口は禍の門

新型コロナウィルスが猛威を振るうなか、あっという間に一年の折り返し点を迎えてしまった。大学の学務もこの異常な事態がしばらくは続きそうです。世の中、苦しいことも多いと思うが、この災禍を変革のきっかけにしなければならないと思うこの頃です。大学人としては講義のあり方が気になります。日本では学問の体系は自分で学ぶ材料は十分あります。だから、大学では教員と学生の相互作用により、視野の拡張、新しい観点、考える力、こういったものを伝えたいと思うのだよ。課題が多すぎるという意見をあるが、返ってきたものを読むと、真面目に社会のこと、未来のことを考えている学生も多い。科学と社会の関係性について、いい相互作用を起こしたいものだ。(2020年7月1日)

2020年6月までの書き込み


梅雨明け

今日は梅雨明け。空の色が違う。これは夏の色だなと思う。暑いのは好きではないのだが、夏も良いものだと思う。それにしても8月までひっぱるとは、今年の梅雨前線はがんばった。人間社会に多大な影響を与えたが、我々は自然とのつきあいかたを再考しなければならない。今日は、取り壊した家の床下から出てきた井戸の検査。井戸は廃止も再生も金がかかる。ならば再生させてうまくつきあう術を見いだそうと思う。50年ぶりに出てきた水は冷たく、澄んでおり、子どものころに手押しポンプで汲み上げた地下水そのものだった。この井戸は関東ローム層を抜いており、成田層上部のいわゆる本水といってよいと思う。数100m先には土壌汚染の現場もあるのだが、地形から考えると、おそらく流線は交わらないだろう。水道システムはいつまで維持可能かわからない。地震もくるだろう。資源は複数のソースを持つことが安心につながる。この水が役に立つ日がいつか来るに違いないと思う。(2020年8月1日)

ポストコロナ社会中間まとめ

7月も終わりになり、いろいろな制限が解除されるかと思ったら、まだまだ苦しい状況は続きそうです。ポストコロナ社会について考え続けていますが、現時点での結論は、世界はローカルに回帰するだろうということ。ただし、ローカルに閉じこもるのではなく、持続可能なたくさんのローカルが結びついてグローバルを構成する、そんな世界です。ローカルな世界は地場の資源を循環させることによって、必要をまかなうことができる世界になります。必要を越える分はたくさんのローカルの間でシェアすればよい。ローカルといってもルーラルだけではなく、アーバンも含まれる。アーバンは最先端の科学技術に駆動される世界を目指しても良い。それでも人はルーラルとアーバンを行き来することができる精神的習慣を持つことができれば良いと思う。そして様々な関係性(あるいはリンク)を認識できる力を持つ。それは"尊重"を基盤に置く社会であり、それが誰一人取り残さない世界を導くのではないか。ただし、世界が良い方向に進まない可能性もある。それを修正する機会を科学者でもある大学人は持てる。ありがたいことだと思う。(2020年7月31日)

科学者の矜持

評価の仕事はいやなもんだ。限られた情報に基づき、限られた時間で、指示通りにやれと言われても、本当に学術の価値を評価できているのか。そんなことわからん、といっても結果は人様に大きな影響を与える。学術の評価は、哲学(基本的な考え方)を表明して頂いた上で、それを時代の中に位置づけ、成果は多様な観点から眺め、なにより時間をかけて行わなければならない。このような評価が行われないから日本の学術の劣化は必然である。もちろん、頑張っている科学者もいる。資料を読んでいると、そんな科学者の矜持が感じられることがある。声なき声を少しでも汲むことが、"社会の変革"に繋がっていくのではないか。組織の論理を変えるには、個人の信念が必要なのだと思う。強い個人にならなきゃあかんと思うが、最近の自分は...。(2020年7月30日)

文部科学行政の行く末

今日はある会議があったのですが、最後にフリーディスカッションということになったらいつの間にか文部科学行政批判になってしまいました。私も調子に乗って一席ぶってしまったのですが、皆さん溜めていらっしゃる。我慢するというのは日本人の特質でもありますが、マグマの圧力は高まっているのではないだろうか。私が話したことは、日本の科学技術のあり方は転換期なのではないかということ。科学技術(両者は一体不可分なのでこの言葉を使います)は国の経済力と比例している(これは科学技術の発展にはパトロンが必要ということで別に論じています)。今、日本は縮退社会に入った(特にポストコロナの財政再建で日本は苦しい時代に入る)。縮退社会では格差や不公平が広がる。負担を如何に分担するかということが大きな課題になる。科学技術も成長下におけるあり方とは異なってくる。論文を書けば自分ではない誰かが社会の役に立たせるわけではない。社会との関わりは科学者自身が考え、ステークホルダーに納得してもらわなければならない。今後の科学は外形的な成果基準だけではなく、本質的な評価ができなければならず、さらに貢献基準、未来基準が必要になるだろう。今、世界はボトムアップで駆動される時代にはいった(反する流れもあるが)。文部科学行政も大学が主導でボトムアップの改革があっても良いのではないか。現在の文部科学行政には哲学が見えない、なんてことを言ってしまいました。事務方には文科省から来ている方も多いので、現状を理解して頂ければと思います。この会議の本題は科研費を如何に獲得するか、ということだったのですが科研費もいろいろ問題を抱えていると思います。トップダウンの指示に如何に従うか、ではなく本質的な議論をボトムから上げていく必要があると思います。(2020年7月28日)

上下流問題の先にあるもの

今朝のNHKニュースで流域治水をとりあげていた。先日、滋賀県の例を取り上げたが、地域ごとに取り組みはある。少しずつ、進んでいくと思われるが、今後大きな問題となるのが上下流問題だろう。昨年の台風19号でもその兆候があった。下流のために何で上流が苦しまなにゃあかんのや。もっともである。治水の下流優先原則は、高度経済成長と、下流に大都市があるという日本の特徴を背景として諒解されてきた。しかし、時代は変わった。下流も上流も守られなければならない。それは長い道であるが、土地利用のあり方、そして社会のあり方を変えて行かなければならない。今年も水害が頻発した。秋にも起きるかも知れない。来年も、その先も。直近の問題に対応するだけではなく、長期的な課題を同時に視野に入れて、時には苦しみを受け入れながらも、社会の変革に向けて進まなければならないのだろう。その時、公平な負担をどのように実現するのか。上下流問題の先には未来を創るための大きな課題がある。(2020年7月17日)

現在を語る覚悟

未来を語ることは容易い。しかし、現在を語るには覚悟が必要だ。苦しんでいる人がいるから。進行中の災害に関連して未来を語るには、思想、哲学と提案、そして実践がなければならない。そんなことを言ったら何もできなくなってしまうではないか、という意見もあるだろうが、研究者であれば経験と専門性に基づいた提案をし続けることが大切だ。水害に対しては、人が低地に集住しなければならない社会のあり方の修正がある。これについては多くの提案がすでにあるので、理念の段階から実践の段階に移す努力を為さねばならない。現場をどうするか。滋賀県のように家屋の移転や改修を促す仕組みが必要である。河道近傍は堤防の強化だけではなく、水防林の設置はできないだろうか。流水の濁りが緩和されるだけでも被害は小さくなる。ダムは下流に守るべき命と資産があれば計画しても良いと思うが、所詮寿命は50年である。いずれにせよ、土地利用の誘導は世代単位の時間がかかる。理念を明確にしなければならないが、そのためにも自然と人の分断を修復する必要がある。遠回りかも知れないが高校における「地理総合」の必履修化は長期的な視点における実践の一つである。様々な努力を見える化していくことも人の考え方を変える契機になる。(2020年7月16日)

災害の外側にいる人に必要なものー現場に心を置いたエンパシー

またあの時の感覚がよみがえる。 「福島にはもう住んじゃいけないのだよ、住めないのだよ」。何度聞いたことか。安全な場所に身を置いて、科学的合理性だけに基づき、問題の当事者の思いをわがこと化できずに、そのことに気が付きもせず、よかれと思って発する助言。今日は学術会議の防災学術連携体による緊急集会「九州等の豪雨について」が開催されたので聴講した。そこで出てきた言葉。「危険性の高い土地には居住しない」。もっともだ。でも、居住者にとってはそこがふるさとであり、様々な事情があってそこで暮らしているのだ。住むなといわれてもすぐには対応できない。安全な場所に身を置いた“いい人”の発言である。土地利用の誘導には世代以上の時間がかかる。だから理念を明確にして着実に進まなければならない。熊本県の蒲島知事は理念は明確であったが、水害が来るのが早すぎた。滋賀県では県独自のハザードマップ「地先の安全度マップ」を作成している(国の基準の先を行っているため、補助金が出ず、県予算で対応したとのこと)。県の職員はそれを持って地道に地域を巡って説明し、県は移転や改築に補助金を出している。こういう努力を払って初めて信頼が生まれ、人と自然の関係性が回復する。現場に心を置いて、エンパシーを発揮することが、災害の現場の外側にいる我々が心しなければならないことである。滋賀方式を広めねば。(2020年7月15日)

科学と社会の関係に関する誤解

JpGUのネット開催もトラブルは多いが全体としてはうまくいっているような気はします。開催自体がシステムの改良に大きく貢献するのではないか。今日は「『知の創造』の価値とは何か:研究評価の理想と現実・説明責任」という魅力的なタイトルのセッションがあったので聴講しました。そのスコープの一部を引用しておきます。

近年日本では、科学と研究者の理想がないままに、被引用数やインパクトファクターを安易に評価指標として用いてきた。その歪みとして、組織や研究者の業績評価における論文崇拝主義や、科学技術のように直接的な課題解決を得意とする学問分野への偏重を招いている。

ここ10年ほどはドメスティック人間になって英語はダメダメになってしまったので内容はよくわからなかったのですが、チャットにひとつだけあったコメントが気になりました。大意は次のようなものだったと思います(誤訳があったらご容赦ください)。これは上記のスコープの後半とも関連します。

特定の社会的な問題に予算を投入しても、科学的な発見に繋がるとは限らず、そんな要求に流されると科学がゆがむぞ。社会にとって有益な成果は、時間はかかるが科学者の好奇心に駆動される科学から生まれるのだ。  

こういう趣旨だったとすると科学と社会の関係に対する大きな誤解があると思う。好奇心に駆動される科学、基礎科学はどんどん推進すれば良い。我々が気付かなければならないのは科学はパトロンによって成り立っているということ。19世紀までの科学のパトロンは貴族だった。科学者(当時は哲学者だったかも知れない)は、貴族にその課題の重要性を説き、貴族が納得すれば資金を得て、好奇心を満たすことができた。産業革命後、科学は技術と一体化され、科学技術は儲かることが明らかとなり、第二次世界大戦を経て、科学は戦争にも役立つことが認識された(ブッシュ主義)。その後、科学は経済的覇権をとることに役立ち、国民国家の発展に寄与できることから国が科学の主なパトロンとなった。日本では経済成長時は科学の成果は国家の威信として外交にも活用できた。しかし、低成長から定常社会、縮退社会に入った現在、パトロンのための科学も重要になってきた。そのパトロンとは、税金を負担する国民である。新型コロナ禍は国家財政を弱体化し、これからしばらくは財政再建が国家の重要な課題になるだろう。その前に苦しむ国民を救わなければならない。社会のための科学がますます重要になってきた。もちろん、好奇心に駆動される科学は大切だ。しかし、重要だから重要であるという論理は成り立たない。なぜ重要かという強固な論理を(理系の)科学者は持たなければならないのだ。(2020年7月14日)

諒解して暮らす

九州で水害が発生し、人の平穏な暮らしが奪われつつある。人吉盆地から流出する球磨川は典型的な狭窄部を形成し、過去の水害を想起させるが、報道でも昔から水害常襲地帯であったと伝えられている。国土地理院がさっそく球磨川流域の浸水推定図を公表したが、凡例によると浸水深は10m近い。国交省の重ねるハザードマップでみても概ね浸水域は想定された範囲に入っているようだ。今回の水害も起こりえる場所で起きたといえる。現在、緊急時の対応は進んでいるが、今後の復興期、平穏期に向けて何をやっておけば良いのか。危険な場所に住むなとはいえない。なぜならば、そこは“ひと”の“ふるさと”だから。土地の脆弱性を理解し、備えつつ、諒解して暮らすという習慣が必要なのではないか。そのためには、地域で話し合って事前復興といった対策を進めるのも良い。そうすれば被災も運命として諒解できるだろうか。そのためには平穏時に、楽しく、少し豊かに、誇りを持って暮らす、ということができなければならない。災害を始め、あらゆることが社会の変革に向かっているのではないか。(2020年7月5日)

さくらんぼの実る頃

未来はわからない。新型コロナ禍が進行する中、7月を迎えるとは半年前には思っていなかった。この数ヶ月ですっかり心身が鈍ってしまった。本は結構読んでいるのですが、今日は趣向を変えて鞄の中に「時には昔の話を」(宮崎駿・加藤登紀子、徳間書店)を放り込んで出勤。パラパラとめくっていてああそうか、と気が付く。今がさくらんぼの実る頃だ。でも、さくらんぼの実る頃は本当に短い。紅の豚は私の一番好きな宮崎作品であり、ポルコ・ロッソが私にとってかっこいい男のひとりである。もちろん、ジーナがかっこいい女の代表。ポルコの「ひとり」の生き方に共感するところがある。でも、徹底していないところもいい。エンディングでフィオがピッコロ社のジェット機でホテル・アドリアーノの上空を飛ぶが、ちゃんとポルコのサヴォイアが係留されているのが見える。「時には昔の話を」の歌詞では、「どこにいるのか今ではわからない」なのですが。過ぎ去った昔を振り返るのも悪くはないものだ。(2020年7月1日)


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