日本地理学会シンポジウム 2021年9月19日
原子力災害被災地,これまでの10年とこれからの10年
―被災地復興とアーカイブズから地理学の果たす役割を考える―

 原子力災害から考える問題解決型科学のあり方

自分がなぜ福島に向かったか。それは、科学の成果、というとおこがましいが、自分がやってきた研究の成果が役に立つと感じたからであろう。阿武隈山地という場所、山村という場所が好きだったということもある。しかし、現場で“ひと”と接し、リアリティーを体験することにより、科学だけではだめなことはすぐわかった。現場はトランス・サイエンスの領域にあり、“ひと”、すなわち名前があり、顔が見え、暮らしがあり、喜怒哀楽がある存在と協働するためには、共感、理念が必要であり、その上で科学の成果を活用しなければいけないと考えるようになった。それは、Alternative Scienceへの道だったのではないか。
原子力災害における解決とは、諒解に過ぎない。ひとが諒解するためには、共感(エンパシー:他者の立場で考える能力)、理念(地域や社会のあり方に関する考え方)を共有し、科学的合理性がそれを裏付けなければならない。これは合意形成論における共感基準、原則基準、有用基準と同じであると考えられる。問題解決型科学の担い手は合理性と共感・理念の間にある境界を越えなければならないのだ。
しかし、共感・理念・合理性を共有するステークホルダーのフレームは複数ある。放射性物質の放出、沈着、移行を探求する科学者のステークホルダーは国や世界であり、その視野にはグローバルがある。一方、問題の解決を志向して現場に入った科学者のステークホルダーは市民(ひと)でり、その眼はローカルを見つめる。ステークホルダーには階層性がある。この階層性を俯瞰する視点、視野が問題解決を志向する研究者には必要なのだ。時には、科学者というよりもステークホルダーのひとりとして取り込まれる。
阿武隈の山村において原子力災害で失われたものは何か。それは自立である。山村は自立できた社会であった。自給経済、交換経済を数値化して家計を再計算すると、現金所得だけでは見えない山村の暮らしが見えてくるはずである(開発経済学の帰属計算に相当)。さらに、ひとと自然の良好な関係があり、それは様々な自然の恵みをもたらした。マイナーサブシステンス(遊び仕事:キノコ採りや山菜採り)は生きがいをもたらした。ふるさとの価値は計り知れない。しかし、日本における損害賠償はモノに対する減価償却主義で行われる。日本人はそれが当たり前だと思っているかもしれないが、それは単なる習慣に過ぎず、変えることが可能なのではないか。
地理学は系統地理学として自然地理、人文地理をその体系の中に含む。その思考には空間軸の観点、すなわち主題図の縮尺による解釈の違いを見る観点があり、時間軸で事象を観察する。地理学はもともと問題解決型科学としての構造を持っている。もっと政策と関わってもよい、いや、関わらないといけないのではないか。社会の底流として、サイレントマジョリティーがめざす社会のあり方はすでに政策の中にあるように見える。国土形成計画、環境基本計画(地域循環共生圏)、地方創生に関わる政策、などなど。それらの政策にアカデミアも関わっているのである。
科学(学術)と政策の関係はPielke(2007)の科学者と政策との関係の類型化が参考になる。四つの類型のうち、ステークホルダーと協働するタイプが論点主義者(Issue Advocate)と複数の政策の誠実な仲介者(Honest Broker of Policy Alternative)である。論点主義者は特定の政策を提言、発信する。自分は帰還を望むステークホルダーと協働したので福島では論点主義者として活動した。しかし、戻れない人、戻りたくない人、いつかは戻りたい人、様々な立場がある。誠実な仲介者はすべての立場に対する政策提言を行う科学者である。それは個人である場合もあるし、学会や学術会議のような組織である場合もあるだろう。地理学徒としては論点主義者と誠実な仲介者を行き来できる力を持ちたいと思う。
コロナ禍では専門家としての科学者が誠実な仲介者になれない場面に遭遇した。専門家が論点主義者としてふるまっているように見える。それは科学、政治、行政、市民が分断されてしまったからである。科学者(専門家)は複数の提案をし、政治が決断して責任をとり、行政がそれを実行し、市民がそれをサポートするという体制をとることができなかったためである。これが日本が抱える重要な課題なのだと思う。
旧避難区域にも人は戻ってきている。“ひと”を真ん中に据えた学術を推進したい。それはヨーロッパの人間中心主義ではない。大和言葉としての“ひと”を中心とする学術が、20世紀を通じて議論されてきたAlternative Scienceのあり方ではないだろうか。