口は禍の門

2018年度も後半に入るが、今年が例年と違うのは7月1日ですでに梅雨明けしているということ。今夏の米や野菜の生育はどうなるだろうか。私もこれからは毎日早起きして畑の水やりをやらねばなるまい。いつも、大量に作りすぎて畑で花を咲かせたり(大根やほうれん草の花もきれいなものですが)、腐らせたりしているので、今は区画を小さくして、時間差栽培、他品種栽培を心がけている。小さな畑ですが、収穫期には十分な食料を確保できます。すべての家庭が小さな畑や、ダーチャ、クラインガルテン(畑付き別荘)を持つことができれば、食料問題など心配する必要はなくなるのではないか。食料問題は都市の問題でもある。良好な都市と郊外、農村の関係について考えていきたい。(2018年7月1日)

2018年6月までの書き込み


犠牲のシステム

盆休みに入った。私は老犬の介護のため留守番。犬の世話をしながらテレビを見ている。先日逝去された翁長氏を巡る対談を聞いていると、言い方は少し異なるかも知れないが、日本は犠牲のシステムで運営されている、情の政治が大切だという考え方が結構共有されているなぁ、と感じる。もちろん局にも依るのだろうが。歳をとって様々な経験が蓄積されてくると、日本のあちこちにいる、図らずも犠牲者になってしまった方々の思いが見えてくる。一方で、多くの方々は、自分が犠牲を強いる側にいるという感覚はないだろう。都市的世界の便利さの中で、資本主義の中に組み込まれながらも、何とか暮らしている。そんな普通の暮らしの外側に、実は犠牲があり、それに我々は支えられている。広島、長崎、そして終戦記念日を迎えるこの時期は、日本人のあり方について深く考える時期でもある。(2018年8月12日)

研究者の矜持

先日の中間評価ヒアリングでは科研費の採択率が低いことが槍玉に挙がった。その対策に関する職場における議論の中で、ある大きな研究機関では、書類の事前チェックを受けるとインセンティブ、それは5万円程度の予算、が与えられるという話を聞いた。自分の研究課題というのは自身の誇り、プライドをかけて実施するものであるので、私としては小銭を"もらって"チェックしてもらうなんてことは考えられないことである。それはわがままかも知れないと思いつつも、昨今の研究者魂はずいぶん変わってしまったのだなと思う。こんなことだと、研究というものはまずます外形的な成果を追うものになり、外形的な評価を巡る競争が研究の質を落としていく。研究のための研究をやるようになったら研究者はおしまいだと思う(大学以外の研究者からは怒られるかもしれないが))。研究者の幸せからは遠ざかる。あるいは、地位、名誉が幸せということになり、何とも幸せが薄っぺらいものになってしまう。日本の研究力が下がっているのは研究者が科学者としての矜持を持たなくなっていることにあるのではないだろうか。(2018年8月11日)

地域の課題解決に参加できる科学者

午後は国交省で会議であったが、災害にも深く関わる内容を扱う委員会。これはやりがいのある仕事であるが、西日本の災害を経て、いよいよ科学者も態度を改めなければならない段階に入ってきたと思う。災害の可能性を指摘するだけでは科学者としての責任を果たしたことにはならない。どうすればよいか、ということを示す必要があるのではないか。従来型の科学者は、それは自分の仕事ではない、自分ではない誰かがやるべき、と考えるだろう。それではダメな時代になったのである。地域の利害に関わる防災、減災は、まさに切ったら血が出る課題でもある。それでも科学者は入っていかなければならないのではないか。その態度が超学際につながるのだと思う。問題の当事者を含む様々なステークホルダーの中に科学者も入り、機能することが求められているのだ。そこでは科学者はエリートになってはいけない。問題の解決は諒解でもあるので、超学際の枠組みの中で科学者の役割は相対化していくだろう。地位、名誉を目指す科学者にはできない仕事である。そう思うのであるが、午前中の仕事は、エリートを目指すための仕事であったように思われる。自分はその方向には行きたくないものだ。地域の課題解決に参加できる科学者でありたい。(2018年8月6日)

評価、批判、信頼の喪失

今日は職場の中間評価のヒアリングで文科省に行ってきた。センター長によるプレゼンは上出来であったが、質問の初っ端で、科研費の採択率が低い件についてコメントが出た。ちょっと不機嫌な態度と口調で、うちの職場の弱点をまず突いてくるとは、背景を勘ぐってしまう。科研費の採択率はコミュニティーの指示を表すというが、分析やエビデンスはあるのだろうか。それは無いだろう。事情は分野によって異なるから。環境RSは複合領域であるので、シャープな支持は無いのである。可能性、関係性を見つけてマンパワーの範囲で一つ一つ解いていく、地道な仕事をこなすのが仕事。質問者はシャープなエリート科学者で、環境に関わる仕事を理解されていないのだなと感じる。本来は評価であるはずだが、それが弱点を突く批判になり、その結果、文部科学行政の信頼が失われていく。それは最悪のシナリオであるが、こんなことが昨今の日本の研究力の低下につながっているのではないだろうか。ただし、うちの職場としても問題はある。今後も拠点制度を維持していくためには、組織にならなければならない。明確な目的と戦略を持たなければならない。(2018年8月6日)

大学で伝えるべきこと

朝日朝刊、大学のあり方に関する解説欄から。中教審でも「教員の研究テーマに過度に限定された授業科目や教育課程」が残る現状と改革の必要性を認めているという。このことは現場でも感じることである。講義や演習の内容が教員の専門分野に偏りすぎると学生の講義に対するモチベーションも高まらないのではないか。そもそも分野ごとに教授すべき内容の体系がなければならない。まじめな学生は先端的なことはよく知っているが、具体的な問題認識能力が身に付いていないために、社会の要求にうまく応えられない。こんな状況を打破しなければならない。大学の生き残りというより、大学が誇りを持って、学生に伝えることができるものは何なのか、ということをはっきりさせなければならない。私の場合は環境を理解し、問題を発見し、問題に対応し、諒解を醸成することができる総合力、精神的態度を学生に伝えたい。(2018年8月6日)

エリートであることより大切なこと

あまりエリートを批判していると、ひねくれているとかコンプレックスと思われてしまうかも。現場に関わってきて何よりも大切だと思うことは"信頼"である。これが問題を理解し、解決に導く最も強い力である。科学技術だけでは問題は解けない。どんなに精緻に予測しても、人は災害を避けることはできなかった。西日本豪雨はそのことを露わにした。現場から災害の教訓を引き出すためには、信頼に基づく対話が必要である。信頼があると、それは生きる力にもなる。地位、名誉、金が人に生きる力を与えるのではない。エリートは、その人をエリートたらしめる集団が必要だが、その集団がこけてしまえばただの人。エリートの地位に安住してしまうから、各所で起きているような変なことが起きるのだろう。限られた人生を充実して生きるには、信頼を得ることが重要だ。ただし、昨今は雑用が増えすぎた。雑用とは自分や社会を幸福にするのではなく、階層の上位を幸せにする仕事。雑用のために時間が消費され、自分の生き様に関わる、やるべき仕事において信頼が損なわれつつある。これが昨今の社会の風潮であり、閉塞感を生み出しているのではないだろうか。信頼が創り出す幸せ、これを実現する社会を創らなければならない。(2018年8月3日)

エリートにはならない

職場の中間評価のプレゼン資料ができあがりました。大学幹部のお力添えでよいものができあがりました。さすがだと思います。ただ、少しかっこよすぎると思うのです。エリートのプレゼンなのです。我々は環境を対象とする科学者です。人と自然と社会の関係性の問題に、現場で対峙する科学者は、エリートであってはならないと思うのです。上から目線で、いいことは言うのだが、現場と交わらない科学者であってはなりません。プレゼン資料には、RS基礎技術から応用までの一貫性という文言が入りました。人材の連携、知の連携、多様な環境問題の発見と解決、という文言もあります。これらの意味するところは重大です。衛星を打ち上げ、画像が取得されたら、その意味を見つけ、現場と共有しなければならない。画像処理によって環境変動のシグナルが見えたら、その意味するところを解釈しなければならない。災害も見えただけではダメ。緊急時に役に立たなくても、後世に残す教訓を読みとり、残さなければならない。我々は環境という複雑、多様な対象と対峙しているのだという意識が必要である。現場に入り込んで、地面からの目線で、真実をみなければならない。だから、エリートにはならない。(2018年8月2日)

人生より大切なもの

そんなものあるだろうか。もちろん、愛に関わる事柄であればあり得るが、組織の中では、愛と同等な、人生よりも大切にしなければならないこともあるのだろうか。所属する組織の中間評価で右往左往しているところであるが、今日も学長はじめ執行部の方々の意見を伺い、プレゼン資料を改善しているところ(ほとんどの作業はセンター長がやっているのであるが)。私は永らく環境、すなわち人と自然の関係、に関わってきたので、理工系の方々とはだいぶ考え方が異なってきたなと感じている。定年まで5年を切ったところで、私の考え方を若い純粋な科学者たちに押しつけることもなかろうと思う。私は組織の外と連携することを旨としてやってきたし、それが少人数で運営する共同利用・共同研究拠点のあり方だと考えてやってきた。文科省の評価を受け、場合によってはおとりつぶしになる可能性もあるというこの作業では自分の考え方、すなわち人生、を殺さなければならないようである。私にはもっと意見を言えと、執行部には言われるが、自由に発言したら御上に寄り添うことにはならない。組織にとってはマイナスであろう。組織の評価であるので、組織の目的を明確にして、その目的に向かって戦略的に配置された人材、その共同作業としての研究の成果をプレゼンしなければならない。ところが、環境を重要と考える私からすると、そうはなっていないのだ。それは研究者のわがままでもあるのだが、環境という巨大な漠とした対象を扱っている研究組織の宿命でもある。大学人の評価が外形的な基準でなされる限り、真に環境を対象とした研究組織はできないのである。組織と人生、病みそうである。(2018年7月31日)

はじめに異端ありき

朝日朝刊、文化・文芸欄から。政治学者の故丸山眞男の言。「正統に対して異端が出てくるのではなく、まず異端が現れ、これではいけない、と正統がはっきりする」。なるほど、「非国民」や「国体」が何だったのか、その結果、はっきりした「正統」とは何だったのか、考えなければならないということ。異端が正統に置き換わることもあるだろうが、困難なことと思われる。それは、正統が権力を持った場合。政治の世界では革命ということになる場合も多いだろう。科学の世界ではどうか。異端が正統に取って代わるのは正常な研究のあり方だと思うが、それを難しくしているのがやはり権力だろうか。地位と名誉と金のための研究を押し進めると、最後には権力に到達する。最近、研究の世界でも階層が強化され、権力の陰を感じることも多いが、それでもまだ世の中と比べたら健全な方かも知れない。(2018年7月30日)

地域主義の復活

私はこれまで、グローバリズムは欧米、ローカリズムは日本あるいはアジア、といったステレオタイプ的な見方をしてきたが、欧米でもローカリズムの潮流は強くなっているようだ。朝日朝刊、デイビッド・ブルックスのコラムでは、次の時代を方向付けるのは、ローカリズム(地域主義)の復活だという。このコラムには共感できる記述がたくさん書かれているので、メモしておく。「成功は、どれだけ大きなスケールでできるかではなく、どれだけ深く関われるかによって決まるのだ」。(理工系の)研究の世界でも、どれだけ大きなプロジェクトを獲得したかではなく、目の前にある問題にどれだけ深く関われるのか、こちらを重視したい。「連邦レベルの政治家が見ているのは、データに還元できる事象だ。だが、地域レベルの政治家は、データ化できるものも、そうではないものも見ているのだ」。評価のための数字か、地域の問題解決か、環境に関わる研究者の態度とも通じる。ただし、研究者だったらローカルな成果をちゃんと大きなフレームの中に位置づける作業はやっているのだ。「連邦の権力は人間味がなく、画一的、抽象的で規則を重視する。一方、ローカルな権力には個性があり、相関的で愛情があり、不規則で、助け合いと信頼という共通の経験に基づく」。関係性を大切にして、信頼に基づき、包括的な視点から問題に取り組むのがローカルな視点であり、これこそが問題に直接接近し、解決できる立場である。「変化を起こすうえで様々な分業がある」。グローバリズムは普遍的な手法の考案を目指す(それが社会に実装され、成功するとは限らない)。ローカリズムは協働を旨とする。この人間味のある緩やかな革命を達成したいものだ。(2018年7月28日)

IFがうばったもの

IFとはインパクトファクターのこと。朝日朝刊beに「研究者の評価に使うのは異論も」という記事。IFは、各学術誌が2年間に掲載された論文数を分母とし、その次の年にこれらの論文が引用された回数を分子にして計算するという。初めて知りました。あまり気にしてこなかったもので。というのも、この定義からも明らかなように、IFでは"より優れたもの"に向かう一本道の科学を重視しているようだ。それは、一般的なもの、普遍的なことをより優れているものと考える価値観につながる。これはいわゆる唯一の超越神を拠り所とするヨーロッパ思想そのものではないか。医療技術、製薬、材料といった分野では適切かも知れないが、環境や災害、文化、社会、地域といったものに関わる分野では適切といえない。後者の分野は、小さな成果を"知識、経験の入れ物"の中に蓄積し、共有することから価値を生み出す科学である。それでも研究者の評価にはIFが無配慮に適用される。それは評価する者にとって楽だからであり、その結果、研究者は哲学を失う。何のために自分は研究するのか、を真摯に考えることがなくなり、地位、名誉のための研究になってしまう。自分の興味を満たす研究は楽しい。道楽といってもよい。しかし、自分が道楽すれば、成果は自分でない誰かが社会のために役立てるのだ、なんて主張はもうやめにしないか。私は環境の研究者。だから、目の前にある問題を解くことが最も重要な仕事である。ただし、研究者であるので、個々の成果を、より大きな"入れ物"、グローバルといってもよいかもしれない、の中に位置づける努力は怠らない。これが私の哲学であるが、IFで哲学は計れない。計る必要もない。(2018年7月28日)

社会のカナリア

科学者は、科学技術の社会への危険を察知したら、すぐに市民に伝える義務がある、という池内了の言(朝日、「折々のことば」より)。その通りだと思うが、結構難しいことでもある。科学技術がもたらす"楽"は我々の暮らしを便利にするだろうが、心のあり方をどう変えるのか。ここを考えないと、危険が迫っているのかどうか、わからない。科学技術が必要を越えた需要を生み出し、貨幣を獲得することを目的とする生き方が、人の価値観を変えていないだろうか。科学技術と幸せの関係について議論を深めなければならない。おそらく両者の相関は低いのではないか。我々はどんな社会を欲しているのか。もちろん、科学者の世界でも議論されていることであるが、その内容が社会に向けて発信され、社会で共有されなければならない。そんな時代が来ている。(2018年7月26日)

「18歳無理ゲー説」から

朝日朝刊、記者の原田さんによる「ネット点描」から。「無理ゲー」とは「クリアが無理なゲーム」で、18歳前後で世界のルールが大きく変わるのは、若者にとって「無理ゲー」ではないか、という意味とのこと。高校までは「受動」、大学や社会では180度転換して「能動」が求められる。無理ゲーをクリアできないのは自分がバカだからだと思っている若者が少なくないそうだ。これは社会の側に責任はないか、という問いかけだが、わかりやすいので受け入れやすいのだろう。ただし、現実は多様である。生徒の主体的な行動を促す教育を行っている高校もたくさんある。大学でも受動的な学生が目立つようになっているが、能動的に動いて人生を切り開くことができる学生もいる。問題は二つの態度を持つ学生の間で格差が広がっていることである。格差といっても倫理的でない格差ではなく、個人の精神的態度がもたらす必然的な格差である。受動的な学生によって大学および社会の負担が大きくなっていることが問題である。こんな格差が生じるのは評価基準が一つだからである。多様な評価基準と、多様な人生の選択を可能にする社会が実現すれば、みんな幸せになれるのではないか。とはいえ、"受動で生きる"という思想が確立していること、様々な生き方の間で尊重があることが前提であるが、それも難しいことである。(2018年7月24日)

BEYOND2030

水文・水資源学会の創立30周年記念シンポジウムがありました。タイトルの2030からすると、SDGsを意識したのかと思いましたが、そうでもないみたい。とはいえ、SDGsを意識した発言はたくさんありました。パネルはどうなるか、ちょっと心配でしたが、若手の考え方も伝わってきて、有益だったと思います。SDGsは世界が切羽詰まって始めた事業であり、Future Earthにも大きなモチベーションを与えているものです。絶対、成果を出さなければならないので、個人的には2030年が楽しみでもあります(それまで生きていられるか)。SDGsの17のゴールは実は入り口であり、すべてがリンクされている。重要なリンクが水であることは論を待たないのですが、さて、何を解くか、若者には問題が見えていないのではないかと感じた。目の前にある問題の解決をステークホルダーと共有することが難しいのかも知れない。連携というのは問題の解決の共有から生まれてくるものである。それが難しくしているのは研究者の評価システムにある。論文、予算至上主義の中で、研究者は論文を書けば自分ではない誰かが成果を社会のために役立ててくれる、と思いこんでいるのではないか。ここを乗り越えることが連携、別の言い方では超学際なのだよ。今は、変革の時。研究者も社会の一員として機能しなければならない。水文・水資源学会も変革の時を迎えている、なんてことを懇親会の冒頭の挨拶で発言してしまったが、さて、責任をとらねば。(2018年7月23日)

二つの世界

初めて成田空港の滑走路側に入った。ひっきりなしに発着する飛行機を近くで見ると、何となくわくわくしてしまう。特別な世界の中にいるような気がする。ところが、全く別の世界がすぐ近くにある。美しい谷津と田園、湧水の里で水を汲む人、濃密な緑の斜面林、庭の広い農家、あちこちに小さな神社とお寺、...この景観はなくなってしまうのだ。台地は削られ、谷は埋められ、新しい滑走路ができ、特別な世界に呑み込まれてしまう。成田空港の機能強化の陰で、失われる暮らし、歴史、自然。受益者と受苦者の乖離がそこにある。解決、諒解の困難な問題であるが、受苦者を知らない受益者にはなりたくないものだ。(2018年7月20日)

防災の考え方の回帰

鬼怒川水害被災者が国に賠償請求するという記事のコピーがMLで流れてきました。被災者の気持ちは察するに余りありますが、自分の安全を他者に依存する段階から我々は脱却しなければならないのではないか。治水の近代化の中で人と川の分断が起こった。災害は人と自然の関係性が弱くなったところで起きる。日本は定常社会に入り、予算で安全・安心が保証される時代ではなくなっています。だから自分たちの地域の安全はまず自分たちで考えなければならない段階に入った。というか、回帰したのではないか。もちろん、行政は災害の補償については十分配慮をするのであるが、その上で人は川とともに暮らすことの意味を考えなければならない。我々は王様に支配される民ではなく、自分で進むべき道を決めることができる近代文明人なのである。災害に備えるということは、今の社会のあり方を組み替えるということでもある。災害に関わる土地条件についてはもう十分すぎるほど、主張されている。より包括的な視点から防災を議論すべき段階に入った。(2018年7月19日)

事業継続計画の先

西日本豪雨で被災した企業の再建は大変なことだと思っていたら、仕組みがありました。BCP(Business Continuity Plan)といって、企業が災害時に損害を最小限にし、復旧、事業の継続、を可能とするため平時から決めておく計画。朝日の記事で見つけたが、「大企業ならばたいてい」との枕詞がついている。しかし、中小企業にこそ必要な計画であるので、検索したら中小企業庁のHPに詳細な説明を見つけた。ただし、BCPの目的は事業の継続であり、被災した従業員の様々な事情に対応できる仕組みになっているかどうかはわからない。それとこれとは別の話、というご意見はもっともであるが、両方を同時に進めることができる寛容な社会創りがその先の課題としてあると思う。(2018年7月17日)

科学マイスターの資格

三連休が終わるが、初日はNPOの方々と谷津で作業。酷暑の中、学生の一人はバテてしまったが、これは楽しい作業でもある。二日目は学術会議の地理教育分科会の会合。平日では欠席が多く、会が成立しないためであるが、これは重要な仕事。三日目は明日提出しなければならない職場の中間評価のヒアリング資料の作成であるが、彼岸の行事の予定が狂ってしまった。これは生産的な仕事だろうか。上位の者が仕事を作り、下位の者がそれを担うが、それで何が生産されるのだろうか。この仕事を生産した方々のための仕事であり、大学の機能を発揮する仕事でないことは確かである。そこで提案であるが、文科省の役人にも学位に代わる資格をつくれないだろうか。学位ではダメなのは、授与大学との結びつきが強くなり、序列化も生じてしまうからである。第三者機関で科学マイスターという資格を付与することはできないだろうか。それは誰でも受けることができるものであり、新しい知識生産のマネジメントを行う文科省の役人の質保証と、文部科学行政を司る誇りの醸成にもつながる。そんなことを妄想しながら書類作成を何とか進めている。(2018年7月16日)

防災、減災へつながる道

西日本豪雨から何を学び、そして実行したらよいのか。長期的には人と自然の分断の修復ということに尽きると思う。ただし、それは日本の社会の組み直しにつながる道でもある。災害が予測されるときに、躊躇なく避難できる社会とはどういうものか。これを考えるには、避難できない事情を考えたらよい。人が自然と分断されていること以外に、貨幣経済、資本主義社会の中で、財産を失うということが、この上なく大きな痛手となってしまったことがあろう。だから、避難指示が出ている最中でも、家の修復を急ぐということが起きる。企業に勤めている人は避難行動が雇用に対するリスクを伴う行為になってしまってはいないか。今の社会システムの中で、命よりも大事なものができてしまったのではないか。この状況から脱却するにはどうすればよいか。幅広い視野、包括的な観点からこの社会の構造を見極め、改善していくことが、結局は防災、減災へつながる道なのだと思う。行き過ぎた貨幣経済、資本主義の是正が長期的な防災、減災への道、そして幸せへ続く道なのではないかな。命より大切なものはないということが、当たり前に共有されている社会。なんてことを、つい主張してしまうのだが、おかしな奴だと思われているだろうか。(2018年7月15日)

災害と目指す社会のあり方

帰宅したらBSフジの西日本豪雨の検証と題する番組をかみさんが見ていた。私も晩酌をしながら見ていたが、これは自民党と土木系のしくんだ番組ではないか、と感じてしまった。地理学分野でも今回の災害の理解は進んでおり、歴史がもたらした人間的側面が大きく作用した災害であったということが明らかになりつつある。土木系とは解は異なるだろう。とはいえ、どちらの主張が正しいか、ということではない。土木系と地理系の目指す社会のあり方が異なっているということである。緊張のシステムと共貧のシステムのどちらに立つかということなのであるが、私は二つのシステムを行き来できる精神的態度を日本人が持つことが大切だと思っている。311以降、主張し続けていることであるが、また強く主張しなければならない場面がやってきた。(2018年7月13日)

世界と日本

今日は大学から出す概算要求の説明に文科省に行った。1時間ほどの説明と対話を行ったが、文科省側は課長補佐と若者3名の対応であった。話の中でどうしても伝わってきてしまうのが、世界の中の日本ではなく、日本の中の文科省という立場である。説明の場で議論をふっかけるのは野暮なので黙っていたが(野暮と感じる精神的態度も問題であるが)、少し寂しい。日本が世界の中で優位性を保っていくにはどうしたらよいのか。官僚だったらここを考えてほしいなぁと思う。私は文科省より、国交省の方がなじみがあるのだが、国交省(の一組織であるが)の方が"日本"という立場で政策を考えているような気がする。私のつきあい範囲がたまたまそうであったのかも知れないが、ひょっとしたら文科省は自らのアイデンティティーに対する迷いがあるのではないか。実用よりも、科学的ということにこだわっていた。それは文科省の"科"の部分に関わることであり、科学と社会の関係に対する迷いがあるように感じた。それは、科学技術主義の限界でもあるのではないか。科学の意味を理解してほしい。今月は、ICSU(International Council of Scientific Unions)とISSC(International Social Science Council)が合併し、ISC(International Science Council)になった記念すべき時である。文科省も科学と社会の関係に関する考察を深めてほしい。(2018年7月13日)

社会は「箱」

これは朝日朝刊「折々のことば」の解説にあったフレーズ。"社会が「箱」である以上は誰もが暮らしやすいものにしなければ"と。社会の中にはたくさんの人、コミュニティー、組織、地域、...がごっちゃに入っていて、関係性を持ちながら総体を作っている。ただし、その総体の範囲は人の意識世界の広さによって様々に意識される。グローバルも同じく「箱」である。だから、"誰もが暮らしやすいものにしなければと"思うわけである。箱全体を見なければならない。人の意識世界を広げなければならない。 (2018年7月12日)

自分の幸福と自分たちの幸福

朝日夕刊「思考のプリズム」(國分巧一郎)より。私たちはいま、自分たちの幸福に対する関心を持てなくなっているのではなかろうか、と。いや、「自分さえよければよい」と思っているのではないか、という反論もあるが、それこそ現代における幸福への無関心を如実に示す証拠であるという。幸福には未来への見通しや理想が欠かせない。だから、「自分さえ」というのは「自分だけは災難を避けたい」という焦りの表現にすぎない。自分の幸福への関心は、"自分たち"の幸福への関心と切り離せない。だから、自分の幸福に関心がないということは、自分たちのそれについても関心がないということ。最近の学生の中にこういった考え方を持つ者が現れてきたなと常々感じている。協働の場においても、与えられることは躊躇なく受け入れるが、何も返ってこない、責任を果たすことがない。"自分たち"の幸せが共有できない。これはこの種の若者の焦りなのだろうか。それは若者が信じる価値を持てずにいることに由来しているという国分さんの考えに賛同する。だが、若者に自身の価値観を醸成してもらうにはどうしたらよいのだろうか。被災の場に連れて行っても、環境や地域をよくしようという協働の場に連れて行っても、それを共有できないという状況を前にして、教員としてどうすればよいのか。それとも、若者の心の中には確実に描写されており、いつか顕れてくるのだろうか。教員はただひたすら価値に対する考え方を主張していればよいのかなぁ。(2018年7月11日)

科学者と現場の分断

西日本の災害はまだ進行中であるが、被災地の衛星画像を職場のホームページに掲載しようという話が出てきた。私は災害の後になって、見えました、という画像を公開して、何か貢献した気になっていることほど格好悪いことはないと思っている。特に今回の災害は、人間側の要因が大きかったことが徐々に明らかになってきており、より精度の高いモニタリングと予測を行えば、防災、減災につながるという考え方の限界がはっきり顕れた事例であると考えている。リモートセンシングを災害の緊急時に役に立たせるためには、現場との連携システムを構築しなければならないが、これはデスクトップサイエンティストにとっては非常に困難な仕事であろう。しかし、画像さえ出せば、自分ではない誰かが、災害の現場で役に立ててくれる、という考え方は修正が迫られているのである。それが、Future EarthのTransdisciplinarityなのだと思う。見えた、ではなく、画像に価値を与える努力をして、それを継承、発信していくのが研究者の仕事である。(2018年7月11日)

理系と文系の溝

朝日朝刊「折々のことば」(鷲田清一)から。これもメモしておきたい。

アジアの多様性を識別するためには周縁からの視点とともに、地表に顔をすりつけるようにして見とおす眼差しも必要です(山室信一)

もちろん、アジアだけでなく世界は多様だ。地域ごとの個性と、外の世界との関係性が、多様な問題を生み出す。これを理解するためには、「地表に顔をすりつけるような眼差しが」必要なのである。それがこの法曹思想家の言う「共感力」を生み出し、問題の理解と解決の糸口になるのである。一方、周縁にいる科学者が地域と接触せず、その結果、上から目線で普遍的だとする解決方法を提案しても、それは真の問題解決とはほど遠いことも多いのだろう。これが理系と文系の間の溝を深くする一因でもある。(2018年7月11日)

早すぎる検証

菅官房長官は、「気象庁が大雨特別警報を適切に発表したかや、同警報を踏まえて自治体が住民に迅速に避難を呼び掛けたかを検証する考えを示した」という(JIJI.COMより)。"72時間の壁"も乗り越えていない段階で、これは早すぎやしないか。日本人の最近の精神的態度からすると、防災業務が割の合わない仕事になってしまう可能性も懸念される。まずは、担当部局や住民は一丸となって進行中の災害に対応してほしい。検証が重要なのは当然であるが、防災、減災は地域の課題であり、住民にとっても行政に丸投げする仕事ではない。自分に関わることは自分で考える習慣を取り戻さないと、日本はますます暮らしにくい社会になってしまうと思うよ。人はスーパーマンではないのだから。誰が幸せになる検証か、ということを考えよう。(2018年7月9日)

世界を組み直すという視点

Wedge誌7月号に再エネに関する記事がある。「再エネ導入に伴う"弊害"を直視せよ」という常葉大学の山本氏の論考では、最終的には「持続可能な発展のために原子力が必要」という結論に達している。確かに再エネには問題もある。しかし、原子力を評価するためには現状を理解した上で、包括的な視点から論じる必要がある。まず経済的合理性であるが、安全対策に要する追加投資、資材の高騰などが考慮されていない。電気の使い方の変化に関する検討もない。発送電分離、電気の地産地消、直流電源の活用、等々。山本氏の主張は現状の繁栄を維持することのみが前提となっているように見える。何より、経済以外の、倫理的側面、文明論的側面に対する視点が欠けている。そもそも"持続的発展"とは"都市的世界"の繁栄という意味に読みとれる。エネルギーに関する議論は、この世界のあり方の組み直し、という視点が必要だと思う。SDGsが出てきた背景には、世界の切羽詰まった状況があるのではないか。2030年に変化の兆しが見えていなければ、世界は暗黒面に取り込まれてしまう。再び、戦いが必要になるだろう。(2018年7月8日)

試せ、自分の物差しで

太田光はおもしろいやつだなと常々思っているが、朝日の「仕事力」のコーナーでおもろい発言を見つけたので、メモしておきます。爆笑問題が若手の頃、ネタを審査しながらダメだしするプロデューサー、ディレクターがいたが、その通りにやってウケたことはなかったという。そのネタをわかっているのは自分たちであり、お笑いの舞台の経験がない人間がネタにアドバイスするなんて、どう考えても違うという。なんでこのことが気になったかというと、職場で提案している概算要求事項に対してご意見してくれる事務方がいる。彼は文科省から異動してきた方で、文科省の意向に添うためにはこうしたらよいというアドバイスをくれるわけです。そのこと自体はありがたいことなのですが、概算要求事項の"こころ"からは相当離れているのではないかと思うわけです。研究、開発の現場にいない方から頂くアドバイスは文科省−大学関係の中での処世術であり、研究者としての"物差し"とはちと違うのではないか。私は副センター長なので、近日中に文科省に説明にいかなければならないのですが、申請当事者が研究者としての矜持を主張することができるかどうか。私は黙っていようと思うのですが、思わずよけいなことを言ってしまわないか心配です。(2018年7月8日)

災害とふるさと

西日本の大雨の被害が拡大を続けている。大変な事態になっているが、失わなくても良かった命、守ることができた財産はあったのではないか。災害時にはいつも思うことである。人と自然の分断と、コミュニティーの崩壊が奪った命、財産はなかったといえるだろうか。もしあったとしたら背景には都市的世界の精神的習慣、資本主義の思想があるのではないだろうか。じゃあ、どうすればいいのか。適切な土地利用計画なんてことを口に出すことはできるが、人の暮らす土地は様々、不平等が存在する。不平等を諒解して可能な限り安全に、また安心して暮らしていくためには、その土地がふるさとでなければならないと思う。多くの人々のふるさとであれば、土地のことを良く知ってハザードに対処し、ふるさとを共有する人々で被害を最小限にとどめる協働ができるのではないか。(2018年7月7日)

人は人を殺してはいけない

原則はこれ。だから私は死刑制度には反対だ。オーム真理教の7人の刑が執行された。それで問題は解決されたのか。諒解が得られたのか。そんなことはない。背後にある事情を知り、よりよい社会づくりに反映させなければ、犠牲者も納得できないのではないか。人が人を殺すことを容認する社会では、安心は得られない。(2018年7月7日)

日本社会の行く末

日本はいったいどうなってしまったのだろう。文科省の役人が汚職事件とは。とはいえ、これは文科省だけの話ではない。昨今頻発する様々な事件を見ていると、日本人の心の中には闇が広がりつつあるようだ。問題を矮小化せず、共通の背景をしっかり理解し、社会の変革に繋げなければならない。問題の一つは、権力のあり方。どうも現行のシステムでは偉い人が権力を持つわけではなく、予算に対する権限が権力を作り出してしまうようだ。もう一つは金と名誉が、競争社会の中で安心を担保する手段になっていること。それは資本主義の特性でもあり、都市的社会の中に閉じこもっていることが症状を悪化させている。人はもっとその意識世界を広げ、様々な多様な世界に触れる必要がある。その過程で葛藤が生まれるかもしれない。しかし、それを乗り越えた先に新しい社会があるのではないかな。(2018年7月4日)

目標の階層性

スーパー・プロフェッショナル・ハイスクール(SPH)制度で関わらせていただいている愛知県立三谷水産高校を訪問した。今年は3年目であるが、私の担当するドローンによる沿岸水域モニタリングでは、高校生が自分たちでドローンを制作し、撮影した画像を解析することができるようになった。もちろん、私は偉そうに勝手なご意見を宣うだけで、何もやってはいないのであるが、高校生は着実に進歩している。三谷水産高校のSPHでは6つの課題に対して各グループがそれぞれ取り組み、高校生とは思えない素晴らし成果をあげているのであるが、文科省からは課題が多すぎるとの意見がついているという。目標が多すぎる、絞れというのはヒエラルキーの上位にいるものが、何か言わなければならない時に、自分の立場を取り繕うための常套句である。複数の小目標に取り組み、その中から関係性を見いだし、大目標を見いだしていくやり方が、新しいものを生み出す。成果が予想される一つの目標を立てて、組織的に取り組むというやり方にとらわれているところに日本の問題があるのではないか。そういうやり方がうまくいったのは自動車、飛行機、コンピューターの開発といった20世紀型の技術であり、その考え方はヨーロッパ思想といってもよく、20世紀まで機能した考え方である。日本の官僚は明治の思想から抜け出せていないのではないか。ここに日本の停滞の要因があるように思う。目標の階層性を意識して、小目標を関係性でつなぐというやり方を浸透させたいものだ。これこそ、Future EarthやSDGs達成の要だと思う。(2018年7月3日)

Future Earth実行の避けられない課題

今日の概算要求に関する会議でFuture Earth(FE)の話題が出たが、千葉大学の事務方のFEに対する評価は極めて低いということがわかった。それは、文科省の大型研究ロードマップに載らなかった、そもそも学術会議から出ていかなかったという点に尽きる。そのことによって、FEはお財布にならないな、という認識が事務方に広まってしまったということなのだろうが、ここに深刻な憂うべき科学と社会の関係に関する問題がある。FEが出てきた背景には、地球環境問題をもう解決できるでしょ、どうにかしようや、という国際社会の切実な思いがある。従来型の論文志向、予算志向の研究では問題は解決できないということが明らかとなり、新しい枠組みが提唱されているのである。それがTransdisciplinarity(超学際、TD)であるのだが、その実現には研究者の在り方自体を変革しなければならない。FE研究計画が学術会議から出なかったのは、物理帝国主義の亡霊がまだ残っているからではないだろうか。これこそ研究と社会の関係を修復するための乗り越えなければならない壁であるのだが。FEには@国際研究プログラムとしてのFEと、ATDの理念に駆動される問題解決を目指す実践を主体とするFE研究の二つがある。@とAのFEが同床異夢にあるのが現在。@を志向する研究者はFEを"お財布"ととらえるが、Aを志向する研究者にとっては問題の解決こそが成果である。双方がなかなか交わらない。この分断を修復することがFE実現の最初の課題である。それが難しいのは根本に研究者の評価の在り方に対する問題がある。どんなに予算をとって外形を飾ったとしても、社会のため、人の幸せのため、ここをとらなければ大学は社会からそっぽを向かれることになるよ。(2018年7月2日)

ストレスの対処法

出勤してメールを確認すると、健診の結果が届いている。確認すると、まあ悪くはないのだが、いくつか要注意項目がある。用語がよくわからないのでWEBで調べると、すべてストレスが関わっている。自分は人一倍ストレスに弱い人間だとの認識はあるので、さもありなんとは思うが、このストレスはいつまで続くのだろう。今日は二つの会議がある。最初は大学の概算要求に関わる会議だが、縦のヒエラルキーの上位を忖度しながら、ああすべ、こうすべ、と議論。研究者だったら信念を貫けばよいのに、と思うが、背後にある人の意識世界の狭さが私には見える。次の会議は我々が評価を受ける会議、というよりはご意見を伺うための委員を我々が決め、委員の先生方に説明して了解を頂くための会議。委員の先生方には本当に感謝です。しかし、実質的な議論ができただろうか、委員の先生方は納得して帰られただろうか。彼らの時間を奪っただけではないのか。いろいろ言いたいことはあったのだが、私も残された時間は長くない。あまり主張はしたくない。もっと主張を強くしてやって来ればよかったのかもしれないが、研究者の精神世界の中では対立を深めるだけかもしれない。まあ、こんな人生でよかったのかも知れないな、と思いながら一杯やっている。ここは豊橋に向かう新幹線の車中。駅弁を食べながら一杯やる、この時間が好き。ストレスから解放されるひと時だ。今日の駅弁は東京駅、利休の牛たん弁当。東京駅の牛たんはもう一軒あるが、どちらもおいしい。明日はまた豊橋から新幹線に乗る予定であるが、地方で駅弁が減少しているのがさみしい。(2018年7月2日)

身の丈にあったインフラ

簡易水道の維持が困難になっているという朝日朝刊の記事。インフラストラクチャーというのは作ったら維持、更新しなければならないが、当然予算がかかる。自治体の資金力が落ちており、これからいろいろなインフラの更新が困難になってくるだろう。学術会議では「グリーンインフラ」について議論する分科会に参加しており、メンバーで勉強会をやった後、提言の執筆に入る予定。私はグリーンインフラは成熟社会に入った日本をどのような社会にするか、という国土形成の考え方の中に位置づけて考えなければならないと考えている。日本の限界はよい社会になりすぎたところにある。日本人は安全、安心に関わることをほとんど外部委託している。警察、消防、自衛隊、教育、医療、福祉、...。そのため日本人はクレームをいうことしかできなくなっているという(アイデアは鷲田清一著「しんがりの思想」より)。自分や自分たちのことは自ら行う、自助・共助をうまく機能させ、その中で、自然の機能、生態系サービスを活かす仕組みを取り入れることができる社会、百姓(百の技能を持つ人)の社会もあり得るのではないだろうか。その社会では「身の丈にあったインフラ」を活用しており、暮らしはつつましくなるのかもしれない。そんな考え方に抵抗するのが資本主義、すなわち、果てなき拡大、成長を前提とする市場主義の一形態、なのではないだろうか。資本主義に変わる新しい社会を創るためには、哲学が必要になる。その哲学が確立すれば科学技術と社会の関係も変わってくるはずだ。(2018年7月1日)


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