隠者のつぶやき

今年は68歳になる。年寄りといってよい。世間はまだまだ若いというだろうが、老いを意識しない無責任な発言にすぎない。もはや老年であることは避けられない。身心は確実に衰えている。気力の喪失と身体の衰えとの闘いが始まるのだ。その中で経験知を活かし、何らかの実践ができることがひとつの幸せだろう。相撲界では引退後に若手の指導や運営を行う元力士が年寄りだ。社会における年寄りになることをめざしたいが、イニシアティブをとるということではない。社会を外側から俯瞰し、認識したことを勝手に発信し、求められたときに少し動く。そんな存在がよい。(2026年1月1日)

2025年のつぶやき


楽農報告

今日はズッキーニとつるなしいんげんをポット撒き。ダイコン、ニンジン、ホウレンソウを条まき。芽が出ているジャガイモ(はるか)を2列移植。これで安心。後は畑の手入れをしながら待つだけ。(2026年3月2日)

楽農報告

彼の地ではひとの不幸がリアルタイムで増えているというのに、こちらでは暖かい春の平和な雰囲気が漂っている。春蒔きの野菜の種を買おうと思ったのだが、直売所ものぞきたいので八千代JAまで足を伸ばした。“JAのたね”は近くのホームセンターよりかなりお高めだったのだが5種類購入。ふと、種の生産地を見るとちょっとな~と思う。ホウレンソウはデンマーク、つるなしいんげんはアメリカ、ニンジンはチリ、ズッキーニはインド、そしてダイコンのみ岩手県だった。扱いはみな宇都宮にある(株)トーホクということだが、種の権利関係はどうなっているのだろう。もし輸出制限なんてことがあったら日本の野菜はどうなっちゃうのだろうか。いやいや自由貿易の恩恵を受けているということになるのだろうか。まだ播種には早い種もあるのだが、家庭菜園なのでなるべく長い期間、適量を収穫したいので時季を何回かに分けて撒くのだ。ズッキーニ、インゲンはポット蒔きする。まずはズッキーニは梅雨前の収穫をめざす。昨年つるありいんげんは失敗したのだが、暑さに弱いということらしい。今年はつるなしにする。畑ができる土地と、家と、少しの収入があれば人は十分生きていけるはずだ。貨幣に頼りすぎる社会は脆弱なのではないか。そんな風に思っているが、周囲の住宅は庭がなく、窓が狭い建物が多い。貨幣とエネルギーの供給に問題がなければ快適だろうが、そこが問題になってきたようにも思う。(2026年3月1日)

こんな世界はいやだ

アメリカとイスラエルがイランを攻撃した。ハメネイ師と家族も亡くなったとのこと。イランや中東、そして世界も混迷を深めている。武力で他国の体制転換を図るような国はいやだ。そんな国が増えてきた。世界がだんだん悪くなっている。こんな世界はいやだ。攻撃によって人が死ぬことはアメリカやイスラエルにとって利益なのか。いやいや、世界はちゃんと見ている。20世紀の後半、世界は民主主義、人権を尊ぶ精神的習慣を育んできた。しかし、多くの国は強大な武力、財力を前にして日和っている、あるいは雌伏している。それでも世界には底流が存在する。その底流がいつ奔流になるのか。アメリカやイスラエル、そしてロシアや国民を虐げている国々は、終わりが始まっていることにいずれ気がつくだろう。その時まで世界が持ちこたえられるか。その前に日本が持ちこたえられるか。どんな外交をすればよいのか。そんなことはわからないが、まずはあらゆる視座と時間軸をもって全体を俯瞰することだ。政治はそれができているか。その上で決断をするしかないが、その決断が日本の未来を変えることになる。直ちに変わるというよりも、大きな慣性をもって徐々に変わって行き、その進路を変えることは容易でなくなる。さて、政治家諸君は今どうする。(2026年3月1日)

中道と原発

「中道」は仏教用語であり、なかなか解釈が難しい言葉でもある。政治でも「中道」が話題となっているおり、WEBで検索をしていたら「エンサイクロメディア空海」(けっこうおもしろい)というサイトの中にある「中道を生きる-高橋憲吾のページ」の中でこの言葉を見つけた。「...仏道に依って正見、正思、正業しようと努めれば、人間は行き過ぎた文明の行為を自制するしかない。外なる文明の進歩は重要だが、内なる智慧の完成はさらに大切でははなかろうか」。ちょうど、所属するNPOでフランスのCLI(地域情報委員会)の視察を行った理事長の報告を伺ったばかりだが、なぜ日本はステークホルダーが集って対話を行いながら原発を監視することができないのか、ということを考えている。それは、日本が文明の表面的な進歩ばかりを推進し、文明の利器を運営する智慧を完成させることができなかったということだ。しかし、日本には仏教の精神があったはずで、本来ならばフランスのように原発を運営することができたはずだ。なぜ、日本はできなかったか。それは明治維新で日本の伝統的な精神が否定され、西洋から科学の表層のみを獲得しようとしたことが出発点ではないか。日本はもう一度仏教の精神に立ち返る必要があるのではないだろうか。アインシュタインは「宗教のない科学は不完全であり、科学のない宗教は盲目である」といっている。これは現実の表層と深層、ボームの言葉を借りれば明在系と暗在系の全体を見よということではないか。高橋氏は言う。「中道」とは、人間の営みの中で、「本当は何が正しいことか」と常に仏に問いかけることである」と。仏の世界と人間の世界の双方が同時に視野に収まった、いわば中間の道を生きることが肝要であり、これが「至要之道」(肝心要の道)であり、仏の声を聞きながら娑婆を生きる、そういう生き方を説いたのが「中道」であろうという。日本の原発の運営は娑婆のみを見ており、仏の声を聞いていないのだな。一方、フランスはキリスト教、最近はイスラム教も増えてきた一神教の社会であるが、市民革命を経験し、国民国家形成の過程で市民性の獲得が重視され、教育過程の中で「市民性教育」(これには移民が増えたことも関係している)や哲学が重視されるようになった。高校生が受験するバカロレアの哲学の問題を見ると多くの日本人はショックを受けるのではないか。ここが日本が遅れている点なのだと思う。その認識の上で、原発の運営、翻って日本の運営として何をやるべきか、考えていかねばならぬな。(2026年2月27日)

右と左の間

高市内閣が始動したの。どうも右寄りの姿勢が心配じゃが、自分の立場は左寄りだと思うちょる。ならば、右や左とは何じゃろか。これが結構難しいのじゃ。右は競争を是とする姿勢、左は協調、協働、共同を是とする姿勢かの。右は未来志向が強く、左は現在を重視する。現在と未来はつなげなければならないのじゃが、どうも分断されているようじゃ。右は勝者を善とし、左は敗者を見つめる。右は“人”を見て、左は“ひと”を見る。こんなふうにいえるかのう。現実はどちらが正しいということではなく、間により望ましいあり方があるのじゃろ。分断の先には包摂があるのじゃ。ならば、中道か。中道とは仏教用語で「かたよらない中正な道」で、これぞ「真理」なのじゃ。真理も難しい言葉なのじゃが、過去、現在、未来の宇宙全体の有り様じゃ。全体を語る政治家がおらんのが寂しいな。 (2026年2月21日)

楽農報告

腰をかばいながらソラマメとスナップエンドウを移植。これで安心。後は暖かくなる3月を待つ。ただ、耕運をどうしよう。この腰はそろそろ賞味期限を迎えつつある。それでも畑をやめるわけにはいかない。やめたら老け込んじゃうのではないかな。(2026年2月18日)

楽農報告

昨日は休んだのだが、その前の3日間は畑で鍬を振るった。そのせいか今朝顔を洗っていた時に悪魔の一撃を腰に受けた。これはやばい。昨日黒柴娘の紡さんとの散歩で遠くのカインズまで遠征してソラマメの苗が店頭にあることを確認したので、腰をかばいながらも買いにいった。明日から3日間は外出の予定があるので畑作業が難しい。なんといっても売り切れがこわいので確保しておく。腰の回復までポットのままで維持するつもり。それにしても老いたわい。もう無理はできんな。畑作業をなるべく機械化しないとあかんかもしれない。それでも畑は春に向けて少しずつ美しくなっており、幸せの因子もちょっとだけ満たされている。(2026年2月17日)

幸せの4つの因子

ウェルビーング(well-being)について勉強しようと思い、J-Stageを検索していて出会いました。前野隆司(2023):解説「ウェルビーングとはなにか」、音楽教育実践ジャーナル、vol.21、6-20.いろんな雑誌があるなぁ。この解説の中に“幸せの4つの因子”というのがあり、これら4つの因子を満たしている人は幸せだそうな。それは、①自己実現と成長の因子(やってみよう因子)、②つながりと感謝の因子(ありがとう因子)、③前向きと楽観の因子(なんとかなる因子)、④独立と自分らしさの因子(ありのままに因子)、なのだ。いわれてみると当たり前なのだが、幸せの要件は当たり前を実践することなのだろう。これらは仏教や哲学の説いているところと同じだ。重要なことは、4つの因子は修行によって獲得することができることではないか。だから、幸せは案外身近にあるものなのかもしれない。おもしろい指摘は何かを創っている人は幸せであったということ。美しいものを鑑賞するより、創造している方が幸せだというのだ。これは傾聴に値する。音楽は聴くだけでなく演奏するとより幸せになるのだな。畑作業は心が落ち着くが、これも作物を作っているからだ。だから、これからの社会は手作りの営みを残してことが大切という内山節の考えも納得がいくのだ。(2026年2月27日)

青年は荒野をめざさない

2月放送の「寺島実郎の世界を知る力#65」をYoutubeで見た。その中で、今月の新刊「無敵化する若者たち」金間大介著をひいて、その中身を実感として共有するという話が気になった。今の若者(20~40代くらいを想定)は「がんばるくらいならこのまま衰退していい」が6割、そして「仕事にも出世にも興味がない」、「好きなことで生きていたい」という若者が多いという。一方、自己肯定願望は強い。そこから寺島は一定の豊かさを与件として育った若者、圧倒的な逆境に立ったことがない(大多数の)若者が、右肩下がり時代の日本と併走することになり、その状況の中で価値観が変わってきたことを実感するという。青年は荒野をめざさないのだ。五木寛之は「青年は荒野をめざす」だったが(1967年出版)、今ではめざすといったら若者には爆笑ものだという。ここから、衆院選における自民党大勝の背景として、中間層・富裕層(これについては別の論考あり)や若者の深層心理・社会構造の変化があることに気付くという。これは自分もよく理解できる。ただし、それで良いのかというところは熟考しなくてはいけないだろう。人の価値観は生きた時代の状況によって形成される。だから世代ごとの価値観は異なって当然だ。しかし、全世代は今という同じ時間を生きている。未来へ向かうベクトルは人や世代によって異なるが、同じ未来を迎えるのだ。その未来はより良いものでありたい。どうすれば実現できるか。まずは世代間の対話が必要だと思うが(現実の全体性を共有するため)、寺島は「若者や高齢者の社会参画とそれを支える制度・仕組みを創り、民主主義を支える国民意識を醸成することが重要」と述べている(現役世代はすでにがんばっている)。自分も強くそう思う。日本は良い国になったが、行政サービスはもはや与えられるものではなく、自らが参加し、創り上げていく時代になったことを自覚しなければならない。世代間の意識の違いを調整し、新たな時代の精神を創りあげられなければ未来に対応できないのではないだろうか。(2026年2月17日)

楽農報告

この3日ほどは暖かかったので営農を開始。枯れ草を除けて、石灰、鶏糞を撒いて耕す。まずはジャガイモ。昨年の食べ残しのキタアカリとハルカが芽を出しているので移植。男爵系を入れたいのだが、芽出しハルカがまだ残っているので今年はハルカでいこう。ハルカはメイクウィーン系で大ぶり。サヤエンドウを三株移植。ソラマメを移植したいと思ったが、ロイヤルにはすでになし。どこかに売っていないだろうか。タマネギ畑の草取りをして、追肥。長ネギ、ホウレンソウは順調に採れている。今年は物価が高いのでなるべく自給したいと思う。普段は頭痛に悩まされているが、畑作業中はすっ飛んでしまう。鍬を振ると腰が痛くなるが、少しずつ播種の準備が進むと気持ちが良い。畑を眺めているとほんに心が落ち着く。(2026年2月15日)

爺の凋落と婆の躍進

衆院選は見込み違いだった。それは自分の理想が全面に出て、現実を見定めることをしなかったからかも知れない。理想としては、不戦国家として世界に認められること、健全な財政のもとでの国家運営、列島全体と全世代の俯瞰に基づいた未来の構想を打ち出してほしい、という思いがあった。それは未来志向ともいえるが、日本国民の選択は厳しい現実をどうにかしてほしいという期待だったのではないか。そこに熟考があったのかどうかはいずれ分析が進むだろうが、未来よりも現実が重くのしかかっているということなのだろう。自分は環境問題に対しては現実志向であり、現実の問題解決の先に未来を展望するという主張だった。しかし、政治に関しては未来志向に偏っていたようだ。ここは反省して、現実に軸足を置くという立場を再確認しておきたい。さて、高市政権は日本をどう変えていくか。今回は爺の力の衰えを実感した。婆、いやいや女性がますます強くなる時代。それは社会運動でも常日頃感じることである。爺は隠者として世の中を見つめていきたい。(2026年2月9日)

大学とは何か

国立大学はどうなっちゃうんだろう。朝日朝刊の教育面のヘッドラインは「国立大 減る教授 増える助教」。大学教授は私立、公立では増えているが国立では減っているとのこと。なんと千葉大の事例が取り上げられておる。千葉大では教授退職後のポストは若手の雇用に使うことになっている。最初から常勤の道は狭いので常勤教員は減って、有期の非常勤教員が増え、教授も減ることになる。若手育成といった理由付けはできるが、実際には人件費抑制がねらいだろうとユニオンの委員長も指摘している。若手の増加は現在主流となっているプロジェクト制のもとでは親分の幸せにはなるが、若手が自由に発想し、課題を解明していく道にはつながりにくい。現行の研究評価のあり方も“新しく価値ある知識の生産”には不向きだ。若手の非常勤採用は大学経営者としてはやむにやまれぬ判断であることはわかるが、理由を後付ける前に、大学とは何か、何をやるところなのか、という本質的な議論が必要だ。これが永らくなかったのだ。大学上層部がさらに上層の文科省の指示に弱いことは明々白々なのだが、大学人が“理念なき会社の従業員”になってしまった状況では責めることはできんだろう。自分も陰で文句をいっているだけだった。何が問題か。それは文部科学行政、ひいては日本の社会のあり方について包括的な視野で俯瞰し、未来を展望でき、かつ主張できる人材がいないということだ。国立大学では雑用ができれば出世できる。研究は本質よりも数値指標で評価される。国立大学はエリートでなければ生き残れない組織になった。それが社会との分断を促し、大学機能の劣化につながる。もちろん言い過ぎだが、深層では変革を希求する精神が疼いているだろう。近いうちに噴火は起こるだろうか。大学人は給料は少なくても自由であること。本質の評価ができる人材であること。教育・研究の本質を熱く語ることができること。そんな大学人は世の中をほっこりさせる。大学人が貧しくても暮らしていける社会、心が充実している社会になればいいなぁと心底思う。(2026年2月4日)

雪と人生

テレビを見ているとほぼ毎日大雪のニュースを目にする。雪国の方々はたいへんだなぁと思うが、それだけではない何かがあるようにも思える。今朝の朝日朝刊の天声人語では雪国の方々のご苦労を語っているが、江戸時代後期の鈴木牧之著「北越雪譜」から「雪国の難儀、暖地の人おもひはかるべし」と引いている。こんな時期に選挙やるなんて暖地の人はわかってないんじゃないのということだ。この北越雪譜は江戸で出版して売るために「雪の手ごわさを挙げ、訴えている」という話を聞いたことがある。江戸の人々には雪の手ごわさが受けるんじゃないということだ。現代の大雪のニュースもそんな認識があるのかもしれない。では雪国の人々はどう雪をとらえているのだろうか。鈴木牧之には没後出版された「秋山紀行」がある。秘境といわれる秋山郷の見聞録であるが、自分も好きで信濃教育会編と信大付属長野中学校編の2冊持っている。もちろん、冬にはいけないので無雪期の旅だが、冬季の暮らしはたいへんだったことだろう。秋山郷には平家落人伝説があり、13世紀には文献にも登場するというので1000年近い歴史があることは確かだろう。おそらく、雪というのは災いというよりも、自然(じねん)として雪とともに暮らすという感覚があったのではないだろうか。そこには人と自然の豊かな交流があり、雪は人生における重要な要素でもあった。これは伝統的に雪国に暮らす人々に共通する感覚ではないだろうか。現代は人と自然が分断された時代だ。大雪は災いになってしまった。それは社会のあり方がもたらす災いでもある。暖地と同じあり方が雪国にも求められる。雪への適応策が失われ、大雪の前で人は為す術を失う。現代という時代の精神的習慣が変われば、雪もまた楽し、ということにはならないか。これも暖地の人の狭量にすぎないだろうか。(2026年2月3日)

俺は弱虫

今日は義父の一周忌で佐久に行ってきた。北に浅間山、南に八ヶ岳、東は関東山地、遠く西にはアルプスの山並み、手前のなだらかな丘陵には冬の枯れ色の明るい落葉広葉樹林。なんて良いところ何だろうか。かみさんの実家に縁者が集い、故人を偲ぶ。昼から一杯飲めるのは幸せだ。賑やかだが、年を経るにつれ少しずつ減っていくのは宿命。集いが終わればみなそれぞれ別の場所に帰っていく。義母も寂しそうだ。現代はふるさとで先祖になることができない時代だ(死者とともに暮らす世界が失われつつある時代)。人生にはステージがある。それは分かっているが、老いるということは寂しいものだ。帰宅して新聞を開いたらこんな言葉が目に入った。「老いることは弱虫には向かない」(朝日新聞GLOBE)。その通りやなぁ。俺は弱虫や、と思う。(2026年2月1日)

普通の国?

選挙戦がはじまるのう。日本国民は何を選択するのか、興味があるところだが、ずっと気になっていることがある。衆院解散に際して高市さんは“右傾化ではない、普通の国になるだけだ”と発言した(1月19日)。確かに日本は普通の国ではなかった。敗戦後、80年にわたって平和を希求し、戦争をしなかった。これは普通の国ではない。これこそ日本の財産だ。高市さんのいう普通の国は軍隊を持つ先進国で、力によって肩肘張る国なのか。それは見かけの強さで、尊敬される国ではなかろう。日本がめざすのは尊敬される国だ。もはや経済力も減退しつつある状況で“普通の国”になってしまっては気の強い国々の中で埋もれるだけだ。世界からそっぽを向かれるのではないか。それでも、草の根で日本の未来を憂い、行動する人々はたくさんいることを信じる。開票日まで気が抜けんな。(2026年1月27日)

さて、齢68になりました

もう誕生日もたいしてめでたいものではないなぁ。昼頃になって、そういえば...ということになったが、今日も普通の日だ。何もなければ後10年くらいは生きていけそうだが、その間に何をやるか。ただ、生きているだけというのもおもしろくない。何か心を満たすことをやりたい。趣味か、畑か、犬との暮らしか。音楽を聴き、ギターを弾いているときは心地よい。畑に出ていると集中できる。犬はかわいい。世の中のありさまをもっと知り、意識世界を拡大させたいと思うのだが、世の中は複雑すぎる。世の中のありさまを知るということは神になるということかもしれない。そりゃ、無理だね。でも、少しずつ深めていきたいと思う。(2026年1月23日)

縮退の時代の影響の現れ方

羽鳥慎一モーニングショーで八潮市の陥没事故の話題を聞いた。あれからもう一年なのか。事故による直接被害だけでなく、工事による振動、家屋の亀裂、そして硫化水素によると思われる異臭や金属の腐食、家電の故障など様々な被害が顕在化しているそうだ。影響を受けた方々は本当にお気の毒だと思うが、下水道をはじめとするインフラの劣化は高度成長から縮退の時代へ向かう日本の現代史の中に位置づけることができる。同様な事象は今後も日本各地で起こるだろう。八潮市の例でもわかるように時代の変化の影響は社会全体にじわじわと生じるのではない。特定の領域で起こるのだ。その結果、受益と受苦が分離されてしまう。縮退の時代の中で受苦者が各地で増えてくる。和辻哲郎は著書「風土」のなかで日本人の性質は「受容的」、「忍従的」と述べている。現代の日本人は受益と受苦の関係には鈍感であるように思うが、受益と受苦の関係に気付いたとき、はたして日本人は「受容的」、「忍従的」でいられるだろうか。衆院が解散されるが、これも選挙における重要な論点であるように思う。日本の構想やビジョンの中で語られなければならない。(2026年1月23日)

暇を楽しくする知恵

Googleのおすすめ記事で山口周と所ジョージの対談記事が送られてきた。日立製作所が配信している記事。『「幸せのひきがね」は、面倒くさがらないこと/所さん式、人生を楽しく生きる術/【その3】「人生の達人」の極意は比べないこと』というタイトルで、おもしろいので全ての記事を読了。その中で山口氏がこんなことを言っていた。『 「暇」ってギリシャ語でスコレー(scholē)といって、これが「School=学校」の語源なのだそうです。学校というと「勉強させられるところ」というイメージが強くて、なぜ「暇」が語源なのか不思議に思われるかもしれませんが、暇を楽しく有意義に過ごすためにはいろんな知識や技術、知恵が必要。だから学校で教えましょうということになったので』。私立大学で講義を二コマ担当しているが、わがままな年寄りなのでシラバスを気にせず話している。学校が暇を楽しくするための知恵を授けるところだとすると、我が意を得たりじゃ。学問を要素化してシラバスを決めて話すだけだと「勉強をさせられる」ということになりがちだが、自分は項目の関係性を重視し、様々な話題へ飛ぶのじゃ。すると、自分との関係性も見えてきて楽しくなるはず、と思うのじゃ。ただし、学生が何を感じているのかはわからん。楽しんでいると信じるのみじゃ。先日、学生に話題を振ってみたのじゃが、受け身の姿勢が垣間見えてしまう。ちょっと残念な気もするのだが、教育というものは100%うまくいくということなど期待せずに、ひとりでも影響を受けてくれる学生がいたら良しとして、それを信じて粛々と行えば良いのじゃろう。オレの話を聞け、などといったら老害になってしまうからなぁ。それにしても所ジョージの生き様はいいなぁ。高田純次も好きなのだが。志村けんも好きだった。粋な老人になりたいもんじゃの。(2026年1月22日)

例外の積み重ね-どう乗り越えるか

昨日、“多国間主義に基づき国際社会の中で国連憲章、国際法の遵守を求める発言をすることが大切だ”なんて書いてしまったが、その困難さは年々増してきたのだ。朝日朝刊文化欄の「重ねた『例外』 国際法軽視の『先例』に」(西平等さんのインタビュー記事)から。アメリカのパナマへの軍事介入(1989年)、NATOによるセルビアの空襲(1999年)、アメリカによるオサマ・ビンラディンの殺害、などなどたくさん。そしてロシアのウクライナ侵攻、アメリカのベネズエラ侵攻、などなど。例外は積み重ねられ、国際社会は大国の横暴に声を上げることができなくなってしまった。来月には新しい政権が発足するが、勇気を持って国際的員発信することはできるだろうか。アメリカ追随では国際的な信頼は得られない。まずは日本国民が真っ当な判断をすることが重要なのだろう。2月8日の衆院選開票ではどうなるだろうか。国民が意思を示すことが大切だ。だが、争点にもならないようでは日本の幸先は危うい。 (2026年1月21日)

台湾有事-反省の弁

非常勤で担当している大学の講義は世間話から始めることにしているのだが、高市首相の台湾有事発言に関しては一国の首相の一番大切な仕事は戦争をしないこと、日本の若者を戦地に送らないことだという話(寺嶋実郎のパクリ)をした後に日中韓米の関係に関する分析を学生に話した。まともな事を話したつもりだったが、岩波世界2月号(特に駒込論文)を読んで大いに反省した。外交関係の話では台湾の国民の観点がすっぽり抜け落ちていたのだ。台湾の人々は歴史の中で中華や日本に支配された時は自国民でもない、敵国民でもない、すなわち人間ではない、という扱いを経験してきた。その中で、自主、自立の気概を育んできたのだ。自分はエンパシー、すなわち当事者の立場で考えることが大切だと主張していたにもかかわらず、台湾有事の分析においては第三者の大国(日本はもはや大国ではないが)目線であった。大いに反省した。では、どうすれば良いか。それは多国間主義に基づき、国際社会の中で国連憲章、国際法の遵守を求める発言をすることが大切だ。そのためにも世界のあり方に対するビジョンを政治家は持たなければならない。政治家がビジョンを持つためには国民から政治家に向けて発信しなければならない。これは言うに易く行うに難しだ。ビジョンを明確にして発信するとすぐにたたかれてしまう風潮がある。やはり、対話ができるということが大切で、それが近代文明人であることの要件だと思うのだが。(2026年1月20日)

近代文明技術を使いこなす精神的習慣

中部電力浜岡原子力発電所におけるデータ操作疑惑はまったく残念な出来事であるが、その背後に何があるのかを知ることが日本にとって本質的に重要なことかもしれない。日本では評価(アセスメント)は事業者が行う。担当者は職階のヒエラルキーの中で事業者(上司)の便益にかなうような結果しか出さない、あるいは出せない。これは環境アセスメントでしばしば経験したことだが、それがアセスメントにおける悪しき常識になってしまっているように感じる。ひょっとしたら担当者は何の罪悪感も感じずにやってしまったのかもしれない。モデル計算では、モデルの構造、初期条件、境界条件の設定如何で結果を操作することが可能だ。アセスメントの目的とシミュレーション技術の使い方に関わる思想が事業者と社会で共有されていないことが問題だ。今後、検証が進んでいくはずだが、悪しき精神的習慣を糺すことはたいへんな労力を必要とする。今回は通報者があったということだが、ムラ社会の中では勇気が必要なことだったろう。表層で検証を進めることができても、底層にある精神的習慣を見極めないと過ちは繰り返される。近代文明技術を使いこなすということは表層と底層の全体を見極めることが前提とならなければいけないのだ。(2026年1月6日)

1968年~歴史から学ぶ

事象の全体性へのアプローチが大切だと常々考えているが、なかなか難しいことでもある。ベネズエラをめぐるアメリカの行動と諸国の反応の理解のためにはもう一度歴史に立ち戻る必要がありそうだ。昭和100年に際しては日本の近現代史を学び、自分の不勉強を恥じたところであるが、世界の現代史を調べ始めたところ、すぐにヒットしたのが1968年だ。この年は世界で様々な事件があった。チェコスロヴァキアの“プラハの春”、ポーランドの“3月事件”、メキシコの“トラテロルコの虐殺”、フランスの“5月革命”、そして日本では全共闘運動。ベトナム戦争、文化大革命が進行中であり、ソ連は武力により“プラハの春”を鎮圧した。これらの一連の事象に関する歴史的、文明史、人類史的解釈と、その後の時代への影響を理解したい。さらに調べるとキング牧師、ケネディー大統領が暗殺された年でもあった。アポロ計画が進行中で、翌年には人類が月に到達する。何か意味がありそうな気がする。こんな観点は学者思考で、浮世離れしておるかのぅ。(2026年1月5日)

国際法~正義を遅らせるもの

アメリカのトランプ大統領がベネズエラを攻撃し、大統領夫妻を拘束したという。報道では国際法違反の疑いとの記述がある。国際法については岩波世界の1月号に気になる記述があったことを思い出した(根岸・金城対談「ガザ・ジェノサイドに日本から応答する」)。引用すると「国際法はまずしっかりと戦闘状態を止め、そのあとに紛争解決などを通じて正義を追求していくものだと。正義を先に追求すると紛争当事者の正義のぶつかり合いになってしまい、平和はいつまでも達成されない」(西平等(にしたいら)、<正義を遅らせるもの>としての国際法、「法と哲学」10号、信山社)。ウクライナ、ガザもそうであるが、ベネズエラも同様な事態に陥ったといえる。本来はこのあとに国際法が登場するはずだが、大国は我こそが正義だから、相手は悪という考え方から脱却できない。調停を行うことができる機関は国連しかないが、安全保障理事会は常任理事国によって機能不全に陥っている。今こそ、日本は国連加盟国の先頭に立って国際法および国連憲章の遵守を呼びかけてほしいものだ。国連を機能させるのは加盟国なのだから。(2026年1月4日)

新年の挨拶

新年明けましておめでとうございます(と心置きなくいえる時代にしたいものだ)。実は昨年は義父が亡くなり、喪中なのだが、正月は死者とともに祝ってもいいのではないだろうか。自分が死んだ時は喪中はなくてもよい。先祖になって子孫の楽しい様子を眺めていれば満足だ。ただし、人口減少の局面で子孫のない先祖になるのは寂しい。それも宿命(しゅくみょう)というものだろう。さて、隠者になって早3年。お世話になった方々には無礼をご容赦願いたいが、世の中との関係も大分少なくなってきた。残りの人生を無事(こともなし)で過ごすか、もう一度心を奮い立たすか、思案の年頃だ。“ひとり”になろうとして“ひとり”について考えてきたつもりだが、“ひとり”というのは自立・自律の精神を持つということだ。まだ、外界からの作用に弱すぎる。責められると崩れてしまう心の弱さを直さねばならぬ。余生は短い。気にせず生きたいものだ。もうひとつは“慈悲”の心だ。ひとりでありながら外界にも目を配る。これができれば解脱だ。もう少しがんばろう。(2026年1月1日)

2025年のつぶやき