隠者初年度の大晦日を迎えた。ふりかえると退職後の8ヶ月は結構忙しく過ごすことができた。定年後の計画もすでに道筋はついてしまった。印旛沼流域の地域創り、木こり活動、市民科学、などなど。同じ思いを共有する仲間ががんばってくれる。あとは継続あるのみだが、飽きっぽい性格なので、そこが課題だ。一方で、世の中は大きく変わりつつある。良い方向に変わるように微力を尽くさねばならん。微力の集合が大きな力を生み出すはずだ。とはいえ、犠牲がたくさん生じている。宮沢賢治が終生悩み続けた平和のための犠牲。犠牲がなければ世の中は変わらないのか。そこを乗り越えることが知恵があるはずの人間の課題だ。(2023年12月31日)
2023年3月末の定年から早4ヶ月が過ぎた。この間、非常勤やら委員会やらで結構忙しく過ごすことができたが、こころの状態はあいかわらず不安定だ。夏休みに入り、落ち着きを取り戻すとともに、以前の「口は災いの門」のようなつぶやきを書きたくなった。そこで、「隠者のつぶやき」として復活させることにした。近藤のガス抜きの場、弱音を吐く場、学びの備忘録、考え方の発信の場として活用していく予定だ。(2023年8月吉日)
こころ
はやいもんじゃ。もう大晦日。思い起こせばこの数年は"こころ"について考え続けた。まずは読書ということで、今も唯識の勉強をしているところだ。いろいろ本を読んだ結果、自分のこころの状態は頭では理解することができたと思う。では、こころが変わったかというと、なかなか変わらん。末那識、阿頼耶識の領域に大きな問題があるようだ。とはいえ、深層の意識は変えられない。ひととはそういうもの。行によって第六意識を変えなければあかん。空ということの本質を自分が諒解できたときに、こころは安寧を得るのかもしれない。では、みなさん良いお年をお迎えください。(2023年12月31日)
アカデミアと現場の分断
水文・水資源学会誌の早期公開の論説・評論「気候変動の予測研究と適応の意志決定をつなぐ」を読んだ。定年後は環境に関わる地域活動に軸足を移動したので、アカデミアの考え方も勉強しておこうと思って印刷しておいた記事。ふむふむ。書いてあることは立派なのだが、ちょっと違和感がある。現場のことが書かれていないのだ。気候変動や地球温暖化、カーボン・ニュートラルといった課題に対応するすでにある政策がどのように形成され、地域ではどのように実装しようとしているのか。そのレビューから入った方がいいんじゃない、と思うのだ。千葉県の環境行政に長らく関わった経験から、これらの課題に対する産官学民の草の根の営みをたくさん知っている。様々な立場の人々が現場で実践している。アカデミアの中にとどまっているだけでは、顕在化した問題には対応できないのではないか。対話と言うが、アカデミアから現場に働きかけをしているか。まだまだアカデミアと現場の間に分断があることを強く感じさせる。"人"ではなく、"ひと"と対峙すること。ここから始めなきゃ。(2023年12月28日)
そうは言っても
時々朝日に載る千葉大の神里さんの記事(月刊安心新聞+)はいつも楽しみにしているのだが、今日は「師走の紙面も、驚くべきニュースであふれている」から文章が始まる。そのとおりやな。自民党のスキャンダル、ダイハツの認証試験不正、などなど、日本はどうなるんや。組織の風通しの悪さ、強すぎる上意下達などに根っこがあるのは下々だったらわかっている。そんなとき、神里さんは「そうは言っても」に気をつけろと言う。その通りなのだが、下々には暮らしがある。守らなければならないものを持っているのだ。だから「そうは言っても」はしょうがない。そんなこと言ったらなにも変わらんやんか、と言われそうだが、ヒーローに期待してはあかん。きちんと声を組織に届けるためには覚悟が必要だが、様々な人生を知り、生き様の選択肢を複数持っていれば声を上げることができるのではないか。ひとつに頼りすぎないことがまっとうな社会を創り出すのだ。(2023年12月27日)
唯識と意識世界
多川俊映「唯識ー心の深層をさぐる」(NHK宗教の時間)を読んでいるが、次の文章を発見。「私たちは、わが心のはたらきによって知られたかぎりの世界を相手にしている」。自分は意識世界という言葉を考えたが、人が関係性を構築し、基本的な考え方を形成する範囲という意味で使っている。この関係性についてはあまり深く考えておらず、唯識における前五識に基づき第六意識が認識する世界といった意味で使っていたが、改めて考えると意識世界は心のあり方によって変わるだろう。第七末那識、そして第八阿頼耶識が人の意識世界を異なったものにする。だから、同様な関係性からも異なる意識世界が創り出される。人に対する洞察を深めないと、その人の意識世界は見えてこない。(2023年12月24日)
都会のメジロ
黒柴娘の紬さんがなかなかウンコをしないので、マラソン道路をずんずん行くとヒマラヤザクラの花でお食事中のメジロの群を発見。うぐいす色の躰に、目のまわりには白の縁どり。カワイイもんや。人間と一緒の空間を共有しているんやな。ちょうどアマゾンのアルゴリズムDMにひっかかり、唯識に関する新しい本が届いたところ。唯識では自然と人間を分別せず、自然の中の人間がどうあるべきかを考える。自然(じねん)というわけであるが、ここは都会の周辺部。メジロにとっては居心地わるかろう。紬さんは人間と共存、メジロは自立して同じ空間を共有。同じいのちを慈しむのが仏教。世界では今この瞬間にも奪われるいのちがあるのだろう。いのちを尊重できれば争いなど起きないだろうに。メジロはありのままの世界を受け入れて生きている。メジロ先生の生き様を倣いたいもんや。紬さんもウンコをすませたので、帰途につく。(2023年12月24日)
人生を楽にする方法
企業の不祥事が多いなぁ。今回はダイハツ。なんでやねんと思うが、日本に根付いている共通の精神があるのだと思う。日本はヒーローによって統治される国ではなく、折り合いによって物事が決まっていく社会だ。トップダウン志向が強くなるだけではトップに資質のある人材が就くわけではない。トップダウンは日本人の精神的習慣の変更であるという認識がなかった。だから思想のない支配だけが強化された。一方、"従業員"はひとつの価値観に縛られ、ほかの生き方があることを知らない。だから、死にものぐるいでトップダウンの命令を達成しようとして壊れる。こんなところだろう。実は多様な生き方があるんだよ。それがわかれば理不尽な命令には抵抗できる。打ち負かされても別の生き方を選ぶことができる。自分の思想や哲学を若いうちから深め、諒解を得ておくと人生が楽になるだろう。(2023年12月21日)
文化的遅滞
この言葉を岩波「世界」12月号の筒井淳也氏の「家族のアップデートはいかにして可能か」でみつけた。少し長くなるが備忘録として引用しておく。「いまから100年ほど前にウィリアム・オグバーンが作った言葉である。オグバーンは、物質的文化と非物質的文化との間には変化の早さの違いがある、と主張した。要するに物質的文化、たとえばテクノロジーの発展に人々の意識・価値観が追いつかないということだ」。この考え方は筒井氏の「家族やライフワークは、いわば『勝手に変わっていく』」につながる。その通りやなとしみじみ思う。自分は老年期に入ったが、内面ではそのことを十分諒解できていない。家族とライフワークの関係も十分な合意ができていないのだ。少しずつ変わっていくのだろうか。変わったとき、自分はどうなるのか、漠然とした不安がある。老年期のさみしさ、苦しさの中で最晩年を迎えることになるのだろうか。 諒解できたら解脱ということになるのだろう。修行はまだまだ続く。(2023年12月12日)
小さな平和
今日は自分も関わる里山のイベントだった。こどもから老人まですべての世代が集い楽しいひとときを過ごしていた。小さな平和の空間が一時出現したといえる。世界各地で起きていることを一瞬忘れることができたが、世界は小さな世界が集まってできている。人ひとりの世界も多様な世界を内包している。今日ここに出現した平和は小さいけれどきわめて価値のあるものだ。平和はそこここにある。小さな平和にいやされることで、人は困難のなかでも生きていくことができるのか。ガザ、ウクライナ、ミャンマー、...大変な状況の中にあるが、そこにも一瞬の小さな平和が出現するときもあるのかもしれない。だからこそ恒久的な平和がより価値あるものとして認識できるようになるのだ。自分の平和が世界の平和と同期することを願う。(2023年12月10日)
平和のための戦争
そんなのあり得ないとずっと思っていたが、昨今の世界の有様を見ていると心が揺らいでくる。人の存在が否定される状況が世界のあちこちにある。存在の否定は支配から始まる。人は支配されることを諒解することはできない。戦っている人々に武器の使用をやめさせることはできるか。できなければ平和のための戦争を認めたことになる。もし戦争が避けがたいのならば、起こってしまった戦争に負けても支配されないための仕組みを世界は持たなければならない。そこに国連の存在する意味がある。しかし、安全保障理事会の仕組みは古すぎて機能不全に陥っている。これを突破する叡智が必要なのだが、大国からは出てこないかもしれない。心豊かな小国こそ、変革を起こす力を持つのではないか。(2023年12月9日)
かーちゃんの力はすごいのだ
昨日は紙面で安東量子さんにお会いできたが、今日の夕刊では渡邊とみこさんに再会することができた。阿武隈のかーちゃんたちのリーダーである。見出しは「カボチャがつなぐ 東日本大震災 福島・飯舘村 九州北部豪雨 福岡・東峰村」。相変わらずがんばっている。最初はどんなきっかけがあったか忘れてしまったが、震災前から飯舘村の村づくりに尽力していた糸長浩司先生の企画した集会でお目にかかったのが最初だろう。2011年の地理学会福島大会の巡検ではとみこさんのお話を伺った。その後も時々かーちゃんたちの拠点である阿武隈茶屋に立ち寄ってお話を聞かせて頂き、印旛沼で開催していた環境フェアでは「かーちゃんの力・プロジェクト協議会」(阿武隈のかーちゃんたちが立ち上げた組織)の商品を販売した。あの頃は自分も元気だったが、とみこさんたちに会うとさらに元気がでた。最近の自分は完全にへたっているが、阿武隈のかーちゃんたちを思うと力が湧いてくるような気がする。思い立って「いいたて雪っ娘」(かぼちゃ)を注文して種を取ろうと思ったが、品切れ。この時期ですからね。種をいただけるか、相談してみよう。印旛沼流域で栽培を広めることはできそうな気もする。福島と千葉、農でつながれたらすばらしい。なんて妄想。なんだか最近、昔のことをよく思い出す。(2023年12月8日)
「エビデンス」に振り回される社会
朝日朝刊の同じページの「耕論」欄のタイトルは「『エビデンス』に囲まれて」。三人の識者の論は参考になるが、二人は「エビデンス・ベースト・ホニャララ」の限界、課題を提示し、一人はエビデンスに振り回されているように感じた。エビデンス重視の考え方はノイズを消去し、普遍性を探索することで、ひとつの最適解を得ようとするヨーロッパ思想が背景にありそうだ。だから複雑な現実を前に振り回されそうに感じるのだ。ただし、エリート感もあり、狭い意識世界の中にとどまっているようにも感じる。もうひとつの主張では複雑なものをそのまま受け止めることのできる社会について論じている。世の中いろいろなのである。多様な立場、多様な考え方を認めつつ、時間をかけて対話する先で、諒解を形成しなければならない。福島やナリタの教訓でもあるが、そういう時代でもある。エビデンスで明らかにできる事実の奥にある真実を見通す目を持たなければあかん。そうすれば、人を敵にせずともすむ。(2023年12月7日)
安東量子さんへの手紙
ご無沙汰しております。朝日新聞の福島季評(「成田空港に学ぶ 『その対立』は乗り越えうる」)を拝見して筆をとりたくなりました。私も福島では成田空港の教訓を活かせなかったと感じていました。私が読んだのは「『ナリタ』の物語」(崙書房出版)です。そこにも(繰り返される)「悔やまれる反省の弁」が語られています。成田空港に関わるいくつかの仕事にも関わっていますが、住民との対話は行っているとは聞いています。しかし、C滑走路の環境アセスにおいて住民の深刻な訴えがあることを知っています(昨日、C滑走路の準備工事が始まりました)。現場の視察におけるちょっとした会話でも、都市的世界と農村的世界の間に大きな溝があることを感じます。50年も前に出てきたトランス・サイエンスにおける議論でも、対話と協働が唯一の道であることが結論されていますが、対話というのは簡単なようでもっとも難しい営みであることを実感しています。私も賛成と反対では「どちらでもない」と答えざるを得ないのですが、心の中では反対したいという思いもあります。原発は優れた技術ですが、日本人には原発を使う総合力がありません。空港は近代国家にとっては必要な施設ですが、時代を読むと今以上に拡張する必要があるのか疑問もあります。日本は心豊かな小国でもよいのではないか。大学は定年退職しましたが、自分の確固たる立ち位置を決めることができないまま、隠者として暮らしております。前回の福島ダイアログは参加できませんでしたが、次回は参加、聴講したいと思っています。お元気で。(2023年12月7日)
新たな大学像の創造
日本大学のアメフト部に関わる林真理子理事長の記者会見を聞いた。経営トップは大変じゃ。一部の記者の予断に基づく決めつけや、大学執行部を悪者扱いするような話し方は気分が悪いが、これも時代の精神なのかの。なんか勘違いしているような気がする。今後どうするかについてはいろいろな考え方があると思うが、突き詰めていくと大学のミッションは何か、大学におけるスポーツはどうあるべきか、といった深い思考にはまっていくように思う。私学なので日大らしい理念を打ち出してほしい(文科省に支配されず)。ただ、気になったのは"生徒"、"こどもたち"という表現が聞こえたこと。大学生は成人であり、自律的に考え、行動する学生であるはず。管理という言葉も聞こえたが、自立した大人を管理するとはどういうことなのか。ここはしっかり考えなければあかんなと思う。大学生をこども扱いしていては、日本の未来は暗い。自律した大学生の育成こそが大学教育の目標ではないか。学生を尊重して、新たな大学像を創るためにはどうすればよいか。林真理子氏にはがんばっていただきたい。(2023年12月4日)
オルタナティブ・サイエンス・ジャーナルとなるか
新しいジャーナルが創刊されたそうだ。朝日夕刊から。「一瞬笑えて考えさせられる」学術誌。さっそくホームページを閲覧。「Historia Iocularis」で検索できる。創刊の趣旨では、テーマは日常的・具体的・ニッチ・娯楽的要素が強いが技術は一流で実証的精度も高い、ということが条件とのこと。昨今の業績評価に支配されている研究者ではできない時間のかかる「コスパ」の悪い研究もOK。さらに、学界での評価が気になるようならほかのジャーナルをお勧め。これはよいな。好奇心駆動型科学は評価(地位、名誉、金)のためにやるものではないからね。コスパが悪ければ転職すればよいのだ。このジャーナルはエビデンスベース、明確な論理構成をベースとする既存の科学を越える成果や、新しい分野を拓く可能性があるように思うな。歴史学では実証精度という点に越えられない限界があるかもしれないが、それは多様で複雑な環境を扱う自然科学の分野も同じだ。事実と真実の間の溝は深い。でも限界を超えるオルタナティブ・サイエンス・ジャーナルになるかも。まだ掲載論文はないが、ブックマークに追加して出版を楽しみにしよ。(2023年12月2日)
生存者バイアス
朝日夕刊の「月刊宝塚」の記事で、この言葉を見つけた。北星学園代の勝村さんの記事から。「閉鎖的な集団の中では、勝ち残った人の成功体験が反映される『生存者バイアス』によって、独特な慣習が強まる傾向もあるという」。なるほど。これは評価社会、競争社会の必然なのだろう。競争の勝敗が評価によって決まり、敗者は退場する状況の中で、勝者である生存者は独特の評価基準を持つようになってしまう。研究の世界でも、ビジネスの世界でもありがちなことだ。同じ記事の中で、細川貂々さんが「記者会見 怒りがわいた」との見出しで「人の死に向き合う誠意が感じられなかった」と述べている。生存者バイアスの世界の中で、人の死をわがこと化できなくなったということだろう。時代の精神は変わることに人は気がつかなければならんのじゃ。だから、生存者としての老人は池波正太郎のいうように、世のうつり変わりと風俗を知っておかねばならん。(2023年11月30日)
自由と自律
朝日朝刊記者解説は「揺らぐリベラリズム」のタイトル。国際報道部次長の青山氏のまとめのひとつはこうだ。「自由は本来は『自律』の意味に近く、日本にとっての意義を問い直す必要がある」。そして見出しのひとつが「『誰もが自律』 自由が支える」。これらを聞くと、篭山京「怠けのすすめ」(農文教選書39)を思い出す。Ⅰ章のタイトルが「『ひとり』と連帯-スイスの核心」。ここで「ひとり」を使っているが、やまと言葉の「ひとり」とは自律した個人で英語のindividualに相当するというのは宗教学者の山折哲男。そして、自律した個人が連帯を生むというのがスイスを見た篭山京の考え。そして自由が自律を支える。逆も然り。翻って日本はどうか。自由をGoogleでAI検索すると、表面的な意味が出てくる。AIは日本語のWEBにある文章から引っ張ってくるだけなのでしょうがない。しかし、自由には自律の意味が含蓄されており、それは福沢諭吉も指摘したように、昔から日本にもあった考え方だ。戦後の政治、社会の中で日本人は自由の意味をはき違えてしまったようだ。暮らしと仕事の関係が欧米とは逆になってしまったのだ。仕事を先に持ってくるから国のため、組織のため、滅私奉公になってしまう。暮らしを先に持ってくると、自分のための生活主義になるが、日本ではわがままにされがちである。自律した個人ならば、連帯が生まれ、共助の社会になる。それが、青山氏のまとめのひとつ「異なる意見を認めつつ一定の価値観を共有する、開かれた共同体が求められる」につながっていく。(2023年11月27日)
現代若者気質
若者の考えが気になって表記のキーワードで検索すると、最初にヒットしたのが兵庫県教育委員会のサイト。県立鳴尾高校のホームページにある文書のようだ。「現代の若者気質」と題されたPDF文書から抜粋すると次の通り。
・一人になることを恐れるが、相手を「察する力」はない。なるほど。そーやなーと妙に納得してしまうが、ちょっと待て。若者には実にしっかりしている者も多い。これは"大人"から見たステレオタイプではないか。大人は自分たちが育ってきた時代の精神を引きずっている。それは成長、進歩といったことを是とし、達成のためには競争に勝つ必要があるという精神で、昭和の精神でもある。そこからちょっと離れてみると、若者は新しい社会を創り出そうとしているのではないか。そんな期待も湧いてくるのである。それは今の政府与党が目指す社会とは異なるが、年寄り政治家はいずれ引退する。世の中は時間をかけて少しずつ変わっていくのだ。(2023年11月24日)
・「人の目」は気にするが、それは「仲間内」の目であり、社会の目ではない。
・心根が優しく「気弱」であって、しかも依存心が強い。
・「自己表現」が下手くそでしばしば誤解され、他人とのギャップに困惑する。
・人と比較されることを嫌うが、自分の尺度(基準)にも自信が持てないため、「周囲」に左右されやすい。
・自分を見つめる作業は苦手なので、手軽に「誰か(何か)」に自分を投影させる。
短くてわかりやすい
環境パートナーシップちばのSNS研修会に参加した。タイトルは「若者が今求めているもの・若者を集める広報の方法」。大学3年生の若者の話を聞いた。その要点が「短くてわかりやすい」。確かにその通りで、今の世の中の精神にもなっている。でも、環境問題は「多様で複雑」。「短くてわかりやすい」で環境問題にアプローチできるか。若者はきっかけにすればよいという。これもその通りだが、きっかけにできると考える背景には「一本道の先に答えがあるはず」と考える現代の若者気質はないだろうか。環境問題の解決に答えはないか、多様な選択枝となるだろう。あきらめ、妥協、諒解が実質的な解決になることもある。では、環境問題に関する理解を深めるにはどうすればよいか。対話だろうな。老人と若者の対話が必要かのう、と思う。ただし、知識と経験を持つ老人はマウントをとりがちなので注意せねばあかん。対話はひとの話を聞く態度が必要なのだが、自分はその訓練がまだ不十分なのじゃ。(2023年11月20日)
忘れられる教訓
朝日朝刊の記者解説欄のタイトルは「処理水放出 埋まらぬ溝」。その中で地元住民の言葉が紹介されている。「地元が最後まで蚊帳の外だった」。問題解決をめざす唯一の方策は「対話」であることは、すでに多くの人々が指摘しているだけでなく、実践されていることでもある。しかし、政治との距離は縮まらない。もう50年も前から議論されているトランス・サイエンス(科学に問うことはできるが、科学が答えることのできない問題)において唯一の解決につながる道は「対話」だとされている。処理水放出問題はまさにトランス・サイエンスの対象である。対話、対話、対話、簡単なようでその場に到達することが難しい行為。日本はこれまでに何度も対話の重要性を認識したはずだ。たとえば、成田闘争。成田空港開港30年に朝日新聞に掲載された「30年の物語」をもとに出版された「『ナリタ』の物語」(崙書房出版)で、当時の航空局長が「今になってみれば、航空局は地域社会とつきあわず、空の上しか見ていなかった。航空需要から生じる空港の必要性よりも、地域社会をまず第一に考えないといけないと思っていた」と語り、反対派(熱田派)の事務局長は「話し合う場(92年開催の公開シンポジウム)を設けたのは国が過ちを認めたこと。とことん話し合うことで相手の人間性が見え、対話がすすんだ」と意義を語っている。そこには貴重な教訓がある。しかし、教訓は日本の中で共有されず、福島でまた再びつらい経験が繰り返されている。地域の"ひと"と国の対話、これができる程度に日本は大人にならないと未来は暗いよ。(2023年11月20日)
人間による解決
旧約篇に続いて聖書物語新約篇を読んだ(山形孝夫著、河出書房)。イエスの登場の背景にはヘロデ王の悪政があり、ユダヤ教僧侶の既得権益との衝突があった。アブラハムより4000年、神(ヤハウェ)は人間(ユダヤ)の扱いには手を焼いていたに違いない。それで神はユダヤを見捨ててイエスを選んだのだろうか。ユダヤの人々はそうは考えていないだろう。ユダヤ教はローカルな信仰だが、キリスト教はその後グローバル宗教となった。世界の神々との折り合いが必要になった。ここがユダヤ教との違いだと思うが、キリスト教は何度かの変質を経て現在に至っている。その一番大きな変質は資本主義の容認だろう。これが現代社会の問題を招いているのではないか。科学技術の進歩で"神は死んだ"とされ、もはや人間の振る舞いは神には制御不能となった。この神は"人間を支配する神"であるが、神には"人間を容れ物とする神"もあるという(マックス・ヴェーバー)。今やユダヤ教やキリスト教の神(イスラムの神でもある)は天にいるのではなく、それぞれの人の中に宿っている。だから、マザーテレサのような聖人も現れる。それは世界で起きている様々な問題も人間が解決することが可能であることを示していないか。何より重要なのは対話である。(2023年11月18日)
科学と実践と運動を統合する
現代農業12月号の「主張」欄のタイトルは「アグロエコロジーは『育てる人』と『食べる人』の関係を変える運動だ」。都市が農村の産物を一方的に「選ぶ」のではなく、農村が主体的に「選ばせる」側へ変わることもできるのだ。アグロエコロジーとは「持続可能な農業とフードシステムを実現するために「科学」「実践」「運動」を統合する営み」だという(村本穣司、UCSC)。その通り、統合が大切なのだ。では、誰が統合するのか。この運動全体が共働であり、トランスディシプリナリーの精神が要だ。関係性でつながったみんなが一緒になって、アグロエコロジーを実践する。アカデミアは統合の主役ではないだろう。現場で行動する主体でないと全体は見えない。地域が統合の場であり、地域のひと全体が主役となり、地域と地域はつながることができる。その実現が"社会の変革"なのだ。(2023年11月17日)
戦争と宗教
イスラエルとハマスの戦争は混迷を深めるばかりだ。歴史的背景を確認しておこうと思い、旧約聖書を勉強した。といっても聖書物語の旧約編(山形孝夫著、河出書房新社)。あらためて認識したことはユダヤとアラブの神は同じであること。また、ユダヤの民とアラブの民の先祖は同じアブラハムであること。それなのに両者が争うのは神の意志なのだろうか。いやいや、そんな神は信じるに値しない。古代の宗教はもはや時代遅れになった。現代社会では人を支配する唯一絶対神は人を救う機能を失ったのだ。この戦争は数千年の因縁を持つが、直近の要因は最初に近代化を成し遂げた先進国の振る舞いだ。パレスチナ問題を解決に導くためには、まずイギリス、アメリカをはじめとする関与国が歴史を反省し、謝罪することから始めなければならないのではないか(東アジアについては日本も)。とはいえ、現実を取り巻く関係性を俯瞰すると、そんな簡単なことではないことはすぐわかる。人間と人間社会の本質の変更がなければ達成できないからだ。達成への道を見つけることができるのか、それとも地獄を見ることになるのか。モーセは十戒を神から授かった後、十戒に背いたとの理由で同朋を殺している(十戒に背いて!)。国家防衛のためには「殺してはならない」という戒めは何の意味もない(久保田展弘、「荒野の宗教緑の宗教」、PHP新書313)。人は人を殺してはいけない。この当然と思えるテーゼを合意することすら難しいのか。(2023年11月11日)
理想と現実
ある本で、日本の仏教では個人の幸せをまず考え、個人の集合としての世界の幸せを目指すのだということを読み、そうやなぁと思っていた(その本は探索中)。それは環境社会学を起源とする地球的地域主義(グローカル)の世界観とも同じで、自分の思想の基底に据えている。だから、宮沢賢治の「世界がぜんたい幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」というテーゼはうまく理解できなかったが、山折哲雄「往生の極意」でその意味がわかった。賢治は世界が幸せになるための犠牲について考えていたのだ。それは「グスコーブドリの伝記」で描写されている。なぜブドリが犠牲にならなければならないか、実はよくわからなかった。個人の幸せが集まって、世界の幸せになるという自分の考え方は理想である。全体の幸せのための一部の犠牲を容認する考え方はヒーローとしての犠牲者であり、欧米思想的である。日本の思想の基底にある無常のもとでは、最終的に全体が危機を受け入れることになるという(ただし、福島の現実はどうだ)。この二つの態度は大いなる葛藤である。賢治は終生この矛盾について悩み、早世してしまった。理想と現実、その間の溝はとてつもなく深い。それでも理想を目指して実践するしかないのではないか。犠牲のシステムで成り立つ国家は安心な社会とは思わない。(2023年10月29日)
「自然」と「宗教」と「文明」
山折哲雄の「往生の極意」(太田出版、2011)を読み終わったところ。山折氏は1995年の阪神淡路大震災、オウム真理教事件のあと、これからの日本人は「自然」と「宗教」と「文明」について考えを真剣に深めるだろうと思ったという。東日本大震災では、これら三者の状況から科学技術について根本的な再考を迫られると考えたという。実際はどうであったか。少なくとも過去にはその思考を深めた碩学がいたが、大震災を経験した今でも、現役の科学者はその貴重な伝統を忘れているようだという。自分もアカデミアにおける経験からまさにそう感じていたが、取り組みが中途半端であった。そのため、アカデミアの世界からは離脱することになったが、この本を読んで、自分は変人なのではないか、という思いは多少は払拭することはできたようだ。予定通り隠者として世間の有様を眺めながら、自然、宗教、文明について考えていくことにする。(2023年10月29日)
時代の最先端を行く街
ユーカリフェスタ2023に行ってきました。本来ならば自分が参加している団体の手伝いをしなければならないのですが、少し遠い場所の住人なので客として消費でわずかばかりの貢献をすることにしました。メンバーの農場の干芋を購入。実はうちの畑でも収穫中なのですが、干芋を作って味を比較してみようと思っています(かなうわけないか)。いつも頂いているお弁当もうまし。玄米ご飯がおいしい。お世話になっている農家さんの無農薬米も購入。本人曰く、味は慣行米と変わらないとのことですが、手間と思いという物語付きの米はうまいに違いない。今年の夏は暑かったせいか、ひこばえがたくさん出ているそうです。肥料を与えて米を収穫してみるとのこと。飼料米や加工品などアイデアをたくさんお持ちです。そこが農の営みのおもしろいところだと思います。フェスタは朝からにぎやかで、たくさんのこどもがコスプレで楽しんでいるところがよい。都心から郊外へ。時代の最先端を行っているに違いない。(2023年10月28日)
よい環境は長い旅路の先に
今日は幕張メッセ国際会議場で開催されたエコメッセ2023inちばを見てきた。大勢の人々が様々な取り組みを紹介し、それを見に来る人々も多いのだ。これで環境が良くならないはずはないと思うが、環境は良くなっていないのはどうしてなのか。いや、待て。ひょっとしたら環境は良くなりつつあるのではないか。それを見極めるには過去・現在・未来へと続く時間軸と、多様性が配置されている空間軸を意識して、この世の中を眺めてみる必要があるだろう。すると、現在の環境は良くはないが、改善の途上にあり、これから進む道も見えてくるのだろう。一度劣化させた環境はすぐにはもとにもどらん。長い時間がかかるが、目指していないと到達しない。よい環境を取り戻すには長い旅路を経なければならんのだ。(2023年10月15日)
秋の匂い
今秋、初の金木犀の香りを一昨日の仕事の帰り、千葉大付属中の脇で感じた。昨日は夜の散歩でマラソン道路の金木犀が香ることを発見。今日は昼からあちこちで金木犀が香る。秋の匂いじゃな。去年初めて金木犀の香りを感じたのは9月27日だった。今年は秋の到来が2週間遅かったということだ。金木犀も今年の夏は暑さに耐えて秋を待っていた。金木犀の前のベンチに黒柴娘の紬さんと座っていると涼しい風が心地よい。やはり、秋がよきかな。二地域居住で夏は長野、冬は千葉ということにしたいが、遙かなる夢なり。(2023年10月13日)
専門家としての人生
今日は環境に関わる、ある組織の基本構想を話し合う会議だった。環境(人、自然、社会が関係性を持つ周り)の理解を志し、考え続けてきたことを発信した。それは、○環境の原義に戻ること、○現時点を時間軸で認識し、未来を展望すること、○環境が良くなることと、職員が誇りを持って仕事ができることがトップレベルの目標、○「研究」という仕事の評価軸を再検討、○「なされぬ科学(undone science)」を実施できること、○市民科学の力を評価、○俯瞰的視点を持ち、共同、共働を実現するためのアドバイザリー・ボード、○気候変動にはボトムアップの取り組みも重視、○その他いろいろ。少しでも採用していただけたら、専門家としての人生が多少は役に立ったということだ。(2023年10月12日)
二つの世界
黒柴娘の紡さんと夜の散歩にでる。と、どうしたことだろう。昨日まで草藪だった空き地がすっかり刈られている。ここは数日前二匹のタヌキが出てきて、仲むつまじい様子で道を横切り、人家に入り込んでいくのを目撃したところ。あのシルエットはタヌキだった。タヌキでなかったら、デブの大猫二匹が軽快にじゃれ合っていることになる。いや、それはない。タヌキだった。タヌキの世界は人の世界と交わりながら、しっかり生きている。りっぱなもんだ。人の世界と動物の世界。うまく共存はできないものだろうか。(2023年10月10日)
都市の縁辺部における小さな試み
今日は林の下草刈りに行ってきた。所有する不動産会社から自由にやって良いとのことで、今日が最初の鎌入れであった。かつては里山であったろう荒れた林を、これから三年かけて整備する予定である。刈払機で笹藪を払い、いける!という感触を得てきた。整備完了後の林の姿を想像するとわくわくする。ドーパミンがでて老化防止になるかもしれないなんて思いながら作業を進めると早速、不法投棄に出くわし、現実に直面する。ゴミの処理と、ゴミの投棄防止が新たな課題となる。それでも時間をかければ林がよみがえり、人が関われば里山に変わっていくだろう。美しい里山が再生できれば、周囲の林にも広がっていくかもしれない。それは人と自然の関係性の改善につながるだろう。東京大都市圏の縁辺部におけるボトムアップの小さな試みなのである。本当にできるのか、やってみなければわからない。だから、やらなければならないのだ。頭の中で考えたことを高みから発信するだけで満足しているわけにはいかない。実践こそが実現への道だ。(2023年10月7日)
広く浅いということ
今日はある環境保全の取り組みに関するヒアリングのため、東京まで出かけた。ヒアリングの主題は地盤沈下なのだが、実は研究の経験はない。地下水もまともに研究したのは博士課程の時だけだ。それでも、地盤沈下に関わる学識者として呼んでいただけるのはありがたいが、不思議なことでもある。歳をとったので言えるのだが、自分がシャープな領域の専門家ではなく、広く浅いタイプの専門家だからではないだろうか。専門の範囲が狭すぎると現場の課題には対応しにくい。いろいろな委員会で発言を聞いていると、専門的ではあるのだが、現場との乖離を感じる場合が結構ある。地盤沈下は環境問題であり、問題は総合的、包括的、俯瞰的に眺めなければ理解すらできないのだ。問題を解決する側の立場では、新たな視点、関係性の提示が貴重な情報となるということなのかもしれない。広く浅いというのは自分の長所であることは自覚しているが、現代の研究の世界ではコンプレックスの原因でもあった。時代の精神的習慣と合わないからである。しかし、時代は確実に変わった。"広く浅い"が求められる時代になったのだろうか。(2023年10月5日)
印旛沼を里沼に
今日はある大学生グループが印旛沼を視察したのだが、そのまとめのミーティングに参加してきた。池波正太郎によると、老人は世のうつりかわりや風俗を知っておかねばならん、ということだ。まず若者世代の考え方を知らねばあかん。印旛沼をよくするための若者らしいアイデアをたくさん聞くことができたが、老人は背後の様々な事情を知っているのだ。つい、否定的な意見を出しそうになるが、そこはこらえて、実現に向けたステップを考えるようにするのだ。学生の中には地元千葉や東京だけでなく群馬から来ている方もいた。ありがたいことだ。これからも継続して印旛沼に関わってほしい。そして沼とひとの関係が生まれ、沼の新たな状態が造られるようになると、印旛沼は里沼になる。そうなったら沼は良くなり、地域は良くなり、社会は良くなっていく。そのためには老人も若者と関わりつつ、印旛沼やひとの未来に対する包摂的な考え方を老若共同で養っていかねばならんな。(2023年10月1日)。
地域からの挑戦
定年後最初の半年の終わり。今日は東京大都市圏の縁辺で進みつつある、ある試みのキックオフミーティング(と称した飲み会)に参加してきた。その試みは都市の郊外で新たな生き甲斐、生き様を創り上げることを目的とする。この集団の良い点は、地域の新旧住民と私のような遠くのものとのコラボであり、多様な世代にまたがっていること、さらに新たな関係性も探索していることだ。組織運営のスキルを持つ若手が制度面を検討し、老年は労力を提供する。智慧が提供できるかどうかはあやしいので。少子高齢化、低成長社会はすでに現実だ。人の暮らしの場を衰退させないために、地域における人と自然の関係性を良好にしなければあかん。この試みを持続的にするために、ボランティアのみに依存しない仕掛けも若手が企画している。なにより、地域の未来が皆で展望できることがいい。この試みは現代に対する地域からの挑戦でもある。この関係性を大切にしていきたい。(2023年9月30日)
日本の研究力復活なるか
昨日の朝日夕刊に、国際卓越研究大学制度に関する記事があった。この制度で日本の研究力が復活するかどうか。これについては広島大学副学長の小林信一氏は否定的な様だ。文明社会の野蛮人仮説についてよく引用させていただいているが、私と同い年でした。この世代は好奇心駆動型の研究に邁進できた最後の世代ではないか。下の世代からプロジェクト制による研究が主流になり、優れた成果が得られた(ということになった)かどうか、に関心が移っていく。私も卓越大制度はうまくいかないと思う。支配されることに慣れた科学者が研究の企画能力を発揮できるはずがないと思うからである。ただし、有識者会議が的確な助言ができれば、プロジェクト研究で育った若手研究者はきわめて優秀だ。ある程度の成果は出すかもしれない。しかし、エリート競争の階段を駆け上がった研究者をさらに絞り上げることになる。研究者は幸せになるか。そもそも有識者会議の人材がいるのか、会議が機能するのか、はなはだ怪しい。とはいえ、低成長、縮退の時代ではしょうがないのだなとも思う。日本の研究力は復活できるのか。隠者として見守っていきたい。(2023年9月30日)
研究支援と環境学習
今日はある委員会に出席してきた。議題のひとつが上位の組織に提出する提案素案に対する審議。その提案の中に、“研究支援”と“環境学習”という文言があった。研究支援は扱う課題が一組織では対応できない状況にあるので、大学も含む研究セクターと共同しようというもの。それは結構なのだが、大学においては現行の評価制度は論文を、それも英語の論文を書くことを要求する。社会的なニーズがある課題でも論文が書けなければ実施されないことは“なされぬ科学(undone science)”という用語も登場しているように、批判の対象にもなっている。大学人はここを乗り越えることができるだろうか。環境学習に関しては現状ではどうしても、自然はいいね、ということで終わってしまうことが多い。なぜ環境は大切か、そもそも環境とは何か、自然を保全することの価値は何か、といった議論が現場ではやりにくい。両者とも行政の中の仕事として進行中なので、なんとか状況を変えていきたいと思っているところ。(2023年9月28日)
同調圧力に流される日本人
ネットサーフィン(古い?ブラウジング?)していて、京都新聞の記事を見つけた。森達也氏の日本人の同調圧力の強さに関する記事。そのなかにあったこれはメモしておきたい。ノルウェーでは凶悪犯であっても刑務所で人間らしい生活が保証されており「ほとんどの犯罪は三つの不足から起きる。幼年期の愛情不足、成長期の教育不足、現在の貧困で、それを補うのが社会の役割であり、刑罰だ」という考え方に基づくという。日本では犯罪の監視や厳罰化が進んでいるが、それは不安と恐怖に弱いゆえの日本人の、異物を排斥しようとする集団心理に同調圧力が高まるからだと森氏はいう。日本では犯罪の背景を探り、俯瞰的な観点から犯罪が起きない社会を構築するという考え方は希薄だ。このことは日本人が個に分断され、それぞれの意識世界が狭くなっているということでもある。誰が犯罪の背景を深く掘り下げ、社会に反映させるべきか。それは政治だろう。政治が主導して調査、研究を行い、行政に反映させるのが本筋ではないか。アカデミアは協力し、論文という報酬を得れば良い(現在の評価システムではそうならざるを得ない)。政治、行政、研究者、市民が犯罪の撲滅という目標の達成を共有して(目標の共有ではなく)、協働するのがよい。それは理想ではあるが、より良い社会を構築するためには達成しなければならない課題でもある。まずは個を保つこと。それが欧米における個人であり、確立した個人だからこそ共に考え行動することができるのだ。日本人は変わることができるだろうか。(2023年9月27日)
老人のつつしむべきこと
池波正太郎の随筆「一升桝の度量」を読んでいる。そこで加賀藩の名君、前田綱紀のことばを見つけた。老人のつつしむべきことを三つあげているのだが、一は老いて情がこわくなること、二は物事がくどくなること、三は世のうつり変わりと風俗を知らぬこと、だという。この三つをよくよくつつしまなければならぬというが、一の情がこわいとはどういうことか。こわいはかたいという意味もあるから、頑固ということだろうか。歳をとったら頑固じゃあかんよということ。二はその通り。ついくどくど話をしてしまうが、一度言えばよいのじゃ。三が重要だと思う。人は育った時代の精神的習慣からなかなか抜け出すことができない。"今"、"ここ"をよく観察して理解することが大切じゃ。綱紀はさらに、老いたるものは、よくよく身ぎれいにせねばならぬ、と述べているがこれがむずかしい。定年になってから家では作業着が一番楽。外出も作業着になってしまった。もっとダンディーにならねばあかん。(2023年9月22日)
近代の卒業
JWF News 9月号の竹村代表理事による巻頭言で、衛生工学の丹保憲仁先生が逝去されたことを知った。丹保先生とは面識はないが、若い頃、学術会議の講演で「環境湖」という考え方を知り、感銘を受けた。その後、2003年に出版された「水文循環と地域水代謝」に詳しい記述があり、印旛沼の水環境再生における自分の基本的な考え方となった。それは「環境湖の状態で都市住民は自分たちの水の使い方を見直すことができる」ということだ。印旛沼は環境湖なのである。しかし、ほとんどの住民は印旛沼の状態を気にしているわけではない。どうしたら印旛沼に目を向けてもらうことができるのか、それが印旛沼流域水循環健全化の取り組みの課題であった。巻頭言の中で丹保先生のことばが引用されている。「我が国は、近代を卒業する世界最初の大国である」。まさに、このことを認識し、改めて身近な水環境を見渡したときに、印旛沼の存在に気がつき、環境湖「印旛沼」として生まれ変わるはずだ。とはいえ、丹保先生言うところの「後近代文明」は、まだ概念として登場しつつある段階だ。その形を明らかにし、社会を変えていくにはまだまだ時間がかかるだろうが、どこかで転換点が来るに違いない。(2023年9月20日)
左脳と右脳
板橋興宗と加島祥造の対話集「禅とタオ」のなかに左脳と右脳に関する話がある。左脳と右脳の機能の違いはよく知られているところではあるが、歳をとると右脳が活発になるという話。最近の自分は脳がだいぶ衰えて、シャープな考察や議論はもうできない。でも、右脳系の機能はひょっとしたら高まっているかもしれない。右脳を通じた自然とのつながり、自然(じねん)の感覚は深まってように感じる。左脳は意識、右脳は末那識をつかさどり、阿頼耶識につながっているのかもしれない。そうだとしたら、左脳の衰えと右脳の活発化は人生の必然であり、やすらぎにつながっているはずだ。(2023年9月18日)
たましいの欲するもの
河合隼雄「こころの処方箋」(新潮社)を読んだ。本棚にずっとあったものだが、内容に記憶がない。ひょっとしたら買ったきり読んでいなかったのかも。1994年の29刷なので筑波大時代か千葉大に異動した頃に買ったはず。もっと早く読んでいれば良かった。その中で、こころの下(奥)にたましいがある、という考え方が頭に残った。永らく心身の不調が続いているが、たましいの欲しているものと、こころが欲しているものが齟齬をきたしているのではないだろうか。そんな気がする。瞑想をして、たましいに接近しなければならん。たましいの欲するものを見極めると解脱できそうに思う。この考え方は唯識における末那識と阿頼耶識にも似ている。ひとの最も奥にある意識は大いなる命の流としてつながっているのではないか。そこに到達すると生きることの意味がわかってくるのかもしれない。(2023年9月12日)
慢心と安心
本当に久し振りの長距離運転だった。体調が万全ではなく、不安もあったが、この週末は500km余りをゆったりと走りきることができた。若い頃は高速道路の悪魔に惑わされ、急げ急げと車よりこころが先に走ることが多かった。歳をとった今回は左側車線をキープし、追い越されても気が急かされることもなく、のんびり走ることができた。おかげで燃費も26km/lを越えた。運転に関するこの心境の変化は何なのだろうか。心身の衰えが慎重さを生み、かえって安全をもたらすといえるだろうか。定年になって急ぐ必要もなくなったということだろうが、安全ということでは自動運転技術に関する競争が激化している。自動運転技術が進歩すると、より安全なドライブが楽しめるようになるだろうか。高速道路では相変わらず無謀な運転もたくさんみた。そんな輩にとっては技術は慢心をもたらすかもしれないが、老いた我が身には安心をもたらすだろう。安全運転を心がけた上で、あとは技術にまかせるのだ。安全に係わる技術というのはインフラと同じで、人の目に触れないところで実はしっかり見ている、というものだ。技術が慢心をもたらすか、安心をもたらすか。それは人が文明を使いこなせるかどうかにも係わってくる。防災・減災技術やAIでも同じ事がいえそうだ。(2023年9月11日)
ネット敗戦の理由
日本ではなぜGAFAが生まれなかったのか。IIJ会長の鈴木幸一氏によると、国家戦略が不在だったからということだが、それは世界を俯瞰し、世界のありさまを理解し、自分の指針をもち、世界と対峙できるリーダーを養成できなかったということだ。なぜできなかったかというと、日本は弱者に優しい国だからという(弱者のいき値は高いように思うが)。確かに強者をさらに強くすることには非効率だが、優しいことはいいことではないか。むしろ、政治、行政が硬直的すぎて個別の事情に対応できない点が問題だと思う。アメリカは敗者には厳しいが、弱者には個別に対応できる国だ。背景にはキリスト教があるのかもしれない。日本では霞ヶ関の決定は全国一律であり、個別の事情には対応せず、権限は固守する。叩かれるのを恐れて個別の対応はしない。これがGAFAを生まない理由のひとつだと思うが、優しい国でもいいじゃないか。トップを目指す競争の過程で勝ち残りが力を付け、世界に打って出たとしても、陰では敗者が弱者となって取り残される。弱者に優しい国、そんな国がいい。政治がしっかりしていれば弱者には優しく、同時に強者を伸ばすこともできるはずなのだが。朝日朝刊、オピニオン&フォーラム欄から。(2023年9月7日)
旅人になるには
今朝のNHKでスペイン、バルセロナのオーバーツーリズムに関する報道をみた。観光客のマナーの悪さは困ったもんだ。彼ら、彼女らは旅人だろうか。地域の文化や暮らしを消費(もはや破壊ともいえる)しているだけなのではないか。先日「小説奥の細道」(井ノ部泰之)を読んだ。地図を開きながら読むとおもしろい。芭蕉の持病は痔と疝気だったそうだ。さぞつらかろうと思うが、それでも旅は芭蕉を誘った。自分も疝気があり、行動はだいぶ制約されている。芭蕉とはだいぶ違う。芭蕉が求めたのは風流ではないか。土地の自然(しぜん)、”ひと”、歴史と交通し、そしてこれらが織りなす自然(じねん)の有様を感じることが芭蕉の旅の目的だったのではないか。だから、痔や疝気があろうとも旅に出た。風流を求めることで人は旅人になるだ。風流がなければ資本主義経済のなかの消費者に過ぎないからね。(2023年9月6日)
楽農報告
夕方涼しくなってたので畑に出動。シュレッダーブレードで雑草を粉砕。マキタ純正のシュレッダーブレードカバーを入手したのだが、取り付け金具のサイズが違った。やむなく刈り払い用のカバーで実施。シュレッダーブレードは高出力の刈り払い機用であることは知っているのだが、高価なので18V×2の36V機をブレード専用機にしている。盛り上がった雑草の山を慎重に粉砕。文明の利器の力はすごい。概ね雑草をなぎ倒すことができた。これからは完璧な除去は行わず、播種する部分だけちょいと耕すことにする。畝間は雑草マルチだ。秋の播種、移植が遅れているが、温暖化が進行しているので何とかなるだろう。楽農は適当にやって、適当に採れれば良いのだ。(2023年9月5日)
インボイス制度のこころはなにか
今朝の朝日はインボイス制度にずいぶん紙面を割いているが、小規模事業者にとっては厳しい制度だなぁ。制度の合理性はよくわかるのだが、社会に実装するには、それだけではだめだ。理念が必要だ。理念がないと共感が生まれない。合理性、理念、共感の3基準がものごとを成功させる要だ。インボイス制度を推進しようとする精神は20世紀の成長期や、その後の新自由主義的政策で培われた古い精神だと思う。勝者のみが報われ、敗者や規範から逸脱した者は忘れられる。今の日本は低成長期に入り、様々な分野で縮退が顕在化している。こういう時代に必要な政策は小規模事業を安心して営むことができる仕組みである。小さな営みがたくさんあり、人が複数の営みに関る社会こそ安定した持続可能社会なのである。政治家は時代を読んで、理念に基づいた政策を打ち出してほしいものだ。パワーエリートに支配される社会、格差が拡大する社会なんてまっぴらごめんだ。日本はこころ豊かな小国でいいのだが。(2023年9月3日)
楽農報告
酷暑のなか、畑仕事をサボっているうちに雑草(という植物はないが)に畑が覆い尽くされてしまった。今日は若干涼しいような気もするので夕方畑にでた。とはいえ、どこから手をつけて良いのか迷うくらいなので文明の利器を使うことにする。刈り払い機でとにかく刈りまくる。2時間ほどがんばったが、あまり変わったようには見えない。畑のリハビリには時間が かかるようだ。少しずつ進めて播種、移植に備えたい。ホウレンソウ、ブロッコリ、ダイコン、カブ、ニンニク、...早く始めたいものだ。刈った草の置き場もなくなってきたので、今秋は雑草マルチで作物を育てようと思う。CO2が出ないわけではないが、残渣は全て畑のなかで循環させ、地力の向上をはかる。佐倉で生産した炭ももらってあるので、炭素の固定もすることになる。なにより、食の自産自消は自然(じねん)としての暮らしをもたらす。自然の暮らしは里山の暮らしでもある。ひと、自然、農とともにある暮らしである。(2023年9月1日)
自動車からのCO2排出量の削減
最後に給油したのが3月末だった。それから約5ヶ月もの間 、車の使用を控えてきた。非常勤は電車で通い、近隣の移動は自転車を活用してきた。車通勤の現役時代は燃費にこだわり、ハイブリッド車でエコ運転を心がけていた。それでも概ね月一で給油したのでざっくり400リットルくらいはガソリンを使っていたことになる。定年後のペースでは年間70リットルくらいになるが、秋には遠出も計画しているので100リットルくらいとしておこう。WEBでみつけた計算サイト(https://keisan.casio.jp/)によるとCO2換算で232kgとなる(燃費20km/lで1kmあたり、0.116kg排出)。同様の計算で現役時代は928kgの排出ということになる。となると、年間約700kg削減したことになる。2020年の日本の一人あたりのエネルギー起源の年間排出量は7900kgとのことなので( EDMC/エネルギー・経済統計要覧2023年版)、定年後の削減で車からのCO2排出は総排出量の3%程度になったことになる。現役時代は約12%だったから、1割近い削減になった。私は自分で維持可能な範囲で少しの豊かさを享受することは、楽しく暮らすための“必要”だと考えているので、これからも車は使い続けるつもりだが、CO2排出量は確実に減った。技術の進歩、人口減少等の要因によって車からのCO2排出量はこれからも確実に減っていくだろう。その先にあるはずの成熟社会をどんなものにするのか、そこを考え続けなければならんな。(2023年8月28日)
対話の不在
福一からのトリチウムを含んだ処理水の放出決定の過程について“対話”が不在していることは再三指摘されていることだと思う。今も報道番組で聞いたところ。市井では対話が重要であるという認識は底流にあるが、それがだんだん表層に出てきたと感じている。ただ唯一政治家がわかっていないように思う。政治家は事実を見るが、真実は見ない。いや、事実も認識できず、真実の存在に気がつきようがないということか。真実は対話の先にようやく見えてくるものである。厳しい現実を乗り越えるには真実を見通す力が必要だ。誰のために現実を乗り越えるのかを明らかにするためには理念が必要だ。しかし、今の政治は理念を語らない、語れない。せめて“丁寧な説明”をしてほしいが、政治にとってそれは合理性の一方的な通告であり、説明の受け手との対話は含まれていない。合意は諦め、諒解でもある。政治的“丁寧な説明”では合意は達成されない。なぜ政治家はそれがわからないのか。わかっているのに、そんなそぶりをしないということであるのなら、それは政治家がマックス・ヴェーバーの「責任倫理」を重視しているということかもしれない。とはいえ、果たしてそこまで考えているのか。もう「責任倫理」の時代は終わりにして、「心情倫理」を重視する時代に入っていると自分は感じるのだが。(2023年8月27日)
水は何を感じ、考えるのか
福一でトリチウムを含んだ処理水の放出が始まった。放出の決定は合理性にのみ基づいており、合意の三基準(共感、理念、合理性)を完全には満たしていないことは再三述べていることである。 いろいろ思うことはあるが、たまたま読んでいた大岡信のエッセイ「人生の果樹園にて」のなかでトリチウムに出会った。大岡氏が1989年に出版した「故郷の水へのメッセージ」という詩集に収められている同名の詩の書き出しがこうである。「地表面の七割は水/人体の七割も水/われわれの最も深い感情も思想も/水が感じ 水が考えているにちがいない」。妙に納得する詩の書き出しである。大岡氏はふるさとである三島の柿田川湧水を守るために参加したナショナル・トラスト運動へのメッセージとしてこの詩を書いたという。エッセイのなかで近くにある楽寿苑の湧水が100年前の雪であることがトリチウムによってわかり、人間がこれを汚すことは、なにかしら恐ろしいことだと述べている。トリチウムは自然の過程では大気圏で生成され、水分子を構成して水循環に加わり、最後は海へ到達する。その過程で、地下水循環の経路を選ぶトリチウムもあるわけだが、三島の湧水の年齢が100年ということは、半減期12.3年のトリチウムは永い地下水の旅のなかで放射壊変によってなくなってしまったということだ。難しくいうと、検出限界未満になった。今はどうか。1950年代から始まった熱核実験により生成されたトリチウムが検出されているかもしれない。これは人間がつくりだしたトリチウムだ。福島で海洋放出されたトリチウムも人間が起こした原発事故によって制御ができなくなって放出されるものだ。物質としては同じだが、その意味するところは大いに異なる。自然の営みで生成され、水循環のなかで消滅していくトリチウム。人間の欲望によって生成され、制御できなくなったトリチウム。トリチウムは水分子を構成する。処理水は何を感じ、考えるのだろう。(2023年8月24日)
モデルの複雑さと認識の深度
眞鍋先生のインタビュー記事にこんな発言がある。「今どんどん複雑になって、この結果がなぜ出たのかわからないような気候モデルが世界で何十もあります」。自分も若い頃はモデルのプログラミングに興じた時期があった。コンピューターがまだ遅かったときは、効率的なコードの生成が課題だったのだが、コンピューターの性能が向上するにつれて、より複雑なモデルが構築できるようになってくる。そこにおもしろさを感じたものだ。ただし、モデルが複雑になると、たくさんあるパラメーターの何が、どう出力に効いているのか、見極めるのが大変になってくる。気候モデルも複雑になりすぎて、モデルの振る舞いの理解が人間の能力を超えてしまったのかもしれない。とはいえ、気候システムの本質の認識はモデルを使わなくてもある程度は達成できるのではないかなぁ。全球を対象にして、どこで、いつ、どのくらいの変動が起きるのか、を精度良く予測することの本質的な価値は何か。温室効果ガスの濃度が増えれば、地球は温暖化するのは単純な物理である。それに地理的な違いや、特異な現象を加味して考察するなかで、未来を展望することはできるのではないか。地球をどうしたいのか、人類を、そして生態系をどうしたいのか、という理念に基づいて、現在できることをはじめる、これで良いのではないかと思うのだが、複雑で精度の良いモデルの結果が出なければ、人類は行動することはできないのだろうか。(2023年8月22日)
役に立つ科学-再び
8日に「役に立つ科学」について書いたばかりfだが、また書きたくなった。MLを通じて学術の動向に掲載された眞鍋淑郎先生のインタビュー記事が送られてきた。この特集号のタイトルは「持続可能な社会にとっての基礎科学」であり、基礎研究の重要性を主張することが目的であろう。インタビューアーの安成先生は「研究の評価にも、どのように『社会に役立つ』のかが、問われることが多くなっている」(ことが問題だ)と述べている。これまでの繰り返しになるが、現代科学の主要なパトロンは国なので、国が「役に立つ」ということを評価するのは当然である。ただし、評価軸が経済に偏っていることが問題なので、そこははっきり書かなければならない。国民の知的欲求を満たし、日本の文化的価値を高めることも「役に立つ」ことの重要な観点である。それが社会に伝わっていないのは科学者が十分に社会と交流していないからだろう。評価が科学者の世界のなかで閉じているばかりか、研究という営みのなかでプロジェクト研究が主体となり、採択されたプロジェクトに失敗はあってはならない状況になったことが現在の日本の科学レベルの低下をもたらした(欧米では失敗は成果である)。眞鍋先生は科学者として優れた成果を挙げることができたが、それはアメリカの経済成長に支えられたものではなかったか。日本は90年代に停滞の時代が始まったが、科学の成果は予算に比例することはわかっている。今後、20世紀型の経済成長が望めないのであれば、日本はモードの異なる科学を追究した方が良いと思う。それが超学際(学際共創)研究であり、オルタナティブ・サイエンスではないだろうか。少子高齢化、低成長の時代の科学を創る日本のチャンスかもしれないとも思うのだが。(2023年8月22日)
社会の変化は市井から
今日は北総クルベジファーマーズが主催するイベントに参加してきた。北総クルベジはバイオ炭(主に竹炭)によるカーボン・ニュートラルに取り組んでいる生産者グループである。今日はクルベジ取り扱いの農家さんが作った紹介動画のお披露目と取り組み紹介、トークセッションが行われた。クルベジの代表もそうだが、この農家さんも実に熱いのだ。参加者も50人はいただろうか。カーボン・ニュートラルは社会の変革だ。社会が変わるときには必ず市井の人々の精神的習慣の変革と広まりがあるのだ。人の変化があってはじめて技術や制度が活きてくる。そんなことを改めて感じることができた。何より市井の民には実行力、行動力がある。炭化器を導入し何でも炭にしてやろうというクルベジ代表の企てを聞いたが、企てを語るときの人というのは生き生きとしているものだ。企てをもつ人生にせにゃあかんなと自分も思う。(2023年8月20日)
環境影響を評価するということ
透き通るような青空のもと、銚子の風力発電施設更新の環境アセスメントに関わる視察に参加した。環境アセスメントにおける自分の担当は水環境で、地理屋としては水、地形、地質の項目を重点的にチェックしている。アセス書類では「重要な地形及び地質」に関する項目が必ずあるが、記載内容はいつも同じで、国土地理院の「典型地形」と「日本の地形レッドデータブック」(古今書院)に挙がっていなければ配慮すべき重要な地形及び地質はない、ということになる。日本の環境アセスメントは事業者が行うアセスであり、通常コンサルタント会社に外注される。受注者としては余計なことは書けないという事情もわかるが、コンサルの技術者には矜持があってほしいと思う。せめて、銚子ジオパークについて記述してほしかった。銚子市の範囲全体がジオパークで、台地側にも学術的に重要な地形がある、と研究者としては思う。きちんと記述することも技術者としての矜持だと元大学人は思うのだが、日本における技術者の地位は低く、発注者の意図を優先させるのは致し方ない。アセス書類はもはや紋切り型になってしまっており、事業者の義務としてのアセス本来の目的からは乖離してしまっている。こんな習慣が日本の技術力(ここでは環境の認識力)の低下を招いている要因の一つなのだ。どうしたら日本の技術力を向上させることができるのか。第三者が正しい自然認識の重要性をきちんと主張できることが必須だろう。ただし、環境アセスメントにかかる事業は自然だけではなく、人、社会との関わりがある。第三者には総合的、俯瞰的に事業を捉えることが必要なのだ。そのうえですべてのステークホルダーと地域にとって最善の事業になるような指摘や提案を行うことができれば良い。事業者側も未来に対する哲学、価値を語ってほしいなぁと思う。 でも、それは日本では環境行政としては担当者ではなく、もっと上のレベルで議論することと思われており、議論はあっても現場とはなかなか交わらない。環境、すなわち人、自然社会の関係性に対する影響を評価するとは、多様な視座と広い視野に基づき現実と理想の間の溝を埋めるということだと思うが、法律上のアセスメント委員会の所掌範囲からは飛び出してしまう。(2023年8月18日)
ほどほどの科学
宮沢賢治コレクション全10巻の最初の巻を読んだ。賢治の童話における風景描写はこころが落ち着く。「銀河鉄道の夜」はさらにファンタジーの世界に誘ってくれる。賢治の童話には仏教の思想が込められているが、銀河鉄道とは仏教における真理であり、永遠の命の流れなのではないか。それは手塚治虫の宇宙生命体(コスモゾーン)、新井満による老子の道(DAO)と同じものだ。それは運命をつかさどるものである。東洋の思想といいたいところだが、キリスト教徒も登場する。あらゆる宗教に共通するものを賢治は見ていたのかもしれない。運命をなにものかにゆだねる、すなわち「信じる」ということは安心を生み出す。それが宗教の役割なのだろう。しかし、同じ巻に収録されている「農民芸術の交流」において、「宗教は疲れて科学によって置換され 然も科学は冷たく暗い」と述べている。「グスコーブドリの伝記」では科学に対する夢を語っているように思うが、科学が進歩したその先を賢治は見通していたのかもしれない。そして、現在、科学は資本主義と結びついて、冷たく暗くなってしまったように感じる。ほどほどの科学でもいいじゃないか、と思うのだが、それは私が老いたせいか。(2023年8月14日)
科学における感性の意味
先日、印旛沼流域水循環健全化会議の水環境部会がオンライン開催された。健全化の重要な事業のひとつが沼岸の植生帯整備であるが、専門性の不足のためモヤモヤ感がある。この際、水草の水質浄化作用についてレビューをしようと思いたち、勉強をはじめた。こういうときにWEB上の公開情報とJ-STAGEは役に立つ。さて、水環境といったら山室真澄さんであるが、文献を調べているうちにブログを発見。読み始めたら止まらない。環境学者として彼女は一流だと思う。読み進めていたら「環境科学に感性はいらない」という記事を発見。「環境科学は感性に頼らない、大人の科学者が主導すべき分野なのです」とある。その通りだ。ただし、「感性」という言葉はマジックワード化して、使い手により異なる意味が付与されているように思う。山室さんは「情緒」という意味で使っているのだろう。私は「感性」こそが“環境”科学 において重要な力だと考えている。この場合の感性とは“事実の背後にある真実を見通す力”である。環境問題とは“ひと”、自然、社会の関係性に関わる問題であり、環境問題の解決(あるいは諒解)は、エビデンスと論理で構成される科学では解けない領域に踏み込む必要性がしばしば生じる。この場合の“ひと”とは顔が見え、名前があり、暮らしがある大和言葉の“ひと”である。数字と属性で表され、科学の言葉で記述できる“人”ではないのである。“ひと”の領域では先の定義による感性が重要になってくる。環境科学を問題解決型科学と捉えると、“ひと”を見なければならない。一方、環境科学を課題解決型科学として捉えると、情緒としての感性が入り込む隙間はないことは理解できる。両者の違いは視座の違いにある。課題解決型科学の視座では、対象となる自然を機能的に捉える自然観が背後にある。現象を構成する素過程がすべてわかっている、という前提もあるかもしれない。問題解決型科学では環境を“ひと”も含めた地域の総体、長い時間をかけて地域で形成されたものとして捉え、“ひと”の様々な事情や内面に心がかすめ取られる直前まで接近する必要性が時として生じる。もちろん、水草の水質改善効果という科学的課題に対しては科学的なアプローチでなければならないと思うが、ひとの思いに対しては感性を発揮できなければ、科学の成果を社会に実装することは難しいのではないか。感性という言葉の意味を深く考えなければならないと思う。(2023年8月13日)
人の安全、ひとの安心
北京にも近い河北省の琢県は三国志演義の「桃園の誓い」の舞台となった地である。昔、北京から石家荘に向かう高速道路で通過する度に、三国志の一シーンを思ったものだった。北京周辺では7月末から大雨が続き、治水が課題になっている。桃園の地では堤防が切られ、氾濫させることにより、下流の都市や施設を守るという対策がとられた。これは中国式の治水で、管理者から見れば遊水池、住民からみると在所である。朝日朝刊9面の記事の見出しは「浸水『大都市のための犠牲に・・・』」。この見出しには既視感がある。同じ事を1998年の長江水害のときに経験した。下流の武漢を守るために、長江の小堤を爆破した。NHKが定点観測を行い、「省都の犠牲になった村」として報道された。その場所は遊水池であった。治水の手法としては合理的であるが、そこに住まざるを得ない人への配慮はなかった(当時でも居住人口が多すぎる遊水池には導水されなかったが)。やはり、漢字の“人”は規範的な人であり顔は見えないのか。水害の被害者は誰か。その地から便益を得る人か、そこで暮らす人か。日本式の治水は“ひと”を見てほしいものだ。名前があり、顔が見え、暮らしが見える“ひと”、やまと言葉の“ひと”である。科学的合理性だけではなく、そこで暮らす人々との間で共感と地域づくりの理念を共有したうえで科学的合理性を導入して行う治水対策。それが“流域治水”であるはずだ。日本の治水は人の安全から、ひとの安心に向けて変わりつつあると信じたい。 (2023年8月11日)
楽農報告
もう野菜ないの、とかみさんに言われ、畑にでる。このところの高温と昨日までの不安定な天気のため、数日畑には出なかった。畑では、キュウリ、オクラ、ナス、ピーマン、シシトウを収穫。たらい一杯に山盛りの野菜は気持ちが良いものだ。ただし、畑はあっという間に雑草に占領されつつある。草刈りをやろうと思っていたが、暑くて身体が動かなかった。草を刈って、畝の間に敷くことによって土壌の乾燥を防ぐことができるのではないか、なんてことを考えてはいたのだが、日和ってしまった。農ある暮らしが定年後の目標の一つだが、最近は不耕起、浅耕で、雑草を活用する農業がはやりなので、まぁいいか、と考えて涼しくなるまで待つことにする。先送りの術である。(2023年8月10日)
地球温暖化問題の解決
暑い日が続く。地球温暖化が進行しつつあることを身体で実感することができる。老人はエアコンを適切に使うようにとの広報もかまびすしい。自分も老人だが、寝室ではエアコンを使っていないのだ。実は一気にエアコンが壊れて寝室の対策は後回しになった。かみさんはエアコンのある部屋に避難したが、自分はちょいと考えがあって寝室に踏みとどまっている。温暖化対策にはエアコンや断熱といった個別の技術的対策だけではなく、都市の構造変化を考えねばならぬ、と常々主張している。我が家は庭、畑の空間が周りに存在し、それが涼しい風を運んでくれるはずなので、自然を活用する対策案を実証してみようと考えた。夜は窓を全開にして風を導入し、扇風機(消費電力はエアコンの1/10以下)を活用して過ごしている。昨日は立秋だったが、今のところ快適に過ごしている。気温が30度を下回れば寝付きに問題はなく、明け方は寒いくらいである。自宅の周辺では戸建て住宅の建設が増えているが、庭は狭く(ほとんどない)、窓も小さい。おそらくZEH(ゼロエネルギーハウス)の仕様は満たすのだろうが、家で暮らすということの大切な部分が失われているような気がする。家とは土地の広がりまで含むのだ。阿武隈では遠景までを庭に取り込んだ暮らしを知った。日本は人口減少時代に入り、都市圏周辺部では拡大した都市をうまく縮退させることが重要な課題になっているはずだ。家に緑の空間を取り戻し、風を呼び込むことによって温暖化問題の解決を図ることができるはずだ。もちろん、この提案は数多の対策のひとつである。問題は日本が総合的、俯瞰的に問題を捉えることができなくなっているということだ。温暖化に関わる要因を包括的に捉え、それらの関係性を明らかにし、短期と長期の視点に基づき、より人間らしい居住環境を整える営みを創造すること。そこから地球温暖化問題の解決に至ることができるはずだ。(2023年8月9日)
役に立つ科学
国立科学博物館でクラウドファンディングを実施したら、1日で3億円も集まったというニュースがあった。これはすごい。科博の役割が社会に認知されているということだ。科博は人々の知的欲求を満たし、文化的暮らしの質の向上に“役立っている”ということだ。私が、“科学は役に立つべきだ”、なんていうとすぐに“儲けよ”ということと勘違いされて批判されることも多いのだが、私の意図は経済的価値だけではない。人々に支持され、人間の持つ知的欲求を満たす科学であるということが社会との交流によって明らかになっていれば、それが“役に立っている”ということだ。現代の科学のパトロンは国であり、その予算は税金であるから、科学の営みの先には納税者を意識しなければならない。科学の黎明期にはパトロンは貴族だったわけで、初期の科学者はパトロンに対する説明責任を負った。ならば、現代の科学者は納税者に対する説明責任を負うべきだという主張である。論文を書けば、自分ではない誰かが成果を社会に役立てるとは考えないで、科学者自ら成果と社会の関係を考えてほしいと思うのである。もちろん、現在の科学の評価システムのもとで、若い研究者にそれを求めるのは酷である。キャリアに応じて力点を数値指標から“社会指標”に移していくのも良いと思う。科学者の意識世界も広がっていくだろう。社会指標についてはいろいろな営みが考えられるが、自分は現場における市民科学への貢献にしたいと思うのだ。(2023年8月8日)
国産ジェット開発断念を考える
朝日朝刊で「国産ジェット開発断念の背景」と題するサロンの案内を見た。開発断念は誠に残念だった。この失敗から得られた教訓が語られるのだろうが、教訓は明確ではないか。それは技術開発と社会実装の間には大きな溝があるということ。この溝を埋めるためにはステークホルダー全体の“目的の達成を共有”した協働が必要であること。協働の仕組みを作る知識も経験も日本の航空機産業にはなかったということだ。航空機産業“全体”の範囲を見極めることができなかった。このことは科学の領域でも同じだ。科学者は論文を出版すれば、自分ではない誰かが社会に役立てるのだと思い込んでいるかも知れないが、そんなことはない。社会に実装するには多くのステークホルダーによる協働と努力が必要なのだ。最近、科学のあり方について考えているが、①ノーマル・サイエンス、②課題解決型科学、③問題解決型科学の三つの頂点をもつ三角形を考え、現状として③問題解決型科学に(社会との)連帯を結びつけた。理想型としては三角形の真ん中に“社会”を置いて、三つの頂点と結ぶ形になるだろう。各頂点間と“社会”の結びつきの強さを検証すれば、その科学技術の分野の状態がわかる。正四面体と考え、四つの頂点が強固に結びついている状態が近代文明社会の本来のあり方だ(ここに貨幣が登場すると正四面体が歪んでしまう)。それを見て科学者や技術者が自分の営みの社会における位置づけを行うこともできるだろう。そうなっていない遠因は明治における科学技術の導入のあり方にあったのかも知れない。成果だけを導入し、その成果に至った思想、哲学、価値観を学ばなかった。だとすると、日本が回復すべきことは日本の思想、哲学、価値観を打ち立てることである。その先にあるのは科学技術立国だけではなく、こころ豊かな小国だって良い。(2023年8月7日)
道とはなにか
これがわからなかった。老子の“道”。読み方さえわからなかったが、“みち”でもいいし、中国語の“Dao”あるいは英語風の“Tao”でも良いとのこと。これでひとつ疑問が解けた。では改めて“道”とはなにか。新井満の自由訳「老子」によると、“この宇宙をくまなくとうとうと流れ続けているいのちの巨大な運動体”。これですっきりした。それは手塚治虫「火の鳥」における宇宙生命体(コスモゾーン)だ。となると宇宙生命体が阿弥陀如来で、火の鳥は大日如来かもしれない。仏像は宇宙生命体の“色”の次元におけるイメージにすぎず、形を認識することはできないものだ。“道”は“空”であり、万物を創造し、亡ぼし、再生する。我々の命は永遠の流転のなかで色の次元に一瞬、泡沫のごとく現れたものに過ぎない。儚い一生をどう生きるか。それも老子は教えてくれる。無欲、謙虚であれ、そして、不浄の徳、貢献の徳をもって生きよ、と。そうありたいと願うが、現代社会の精神的習慣に染まってしまった身と心では涅槃はほど遠い。しばらく悶々とした日々が続くだろう。(2023年8月6日)