口は禍の門

2018年は還暦の年。干支が一回りして赤ちゃんにもどる年。赤ちゃんのような純粋な心に戻って、新しいことを始めることができる歳。人はそれを勝手気ままと言うかも知れない。でも、大学人が勝手気ままできなかったら、世の中は何も変わらんのではないか。一方、数えの61歳は厄年でもある。身体も以前のように動かなくなり、様々な不調が出てくる歳。気をつけると同時に、楽しいことをやらにゃあかんなぁと思う。(2018年1月1日)

2017年12月までの書き込み


自己肯定感を高める

ゴンチチの「世界の音楽」(NHK-FM)でよいことを聞きました。いつも「ありがとう」と感謝の気持ちでいる人は自己肯定感が高いとのこと。逆に人の悪口を言ったり、文句ばかり言っている人は肯定感が低い。私はいつも文句ばかり言っているので、それで自分を肯定することができないのだな。今日はインフルエンザA感染中なのですが、市民講座を中止するわけにはいかないので、別室からスカイプで講演を行いました。自分としてはバタバタで、既存の資料をカットアンドペーストしただけでしたので、まずかったなという思いが強く、終了後、がっくりと落ち込んでいたのですが、受講者には評価して頂いたとのこと。受講者の方々、企画してくださった方々に感謝です。自分に自信を持てるようになるためには、まず人に感謝し、人の考え方を認めなければあかんということ。いつも言っている文句は、不平・不満ではなく、主張にしなければあかんということでもあります。(2018年2月17日)

インフルエンザA感染

昨日から何となく不調であり、この後予定が詰まっているので今朝医者にかかったところ、インフルエンザAと診断されました。朝の体温は37.1度であり、検査の結果も薄いとのことで、安心して帰宅したところ、昼から体温がぐんぐん上がり、最高値はわかりませんが、38.6度までは上昇を確認しました。体温計が安定するのに時間がかかるので、途中でやめてしまった結果です。おそらく39度くらいまで上がったのだろうな。昨日はたくさんの方々と接触したので、まずは注意喚起のメール。とはいえ、何に注意したらよいのかはわかりませんが。それにしてもいつ感染したか。最近は慢性的な頭痛と耳鳴りに悩まされており、鼻ももともと悪いので、何がなんだかわからなくなっております。インフルエンザ公式感染は私の人生初ですので、記録しておきますが、身体も老いてきて、だんだん初記録が増えていきそうです。(2018年2月16日)

教育方針の破綻

卒論発表会が終わり、今年の学務も終わりが近づいた。ただし、今年は例年にも増して挫折感が大きい。私の教育方針は、「様々な方々と協働して、目的の達成を共有する中で、支えられながらも、自分の役割に気づき、それを果たすことで成長できるはず」、というものであった。しかし、ここ数年来、それは失敗している。いつかの朝日の意見欄にあったように(2017年12月24日)、年輩(すなわち私)は職場(ここでは研究室)を共同体的なものとして捉えるのに対し、若手は個人の集合体としてしか認識していないという。若手の考え方も尊重されるべきだとは思うが、与えられることを当たり前と捉え、その期待に応えない、すなわち、自分の規範のみで結果を判断する、という態度は正しいとは思えない。研究という行為(それは社会における生き方と同じ)の作法からは逸脱している。少し厳しく指導すると、応答がなくなるだけで、結果として卒論、修論発表会はつらいものになってしまう。私は学生に人生における貴重な体験の機会をつくっているつもりであるが、それが伝わらず、最終的に私自身が責任を負うことになってしまう。私は金八先生にはなれないが、そもそも高等教育は初等・中等教育とは全く質の異なるものである。大学人である以上、教育は本務でもあるので、どうすれば良いのかを考えなければならない。大人である学生に対してどのような指導が望ましいのか、模索を続けるが、それは私の問題であると同時に、社会の問題でもある。(2018年2月13日)

問題を一緒に考える

奨学金破産の親子連鎖が広がっているという(朝日朝刊)。国の奨学金を返せず、自己破産するケースが本人から親、さらに親族にまで広がっているそうだ。要因の一つは運用に際して国の制度が時代背景の変化に基づいてシステムを柔軟に対応させることができないこと。いや、制度だけを時代の変化に(経済の観点だけ)適応させ、受給者のこと(システム全体)を考慮しなかったためであるといったほうがよいだろう。この問題は大学の価値である人材育成機能に関わる重要課題であり、何とかうまいやり方を考えたいと思う。入学金と1年次の授業料は無料にして(学生の助走期間とするため)、入試および進級時の成績に応じた奨学金を年度ごとに与える仕組みはどうだろうか。教員側も評価が大変になるが、大学の機能が発揮できるのではないか。それにしても苦労して学ぶ学生がいる同じ時、同じ場所に何も学ばない学生がいることにやるせなさを感じる。大学では教員は評価者でもあるので、節目においては教習所と同じ態度で学生に接しなければならない。しかしマイナスの評価を下すこと、それに対して組織や社会の了解をとることに多大な労力が必要な状況になっている。人材育成の問題は大学だけでなく社会全体の問題でもある。みんなが一緒に考えるという姿勢が大切なのだが、日本人が考える力を失っていると、末端の現場にしわ寄せがくる。(2018年2月12日)

人生と社会

水俣病の受苦者に寄り添い、小説「苦海浄土」で受苦を世に知らしめた石牟礼道子さんが亡くなりました。私も福島以降、犠牲のシステムで成り立つ社会に割り切れなさを感じ、水俣の歴史を学び直す中で読みました(もっと早く読んでおけば良かった)。人が苦難に陥ったとき、小説も含む芸術の持つ訴えの力、癒しの力は何物にも代え難い価値を持ちます。でも、社会を動かす力となるためにはさらなる力の結集が必要であることも痛感しています。どうしたらよいか。朝日新聞の相談欄で荻上チキさんが、「評論は社会に効きますが、文芸は人生に効きます」、と書いています。評論と文芸(芸術といっておきたい)はどちらも大切ですが、私はまず人生を考え、そこから社会につなげていくやり方をとりたい。芸術は時代の先を行くのである。そこから始めて、社会を変える力としたい。(2018年2月11日)

評価のあり方

ある大きな仕組みや組織を評価する際には外部評価委員会を設置することが多い。その際、評価される側の意志が十分伝わってこないことが多いように感じる。評価する側も十分な検討の時間を与えられずに、表面的な評価をせざるを得ないこともある。そんな評価の結果が重要な仕組みや組織のあり方を変えていく。外部評価委員会を設置し、またそこに外国人を入れるのは上の階層に覚えめでたくなるため、という言い方もできよう。そうではなく、熟考された互いの意見がぶつかり合い、ならばやってみなはれ、という評価ができんものだろうか。トップダウンの思考と、ボトムアップの思考を融合させるのは時間をかけた議論なのだろうなと思う。その際、日本の意志を明確にするためには日本語でやらにゃあかんのではないやろか。私は典型的な日本人で、英語が苦手ですので、まずは日本語でやりたいものだ。外国人の旅費分で日本人が何回か集まることはできると思うが。(2018年2月9日)

地理はだめか−トップダウンとボトムアップ

ある大先生から地理はだめだという話を聞いた。私も以前はそう思っていた。しかし、現実には地理は相当がんばっている。それなのになぜだめだと思われるのか。話が終わってから考えていましたが、やはりトップダウンとボトムアップの思考の違いではなかろうか。前者は華やかで外形的であり、みんなの目に付きやすい。しかし、後者は当事者の間では知られていても、トップに覚えめでたくない、ただそれだけ。だから、地理学に必要なことはたくさんある小さな取り組みを包括するフレームをいくつか持つことだと思う。フューチャー・アースやSDGsはとてもよいフレームになるはずだ。(2018年2月8日)

本来のグローバル

広井良典の「ポスト資本主義」は共感できる部分が多かった。彼は哲学者であるのだが、地理学者といっても良い精神を持っていると思う。特に、グローバルに関する考え方を再掲しておく(234ページ)。

世界をマクドナルド的に均質化していくような方向が「グローバル」なのではなく、むしろ地球上のそれぞれの地域のもつ個性や風土的・文化的多様性に一次的な関心を向けながら、上記のようにそうした多様性が生成する構造そのものを理解し、その全体を俯瞰的に把握していくことが本来の「グローバル」であるはずだ。

これは地理学そのものではありませんか。グローバルを地域(ローカル)を包含するフレーム、その中で地域が様々な関係性でつながる入れ物として捉える私の考え方と同じといいっていいかな。一方、唯一のグローバル、普遍性を目指す科学は実は資本主義の考え方と不可分であるという(資本主義と近代科学の同型性)。私も常々思っていたことを見事に論じてくれました。資本主義の限界が見えてきた現在、別の地球観、自然観、社会観に基づく新しい社会へ移行しなければならない。現在は過渡期なのだと思う。フューチャー・アース(FE)の成功への道程はFE研究者の意識の変革から始まる。(2017年2月2日)

しがらみ

昨日はフューチャー・アース(FE)の推進と連携に関する委員会に出席しました。重要な会議ですが、内容は組織論、制度論が中心。せっかくの機会ですので、実践とのギャップが大きいのではないかという発言をしました。課題解決、超学際という概念は受け入れやすいため、すでに多くの実践が先行しているが、分野によって考え方が異なるようだ。それは、誰と連携するか(ステークホルダーの階層性)、どんな問題の解決を試みているか(現在の問題か、未来の問題か)、といった立場と関連している。このような実践例をとりまとめるのも委員会の役割ではないか。もちろん、委員会で考えていないわけはなく、失礼な発言だったかも知れない。的をはずしているかもしれませんが、自分がこんなことを言えるのも、"しがらみ"がないからではないかな。自分は組織や研究プロジェクトといったしがらみが少ない人間である。また、私は現場の人間であり、ステークホルダーとの信頼関係が心の拠り所でもある。FEは実践しなければ意味がない。トランスディシプリナリティの達成は現場にしかない。と同時に成果の纏め方にこそ、従来の考え方を乗り越えなければならない課題があるのである。(2017年2月1日)

オレは死なない

月末の今日が締切の仕事が多数。さらに別の仕事の締切も迫り、締切をとうに過ぎている仕事も。一つの仕事を始めると、ほかの仕事が気になり集中力がとぎれる。能率は極端に落ちている。こういう状況は破綻といっても良いのではないか。必死でリカバーしなければならないのであるが、自分は不眠不休で仕事をする性格は申し訳ないのだが持ち合わせていない。大きなストレスを抱えながらもダラダラと仕事を続け、心の片隅に何とかなるだろうという楽観、無責任を抱えている。だから多くの方々に迷惑をかける。申し訳ないと思いつつも、ペースは崩れない。だから、オレは死なない。たぶん。(2018年1月31日)

教育とは何か

学部で開講している「リモートセンシング入門」の4日間の集中講義を終えた。昨今の忙しさは自業自得でもあるのだが、十分な準備ができないまま突入した。その割には、いろいろなことを話し続け、学生には貴重な情報を提供できたのではないかと思う。リモートセンシング技術の基礎だけでなく、技術をどのように社会の課題に適用するか、社会の側にはどんな習慣、歴史、等々の課題解決を困難にする要因があるか、人と自然の関係性、すなわち環境を理解するための考え方、こんなことを話した。学生がどう感じたかはまだ分からないが、一人でもわかってくれた学生がいれば成功である。哲学者の内田樹によると(内田樹の研究室「大学教育は生き延びられるのか?」で検索)、「大学の授業は工業製品じゃありません。本来は生身の教師が生身の学生たちの前に立ったときにその場で一回的に生成するものです。そこで教師が語る言葉にはそれまで生きてきて学んだこと、経験したこと、感じたことのすべてが断片的には含まれている。それが何の役に立つのか、そんなことは教師にだって予見不能です。どうしてこの科目を履修することになったのかは学生にだってわからない。学んだことの意味がわかるのは、場合によっては何年も、何十年もあとになることさえある。そういうものです」。自分を正当化しているだけかも知れませんが、こんな思いで講義(私は授業より講義を使いたい)をやっています。 (2018年1月27日)

シニアの勇気

朝日朝刊、高校教員の糸井さんによる投稿。茶髪の生徒に対する再登校指導、つ まり、髪を染め直さないと校門入れないよ、ということですが、糸井さん曰く、これは「ブラック校則」である。これに対する教員の態度には三つある。@学校の方針に対する積極的肯定派、A違法行為ではないかと考える反対派、そしてB行き過ぎだと思いながら、 学校の秩序を優先する消極的肯定派。糸井さんはAであるが、Bが圧倒的に多いという。糸井さんは64歳。再雇用で退職も間近いと拝察されます。だから、勇気を出すことができる。私もシニアの仲間に入りましたが、シニアが声を挙げないと世の中変わっていかない。シニアの勇気が試される時代だな。私は、校則や指示には“なぜか”という理由が必要だと思う。まず、問いかけ、議論するところから始めたい。そうすると意外とBの中に味方が多いのではないか。(2018年1月25日)

癒しの時間

朝日朝刊の6面は全面 THE MARTIN GUITAR の広告。数千万円かかっているはず。これだけの広告予算を費やすことができる背景は何だろうか。今、昭和世代が定年を迎えている。この世代はフォーク少年少女だった方々も多いだろう。定年を迎え、かつて憧れだったMARTINが射程に入ってきたということ。そんな人々が多いに違いない。紙面に載っている「憧れの音」という詩の一節。

・・・
自分なりにがんばって働いてきた
そんな自分への贈り物

もう一度、仲間たちと
あの頃のように歌って笑いたい。

久しぶりに会う息子
そして孫と弾きたい曲がある。
・・・

実は私もMARTINに対する憧れはありましたが、還暦直前に手に入れたのはフォルヒ(FURCH G23-CRCT)。チェコ製のギターで、デザイン、音ともに最高に気に入っています。私はメジャーに合流するのが嫌いな質で、いつも人様に迷惑をかけております。でも、人と違うことをする、ものを持つ、ということは楽しいことであります。ギターと一緒に過ごす一時は癒しの時間で、ギターには本当に助けられています。(2017年1月24日)

トンネルの出口

昨日の雪には私も難儀させられました。いろいろな混乱もあったようで、こんなニュースもありました。山手トンネル内渋滞のためバスから降りて自力で外に出た乗客のコメント。なぜトンネルに入ったのか説明がない、情報がなくて怖かった。なぜトンネルに入ったかくらいは想像がつきそうなものですが、このことは日本人全般の問題と関わっているように思います。日本人は暮らしや命に関わることを外部に委託する習慣ができあがっています。そうすると唯一できることはクレームをいうことだけ(鷲田清一、「しんがりの思想」より)。この習慣が他人に対する厳しさとなり、非常に生きにくい世の中になってしまっているのではないかな。自助・共助・公助ということばがあるが、これは災害だけでなく社会全般にいえること。まず自分で解決を試み、だめなら近所に助けを求める。それでもだめなら公的機関を頼む。人の努力を尊重する。日本人が抜け出さなければならないトンネルの出口は見えているような気はするが。(2017年1月23日)

価値と普遍性

誕生日直前の日曜日ですので還暦記念に学生から贈られた獺祭を頂きました。非常にまろやかで、すいすい胃に入っていきます。確かに今まで味わったことのない風味でした。飲んでからお値段を調べたら驚きの"うん万円"。なるほど、究極の風味を目指し、努力し、上り詰めた先にある結果に対する価値が確かにそこにある。とはいえ味わいの価値となると人それぞれということになるでしょう。この価値を価格で測ったら普遍的なものになるのかもしれないが、価値に普遍性はなく、人の抱く価値を尊重することが大切なのです。酒飲みとしての自分にとって、この獺祭を味わったということは、この上なく価値があることです。(2017年1月22日)

還暦目前

恥ずかしいからやめてくれと懇願したのですが、学生が還暦のパーティーを強行してくれました。集まってくれた学生には散財させてしまいましたが、どうかご容赦ください。それにしても、こんなに大勢集まってくださるとはなんと申して良いものやら、感謝のことばがわかりません。私は決して良い教員ではなかったと思います。昭和の遺物みたいなところもあり、煙たい存在だったのではないでしょうか。私のことを快く思っていない学生もいます。でも、何かが伝わった学生もいるということなのだなと思い納得しています。教育なんていうものは、教えるものを纏めて、それを学生に与える、なんてことではないと思います。今の時代、学ぶべき材料は巷にあふれています。教員は指針を示し、背中を見せるだけ。とはいえ、こんなことを言っていられない時代になってきた。自分の世代から学生に伝えるべきことはしっかり伝えながら、それを時代のコンテクストの中にきちんと位置づけて主張できるような考察も続けていかなければならないと思います。(2017年1月20日)

精神の強化

還暦までの一月を身体リペア月間にしているが、今日はその〆として頭の検査にいってきた。頭が悪くなってしまったもので。MRIは2回目。10年以上前の1回目では検査中に宮城県沖地震が発生し、音だけでなく揺れがすごかった楽しい思い出がある。結果はとくに問題なし。ということはこの頭痛と耳鳴りの原因は精神面にあるということ。還暦後の課題は精神の強化ということになる。稀勢の里もがんばれ。(2018年1月16日)

市場経済と資本主義

この二つは今まであまり区別せずに使ってきたが、実は根本的に異なるもの。言われてみるとその通りなのですが、別に市場経済が悪いわけではない。昔から市はあり、人々の暮らしに役立っていた。広井良典によると、市場は共同体を外に向かって開くという意味をも持つ。一方、資本主義は「市場経済+(限りない)拡大・成長」を指向するシステム、となる。この「拡大・成長」の部分から、資本主義の投機性、弱肉強食、力と策略、といった特性が生まれてくる。「ポスト資本主義」より。まだ、読み始めたばかりだが、なぜ拡大・成長が必要か、本当は必要じゃないのでは、といった点を見極めることが未来につながるのだろう。引き続き読書を進めます。(2018年1月15日)

都市における人と自然の関係性

生け垣のピラカンサがたくさんの実をつけた。赤や黄の実は冬の風景を彩る風物なのだが、かみさんと一緒にたたき落としてきたところ。小鳥が食べて糞を落とすとのことで、クレームがはいり、気乗りはしないのだが少し作業をしてきた。かみさんは家にいる時間が長いので、対応したということが重要なのだろう。このことは深刻な意味があるように思われる。都市住民が自然と分断されており、自然を愛でる精神的余裕が失われているということ。今、学術会議で「グリーンインフラ」について議論しているところだが、議論の前提には「都市的世界の中で人は自然を無条件に受け入れるはずだ」ということがある。グリーンインフラの議論には都市におけるゆがんだ人と自然の関係性の理解、そしてでき得ることならば修復が先行しなければならないことに気が付いた。(2018年1月14日)

科学者の姿勢

朝日社説では公開された「湯川日記」から科学者と社会の関係についてふれている。その最後の段落を引用する。

研究の細分化・分業化が進み、研究費獲得のためには論文を発表し続ける必要がある。そんな時代だからこそ、いったん立ち止まり、考えを深める時間が、ますます貴重になっている。

昨今の研究者は論文生産マシーンになってしまっているようだ。論文を一本出版して、真理の探究を一歩進めたことが、社会に対してどのような意味を持つのか、考える時が来た。研究者の知性を「私的に使用」するのではなく、「公共的に使用」することを始めなければならない。社会もそう言っているではないか。(2018年1月14日)

研究者の立場と管理者の立場

Yahooニュースに大阪大学の件があったので、動画ニュースを見たら責任者らが頭を下げて場面がありました。名前を見たところ、あの「トランス・サイエンス」の小林傳司先生ではないか。科学技術と社会の関係について、重要な発信をしている研究者である。その学問上の業績とは関係なく、管理者になり、責任を負う立場になると、時として頭を下げなければならない。なんとも、やるせないものです。しかし、小林先生であれば、問題の背後にある事情を知り、社会のコンテクストの中で理解し、社会の中の大学のあり方について考えてくれるのではないか。勝手な期待をしていますが、世間から叩かれるというのは実につらいものがあります。私に何ができるわけではありませんが、可能な限り問題の解決を共有していきたいと思います。(2018年1月13日)

理性の公的使用ー知性の公共的使用

先月から身体リペア期間に入っているのだが、今、人間ドックから戻ったところ。デスクに向かって、本日締切の業績調べをやっていないことに気づく。これは職場の中間評価に必要な情報で、結果は予想されているので何とも実りない作業なのだが、これで誰が幸せになるのだろうか。ちょうど人間ドックの待ち時間に読んでいた鷲田清一の「しんがりの思想」の一節がひらめいた。専門家が信頼されるのは、専門家が知性を自分の利益のために使っていないというところにあり、それをカントは「理性の公的使用」と呼んだ。鷲田はこれを「知性の公共的使用」と言い換えた。これに対してカントの言う「理性(知性)の私的使用」は、「特定の社会や集団のなかでみずからにあてがわれた地位や立場にしたがってふるまうこと」だとしている。となると、評価のために行う作業、そのための研究は「理性(知性)の私的使用」であり、鷲田が例として引いている「割り当てられた職務を無批判的に全うすること、たとえば組織内の立場に照らした発言をすること、上司の指示にひたすら受動的に従うこと」にあてはまる。このような仕事を献身的に実施してくれる方々はありがたいのだが、みな知性を「私的」に使用していることになる。大学人ははやくこのことに気づき、「社会の中の研究者、社会のための研究者」になることを世は求めているのではないだろうか。(2018年1月12日)

小さな稼ぎ

成人式に晴れ着を着ることができなかった新成人の皆さんは本当にお気の毒だったと思います。このような事態は現代社会のリスクと言えるのかも知れない。便利を提供する会社も、市場主義、貨幣主義、競争主義のシステムの中で時に破綻することもある。消費者は便利だけではなく、リスクも考えなければならなかったということです。それにしても、一生に一回の成人式で振り袖を着ることができなかったなんて、経営者は晴れ着を届けてから全負債を負う、なんてことはできなかったのでしょうね。もし、地元の町に小さな晴れ着屋さんがあって、そのご主人は新成人を子どもの頃から知っている、みんなで成人を祝う、こんな状況でしたら晴れ着がないなんてことは起こらなかったでしょうね。小さな稼ぎだけれど、コストも小さく、地域全体で支え合う、こんな経済を今の社会に組み込むことはできないだろうか。時代の流れを感じていると、それはあながちあり得ないことではないような気もします。(2018年1月10日)

背後にある事情

阪大の採点ミスは大学にとって痛恨の極みだと拝察いたします。合格していたと知らされた学生諸君の戸惑いも想像に余りあるものです。試験問題作成を担当した教員の心痛も痛いほどわかります。今、大学では評価社会、競争社会の中で、"社会の中の科学者"としての生き様と、"組織の中の教員"としての生き様が相容れない状況になっています。スーパーマンでなければ大学人としての思いを遂げられない状況が顕在化している中で起きたことと捉えることができるのではないかと想像します。私は入試よりも、大学における教育を見直す段階がとうに来ていると思っています。学校と社会の接続段階で教えるべきことを教え、社会人として世に送り出す機能を大学は持たないとあきまへん。大学教育には指導要領はありませんが、考え方をオープンにして、議論を深めること、社会全体が参加して、我がこととして考える態度が必要です。今回の事態は日本の国力低下の状況における事象の一つとして捉えることができると思います。国力低下に対抗するためには、ミスしたという事実だけでなく、背後にある事情を理解し、真実を捉えることから新しい道を探る努力をしなければなりません。どうか、社会の側からも大学を叱咤激励して頂き、望ましい大学運営ができるような状況を実現させていきたいと思います。(2018年1月7日)

冷や飯人生

朝日GLOBEによると、「今年生まれた赤ちゃんの半数以上は100歳を越えて生きる」という予測があるそうだ。一方で、「ヒトの寿命は本来55歳?」という記事も。私は今年還暦なので、すでに今の生は与生、すなわち科学技術の進歩によって与えられた生といえるだろう。医療技術的には100歳まで生きることも可能かもしれないが、人生終盤が充実するか、本当に生きているといえるかどうかは怪しい。ベッドで命が維持されているだけの状態はもはや生きているとは言えないのではないか。それこそ余生だろう。昨今の訃報を聞いていると、だいたい70代位で死ぬのが自分としては最も確率が高そうである。となると、残りは10年。この時間をどう生き抜くか。長いものに巻かれて後悔して生きるか、冷や飯食っても頑固を貫くか。実は冷や飯というのも米がよければうまいものです。(2018年1月7日)

評価者が心得るべき事

帰省していた息子が帰っていったが、元気がなかった。昨秋、学位を取得したが、職が見つからない。日本では博士の就職は厳しいものがあるが、しばらく辛抱してほしい。常に誠実であれ。ところで、うちの職場の中間評価の指摘事項に、日本人の博士課程学生が少ないからもっと増やせ、という文言がある。それは、博士の日本人学生が少ないことはうちのセンターが機能していないことを意味するから改善せよという指摘になる。日本人が博士課程に進学しないのは社会全体の問題であり、博士課程が社会の中に位置づけられていないことの現れであり、日本の将来のために日本人全体が考えなければならない課題である。それを末端に責任転嫁し、自分だけが幸せになるなんて、なんという不見識であろうか。どなたが書いたのかは分からないが、顔を見てみたい。指摘事項が思いつかないとかっこ悪いから、思わず書いちゃったというあたりが真相だと思われるが、評価が出ると被評価者は多大な労力を強いられるのだ。評価者は評価項目の結果を取り巻く事情について包括的な理解を試み、なぜそうなったのかという点から評価しなければならない。評価者自身の地位、名誉のための評価だったら、被評価者は戦わなければならない。(2018年1月2日)

貧困とは何か

幸福について書きましたが、読みかけの「内発的発展論」(鶴見・川田編)の中にこんな記述がありました。これ自体も引用ですが、村井さんの「内発的発展の模索」から。

貧困というのは、操作概念としても、また統計的にみても、剥奪の発生と定義される。剥奪というのは、個々人ないしグループが、経済的諸資源から、社会的、政治的諸組織の保護から、また文化システムの統制から切り離されることである。

となると、貧困とは制度的なもので、我々は新しい状態に移ることができるということも意味している。これがSDGsにおける目標1[あらゆる場所あらゆる形態の貧困を終わらせる]達成の根拠を与えるものになる。同時に、幸福は貧困の対極にあるものではなく、別の概念として捉える必要があることも意味している。(2018年1月2日)

幸福とは何か

昨日引用した提言の中でちょっと引っかかる表現があります。「経済的に貧しいと、寿命が短く、主観的な幸福度も低い傾向がある」。これは一般論ではなく、都市的世界の中の底辺層に関わる表現ではないだろうか。そこには格差、差別が入ってくるので幸福度は低くなるだろう。しかし、経済的に貧しいことが不幸であるとは限らず、寿命が短いことも不幸には直接にはつながらない。日本でも昭和中期の頃にあった、コミュニティーの力、家族の力が維持されている社会では、裕福であることや長寿命は明確な幸せの指標ではなかった。先祖と共に暮らす社会では、死は単なるこの世との決別であり、先祖と共にある世界に入っていくことであった。民俗学や哲学の世界における認識はたくさんある。死を一環の終わりにしたのは近代科学とも言える。経済成長を求め続けると、幸福はなかなかやってこないのではないかな。ひとつの世界だけを規範にするから不幸が目立ってしまう。(2018年1月2日)

現場で感じる力

山ほど仕事を持ち帰ってはいるのですが、新年の行事もあり(酒精ですが)、頭が朦朧としている中で、学術会議の提言を読みました(昨年末にも引いた提言です)。その中で、書き留めておきたいことはこれ。「災害軽減と持続可能な社会の形成に取り組む科学者は現場に身を置き、地域の人々や自治体の考えや思いを的確に把握し、また研究の成果を人々にわかりやすく伝え、相互理解に努めるべきである」。我々の財産は学んで得た知識でなく、現場における実践から得られた気づきであることが多い。この財産があるからこそ、地域における問題解決のなかで、科学の成果を使う場面がわかる。いくら普遍的な方法があっても、それは基礎にあるもので、その上にある地域の事情が分からなければ、現場における課題解決にはならないのである。提言は続く。「大学教育や生涯教育でもそれを実践することが望まれる」。ぜひそのために力を注ぎたいが、このことの重要性を意識させることが第3群大学における課題でもある。現場で感じる力がなければ、「社会の中の科学、社会のための科学」は実践できないのである。(2018年1月1日)

新年のご挨拶

明けましておめでとうございます。ここ数年、年賀状をサボっており、礼を欠いておりますが、どうかご容赦ください。世の中、様々なことがありました。歳をとって経験を積み重ねてきますと、今まで見えなかったものも見えてきて、素直にめでたいと言っておられん心境でした。昨年は原発事故以来、通ってきた福島県の山木屋地区も避難解除となり、新しい歩みを始めた方々もたくさんおります。今年は、素直におめでとうと言おうと思います。とはいえ、「正月や冥途の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」(一休宗純)の心境で、区切りを付けつつも、淡々と生きて行きたいと思います。(2018年1月1日)


2017年12月までの書き込み