再び時間について。春休み中は非常勤講師の仕事がなく、行政の仕事も少なくなってきたので日常がルーチン化されてきた。すると、時間の進みがますます早くなる。あっという間に自由人の3年目を迎えたように感じるが、時間があるということが心のゆとりにつながっていないようだ。人生というやつは目的を持たないと充足感は得られないのか。それとも、これまでの人生で達成感が得られていないことが理由なのか。社会との関係性がだんだん希薄になってきたことが不安なのか。そんなことを考えながら新年度を迎えたところ。人生の目的なんてより良い生とは関係ないよ、という思いもあるが、もうちょっと前を見て元気に過ごしたい。科学と社会の関係を見極めること、人と自然のより良い関係性の回復、農の営みを深めること、がとりあえずの目標だが、今年度もさらに深めよう、と思いを新たにする。(2025年4月1日)
自由人になってから時間の進み方がどんどん早くなっている。“直線的な時間”の中に身をおいたままでは、歳をとるばかりだ。今年は“循環する時間”を意識して暮らしていきたい。それは、自然(じねん)に生きるということ。自然(nature)と一体となって、互いに交わりながら暮らしていきたい。(2025年1月1日)
人生は決断だ
今日は危なかった。立正大の講義が終わって熊谷駅に戻ると、高崎線が止まっているではないか。そこで、秩父鉄道経由に即断変更。東武も乱れていることは知っていたが、羽生から浅草までは東武特急「りょうもう」に乗車し、ゆったり。ビールを買っておけば良かった。20分遅れで浅草に到着、都営浅草線に向かい京成本線特急を期待するが、ここでも20分ほど待つことになった。浅草線では特急が最終的には早いのだ。結局、いつもより1時間半ほど遅れて帰宅。交通費はかかったが時間のロスは思いのほか少なかった。高崎線はまだ止まっているようだ。熊谷では新幹線という選択肢もあったが、特急券売り場には長蛇の列。どうせ座れはしないだろうということで行った決断がうまくいったわけだ。うだうだと待っていたらとんでもないことになっていた。決断が大切だの。それは人生も同じよのう。(2025年5月8日)
「ふるさと」とは何か
今年の福島ダイアログのテーマのキーワードは「ふるさと」。少し調べてみたら2012年の農村計画学会誌に重岡徹「最近100年間の『ふるさと』の語られ方」を発見。当時は学会員で学会誌も届いていたはずだが読んでいなかったということだ。この論文は唱歌「ふるさと」以降の「ふるさと」観を日本の人口動態とあわせて3つの画期に分けている。第一期(75年頃まで)は“発見される「ふるさと」”、第二期(80年代から90年代初め)は“観念化される「ふるさと」、そして第三期が2000年代で“多様化する「ふるさと」”。わかりやすく「ふるさと」の語られ方の変遷が説明されているが、詳しくは論文を参照のこと。議論の中で気付かされることは「ふるさと」が都会からの視線で語られてきたということ。「ふるさと」と認識されることもなく存在し続けていた、人が生まれ、育ち、そして死んでいく土地こそが福島を語るときに重要となる「ふるさと」なのではないか。そこでは自然との交流があり、共同体があり、手作りの暮らしがあり、いずれ先祖になって人の暮らしを見守り続けていく。これが福島で帰還した人々が持つ共通の感覚であり、これがないと帰還しても寂しさを感じてしまうのではないか。昔、菅野(阿武隈には菅野姓が多い)の菅は菅原道真の菅なのだという話を聞いたことがある。1000年以上の歴史を持つ「ふるさと」の価値。これこそ人に安寧を与えてくれるものではないか。都市生活者である現代人の感じる喪失感は「ふるさと」を希求する感覚なのではないか。「ふるさと」の重要性を共通認識にすることが日本の社会を変えていくことになるのだと思う。82025年5月3日)
歴史の認識
トランプの政策はいずれ破綻するだろうが、この世界の未来への進路は大きく変わってしまうことになるだろうか。なるべく良い方向に進むためには歴史の認識がますます大切になってきたように思う。昨日引用した五木寛之「私の親鸞」の前に山内昌之・佐藤優著「大日本史」(文藝春秋)を読んだ。学ぶことは多かった。歴史の教科書に書いてあることは歴史の表層に過ぎない。現実の歴史はそのプレイヤーの人間的側面と世界を構成する諸要素との関係性でできあがっている。グローバルヒストリーと個人の深層を想像し、様々な関係性を分析することによって初めて理解できるものだ。文献学としての歴史学の限界もあるが、この本が扱っている近現代史ならば資料も比較的豊富で、当事者からの聞き取りもあり、歴史の現実に接近することができると思う。先日、保阪正康著「戦争の近現代史 日本人は戦いをやめられるのか」(幻冬舎新書)も読んだが、保阪氏は時代の証人に聞き取りができた最後のひとりともいえる。これらの本から歴史の理解には人間の理解が必要であることがわかる。この世界は階層構造を呈している。最下層には暮らしの実践者がおり、最上層には権力を持った個人がいる。その個人の人間的側面(近代科学のマナーの外側にある人間の諸要素)が多くの人々を幸せにすることもあるし、犠牲にすることもある。世界観、社会観、人間観といったものを背景としなければ歴史はわからん。一方、歴史に学びながら昨今の乱れた世界をどうしようかと考えるとき、最下層にいる草の根の人々が変革の原動力になっている歴史的事実がある。変革は苦しみの後でしかやってこないのだが、草の根の力こそ希望だ。自分に何かができるわけではないが、目の前にあることを粛々とやり続けることしかないのだと思う。(2025年4月29日)
梵天勧請ー学術に梵天が望むこと
五木寛之の「私の親鸞 孤独に寄り添うひと」(新潮選書)を読んでいるところ。釈尊ブッダは悟りを得たあと、最初はそれを他人に語ろうとしなかった。衆生にはわからんだろうということだが、そこに梵天が登場し、自分が得た悟りを人々に伝えなさいと諭したという。五木は親鸞にも自分の考えを人々に伝えるのは難しいという焦り、絶望感があっただろうという。それでも親鸞の教えは広まった。それは「教行信証」、「嘆異抄」、「和讃」、すなわち自筆の難解な論文だけでなく、弟子唯円による聞き取り、そして楽しい歌があり、それらを通してあらゆる階層に親鸞の教えが伝わったのだという考え方に同意したい。今日の朝日朝刊のオピニオン欄は学術会議法案に紙面を割いている。どうも日本はあやまった方向に歩んでいるように思えるが、学術に携わる人々は学術の和讃を提供してきただろうか。そこはだいぶ怪しいと思う。学術の成果のすばらしさを一方的に吹聴するだけ(論文→教行信証)なら簡単だが、なぜ学術が大切かというには思想や哲学といった人々の深層に響く主張が必要だ(嘆異抄・和讃→科学記事・社会への発信)。親鸞の和讃は当時の地獄のような社会の最下層の人々のこころにも届いたはずだ。学術、理工系の最先端科学といったほうが良いだろうが、それが持つ価値を発信しなければならない。ただし、学術の背景に思想や哲学がなければ暮らしの現場の人々には伝わらないのではないか。人々も学術の成果を消費するだけなってしまう。学術における和讃は何か。文系の分野には問題の現場に深く入り込んで問題の理解、解決を試みる研究者がいる。現場で行われていることは共感、対話、実践だ。それが学術の和讃だ。それが人々のこころに届いていることは確信できる。しかし、理系の世界観のなかでは顧みられることはない。学術の世界に今必要なのは梵天だ。誰が梵天になるか。(2025年4月28日)
エリート嫌い-やばいよ
朝日夕刊、ハーバードのサンデルさんの記事から。トランプ政権下で世界の未来が危ぶまれる状況だが、トランプの復活は労働者のエリートに対する不満、憤りだという。そやな、と思う。エリートと大衆の距離が離れすぎてしまったのだ。誤解や思い込みもあろうが、大衆のエリート嫌いは日本も同じだ。現役時代をふり返ると二言目には“優秀な学生”、“優秀な人材”という文言が大学上層部から飛び出す。“優秀”とはなんや、と思うが、それはさらに上位にすり寄る言葉だ。エリートでなければ生き残れない大学になってしまったのだ。表層のかっこよさだけをめざし、深層も含む現実に目を背けることにより、大衆のエリート嫌いが加速する。大衆も現実の深層を見ることなしにエリートを不満のはけ口にする。アカデミアだけでなく、世の中がこんな状況になっているのだが、やばいんじゃない。その根本にはサンデルさんも言うように、働く尊厳が軽んじられたところにある。コロナ禍にはエセンシャルワーカーに対する感謝が語られたが、もう忘れられているようだ。働く尊厳を取り戻すにはまず社会、国、世界のあり方に対する理念を明確にする必要がある。自分は日本は心豊かな小国で良いと思うが、裏では世界に向けてうまくやることも必要だ。そんな社会のあり方はすでに書いているが(例えば4月3日参照)、どんな労働でも尊厳を感じることができる社会でなければならないのだ。どんな労働にも価値があり、関係性でつながっており、人生は無常だが、その中に幸せを見つけることもできるのだ、という信念、それが合意できる社会が必要だ。サンデルさんの提案は「生産者」を重視する社会。工業にはどうしても時代の波があるが、農業生産、知識生産、サービス生産を誇りをもって行うことができることが安寧な社会の要ではないかな。(2025年4月21日)
一休宗純の生き様
山折哲雄の“ひとり”、それは英語のindividualに相当する大和言葉であるが、“ひとり”の生き方を古の隠者、賢人から学んでいる。今回は一休宗純。東習図書館にある一休に関する本を3冊、全部借りて読んだのだが水上勉の「一休」は手強かった。再読しなければ十分な理解には達しないと思うが、内容が濃く、学んだことは多かった。一番知りたかったことは、なぜ一休が破戒僧になったかということ。肉、女、酒は不殺生戒、不邪淫戒、不飲酒戒として仏教では五戒の中にある禁止事項だ。それでも突き進んだのはこの3つが人間(時代背景からは男)の本質的欲求であること、一休の生きた時代が災害、飢饉、戦乱に明け暮れる暗い時代だったということが背景にありそうだ。一休は社会の最下層まで降りて、現実を感じた。そこでは人間の本質が現れる。一休は自然にそれを行ったが、それは自然法爾の生き方で、自受法楽を体現できたのだ。この世に地獄が現れたわけだから、お釈迦様も許してくれるだろうということ。平安な世の中では五戒は正しい戒律だが、そんなこといっちゃおれん世の中だった。現代社会もだんだん一休の時代の有様と近づいているように感じる。時代に合った精神的習慣をどのようにつくったらよいのか。現代社会の課題でもある。一休の生きた時代は蓮如の生涯とも重なる。蓮如は浄土真宗の中興の祖として有名だが、真宗の教えは乱れた世の中における民の心の救いとなったと思う。では、一休の禅は民を救ったのだろうか。一休の“ひとり”の生き様を背中で示すことは安心を生んだのか。そこがわからんのだ。また、一休には支援者がいたはずだ。森女も堺の豪商もそうだが、破戒僧としての一休は常に誰かに支えられていたはずだ。それは当時の社会の習慣だったのか。現代に一休が現れても、支援者は現れるだろうか。一休の生きた時代は地獄ともいえる時代だが、現代も一休の時代に劣らない地獄かもしれない。人間にとって本質的に大切なのは支援で、それは慈悲や布施というものだろう。まだまだ読み込みが足らないが、少しずつ学んでいきたいもんじゃ。(2025年4月20日)
社会の中の学術-再び
国会衆院本会議における学術会議に関する発言のニュースが散見されるようになった。議員さんは良いこともいうが、おかしな事もいう。結局、科学(学術)の部分しか見えていないので、かえって政治と科学の分断を深めているように思える。まずは科学と社会の関係の歴史を認識した上で、時代を見よ、といいたい。その際、科学のパトロンは国民国家においては国である、すなわち国民である、ということは重要な観点である(昔は貴族だった)。社会は人口減少、少子高齢化、低成長の時代に入っている。これらを前提として科学を捉え直すと3つあると考えられる。従来型の科学としては基礎科学(好奇心駆動型科学)と課題解決型科学(使命達成型科学)がある。20世紀まではこの2つでやってきた。しかし、気候変動、災害、事故、格差、貧困、様々な問題が顕在化している現在、3つめとして問題解決型科学を立てなければならない。これは前2者と異なるモードの科学だ。現実の表層だけでなく、深層まで俯瞰しなければならない。普遍性を追求するのではなく、様々な関係性を見通す力を持たなければならない。そのトップレベルの目的は地位でも名誉でも論文でもない。問題解決の達成だ。そこでは科学者はプレイヤーのひとり(ひとつ)である。当事者のコミュニティーと一緒に問題の解決の達成をめざすのだ。専門性に関してはすでに定年を迎えた技術者、研究者が市井に放たれている。J-STAGEが提供する日本語論文が知的基盤を提供する。そして、問題の解決は草の根の運動からもたらされることは歴史が語っている。これは超学際の姿でもある。草の根が対象とするのは地域であるが、地域同士が連携し、地域の成果を共有することによって、より重要な問題にアプローチすることができるのだ。これは普遍性による問題解決という20世紀の精神の変革になる。基礎科学、課題解決型科学、問題解決型科学の3つと社会あるいは環境を頂点とする四面体の広がりで科学全体を捉え、その枠組みを広げていくことでこの社会は良くなっていくのだと思う。学術会議はもっと議論を深めて欲しい。文系と理系の対話、議論が深まらないと政府や国民と対峙することは難しいと思う。(2025年4月18日)
文明社会の衰退の兆候
学術会議が法人化法案の修正を国会に求める決議をしたとのニュース(朝日朝刊)。なんで国は科学に対する支配を強めようとするのか。小粒になった政治家の心情はわかるのだが、それは科学に対する無知を意味している。アメリカでもトランプ政権は科学に対する支配を強めている。同盟関係にあるからといって、アメリカに追随することはないのにねぇ。近代文明国家においては強さの基盤に科学があることは明確である。しかし、科学の成立と社会との関係の歴史、科学の成果が誰のどんな努力とコストをかけて生み出されたのか、その成果の恩恵を受けているのは誰か、こういったことに関心を持たなくなっている。それは政治家だけではないのだが、オルテガ・小林の「文明社会の野蛮人」仮説にぴったり該当する態度だ。その意味するところは文明の衰退だ。日本よ、それでいいのか。一方、科学者の主張も時代に合わなくなっているような気もする。“社会の中の科学、社会のための科学”の意味を文系、理系が一緒になって深めなければならない(まだ、納得いく説明を聞いていない)。文理の壁を作っている場合ではないのだ。この世の有り様を正確に認識すると社会が求める科学の役割が変わっていることがわかると思う。(2025年4月16日)
文明社会の山里暮らし
日帰りで山木屋に行ってきた。お世話になった源勝さんを偲ぶ会。大勢集まった。天気は良くなかったのだが、途中で見た八溝や阿武隈の新緑と山桜の混ざった山肌の美しいこと。こんな山里に小屋を建てて暮らしたいものだ。渓流から水を引き、下水は浄化槽で処理し、電気は引いてもらうにしても、太陽光や風力も最大限利用し、薪で暖房し、夏は風通しを良くしてしのぐ。日本の山は里も近い。車があれば買い物には困らない。ネットもつながるだろう。こんな土地で畑を耕し、晴耕雨読で死ぬまで暮らせたら楽しいだろうなと思う。それは文明社会の山里暮らしだ。でも、寂しくなるだろうか。(2025年4月13日)
予算査定と理念
朝日朝刊「多事奏論」の見出しは「財務省解体デモ 不満や怒りぶつける先は」。編集委員の原真人氏は、財務省が大衆の怒り、不安の受け皿になっていることを憂いている。財務省もたいへんだろうが、根本には予算査定の理念がみえないことがあるのではないだろうか。各省庁の技術官僚が良いアイデアを持っていても、財務省への説明では、よりかっこよく、よりシンプルでわかりやすい説明を求められる。でも、予算要求の背景や深層の説明はそんなに単純ではないのである。高級官僚の財務省に対する忖度かも知れないが、それが下部組織まで浸透してしまっている。現役時代によく経験したことである。そんな状況が放置されていることが一番の問題である。背後には政における理念損失があるのだろう。予算査定が理念なき調整になっている。人口減少、低成長の時代に入った今こそ過去の慣性に押されるのではなく、新しい理念が重要なのだが、理念は語るにも、聞くにも時間がかかるものだ(それは提案者の力不足だろうか)。歴史を通した現状認識から生まれる理念に基づく国造りを行うためには日本人の精神的習慣の変更が必要なのだ。 (2025年4月12日)
「安息」の素人
まさに自分がそうなのかも。朝日朝刊「折々のことば」から。鷲田清一氏曰く、「放心の時」に身を漂わせていればよいのに、ふと生きることの意味を考え出したりするのは、まだ「安息」の素人なのかも、と。引用元は故森本哲郎著「ゆたかさへの旅」にある「休日はふえるだろう。が、休息はふえないのである」の一節。まさにその通りだな。自分は未だ人生の意味を考え続けている。頭痛がひどくなっているのは考えすぎなのかもしれない。安息、これをどう実現するか。新たな課題だ。本棚を探して森本哲郎著「日本の挽歌」を見つけた。学生時代に読んだ本だ。内容はすっかり忘れていたので読書の楽しみが増えたが、それは「安息」ではないのかも。(2025年4月9日)
西行の桜
マラソン道路の桜が満開だ。桜の花の向こうに月が見える。まだ太めの半月だが、頭の中で満月にかえて桜を見上げる。西行もこの月を見たのだろう。“願わくは花の下にて春死なんその如月の望月の頃”。西行が亡くなったのは3月30日(旧暦2月16日)。釈迦の入滅の一日後だったが、その日を狙ったに違いない。山折哲雄によると断食で亡くなるまでは40日なので、西行も計画的に断食行に入ったのだという。西行は享年72歳、当時としては長生きだったのだろう。死期を悟った西行が桜と月を見ながら釈迦の亡くなったその同じ日に涅槃に入る。なんてすてきなんだろうと思うが、現代では難しい。こんなことをいうと面倒くさいやっちゃと思われてしまう。でも断食では苦しみが続くわけではない。瞑想しながら静かに彼岸に行くことができる。現代社会では死ぬことが難しいのだ。死に体で施設で過ごしたり、死の恐怖におののきながら病院で死ぬのは人間らしくないのではないか。現代社会は死を遠ざけてしまった。より良く生きることはより良く死ぬことだ。自分も67歳になり、身心の衰えは隠せない。こんなことを考える歳になったわけだ。(2025年4月8日)
理系と文系の亀裂
朝日朝刊に学術会議に関する記事があった。学術会議法案に関するものだが、見出しに“「内部では亀裂 文系「反対」 理系「容認も」”とある。学術会議から離れて久しいが、その事情はよくわかるような気がする。根底には科学(学術)に関する認識の違いがあると思う。文系は現実の「表層」だけではなく「深層」まで見ているが、理系は「表層」のみを見ている。それは西洋近代科学の特徴でもあるが、明治期に「表層」部分だけを取り入れて国造りをしたものだから、西洋の数千年の歴史の中で培ってきたものがすっぽり抜けてしまった。そんなところに素因があるのではないか。今回の学術会議法案は結果として「表層」を重視し、それは日本の未来に対する科学(学術)の役割にバイアスを与えているように思う。基礎科学(好奇心駆動型科学)と課題解決型科学(使命達成型科学))、問題解決型科学のバランスのことだ。明治維新のおりに「富国強兵」と「心豊かな小国」の選択があったが、その選択に再び迫られているのが現在だ。世界は協調から分断のフェーズに近づいているように見え、他国の軍事力は脅威になっている。だから富国強兵をめざすという方向性もあり得るかもしれない。しかし、理想と現実の間でどう折り合いを付けるのか、そこまで含めた議論があってはじめて学術会議法案の是非を論じることができるのではないか。それだけ重要な法案なのだ。構造改革の流れの中で弱体化させられてしまった学術の力を信じたい。(2025年4月8日)
必要ですか-その便利と楽
昨日は危なかった。関越道で帰ってきたのだが、ETCは無事通過。システム障害に遭遇してしまった方々は本当にお気の毒。障害は今日も続いているそうだ。ETCは便利だが、巨大で複雑なシステムなのだろう。それは大きな脆弱性を持つということにもなる。便利や楽を享受しすぎていると、思わぬしっぺ返しに会う。これが現代文明の特徴でもある。自動車も便利で楽な文明の利器だが、頼りすぎないことが大切かもしれん。科学技術文明を再考する必要があるが、まずは暮らしのあり方を見直すことも必要だろうな。その便利や楽は本当に必要ですか。とはいっても、染みついてしまった便利や楽は手放すことは難しい。贅沢はだんだん必須に変化していくのだ。人間の精神も変わっていく。違う進路に替えることはできるだろうか。(2025年4月7日)
次の人類革命
義父の49日も過ぎ、納骨が行われた。親しい人々が次々と世を去っていく。寂しくなるが、それが老いるということじゃ。墓の扉が開けられ、骨壺が安置される。義父はこれからここで過ごすのか。自分だったら鳥葬がいいと言っては馬鹿にされているのだが、自分の身体を構成していた物質が空に舞い、いずれ地球と一体化していくのは考えただけで心地よい。墓の石室はいやじゃ。そもそも死んでも魂は肉体にあり、意識はあると思っている。頭から窯に突っ込まれて焼かれるのはいやなもんじゃ。肉体の断片には魂が宿り、肉体が朽ち果てると宇宙生命体(コスモゾーン)と一体化されていき、いつか再び新たな肉体に宿る。これは手塚治虫の火の鳥にでてくるのじゃが、自分はこの死生観がお気に入りだ。死んだら大日如来と一体化するのじゃ。こう考えると気持ちが落ち着く。それが宗教の役割じゃが、案外真実かもしれん。心の領域では阿頼耶識(仏教)、集合的無意識(ユング)、科学の領域では暗在系(物理学)といったものがそうじゃ。両者はつながっているに違いない。科学は進歩・発展するとこんなことがわかってくるかも知れんのう。それが次の人類革命になるのではないか。(2025年4月6日)
相互関税-その先は
アメリカのトランプさんが各国との相互関税率を発表したのう。経済のことはようわからんが、これから世界はどうなるんじゃろ。心配やのう。物価高と景気の減速が暮らしを直撃するんじゃないだろうか。どんどん過激になってきたグローバル市場経済のあり方には多少の疑問もあるのじゃが、それを乗り越えるには現代人の精神的習慣を変えなければあかんの。それには10年単位の時間がかかるんじゃろうからトランプさんの任期じゃ無理や。でも、万が一にもトランプ政策がうまくいったらどうなるんじゃろか。その時の日本はどうなっておるか。世界に向けては自由貿易体制を堅持する姿勢を見せながら、国内でうまくお金、資源がまわるように“うまくやる”。それが政治だと思っちょる。今の日本は田舎が一方的に都市を支えて疲弊しつつ、都市が世界と競い合い収益を得るが疲弊する人もおる。そうではなくて、都市が田舎を消費するのではなく、きちんと支え、暮らしの安心を保ったうえで、世界と対峙していくのじゃ。多少物価が高くなっても自給経済、交換経済、地域経済がまわれば足るを知る田舎で安心して暮らすことができる。都市は世界を相手に稼ぐことができるじゃろ。都市で疲れたら田舎で休んで、癒やされたら都市に復帰すればよい。これが地方創生の目的やあらへんか。日本は余力のあるうちに、地方を強くしておかにゃあかん。実は国土形成計画や環境基本計画にも書いてあるんじゃがな。さてどうなるか。(2025年4月3日)
主張に思想はあるか
日本学術会議法案に対して日本教育学会が反対の緊急声明を出したというニュースをみた(Yahoo!ニュース)。日本学術会議が2021年に出したナショナル・アカデミーの5要件のうち、特に「活動面での政府からの独立」、「会員選考における自主性・独立性」を大きく逸脱していることを危惧しているとのこと。学術が政治に支配されるのは気持ち悪く、会員選考に口を挟まれたくないという気持ちは元アカデミアとしては痛く同意するところだが、現状認識をしっかりやっておく必要がある。この記事のヤフコメでは学術会議批判のコメントが多いが、“共感した”のポチが多いのに驚く。バイアスはあるだろうが、学術会議が国民から信頼を得ていないということだろうか。国民はエリートが嫌いなようなので、ここは十分深掘りする必要があるだろう。検索したら3月13日に「日本学術会議の在り方に関する有識者懇談会」のステートメントを発見。読むとこれも学術会議が信用されていないんだな、ということが感じられる文章だ。とはいえ、アカデミアも懇談会も“現在”を“人間社会の変化する歴史”(時間軸)と“相互作用の場としての世界”(空間軸)の中で位置づけて得られる思想に基づいた主張になっていないように感じる。その思想があれば主張は承知できなくても納得できる。政治もアカデミアも思想を失っていないか。隠居なのでどうこういうことでもないのだが、これでは日本が心配だ。(2025年4月1日)
2024年度の終わり
今日で2024年度は終わり。令和6年度から7年度へ切り替え。会計年度は国によって異なるが、桜が咲き始める時期の切り替わりは良いもんだ。うちの畑も一年で一番美しい季節になった。黄色い花は菜の花だけでなく、ダイコン、カブ、ブロッコリがあり、畑を暖かく彩っている。畑の脇の桜の花は白色で目立たないのだが、しっかり咲き始めた。母が植えた花桃の白とピンクも美しい。畑のあちこちに移植した球根が花を咲かせている。エンドウ、ソラマメの白い花もきれいだ。ネギ坊主も顔を出しているが、これはもいでしまうのだ。ホトケノザ、ナズナ、カラスノエンドウ、カタバミの花もきれいなのだが、除去。ごめんなさいだ。でも、畝の間で分解していただく。今日は天気は悪いが、晴れている日は畑でぼーっとしていると気持ちが良い。明日からは気持ちを切り替えて新たな暮らしを迎えたい。(2025年3月31日)
蒸気機関車の記憶
黒柴娘の紡さんと毎日散歩に行くマラソン道路は鉄道連隊の演習線跡で、子どもの頃には線路も残っていた。時々トロッコが走っていたのだが、線路に石を置いたら乗員が降りてきたので慌てて逃げ隠れたという悪しき思い出がある。その線路に大きな蒸気機関車がやってきた記憶がうっすらあるのだが、ようやくわかりました。Googleのアルゴリズムが送ってくる記事に鉄道連隊の跡地に関するものがあった(乗り物ニュース)。そこから、自衛隊第101建設隊が1960年から1966年まで活動したことを知った。1966年は8歳なので記憶もあるだろう。習志野線では9600型蒸気機関車が運用されたとのこと。子どもの頃に見た蒸気機関車はこれだったんだ。隠居したら鉄道模型を楽しもうと思って買いだめていた機関車の初号機が9600型。これが好きなんや。8600型もコッペルもある。B20は壊れてしまったが、古い時代の蒸気機関車が好き。深層意識の中に記録されていたのかも知れないなぁ。車両はたくさん集まったが、まだ鉄道模型に集中するのは早いかも。学びたいことがたくさんあるので。やりたいこともたくさんあったのだが、最近は身体がついて行かなくなった。老いとは寂しいもんじゃ。(2025年3月29日)
民衆運動の可能性と研究者の責務
J-STAGEは本当に素晴らしい文献データベースだと思う。同じ事象に対して異なる立場、異なる習慣を持つたくさんの分野の成果を知ることができる。関係性探究型科学の重要なリソースである。もし、仮にも予算削減などという動きがあったら、その時は立ち上がりたいと思うくらいだ。さて、いつものように文献検索していて出会った文章をメモしておきたい。もとは「平和研究」の中の書評で引用されているもので、ひ孫引きともいえるが、第五福竜丸の被ばく後、ビキニ海域の放射能調査を行った俊鶻丸に乗船していた地球化学者、三宅泰雄のの言葉。「科学が自主性をうしない、利己的な政治・経済の道具としてもちいられるかぎり、科学の思想は保証されないばかりか、科学の諸悪からまぬがれることもできない」。政治による科学の支配が進みつつある現在、心しておきたい。科学の側も思想を持たねばならない。もとの書評は平林今日子氏による「民衆運動の可能性と研究者の責務:『見えない恐怖』の中で何を見るのか」(平和研究、57巻、2021年)で、書評した書籍は若尾・木戸編「核と放射能の現代史 開発 被ばく 抵抗」(昭和堂、2021年)。世の中の新しい動きは民衆運動が重要な働きをしているということを改めて認識。その場における研究者(科学者)の役割がどうあるべきか、というのは先の三宅の言葉に象徴される。ひとつ前で千葉大学ビジョンについてコメントしたが、このような考え方は背後にあるだろうか。(2025年3月27日)
大学と社会の距離
千葉大学の新しいビジョンが策定されたというメールが届いた(大学メールをまだ使っているので)。「研究」、「教育」、「社会貢献」、「経営」、「信頼」の5つの柱を基盤とし、①「より良く生きる」に貢献しよう、②イノベーションを楽しもう、③大学の基盤を強化しよう、の3つの行動指針を掲げたとのことだ。表面的にはすばらしいが、この中の社会貢献については背後にある考え方が気になるところだ。社会貢献の中身は「多様性と学際性を活かし、社会と共に新たな価値創造に挑戦」とのことだが、新たな価値とは何だろうか。大学人の習性としては論文の生産が価値創造という考え方があると思うが、貢献を実現するためにはその先を知りたい。大学に対する社会の批判は、研究者は論文を生産すれば自分ではない誰かが社会に役立てるのだ、というものがある。論文と社会(現場)の間の距離はまだまだ遠い。行動指針の①では、地域社会やグローバル社会に活動の成果を還元し、個性や才能を発揮して活躍する人材を輩出することで、人びとの「より良く生きる」に貢献する、とあるが、当の大学人は現場では何かをするのだろうか。まだ詳細はわからないが、大学と社会の距離をどう埋めるか、という疑問に対する考え方を示すことができれば、千葉大学は新たな未来を拓くことができると思われる。それは学術のあり方に対するパラダイムの転換になるのではないか。(2025年3月26日)
底流から奔流へ-流域治水
調べ物をしていてJStageの環境社会学研究を検索したら、嘉田由紀子ほか「生活環境主義を基調とした治水政策論-環境社会学の政策的境位-」が月刊アクセス数のトップにあるではないか。2010年の論文であるが、これは嘉田さんが滋賀県知事になって実現した流域治水条例(2014年交付)のポジションペーパーといえるものだ。生活者を中心に据える生活環境主義に基づく施策であり、国交省の流域治水プロジェクトに先行するものである。滋賀県と国交省、二つの流域治水は異なる系譜と思想を持ち、いずれ統合されていくのだと思うが、生活者視点からの流域治水が確実に底流となり、いずれ奔流となる予兆かも知れないな。科学技術主義から流域コミュニティーの諒解を重視する考え方に少しずつ世の中は変わっていくのだと思う。ただし、まだまだ壁は高いのだが。(2025年3月21日)
楽農報告
久しぶりの楽農報告だが、今朝は畑に出てガックリ。昨日、4本移植したブロッコリがすべて食われていた。野鳥だと思うが、ちょっと残念。野鳥はかわいいし、うちの畑は生物多様性には貢献していると思うので、まぁよしとする。318円(税抜き)の損害だが、ブロッコリ一玉の相場は135円とのことなので、79円の苗から育てると4本で224円の含み益になるはずだった。野鳥の餌が増えてきた頃にもういちど移植しよう。年金生活者なので、なるべくコストのかからない栽培を心懸けており、再利用も行っている。昨年、食べ残したキタアカリが芽を出してきたので、これも移植したところ。うまく育ったら儲けもんや。ネギは下仁田ネギが採れているが、これは種から育てたもの。無限ネギはどんどん分けつしており、ネギに関しては消費が追いつかない状況じゃ。スティックセニョール、ダイコン、カブ、菜花は余らせてしまった。これはいかん。アブラナ科の花はきれいなので、とりあえず花を愛でることにする。これも儲けの一種じゃ。サトイモも早く消費せねば。確実に消費を進めてコスト削減をせにゃあかん。雑草もだんだん勢いを取り戻しており、刈った雑草は雑草堆肥として積むだけでなく畝間にも置いている。少しでも自然農法に近づけたいのじゃ。肥料は安い鶏糞が主体。それ以外の主な資材は最初の耕起に使う消石灰。腰が痛いので不耕起農法もやってみたい。美しい畑をめざしたいが、夏までは何とかなるだろう。その後は雑草の勢いに負けてしまうだろうが、今夏はがんばろうかのう。(2025年3月21日)
哲学、宗教の伝え方
地下鉄サリン事件から今日で30年。たくさんのニュースが流れているが、時事通信の記事のタイトルは「オウム後継、若者入信途絶えず 事件後に生まれた世代が半数」。記事の中で元信者の男性は「(入信者には)もともと哲学や宗教に興味がある人が多い。事件の話をしても結局は宗教の話に行き着く」と語っている。それは困る。VUCA(Volatility(変動性)、Uncertainty(不確実性)、Complexity(複雑性)、Ambiguity(曖昧性))の時代に人生の羅針盤になるのが哲学や宗教だと思う。自分はもうキャリアの終わりが見えてきた頃になってから本を頼りに勉強をはじめたが、背景には人生の経験があったのだと思う。若者が哲学や宗教を学ぶには指南役が必要なのだろう。古の賢人たちも師匠を求めている。哲学や宗教は諸刃の剣となり、師匠を間違えると人生が狂ってしまうということだ。本来は教育課程でしっかりと教授する必要があるが、ここが明治以降の日本の弱点なのだと思う。何かできんもんかのう。(2025年3月20日)
あの動物たちはどこにいるのか
昨日の夜の散歩でネコとタヌキが対峙しているところを見た、と思ったら実はハクビシンだった。ググって画像を確認したら、タヌキではなかったね。ネコもハクビシンもにらみ合ったまま互いに動けずにいたようだが、そこに黒柴娘のつむぎさんが参戦。ハクちゃんは困ったようで、すごすごと退散していった。動きがのろかったので、もう弱っていたのかも知れないな。つむぎさんは勘違いして遊んでもらいたかった様だがネコに威嚇されて困惑していた。以前、じゃれ合う2匹のタヌキのシルエットを見たことがあったがハクビシンだったのかもしれない。彼ら、彼女らは息苦しい都会の中でひっそりと暮らしているが、数km歩けば谷津もあるのだ。都会暮らしも良いところがあるのかも知れない。この世は人間だけの世界ではないのだよ。気がついていないだけで。(2025年3月18日)
あのひとたちはどこにいるのか
東日本大震災14年目ということで本棚から関連する写真集や雑誌を引っ張り出したところ8冊あった。眺めていると当時の“あの感覚”(うまく表現できないのだが)がよみがえってくる。閖上の瓦礫の中で泣きながらたたずむ女性の写真が印象に残っていたが、写真集の中にあった。瓦礫の中に多くの傷ついた人びとがいる。子どもも変わり果てたふるさとを歩いている。彼ら彼女らは何を感じたのか、遠くの安全な場所にいる自分には表層は見えるが深層を見通すことはできず、想像するだけだ。福島民報社は30日、1年、5年の三冊の記録を出版しているが、5年目の副題は「ふくしまは負けない」。未来に向けてなんとか踏み出すことができた人びとの語りが収められている。でも、震災で打ちひしがれてしまった方々もたくさんいるはずだ。表には出てこない人びとにも暮らしがあることは確かだ。そんな人びとの声をダイアログを通じて知りたいと思うのだ。何のために。深層までも含めたこの世の有り様、それが真理だと思うが、それを知り、安寧な社会のあり方を考えたいのだ。意識高い系と言われそうだが、知らなければこの社会は息苦しくなるばかりだ。(2025年3月11日)
14年目の3.11
東北地方太平洋沖地震から14年か。早いもんじゃ。東日本大震災は自分の人生の方向を変えたといえるが、それはとても良かったと思っている。人生の深みが増したと思う。福島に通いながら科学と社会の関係に関心が生じ、科学史、哲学、思想、宗教、心理学、いろいろな分野の本を読み始めた。この間、学術会議の連携会員になって科学の側についたこともあったが、どうも科学の世界と現実世界の乖離を感じるようになった。それはなぜかということを考え続けてきたが、科学が扱うのは表層世界で、現実世界は深層世界までを含むから、といえそうだ。もちろん、科学の世界でも深層世界を重視する分野もあるのだが、学界の中における分断も感じていた。今は在家で実践を心がけているが(維摩経と華厳経の教えじゃ)、最近は身体と心が衰弱してきて行動力に欠けるようになってきた。実践せずに読書で頭でっかちになり、悟りからは遠ざかりつつあるのかもしれんの。(2025年3月11日)
やまいもの教え
子どもの頃に読んだ話、絵本だったと思うが、ずっと頭に残っている話がある。平安時代の話なので今昔物語か宇治拾遺物語あたりかなと思っていたら、やはりそうでした。ふと思い立って検索したらすぐにヒット。なんで今までわからなかったのだろう。謎。それは宇治拾遺物語巻1・第18話の「利仁、暑預粥の事」でした。芥川龍之介がここから題材をとって「芋粥」を書いていた。京の下級貴族(五位)の芋粥を腹一杯食いたいなぁ、という思いを聞いた無位の下級武士(利仁)が、領地の敦賀へ五位を連れて行き、芋粥を振る舞うという話。いろいろな解釈があるようだが、子どもの自分は地方の豊かさにインパクトを受けたのだ。縦社会の都会で窮屈に暮らすより、地方でのびのびと暮らす方がどんなに幸せだろうか。このことが自分の思想の基調になっていると思う。定年になったら田舎に行くぞ、と思っていたが、いざ定年になるとなかなか身体が動かない。五位のように憧れている時が華なのだろうか。地方の時代がやってきたと言われる昨今だが、なんとか実現させたいものだと思う。中央を支えているのは地方なのだと鴨長明さんも方丈記に書いている。地方の本当の強さがだんだん明らかになり、立場が逆転する時を迎えているのではないかな。(2025年3月7日)
ふるさとのど真ん中で郷愁に駆られるとは
福島にずっと関わっているからだろう。アルゴリズムがYahooニュース「原発事故から故郷に帰還した住民の孤独 帰還者の心のケア 地域コミュニティの再生へ《東日本大震災》」をリストしてきたので読む。帰りたくてしょうがなかった故郷だが、帰ってみると不安やさみしさが募るという。タイトルは9年間の避難生活の後、念願叶って戻ってきた鈴木さんの言葉。識者は地域コミュニティーの再生が鍵だという。その通りなのだが、原発事故で変わり果てたふるさとで暮らすためには何かが足りないような気がする。それは、自然(じねん)として暮らす、すなわち、自分もふるさとの一部として暮らすこと。先祖とともに暮らすという意識があるのではないか。そして土地とともに暮らすということで、それには農の営みが必要だ。さらに、手作業の仕事(稼ぎではなく)があるということ。事故だけでなく、人口減少社会、低成長社会という必然の中で、もとには戻らないだろうという現実を前にして新たな地域を創っていくしかないのかも知れない。それは過去への回帰であるとともに、科学技術の進歩という事実のもとで、より上位の状態へのスパイラルな回帰という考えも可能だろう。帰還が困難な若者も多く、まずは高齢者が主体となるだろうが、仏教的あるいは日本古来の思想である“ひとり”への諒解が安寧を生み出すのではないか。(2025年3月6日)
山林火災の素因
大船渡の山火事についてはお見舞いを申し上げるしかなく、申し訳ない気もします。映像を見ていると林床が燃えているようですが、管理されていないスギ林では落葉落枝は量も多く、これが燃えていることは容易に想像つきます。もし、間伐、枝打ちが適切に行われていたら、落葉落枝の量も少なく、下層植生も繁茂するのでもう少し火勢を弱めることもできたのではないかなぁ。また、東北地方特有の落葉広葉樹林だったら落葉の火力は弱く、消化も相対的に容易だったのではないか。最近では針広混交の施業方法もでてきているので、林業が産業として機能していれば火災被害も抑えることができたのかもしれないな。今後、研究成果が出てくると思うが、良好な人と自然の関係性が保たれれば、安寧な地域を創ることができそうに思う。でも、人口減少、少子高齢化が眼前に立ちはだかる。それでも、人の生き方に対する精神的習慣が変われば乗り越えることができるのではないか。田舎だからこそできることがあるのではないか。わずかな希望を持つ。(2025年3月3日)
振り子の国-アメリカ
トランプ政権とゼレンスキー大統領の会談は残念な結果に終わってしまった。トランプ大統領はどんな世界を見ているのか。トランプの意識世界は彼が意識する範囲で形成される。その広がりはどの程度なのか、世界の中にある関係性は見えているのか。世界を包括的にみてはいないのではないか。でも、それはアメリカという国の精神的習慣かも知れない。タウンシップから始まり、ボトムアップで築いてきたアメリカの民主主義の習慣であり、それが共和党の精神なのだろう。アメリカ人にとっては、かつてジョン・デンバーが謳ったようにカントリーこそがもっとも大切なものなのだ。さらに神を頂点とする一神教的精神が、関係性を意識する力を弱めているのかもしれない。すべてを決めるのが神だから。それでは国際社会の中ではやっていけん、ということでリベラルな精神が生まれてきたのではないか。アメリカの政治は振り子のようなものだ。リベラル政権の揺り戻しもいずれあるだろう。しかし、世界は変化しつつある。トランプによる揺り戻しがスパイラルで変化に対応できるものであるのなら良いのだが、昔ながらの孤立主義への回帰に過ぎなければ危うい。無視した関係性により世界が取り返しのつかないものにならなければ良いが。関係性は仏教の精神だ。日本ががんばれるチャンスでもあるのだが、思想や哲学が背後になければあかん。それにしても、歴史をもっと勉強せねばあかんなと切に思う。(2025年3月2日)
高額療養費-議論の前にあるもの
高額療養費をめぐる自民と立憲の議論は平行線をたどっているが、この課題に対しては議論に先立ち深めておかなければならない思想が必要であるように思う。それは、日本人の死生観である。日本では“生きる”ことは語るが、“死ぬ”ことを語ることは憚られる社会になってしまった。それは明治の国家神道の創設(それは仏教の衰退を伴った)と敗戦後の政教分離の原則があるように思う。宗教と暮らしの関係性が希薄になってしまったことによって政策の背後にあるはずの思想を語ることができなくなってしまった。高齢者は生きることだけが目的ではなく、よりよく生きることをめざしているのだ。それは、よりよく死ぬことも含まれる。よりよい死とは何か、唯一の答えはない。欧米では寝たきり老人は少ないそうだ。寝たきりになる前に死んでしまうということだが、宗教的背景が死に対する諒解を生み出しているようだ。もちろん、命は何よりも尊いものだ。だが、それは表層的な解釈なのかもしれない。深層、すなわち暗在系、集合的無意識、唯識における阿頼耶識、などを含む(仏教的な意味での)世界全体を見て解釈すると見えてくるものがあるのではないか。こんなことを書くと誤解を生じそうであるが、こういう対話、議論ができる社会が安寧な社会なのではないだろうか。(2025年3月1日)
同時性-現実の全体構造
なんとなく河合隼雄「日本人の心」を手に取り、伊東俊太郎との対話「宗教と科学」を読み直す。以前、図書館で借りたときにこの部分をコピーしておいたのだが、もういらないので捨てる前の読んでおこうということ。ぱっと捨てるということができない性格なのでものがたまるばかりだ。ここではユングの「同時性(ジュンクロニツィテート)」について語られている。それは、因果律では説明できないけれど、非常に「意味のある偶然の一致」という現象のことだ。先日、義父の訃報を早朝に受けた後、布団の中でモヤモヤしていたら、枕元に置いてあった転がすと光る地球の形をしたおもちゃが光り始めたのだ。それは20年くらい前に購入したもので、とうの昔に機能しなくなっていたので後頭部の指圧に利用していたもの。義父が知らせてくれたのだなと思った。その後はどうやっても光らなかったのだが、通夜の前日、ホテルで床についた時にうっすら光ったのだ。その後、光ることはなかったのだが、これがユングの同時性の例だろう。それは深層界における事象で、表層界の因果律で説明しようとしても次元が異なるので無意味なのである。でも、現象としては存在する。伊東俊太郎によると、同時性とは心の奥にある無意識と、ものの背後にある暗在系(量子力学のボームによる)を因果的な仕方でなく、つなぐものだ。同時性は確かに存在し、このことにより自分は来てくださった義父に感謝し、自分の人生を深めることができる。こう書くとおかしなやっちゃ、といわれるかもしれないが、表層のみを扱う近代西洋科学を超えた表層界と深層界を含む全体構造を俯瞰しているということだ。科学を超え、科学と宗教を包含する全体構造に関する世間の理解はなかなか深まらず、ユングや河合隼雄、伊東俊太郎も難儀しているのだが、現実の全体構造こそが生きた“ひと”が関わり合う世界そのものだ。これが理解されれば、世界で起きている不都合な出来事は回避できるのではないかなぁ。(2025年2月23日)
受益と受苦の関係
今日はある管理型最終処分場の視察に行ってきた。10年前にも訪れているが敷地が拡張され、景観は大きく変わっていた。つまびらかにされてはいないが、ここには都市の廃棄物がやってくる。都市にとってはなくてはならぬ施設だ。近代社会を維持するための基盤施設であるが、地元にとっては迷惑千万な施設である。何より地元の貴重な水資源、文化資源、自然(nature)資源を物理的、精神的に損なうことになる。地域における大切な帯水層の涵養域にある処分場なのだから。ただし、科学的合理性によると、汚染の蓋然性はあるがリスクは小さい、ということになるだろう。精神といった深層は顧みられることはない。この問題は典型的な受益圏・受苦圏問題である。全体の発展のためには部分は我慢すべき、という古い時代の精神的習慣による考え方である。そろそろ変えても良いのではないか。集中をやめて、分散して暮らし、廃棄物は地域ごとで処理する。最終処分の様子を見て、自分たちの生活態度を改めることができるはずだ。それでも、走り出した処分計画を変えることは困難の極みでもある。せめて、受益と受苦の関係を明らかにし、諒解を形成する努力を手続きの中に明記することはできないか。日本では“環境”の意味が取り違えられ、自然(しぜん)との区別がつかなくなっている。環境の本来の意味を取り戻し、人、自然、社会の関係性をよくする営みこそが環境アセスメントであるはずだ。人口減少、少子高齢化、低成長の時代が始まった今こそ考えておかなければならないことなのだがなぁ。(2025年2月21日)
ふるさと感を取り戻す
週末から昨日まで義父の葬儀で長野に行ってきた。北に浅間が聳え、南に八ヶ岳を望み、関東山地と蓼科山麓の間を流れる千曲川の段丘の上に岐阜の家は建つ。そこから望む景観は圧倒的なパワーで何かを語りかけているように感じる。それは、自然(じねん)ということではないか。あなたも自然の一部なのだと。ここ佐久盆地の南縁部でで生まれ、育ち、生業を営み、家族を持ち、そして死んでいった、その場所が“ふるさと”なのだ。義父は無事に先祖の仲間入りをしたのだと思う。日曜日にはお世話になった山木屋の源勝さんの葬儀もあった。ふるさとが人生そのものだった源勝さんだが、晩年は原発事故によりふるさと存亡の危機に陥ったが艱難辛苦の末、ふるさとを取り戻したといえる。山木屋では日山や阿武隈の落葉広葉樹の丘陵を借景にして、庭に取り込むように建てている家が多い。山を歩いていた時、氏神様の社によく出会った。そこには自然(じねん)の世界があった。源勝さんも“ふるさと”で先祖の仲間入りをしたのだろう。こう書くと内山節の影響を受けていると我ながら思うが、都市では失われた日本人の精神性が、農山漁村にはまだ残されているように思う。この精神を取り戻すことが昨今の様々なややこしい問題の解決につながるのではないか。原発で問題なのは、表層にある科学的合理性のみが考慮され、深層の領域が顧みられないところである。ふるさと”を取り戻すということが問題の解決への方向性なのではないかと思う。そういう自分は生まれ育った土地で暮らしているが、ふるさと感がないのだ。東京大都市圏の縁辺部にあり、都市化が進み、便利なのだが人と自然の関係性が希薄だ。ふるさと感を取り戻すにはどうしたら良いのだろうか。それが今後の課題である。(2025年2月19日)
ふるさとにおける死生観
今週はふたりの訃報が届き、無常ということを身に染みて感じているところ。ふたりの共通点はふるさとで生まれ、育ち、生業、家族を持ち、そしてふるさとで死んでいった、いうこと。ふるさとがしっかり保たれていれば死ぬことは忌むことではない。ふたりとも先祖の仲間入りを果たしたということでもあり、これからは子孫を見守っていくのだ。しかし、こういう死生観は近代化の中で失われてしまった。生きることは強調されても、死ぬことが語られることはなくなってしまった。現代社会の死は数字と属性で語られる。もっと“ひと”、すなわち“ふるさと”で生きて死ぬ“ひと”としての人間が語られなければならない。ここに現代社会の問題を解決する糸口があるのではないかな。(2025年2月14日)
ポスト・トゥルースかポスト・ファクトか
朝日夕刊のコラム「にじいろの議」のタイトルは「ポスト・トゥルース時代の選択肢 『くじ』が守る民主主義」。著者の藤井達夫さんはポスト・トゥルース時代はたいへん困った事態であると考えている。記事に記されたその定義は「客観的な事実よりも情緒(信念や感情)への訴えかけが、世論や政策形成においてより大きな影響力を持つような状況」ということだ。この定義によると客観的な事実が何よりも重要と言うことになるが、それは西洋近代科学のよりどころとなるものである。藤井氏は科学者や専門家一般、その知識に対する人びとの信頼の低下がポスト・トゥルース時代の特徴であるというが、西洋近代科学はもともと事象の表層を扱っているに過ぎない。東洋の考え方では表層だけでなく深層を重視する。事象の背後にある様々な事情や精神的習慣を考慮して、“真実”に迫るのが東洋思想だ。事実が明らかになれば事象は理解できると考えるのが西洋近代科学である。だから、ここでいうポスト・トゥルースはポスト・ファクトといったほうが良いのではないか。ポスト・トゥルースとは事象の深層まで考慮し、真実あるいは真理に接近し、事象の本質を理解しようとする態度と定義した方が良いのではないか。ポスト・トゥルース時代に必要なのは理念を明確にすることだと思う。ポスト・トゥルース的といわれている事象には理念が語られていないものが多い。なお、「くじ」とは層化ランダムサンプリングのことで、その手法で代表者を選出し、専門家のレクチャーを受けて、民意を創出するというものだ。では、専門家とは誰なのか。科学者なのか。それもいまいちわからないが、西洋近代科学を是とする現代の精神的習慣が背後にあるような気がする。ここで西洋近代科学とことわったのは伊東俊太郎の著作を読んで、世界の地域、歴史の中には様々な“科学”があり、西洋近代科学はたまたま現代を創り上げた立役者になっているに過ぎないということを知ったから。(2025年2月12日)
学術会議、その後
朝日朝刊のオピニオン欄は学術会議前会長の梶田隆章さんのインタビュー。タイトルは「学術会議 これで決着?」。菅義偉首相(当時)による会員任命拒否問題勃発以降、科学(学術)と政治の関係は損なわれたままだ。科学と社会との関係性も良好でないことも明らかになったといえる。こんなことでは日本は世界から取り残されるばかりなのだが、梶田さんはすでに諦めの雰囲気も漂わせている。自分も同じ気分だが、学術会議側にも考える余地はあるのではないか。記事のサブタイトルは「理念なき法人化は終わりの始まり/譲れぬ自主独立性」。理念がないのは政治側なのだが、学術会議側も理念を検討する余地があるように思う。理念とは時代の流れと世界のありさまを読み解き、日本の現状を認識した上で、未来を展望したときに明らかになってくるものだ。科学も普遍性探究、進歩、発展を基調とする従来の西洋科学の精神的習慣から脱却する時代を迎えたのではないか。人口減少、少子高齢化、低成長時代の科学として何が重要か。自分は問題解決型科学というものを考えた。問題を解決するためにものごとの表層だけでなく、深層まで俯瞰し、諒解を形成する科学である。そこでは科学者はステークホルダーの一人に過ぎない。それでも“問題の解決の達成を共有”して協働する姿が新しい時代の科学者なのだ(“問題の共有”ではない)。それはフューチャー・アース(2015年に始まった地球環境問題研究イニシハティブ)におけるトランスディシプリナリティー(超学際、学際共創)そのものなのだが、その実行には社会の精神的習慣の変更が必要だ。だから進行が遅々としているのだが、乗り越えるべき壁が高すぎるのかも知れない。今の学術界では理工系の主張が強いため、なかなか問題の深層まで踏み込む文理融合が進まないように見える。このままだと“社会の変革”は草の根の活動から進行していくだろう。社会における科学がいつも後追いなのは科学史が明らかにしているように。アカデミアと問題の現場との距離がまだまだ遠いように感じる。この距離を縮める科学を日本から発信したいものだ。(2025年2月11日)
弱さの生むもの
大谷翔平の通訳だった水原一平氏の言い訳が評判よろしくないですな。上原浩治氏のコメント(Yahooニュース)を読んでいると確かに、なんてやっちゃ、という気分になります。でも、それは水谷氏の心の弱さゆえなのではないか。弱さに対しては寛容でありたいと思うが、世の中の気分はそうではないのだ。弱さが生むものは欺き、受容、そして巨悪があるようだ。水原氏の場合は弱さ故の欺きといえるだろうが(勝手なことを言っています)、弱い自分を受け入れてよりよく生きようとする人もいるだろう。一方、弱さが暴力という巨悪を生んでしまうこともあるのではないか。それが一国のリーダーだったらどうなるか。今も戦禍で苦しんでいる人々を思います。弱さを人間の本質と受け止めて、事前に対話ができれば世の中はもっと暮らしやすくなるのではないかと思うが、それができるのは強い人なのだ。世の中には弱さ故の強い人ではなく、真に強い人が必要なのかも。ヒーローはあまり好きではないのだが。(2025年2月10日)
取引と信頼
トランプ政権が始動し、いろいろなことが始まった。トランプ大統領は政策実現のためにディール(取引)を多用するが、ディールとは何だろか。日本語では取引だが、背後には駆け引き、脅し、といった意味も含まれていそうである。それでは取引に勝っても、信頼を失うのではないかと心配になるが、アメリカという国、特にWASPと呼ばれる人々は取引の結果を受け入れるという精神的習慣を持っているのだろう。それはアメリカン・スタンダードではあるが、もはやグローバル・スタンダードである時代は終わった。トランプ氏の行為は諸国の信頼を毀損していくだろう。以前からそうだよと言われる御仁もいるだろうが、それはアメリカに強さがあったから。アメリカの強さはこれから減退していく。それでも強いと思い込む人々は何かをやらかしそうな気もする。アメリカの動向は目が離せない。(2025年2月7日)
里の風景につつまれて
最近は家に籠もることが多くなってきた。すると心が沈んでくるのだ。そこで、午後は黒柴娘のつむぎさんを車に乗せて外に出かけた。運転しながらどこに行こうか考えたが、つむぎさんが泣き止まない。そこで、近場の八千代広域公園で車をストップ。新川沿いをしばらく散歩し、水面で遊ぶ鳥たちを愛で、遠くの斜面林に癒やされ、お寺の境内でたくさんの仏さまを眺め、風は強いが暖かい日差しを浴びて、身心を整えることができた。つむぎさんもうれしそうにはしゃぎまわり、帰りの車内では騒がなかった。これは良い。少しずつ犬連れドライブの距離を伸ばそう。もうすぐ退職後2年、仕事も減ってきた。お小遣い稼ぎはまだまだ必要なのだが、自由な時間をもっと楽しみたい。(2025年2月6日)
「楽しい国」いいじゃないか
石破首相の「楽しい国」はあまり評判がよろしくないようで、昨日の朝日夕刊の4コママンガ「地球防衛家のヒトビト」(しりあがり寿)でも、おとうさん、おかあさんはしらけてしまっているようだ。それは「楽しい国」の表層だけを感覚的に捉えているからだろう。戦後日本の歩みの中で国土政策がどのように変遷し、それがどのような思想的背景から出てきたものかを知ると、理解できるのではないか。国土の開発からグランドデザイン、そして国土形成計画への変遷における思想的背景には何があったのか。環境基本計画でも同様だ。それは「強い国」から「心豊かな小国」への転換だろう。これは極論でもあるが、これらの文章を読むと両者の相克を感じることはできる。かつて明治政府は「富国強兵」と「心豊かな小国」の選択で前者を採った。その結果が昭和の敗戦だ。その後、高度経済成長を経て、低成長、少子高齢化、人口減少の時代を迎えた現在、選択すべきは何なのか。限りない経済成長なのか。国民の幸せなのか。幸せは貨幣で買えるのか。そんなことが背景にあるのではないか。野党はこの点を深掘りしてほしい。ものごとは深層を知ることが大切だ。(2025年2月1日)
インフラの持続可能性
八潮の陥没事故はたいへんなことになったのう。下水道管の破損というが、こういうインフラというのは不断に検査、修理、更新を続けていかねばならずコストがかかるものじゃ。そのコストを賄う税収、作業をする人材がもう確保できなくなっているということを今回の事故は意味しているのではないじゃろか。都市というシステムが限界に達したのかも知れん。人が分散して暮らし、自然の恵み、それグリーンインフラというやつじゃ、それを活用できる地域計画が必要な段階がすでに来ているということではないじゃろか。未来ばっかりを気にしすぎると社会の変化が追いつかなくなるのじゃ。現在をしっかり見つめることが大切じゃ。(2025年1月31日)
森永卓郎逝く
やっぱり逝ってしまった。ガンを公表した時には余命は春までと宣告されていた。でも1年間、明るく前向きに生きた。なんという強さだろう。強さの背後には緩さと真面目があった。同い年だが自分が尊敬する人物の一人だった。他には高田純次、故志村けんもあこがれのおじさんだなぁ。自分にないものを持っているひと。永遠に憧れつづけるのだと思う。(2025年1月29日)
生きること、死ぬことの尊厳
ぼーっとしていたら67歳になっていた。一方向の時間とは酷なものよのう。ほっといても歳はとっていく。歳はとっても心は若く、というが未熟なままじゃ。循環する時間の中で、住居の周りの自然をすべて庭として、自然(じねん)のままに生きて、死んでいけたら良いのう。最近の社会では生きること、死ぬことに尊厳がなくなりつつあるような気がする。尊厳を取り戻すには、暮らすことを働くことの前に持ってこれる社会が必要だ。働くことも稼ぎと仕事を峻別し、仕事は生きがいを感じさせるものでなくてはあかん。老いてこんなことばかりつぶやいています。(2025年1月23日)
ふるさと再構築
長野まで日帰りした。東京から佐久平まで新幹線で一時間、はやいもんじゃのう。行きは我慢したが、帰りはビールと日本酒を頂くのがせわしなかった。今日は青空を背景に雪をかぶった浅間山がきれいじゃ。煙も出しちょる。小海線に乗れば、ディーゼルエンジンのうなり声がまたよいもんじゃ。なだらかな丘陵の冬枯れした落葉広葉樹も美しい。こんな土地でのんびりと暮らしたいものじゃ。不可能ではないのじゃが、なかなか踏ん切りがつかん。自分のふるさとはどこじゃろか。もちろん生まれ育った習志野なのじゃが、都市化が進みすぎた。下総台地の景観も原風景なのじゃが、台地で育ったので山に対するあこがれは子供の頃から強いのじゃ。ひとはふるさとで家族とともに暮らし、死んだら先祖の仲間入りをするのがしあわせのひとつのあり方じゃないじゃろか。うちのお墓は東京にあり、親類縁者もだんだん少なくなる。この際、新たなふるさとを再構築できたら、それも生き方じゃの。(2025年1月21日)
人類の叡智とは
運転免許証の5年ぶりの更新を終えた。新しい顔写真は前のに比べると髪の分け目が大分後退している。だんだん老人の顔になっていくのだ。次回の更新は2030年。SDGsの目標年ではないか。それまでは健康で暮らしていたいものだ。その時、世の中はどうなっているのだろうか。楽しみであるが、不安でもある。世の中は時間はかかるが必ず良くなるはずだ。でも、その時間は100年を超えるかも知れない。人類の叡智が発揮される時が必ずくると思うが、叡智ってなんだろうか。おそらく“良い”ということの基準が変わるのではないか。優れたものに向かって一方向に変化するというのは古いヨーロッパ思想でもある。一方向の時間ではなく、循環する時間の中で新たな豊かさを見つけることもできるのではないか。循環する時間の中でも知識、技術は進歩を続ける。スパイラルな時間の進行といった方が良いかも知れない。循環する時間の中で分相応に、安寧な暮らしを続ける。人間の意識の変更は困難ではあるが、いずれやってくる世界人口減少の先で、こういう考え方が主流になるかも知れない。でも、あと100年、あるいはもっとかかることになるかも。価値観というのはある時代や地域の精神的習慣に過ぎないから、あれが人類史の転換点だったと評価される時がくるのだろうな。すぐに来て欲しいとは思うがの。(2025年1月14日)
自然との交流と価値の創成
身体の老化、劣化のため、しばらく里山活動を休んでいたが、心の状態もおかしくなってきたので、再開することにした。先週末に同窓会があったのだが、肩、腰、股関節、膝に故障を抱えている同級生が多く、こりゃ年相応の劣化なので、楽しいことを諦めるのは損だと確信した。久しぶりにチェーンソー、レシプロソー、鉈を引っ張りだし、竹に覆われた谷津でしばらく汗をかいた。作業後にはすっきりした谷津を眺めて心もすっきりしたのだ。今日は公開のイベントとして開催したバイオ炭づくりの作業だったのだが、一般参加者にはおじさんだけでなく、年配の女性、ちっちゃい子供を連れた若夫婦もおり、竹の伐採を経験していた。里山を愛するたくさんの人々が市井にいることを確信することができた。コアメンバーの一人が稲の二番穂を収穫すると聞いていたので結果を伺ったところ、一番穂の1/4ほどの量が収穫できたとのこと。ただし、商品にできる品質ではなかったので(味ではなく外見)、物価上昇に直撃されている子ども食堂で使ってもらったとのこと。いい話を聞いた。自然と交流し、うまく付き合いながら新しい景観を創り出し、自らも景観の一部となって心を休める。変化する気候もうまく利用し、価値を生み出す。人、自然、社会の関係性がだんだん整っていく。(2025年1月12日)
「男の意識」と「女の意識」
河合隼雄著「対話する生と死」から。河合は西洋人の自我の特徴を「男の意識」とすると日本人の自我は「女の意識」だという。欧米の近代化は男も女も「男の意識」にとらわれすぎていた。男、女を使うのも混乱を生じるので、それぞれ「集中的注意」、「拡散的認知」と呼ばれている(ユング派の分析家カスティレオ)。これまでは何かひとつのことに注意を集中する意識のあり方ばかり評価されてきたが、注意を全体に拡げ、全体としての何かを認知することが重要であり、それは女性のほうがその能力が優位ではないかという。「拡散的認知」の重要性については同意するが、それについては女性が優位かというと、たとえば地理学の分野では男女はあまり関係ないように思える。それは環境、すなわち、人、自然、社会の関係性を包括的な視点、視座から理解しようとする習慣が身についているからかも知れない。むしろ、河合も指摘しているように、他に対して開かれている東洋人の自我のあり方が重要であるように思う。これからの科学は「集中的注意」が重要であったが、これからは「拡散的認知」が重要になるだろうという。それは、環境問題の重要性が増してきた現代において必要な重要な指摘であり、西洋科学を超えるオルタナティブ・サイエンスの登場を予言するものだと思う。問題を抱えた人を「冷たい対象物」ではなく「共に生きる人」としてみる態度が大切だと河合は言うが、それこそ原子力災害によってふるさとを壊された人をどう認識するかという態度につながる。国、東電の認識がどちらなのか考えてみるとよい。もちろん、少しずつ変わりつつあり、どちらが良いのかということではなく、包括的に認識しようとする態度が重要なのであろう。この章「見直される「女性の意識」は1982年に書かれたものであるが、それから40年以上過ぎた現在、まだまだ底流から抜け出せていないように感じるが、潮流となる兆しも見えてきたように思う。(2025年1月10日)
ピーター・ヤーロウ逝く
また青春時代の憧れが天に召されていった。享年86歳。PPMメンバーもポール・ストゥーキーだけになった。マリーさんが72歳で亡くなったのが2009年。人は必ず死ぬのだな。PPMが活躍した1960年代は自分は小学生。ラジオを一生懸命聞いてPPMの登場を待っていた。当時はフォークソング関係の番組も多かったので、アメリカンフォークソングの情報も得ることができた。中学入学が1970年で、拓郎やかぐや姫の全盛期を迎える。南こうせつは年末の紅白でいるかと一緒に歌う姿を拝見したが、老いたなぁ。自分も老いたということだ。みんな時代の流れの中に位置づけられていく。新しい時代を歓迎しながら、古い時代も尊重していくのだ。(2025年1月9日)
中空均衡型と中心統合型
日本人と欧米人の違いを神話を通して知ることができる。これはおもしろい。河合隼雄は「古事記」における重要な神「三貴子」、アマテラス、ツクヨミ、スサノヲの関係では、アマテラスとスサノヲが対立するが、抹殺といった決定的な対立には至らない。一方、ツクヨミはアマテラスとスサノヲの行為についてはひたすら無為を保ち続ける。この構造は、タカミムスヒ、アメノミナカヌシ、カミムスヒの関係、およびホデリ(海)、ホスセリ、ホヲリ(山)の関係においても同様である。「古事記」の神話では中心を空として、それをめぐる神々が微妙なバランスをとりつつ、決定的な対立に至ることなく共存している。これを河合は中空均衡型と呼んだ。これに対して、旧約聖書では唯一至高のの神が世界 の全てを創造し、中心にある絶対的な力によって統合される。神に反抗するものは追放されるのである。これを河合は中心統合型と呼んだ。この違いが日本と欧米の意思決定の差を生み出すという。日本人特有の曖昧さもはこの中空構造に起因しているようだ。曖昧さを日本の“悪しき”習慣として中心統合型を導入しようとすると組織は崩れてしまうかも知れない。どちらが良いか悪いかということより、より包括的な世界観、歴史観(すなわち、コスモロジー)に基づいて、長所、短所を見極めることが大切なのだろう。今の日本、特に政治にとって重要な観点であるように思う。河合隼雄「生と死」の「日本神話にみる意思決定」より。(2025年1月7日)
司馬遼太郎の明治観
司馬史観というと明治を礼賛するものだと思っていた。それは「坂の上の雲」のもたらすイメージによるものだが、生前、司馬は「坂の上の雲」の映像化を断っていた。それは司馬が誤解を恐れていたからだという。司馬は明治が「暗い時代」であることはわかっており、映像化によって昭和の軍部の問題がかき消されてしまうことを懸念した(朝日朝刊『百年 未来への歴史 デモクラシーと戦争』より)。私も誤解していたようだ。明治維新では国民国家を成立させるための手段として日本の伝統的思想、宗教を抑圧した。当時としては列強と対抗するために富国強兵をめざすという決断はやむを得なかったと思うが、それは結局1945年の敗戦に至る道であった。明治政府には心豊かな小国をめざす道もあったはずだ。しかし、諸外国の状況が富国強兵への道に誘った。これは現在と状況が非常に似ているように思う。違うのは少子高齢化、人口減少、低成長社会、あるいは縮退社会に突入していることだ。明治、大正、昭和を再評価した上で、改めて心豊かな小国をめざすということになっても良いのではないか。必要なことはコスモロジーを明確にすることだ。地球社会の有り様を歴史、空間の中で的確に解釈することだ。思想、哲学の成り立ちと、その歴史的、地理的背景を明らかにする必要がある。これを達成するのは誰か。アカデミア、政治家、大衆か。コスモロジーを巡る対話が必要とされる時代がやってきた。(2025年1月6日)
「信じる」こと、「知る」こと
「信じる」(I beleive)と「知る」(I know)の違いは何だろう。「信じる」は宗教で、「知る」は科学とはよく言われるが、その違いは曖昧だ。あるジャーナリストがユングに「あなたは神を信じますか」と聞いたところ、ユングは「知っている(I know)」と答えたそうです。この回答は批判を浴びたそうですが、ユングは“神の働きというものを毎日知らされているのだ、単純に信じているわけではない”と答えたそうです。「神は存在する」という仮説を立てて、世の中の事象を神の働きとして認識することにより、仮説は正しいと考えることは、それを反駁する新しい仮説が出てくるまでは科学の論法としては“正しい”わけだ。でも、神の働きということも「信じる」という領域にはいるのではないか。科学が進歩するにつれ、神の働きは否定される。一方、科学者が「知っている」と思っていたことも、実は「信じる」に規則づけられていることもあるだろう。複雑な対象、例えば地球システムに関する科学的な理解もある地球観に支えられていることもよくある。そこで二つをコンバインした形でコスモロジーとかパラダイムという言葉が出てきたという。難しいが表層のみを見るか、表層と深層の総体を見るか、ということと関係しているのかも知れない。まだまだ勉強する必要あり。河合隼雄「生と死」の「近代合理主義を超えたコスモロジー」より。(2025年1月6日)
不安の原因
図書館で借りてきた河合隼雄「対話する生と死」を読み終えた。たくさんの重要なことが書かれていたので、備忘録として少しずつメモしていきたい。心理療法家である故河合隼雄は患者の不安の原因は易々とわかるもんじゃないという。自分も不安に苛まされる日々を送っており、その原因について日々思考を巡らせているが、思い当たることはあっても、原因と結果としてぴったりマッチするものではない。表層だけ眺めていてもだめで、深層をのぞき込むことができないと見えてこないものだと思う。毎晩、眠る前に自分の末那識、阿頼耶識をのぞき込もうと集中するが、そのうち寝入ってしまう。深層に至るためには人生全般を俯瞰し、あらゆる関係性を認識する必要があるのかも知れない。ひょっとしたら前世、あるいは未来まで見通して始めて不安の原因がわかるのかもしれないなぁ。こんなことを書いていると近藤はおかしくなったと思われるかも知れないが、深層まで扱う科学はすでに底流として着実に流れ始めていることは様々な本を読んでいるとわかってくる。これは新しい科学なのかも知れんな。(2025年1月5日)
ミシェル・ペトルチアーニのジャズ
定年後は多様な音楽を聴くことにしているのだが、やはりジャズが好きだ。文春文庫の「ジャズCDの名盤」から適当に演奏者を選んでYoutubeで聴くのが楽しみなのだが、今日はフランスのピアニスト、ミシェル・ペトルチアーニを聴いてみる。彼は一メートル足らずの身長のため椅子に座らせてもらってから演奏が始まるのだが、突然、美しい旋律が響き渡る。ビル・エバンスと雰囲気が似たところがあるが、ちょっと違うクール・ジャズ系の音楽といってもよいだろうか。自分の好みである。37歳で早世してしまうが、彼の人生は充実したものだったに違いない。「名盤」の著者の一人の稲岡邦弥氏が終演後の楽屋を訪ねたとき、奥さんの膝をなでながら魅せた子供のような笑顔が忘れられない、と書いている。背後にいろいろな人生が見え隠れする音楽がいい。(2025年1月3日)
里山の風景
大晦日にかみさんの買い物に付き合った際に、トトロのジグソーパズルを見つけて買ってきた。題名は「ひなたぼっこ」。良い感じの里山の風景のなかに、大トトロ、小トトロ、メイとサツキがいる。モンキチョウも飛んでいる。春やなぁ。108ピースなのですぐにできあがり、部屋の壁に飾る。眺めているといろいろなことが見えてくる。レンゲの花が咲き誇る中にトトロたちはいるのだが、もうすぐすき込んで田植えが始まるのだな。でも、一段上がった圃場はススキが生い茂っているようだ。耕作放棄田かもしれない。左側に奥山に向かう農道があるようだが、樹木が覆い被さってきている。斜面は美しい新緑の中に山桜も咲いているが、樹冠が鬱閉し、樹高も高いようだ。里山に手が入らなくなっている。この里では過疎化が進み、人手も足りなくなっているが、丁寧に稲作をやろうという意気込みが見える。若い人も残っており、まだまだ里はやっていける。トトロもいるし。こんなことを妄想しました。(2025年1月1日)
新年の挨拶
もうずいぶん長いこと年賀状は書いておりませんが、どうも最近は世の中が追いついてきたようです。ネットに移行しているということかも知れませんが、“ひとり”の生き様が意識されてきたということだろうか。“ひとり”といえば親鸞ですが、鴨長明や兼好法師も“ひとり”仲間でしょうね。でも、“ひとり”の意味を取り違えてはいけません。“ひとり”とは自立した生き方であり、実はまわりに支援者がいたのです。良寛さまには貞心尼が有名ですが、地域に支えられていた。コミュニティーによって支えられた生き方といっても良いかも知れません。これからの時代は自立した個人が、自律的に行動しながらも、コミュティーの中で暮らすという時代なのではないか。かつて篭山京がスイスを訪れて感じた社会のありかたかもしれません(「怠けのすすめ」、農文協現代選書39)。ひとりを意識し、自覚するからこそ、連帯が生まれるのかもしれない、互いに助け合うしかないということが実感になってくるのかもしれない、こんな風に篭山氏は書いています。でも、スイスには社会のあり方に対する共通の理念があるのではないか。それはキリスト教を背景とした生じる理念かも知れない。日本は理念を失ったままですが、いまこそ取り戻さなければいけない。日本人が持っていた東洋的な思想、それは仏教あるいは神道、儒教かも知れませんが、大切にしなければいけませんな。東洋の思想をもっと深めたいものだ。それが今年の課題です。挨拶のつもりがじじいの戯言になりました。(2025年1月1日)