、千葉大学教員業績評価が公表されたが私はB教員であった。五段階評価の下から二番目。「活動状況が良好」とのことですが、ひとつ下はダメ教員ですので、心の中の自己承認欲求がグリグリくすぐられる。この評価は千葉大学という企業に勤める平サラリーマンの営業成績評価であり、大学の本質的な機能に対する役割が評価されたわけではない、そもそも本質的な機能に対する議論がなおざりにされている状況の下での評価であり、気にすることはないと自分を納得させるのですが、“ひと”の“こころ”というものは弱いもの。自分はまだまだ修行が足りん。大学人は学術の担い手であり、学術は基礎、応用、公共の段階へ順次進んでいくものだ。基礎段階の評価は論文でよいが、応用段階では市場が判断し、公共段階では市民が評価者である。だから、近藤は評価結果を公開し、市民の評価を得たいと思うのですが、まあ、そんな甘いものではないだろう。組織の内部で文句を言っているだけでは一対多になってしまうので、自分は外から主張しようと思う。そういう場を持っていることは幸いであるが、実はそれも学術を巡る世界の分断の表れでもある。日本の学術はのっぴきならない状況にあることが、じわじわと実感されてくる。エリートをめざすだけの大学ではなく、学術に対する哲学、思想をベースにした大学人の行動規範を考えたいものだ。(2021年7月28日)

自作自食 レンジパスタ

ランチの(野菜)自作自食ももう二ヶ月近く続いており、ルーティーンになっている。これで定年まで行けそう。ただし、野菜増量レトルト食品の楽ちんメニューも飽きが来るので、今日はパスタに挑戦。ルクエの電子レンジクッカーにパスタ100g(一束)を半分に折って入れる。塩は1~1.5gとのことだが、わからんので適当。そこに水を150cc加え、600Wで4分加熱し、その後8分間蒸らす。その間に蒸し野菜を調理。今日はズッキーニ丸々一本分を輪切りにして蒸す。ここにパスタソースを混ぜようと思ったが、ズッキーニは塩・こしょう・オリーブオイルで食すことにする。ズッキーニの季節もそろそろ終わり。今年はよく食べた。パスタソースはカスミで見つけた2人分100円弱のレトルト。今日はキノコソース味。麺は水分がうまく飛んでいるので、研究室調理でも楽。固さも問題なし、結構いける。パスタは四束で300円を切った。自作自食ランチは大体一食200円程度で済むので、外食時の半分以下。定年も近いので質素な暮らしに心身を慣らせつつあり。(2021年7月27日)

西行はなぜ出家したか

これが気になっている。直接の理由はいくつか仮説があるが、根本的な理由はこう考える。西行はやりたいことがあった。しかし、自分の力、たとえば権力、知力、腕力、指導力、魅力、といったものが不足しており、達成できなかったことがひとつ。陰には自尊心との確執もあったのではないか。もう一つは、何とか食っていける当時の社会の状況があり(現代の都市社会では無理)、和歌の才能はこころを和ませた。ここが大切ではないだろか。隠者はみな挫折の経験を持っている。挫折といっても外形的なものだけではなく、こころの挫折もあるだろう。勝手なことを考えていますが、自分を西行に投影するのは、いささかおこがましいといえるか。(2021年7月27日)

日本人はなぜ責任をとらないのか

HKプラスでETV特集「白い灰の記憶~大石又七が歩んだ道~」を見た。大石さんはビキニ事件の第五福竜丸の元船員。大石さんと大江健三郎の対談で大石さんが問う。答えは日本人のあいまいさ(「あいまいな日本の私」を読まねば)。あいまいやけん、といわれても空しいが、ではどうすればよいだろうか。多大な犠牲をもたらした技術も、最初はよかれと思って作り上げたものだろう。そのモチベーションは罪ではない。しかし、支配や金儲けがモチベーションだったとしたら、それは責任を問わなければならんだろう。とはいえ時代の背景、時代の雰囲気というものもある。昔の行為自体を責めることは難しいが、時代の変化を認識できたかどうかという点は、組織や事業のトップにいた人は問われてもよいだろう。こりゃあかん、ということがわかった時点で行動することが重要だ。だからこそ、大学人は時代のあり方、時代の変化を見極め、発信しなければあかんのではないか。大石さんの長女の佳子さんの言葉が印象に残る。父の人生は前半はつらかったけれど、後半はとっても豊かな人生だったと思う、と。人生はいろいろだなぁ。(2021年7月25日)

オリンピック:変化の途上

オリンピックの開会式は、最初は“ちょっとしょぼいかな”と思ったが、見ているうちに“これもいいな”へと変わっていった。開会式は国威をかけて、世界を驚かせるもんだ、と思っていたが、時代は変わった。私も生きてきた時代の慣性のなかにあった。この開会式ではアナログ的な演出が、安心感と賞賛を生み出したのだ。一方で、新型コロナとの闘いの最中にある方々のことを忘れてはあかんな、と思う。それがエンパシーというものだろう。今、日本は変化への途上にある。聖火の最終ランナー、大坂なおみ(予想が当たりました)や旗手を勤めた八村塁を見ていると日本人という概念も変わりつつあることを感じる。日本は、そして世界はどこに到達するのか。まず現在の問題を見つめ、未来を展望する。同時に、未来を考え、バックキャストする。この二つの視線が交差するときが、変化の時である。(2021年7月24日)

無事な暮らし

コロナ禍に入る少し前から休日出勤はやめているが、昨日今日と久しぶりに出てきた(実は休日であることを意識していなかった)。オリンピックも始まっており、今日は開会式もあるので、家でまったりとしたいものだと思う。研究者稼業は楽しいことも多かったが、常にやるべきことを抱えており、この数十年、頭を空っぽにしてゆったりしたことはあまりなかった。性格なのでしょうがないが、このところ老いたせいか“無事(事も無し)”を求める気持ちが強くなってきた。無事こそゆとりである。隠者に対する憧れが強くなってきたのはそんなわけでもある。もうすぐ定年なので、達成できるじゃん、とも思うが、いろいろな事を犠牲にしてきた人生だった。そう簡単にはゆとりを取り戻すことはできんだろう。それにしても蒸し暑い。こんな季節は仕事なんかしなくても良いのだ。仕事をせざるを得ないのは、世の中が競争社会だからだろうな。何とか競争社会の仕組みをぶっ壊してやりたいものよ、と思うが、隠者にはそんな力は無いのである。(2021年7月23日)

誰のため、何のため

今日は千葉大学を“よくする”ことをめざす会議があったのだが、何となくモヤモヤしたものを感じてしまう。誰のために、何をよくするのか、という思想あるいは哲学に関わる部分がよく見えないのだ。誰が幸せになるのか、と考えて見ると、管理者、文科省、エリート研究者、といったことが思い浮かぶ。社会の中の大学として、本質的な大学の役割を、時代のコンテクストの中で問いたださなければならないのではないか。同じ思いを抱いている方も多いのではないかと思うが、否定することも難しい、美しい文言に対して、野暮な意見を言っても無駄、という感覚は確かにある。最近、評価に関する仕事も多いが、書類を読んでいると三種類あるように感じる。現行の評価システムへの適応、明らかな疲れ、大学としての矜持の主張。大学は変わらなければならんという思いが大学内に芽生えていることは明らか。その底流を奔流にするためには、外に向かって主張を続けるしかないな(小声で)と思っている。(2021年7月21日)

日本人の自然観と時代

今日の委員会ではもう一つおもしろい情報を得た。統計数理研究所が行っている「日本人の国民意識調査」で70年にわたって同じ項目があるとのこと。それは「人と自然の関係」に関わる質問事項で、①自然に従う、②自然を利用する、③自然を征服する、の三択からの選択である。高度経済成長期には③がぐんぐん伸び、①が下がっているように見えるのだが、1973年の第一次オイルショックを挟んで①と③が逆転し、以降、①が伸び続ける。②は同じレベルを保っているが、1992年のリオサミットの頃に①に抜かれ、以降は①がトップを独走する。人の意識は時代の影響を受ける。オイルショックの苦況、リオサミットにおける気候変動や生物多様性の課題が人のマインドを変えたとすると、現在のパリ協定、コロナ禍、大災害の時代は人のマインドを変える大きなドライビングフォースであるはず。すでに①がトップであるので、さらに①のマインドが増えていくことは間違いない。“自然に従う”の中身はわからないが、日本人にはもともと“もののあはれ”の感覚があった。自然に逆らわず共生するのはアジアのマインドでもある。一方、社会の都市的な部分は自然と分断されている。①のマインドがこれからの日本のjあり方を変えて行くはずであるが、経済優先の20世紀のマインドに負けないようにせねばならん。都市と農村の関係性の変更が必要だ。(2021年7月20日)

文理融合は無理?いやいや

今日のフューチャー・アース委員会のブレークアウトルームで文理融合の話題を出したところ、文理融合は無理、できないのには理由がある、といった意見が出てきた。その理由を明らかにしたいのだが、短時間では議論が煮詰まらない。詰まるところ、文理の対話が少ないことが理由ではないか。同じ問題を異なる視座・視点・視野で眺めているのだが、両者の意識世界が交わらない。お互い、自分の価値観をどうしてわかってもらえないのか、と思っている。だから対話があれば良い。価値観の違いは、ローカルとグローバル、現在と未来、名前があり、顔が見える人と平均的な人、といった観点から説明できるだろう。視座・視点・視野の違いが認識できれば、両者を融合させることができるだろう。文理融合を妨げているもう一つの壁は研究評価のあり方。20世紀型の“一本道の科学”偏重の評価基準、現場の科学者ではなく科学行政のトップが幸せになる仕組みにあろう。ではどうするか。科学の本質とは何か、という問いに対する国民全般の意識を深めていく必要があるが、国民の関心という観点では経済の壁もある。お金が大事だよ、という感覚。文理融合のためには資本主義、すなわち現在の社会のあり方改革の議論が必要になるが、実はその時宜は来ているのだ。(2021年7月20日)

40年ぶりの快挙

この時期、週末は草取りをサボることができない。真夏となり、作業は厳しいのですが、少しずつやればいつの間にか畑はきれいになる。取った後から雑草は生えてくるが、草取りは修行だ。雑草は野積みで雑草堆肥にして、いずれ土に還す。野菜の残渣はコンポスト容器で堆肥化する。3時間もやるとヘトヘトである。シャワーを浴びて体重を量ると、59.8kg。体重が60kgを割るのは40年ぶりである。大学院で一人暮らしを始めて一気に体重が増え、結婚してさらに増え、ピークは70kg近くまで達したこともある。最近体重が減少気味だが、野菜の摂取が増えているからだろうか。昼も自作野菜持ち込みで簡単に済ましている。その後、ビールを注ぎ込み、冷酒を飲みながら夕食。犬の散歩に出かけ、水分補給。風呂に入る前に体重を量ると、61.2kg。けっこうな量を飲み食いをしているのじゃな。後は筋力を付けなければならんと思うが、その前にストレッチングせねがあかんのではないじゃろか。足の疲れがとれないのは筋肉や腱が固いからじゃろう。(2021年7月18日)

自作自食-ヨーグルト

ヨーグルトの自作も始めました。アイリス・オーヤマのヨーグルトメーカー。1リットル牛乳パックに種ヨーグルトを入れて一晩。設定は自動。明治ブルガリアヨーグルト100ccから明治ブルガリアヨーグルト1000ccができました。味はブルガリアヨーグルトそのもの。これは良いものを手に入れました。おなかの調子も良くなりそうです。ルクエのチーズメーカーによるカッテージチーズも週末には楽しんでいます。レモン汁よりお酢の方がおいしいような気がします。自作すれば味もまた格別です。(2021年7月16日)

仲良しグループの政治

酒取引を巡る西村大臣の要請は撤回されたものの後味が悪い。第二次安倍政権以降政治と権力の関係がおかしくなっているが、ますます顕著になってきたようである。様々な背景に思いが至らないのは官僚の知識、経験を活かしていないことと、世間との感覚が乖離していることを意味する。それは仲良しグループを形成して行ってきた政治の顛末であり、権力者が“思う”ことがそのまま政策になってしまう現状の顕れでもある。“思う”ではなく、“考える。なぜなら~であるから”と発言し、“だからこの政策を実施する”、とならないものだろうか。政治は決断でもあり、その背後には複数の選択肢がある。複数の選択肢を提言するのは専門家の役割である。政治家には総合的、俯瞰的観点から政治に取り組んでいただきたいものである。(2021年7月15日)

盛土と残土

7月3日に発生した熱海の土石流災害の地盤工学会による報告を視聴した。やはり専門家の話は聞くものだ。中間報告で、すでに古くなってしまった情報もあったが、谷埋め盛り土に関する意識を新たにすることができた。盛り土災害は自分の講義でも取り上げているが、どうしても危険というニュアンスになりがちである。法律施行後にきちんと造成された住宅地の盛り土は直ちに危険ということはないのである。技術による便益を人が受けているといっても良い。熱海の場合は盛り土というよりも法律を逸脱した残土の投棄といっても良い。源流部の谷埋め残土投棄は危険と高らかに宣言して良いだろう。現実には様々な場合がある。それを地域ごとに診断して判断することが必要な時代になった。普遍性で成り立った20世紀の科学技術では対応不可能なのだ。ただし、技術にも賞味期限がある。盛り土がきちんとメンテナンスされているか、何十年にもわたってモニタリングする必要は残されている。自然の不自然な改変は高度経済成長時代の已むに已まれぬ行為だった。これからの時代は変わらなければならない。(2021年7月14日)

フォーキャストとバックキャスト

土曜日の学術フォーラムにおける私(地球環境変化の人間的側面(HD)分科会担当)のスライドに対して、SDGsがフォーキャストと誤解されるのではないか、というコメントがあった。確かに私はSDGsをフォーキャストの側に位置づけていた。それはSDGsの成立過程では“現在”の問題の解決を願う途上国の切実な思いがあったからと考えているから。古沢広祐先生(國學院大學)の著作(「みんな幸せってどんな世界-共存学のすすめ」、「食・農・環境とSDGs」)を読んでそう感じた。コメントにはエビデンスベースで再検討するなんて答えてしまいましたが、やはりこのことは“感じる”ことで、従来型の科学の作法に則り論理的に説明できることではないのではないか。人間中心の学術では、“感じる”ということを重視しなければあかんのではないかと感じるわけです。一方、SDGsの実施段階ではバックキャストとした方が、人々を引きつけることができるのかもしれない。何となくかっこいいから。バックキャストとして実行した方がムーブメントにつなげやすいのだろうが、フォーキャストを考える部分にこそ人間的側面があるのだと思う。(2021年7月5日)

宮城県上水道民営化に思う

朝日朝刊から。正確には上水道(と工水)の運営権を民間に売却するということであるが、自分としては心配。上水と工水が対象ということであるが、工水の需要減が背景にあるのだろうか。調べなければならないが、自分としては危うい決断なのではないかという思いが強い。県営水道が対象と思われるので都市部に関わる問題だと思うが、人口減少の状況下では切り捨てられる地区が出てくるのではないか。広域水道は人が集住していないと効率が悪くなる。人が土地に依って生きる権利の侵害も心配。この政策は20世紀型の発展モデルの延長にあるように思う。これを機に非都市部の地域では水の保全と地産地消の体制を強化しておく必要があるだろう。20世紀型の都市化、集約化による発展モデルとは異なる未来の創り方が地域にあると思う。生きている限り、そんな地域のあり方を主張しながら注視していこうと思うが、それも楽しみ。(2021年7月5日)

チーズ自作自食に成功

雨が続くと畑が荒れてしまい、心配。収穫も草取りも滞っている。作物が弱り、ズッキーニは腐り始めている。とはいえ雨の中、農作業する気にはなれないところが“楽農”である。先日アマゾンでやたら安いチーズメーカーを見つけて発注したら案の定なかなか届かなかったが、ようやく中国から届いたのでチーズ作りを試みた。牛乳1リットルとお酢少々でカッテージチーズが完成。これがなかなかうまいのだ。リタイアしたら時間はたっぷりある(ことを期待)ので、いろいろなものを自作自食したい。チーズに成功したので、次はヨーグルト。その先には味噌、醤油がある。(2021年7月4日)

高みと実践

今日は日本学術会議の学術フォーラム「...-環境学の新展開-」で話をした。主題は長いので省略。相変わらず自分が頓珍漢なことを話しているのではないかという不安が払拭できないが、それは気にしないことにしよう。それなりに権威のある場なのだが、どうしても違和感を感じてしまう。チェホフの「手帖」にあるパーティーの様なのだ。もちろん他の講演者の分科会、委員会では使命感を持ち、それぞれのミッションを遂行しているので失礼な言い方であることは自覚しているが、高みからの主張であるような気がして、自分としては恥ずかしいのだ。環境問題は人と自然の関係性に関わる問題なので、現場における実践がなければならないと考えている。小さな営み(研究)が重要なのだ、ということも主張したので、きりの良いところでスパッとやめて現場に入りたいなぁと思っている。とはいえ任期は2年残っている。現場に入るということはコミュニティーの一員になるということである。単に関わるということとはちょっと違うと思うのだ。生き様とも関係しているのだが、納得できる生き様で人生を閉めたいと思う。(2021年7月3日)

「思想」、「嗜好」、「習慣」

中島岳志曰く、柳宗悦は、本質を見過ごしてしまう三つの理由としてこの三つをあげているそうです。その通りだと思うが、様々な思想、嗜好、習慣を俯瞰し、尊重できればよいのだと思う。習慣は惰性と置き換えても良いというが、まさにそれぞれの人生の期間における経験の慣性がもたらす意識の世界ではないか。すべてを俯瞰し、外から眺める生き方、それが大和言葉の「ひとり」であるように思う。「ひとり」は「隠者」。隠者は世界の外側に居る。といっても俗世間との交わりを経つわけでもないのだ。鴨長明や兼好法師の生き方がそうであったと思う。隠者になりたいものよ。(2021年7月2日)

「真理」と「真実」

「『利他』とは何か」、を読みながら、思う。利他を学問の立場から論じるのは良いのだが、もっと簡単に「思いやり」で説明しても良いのではないか。「思いやり」には「エンパシー」も含まれているはずだ。一人一人の真実を受け止めることが大切であり、真理によって解決しようという態度は科学的ではあるが、人間的ではない。もっと人間的側面を重視しなきゃあかんと思う。中島岳志氏の章でこんな記述に遭遇。「利他という出来事は、真理的にではなく、個々人の生の真実として経験される」。ある事象の受け取り方は人により異なるが、みな真実なのである。中島氏も指摘しているが、これが証明可能な真理を扱う“科学”とは異なるところである。科学は狭い意味で捉えられるところが多いので、学術という言葉を私は使うようにしているが、真実に迫ることができる学術こそが今の世に求められているものだ。(2021年7月2日)

利他と施し

冒頭に利他について勉強を始めたと書いたが、まずは「『利他』とは何か」(伊藤ほか編、集英社新書)を読み始めたところ。いろいろな考え方があるものだ。利他にも「合理的利他主義」、「効果的利他主義」というものがあるそうだ。前者では「自分にとっての利益」が行為の動機となり、後者では自分にできる最大の善を施すために目の前のことに取り組むのではなく、効率的に稼いで最大限の寄付をするという。それでも良いのだが、利他と施しは違うのではないかという思いに至る。施しはキリスト教から来ているのではないか。そこで検索すると「寄るべのない者に施しをするのは、主に貸すことだ。主がその善行に報いてくださる」という聖書の言葉を発見。やはり利他の背後には神がいる。仏教における布施は決して貨幣や物品だけではない。 検索したら「無財の七施」を発見。仏教の施しはセラピーまで含むといって良いようだ。心の利他といっても良いと思うが、それがエンパシーではないか。キリスト教でも、マザー・テレサが偉大なのは現場に身を置いて苦しむ人々の立場で行動しているからだ。なかなかマザー・テレサにはなれないが、心の利他を考えると誰でも“利他”を実践することができる。(2021年7月1日)

もののあはれ

2021年7月は梅雨らしい天気で始まった。心地よい雨音、ひんやりした空気、濃い緑とその中に散在する夏の草花、しみじみとした気分になる。これを“もののあはれ”というのだろう。ところが各地で大雨になっており、気象庁や大雨地域の行政はてんやわんやの状況になっていると拝察いたします。不安の中で避難なさっている方々も多いはずで、“もののあはれ”などといっている場合ではないのである。なぜ人はハザードに対してこれほど恐れおののかなければならないのか。うまく自然と付き合う術はないのか。自然に対する知性、自然と付き合うための思想、哲学を持ちながら、連携することができる社会であれば(5月6日参照)、自然の営みは“もののあはれ”として感じることもできるのではないだろうか。そんな社会を創りたいものだ。(2021年7月1日)


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