隠者のつぶやき

今年は68歳になる。年寄りといってよい。世間はまだまだ若いというだろうが、老いを意識しない無責任な発言にすぎない。もはや老年であることは避けられない。身心は確実に衰えている。気力の喪失と身体の衰えとの闘いが始まるのだ。その中で経験知を活かし、何らかの実践ができることがひとつの幸せだろう。相撲界では引退後に若手の指導や運営を行う元力士が年寄りだ。社会における年寄りになることをめざしたいが、イニシアティブをとるということではない。社会を外側から俯瞰し、認識したことを勝手に発信し、求められたときに少し動く。そんな存在がよい。(2026年1月1日)

2025年のつぶやき


普通の国?

選挙戦がはじまるのう。日本国民は何を選択するのか、興味があるところだが、ずっと気になっていることがある。衆院解散に際して高市さんは“右傾化ではない、普通の国になるだけだ”と発言した(1月19日)。確かに日本は普通の国ではなかった。敗戦後、80年にわたって平和を希求し、戦争をしなかった。これは普通の国ではない。これこそ日本の財産だ。高市さんのいう普通の国は軍隊を持つ先進国で、力によって肩肘張る国なのか。それは見かけの強さで、尊敬される国ではなかろう。日本がめざすのは尊敬される国だ。もはや経済力も減退しつつある状況で“普通の国”になってしまっては気の強い国々の中で埋もれるだけだ。世界からそっぽを向かれるのではないか。それでも、草の根で日本の未来を憂い、行動する人々はたくさんいることを信じる。開票日まで気が抜けんな。(2026年1月27日)

さて、齢68になりました

もう誕生日もたいしてめでたいものではないなぁ。昼頃になって、そういえば...ということになったが、今日も普通の日だ。何もなければ後10年くらいは生きていけそうだが、その間に何をやるか。ただ、生きているだけというのもおもしろくない。何か心を満たすことをやりたい。趣味か、畑か、犬との暮らしか。音楽を聴き、ギターを弾いているときは心地よい。畑に出ていると集中できる。犬はかわいい。世の中のありさまをもっと知り、意識世界を拡大させたいと思うのだが、世の中は複雑すぎる。世の中のありさまを知るということは神になるということかもしれない。そりゃ、無理だね。でも、少しずつ深めていきたいと思う。(2026年1月23日)

縮退の時代の影響の現れ方

羽鳥慎一モーニングショーで八潮市の陥没事故の話題を聞いた。あれからもう一年なのか。事故による直接被害だけでなく、工事による振動、家屋の亀裂、そして硫化水素によると思われる異臭や金属の腐食、家電の故障など様々な被害が顕在化しているそうだ。影響を受けた方々は本当にお気の毒だと思うが、下水道をはじめとするインフラの劣化は高度成長から縮退の時代へ向かう日本の現代史の中に位置づけることができる。同様な事象は今後も日本各地で起こるだろう。八潮市の例でもわかるように時代の変化の影響は社会全体にじわじわと生じるのではない。特定の領域で起こるのだ。その結果、受益と受苦が分離されてしまう。縮退の時代の中で受苦者が各地で増えてくる。和辻哲郎は著書「風土」のなかで日本人の性質は「受容的」、「忍従的」と述べている。現代の日本人は受益と受苦の関係には鈍感であるように思うが、受益と受苦の関係に気付いたとき、はたして日本人は「受容的」、「忍従的」でいられるだろうか。衆院が解散されるが、これも選挙における重要な論点であるように思う。日本の構想やビジョンの中で語られなければならない。(2026年1月23日)

暇を楽しくする知恵

Googleのおすすめ記事で山口周と所ジョージの対談記事が送られてきた。日立製作所が配信している記事。『「幸せのひきがね」は、面倒くさがらないこと/所さん式、人生を楽しく生きる術/【その3】「人生の達人」の極意は比べないこと』というタイトルで、おもしろいので全ての記事を読了。その中で山口氏がこんなことを言っていた。『 「暇」ってギリシャ語でスコレー(scholē)といって、これが「School=学校」の語源なのだそうです。学校というと「勉強させられるところ」というイメージが強くて、なぜ「暇」が語源なのか不思議に思われるかもしれませんが、暇を楽しく有意義に過ごすためにはいろんな知識や技術、知恵が必要。だから学校で教えましょうということになったので』。私立大学で講義を二コマ担当しているが、わがままな年寄りなのでシラバスを気にせず話している。学校が暇を楽しくするための知恵を授けるところだとすると、我が意を得たりじゃ。学問を要素化してシラバスを決めて話すだけだと「勉強をさせられる」ということになりがちだが、自分は項目の関係性を重視し、様々な話題へ飛ぶのじゃ。すると、自分との関係性も見えてきて楽しくなるはず、と思うのじゃ。ただし、学生が何を感じているのかはわからん。楽しんでいると信じるのみじゃ。先日、学生に話題を振ってみたのじゃが、受け身の姿勢が垣間見えてしまう。ちょっと残念な気もするのだが、教育というものは100%うまくいくということなど期待せずに、ひとりでも影響を受けてくれる学生がいたら良しとして、それを信じて粛々と行えば良いのじゃろう。オレの話を聞け、などといったら老害になってしまうからなぁ。それにしても所ジョージの生き様はいいなぁ。高田純次も好きなのだが。志村けんも好きだった。粋な老人になりたいもんじゃの。(2026年1月22日)

例外の積み重ね-どう乗り越えるか

昨日、“多国間主義に基づき国際社会の中で国連憲章、国際法の遵守を求める発言をすることが大切だ”なんて書いてしまったが、その困難さは年々増してきたのだ。朝日朝刊文化欄の「重ねた『例外』 国際法軽視の『先例』に」(西平等さんのインタビュー記事)から。アメリカのパナマへの軍事介入(1989年)、NATOによるセルビアの空襲(1999年)、アメリカによるオサマ・ビンラディンの殺害、などなどたくさん。そしてロシアのウクライナ侵攻、アメリカのベネズエラ侵攻、などなど。例外は積み重ねられ、国際社会は大国の横暴に声を上げることができなくなってしまった。来月には新しい政権が発足するが、勇気を持って国際的員発信することはできるだろうか。アメリカ追随では国際的な信頼は得られない。まずは日本国民が真っ当な判断をすることが重要なのだろう。2月8日の衆院選開票ではどうなるだろうか。国民が意思を示すことが大切だ。だが、争点にもならないようでは日本の幸先は危うい。 (2026年1月21日)

台湾有事-反省の弁

非常勤で担当している大学の講義は世間話から始めることにしているのだが、高市首相の台湾有事発言に関しては一国の首相の一番大切な仕事は戦争をしないこと、日本の若者を戦地に送らないことだという話(寺嶋実郎のパクリ)をした後に日中韓米の関係に関する分析を学生に話した。まともな事を話したつもりだったが、岩波世界2月号(特に駒込論文)を読んで大いに反省した。外交関係の話では台湾の国民の観点がすっぽり抜け落ちていたのだ。台湾の人々は歴史の中で中華や日本に支配された時は自国民でもない、敵国民でもない、すなわち人間ではない、という扱いを経験してきた。その中で、自主、自立の気概を育んできたのだ。自分はエンパシー、すなわち当事者の立場で考えることが大切だと主張していたにもかかわらず、台湾有事の分析においては第三者の大国(日本はもはや大国ではないが)目線であった。大いに反省した。では、どうすれば良いか。それは多国間主義に基づき、国際社会の中で国連憲章、国際法の遵守を求める発言をすることが大切だ。そのためにも世界のあり方に対するビジョンを政治家は持たなければならない。政治家がビジョンを持つためには国民から政治家に向けて発信しなければならない。これは言うに易く行うに難しだ。ビジョンを明確にして発信するとすぐにたたかれてしまう風潮がある。やはり、対話ができるということが大切で、それが近代文明人であることの要件だと思うのだが。(2026年1月20日)

近代文明技術を使いこなす精神的習慣

中部電力浜岡原子力発電所におけるデータ操作疑惑はまったく残念な出来事であるが、その背後に何があるのかを知ることが日本にとって本質的に重要なことかもしれない。日本では評価(アセスメント)は事業者が行う。担当者は職階のヒエラルキーの中で事業者(上司)の便益にかなうような結果しか出さない、あるいは出せない。これは環境アセスメントでしばしば経験したことだが、それがアセスメントにおける悪しき常識になってしまっているように感じる。ひょっとしたら担当者は何の罪悪感も感じずにやってしまったのかもしれない。モデル計算では、モデルの構造、初期条件、境界条件の設定如何で結果を操作することが可能だ。アセスメントの目的とシミュレーション技術の使い方に関わる思想が事業者と社会で共有されていないことが問題だ。今後、検証が進んでいくはずだが、悪しき精神的習慣を糺すことはたいへんな労力を必要とする。今回は通報者があったということだが、ムラ社会の中では勇気が必要なことだったろう。表層で検証を進めることができても、底層にある精神的習慣を見極めないと過ちは繰り返される。近代文明技術を使いこなすということは表層と底層の全体を見極めることが前提とならなければいけないのだ。(2026年1月6日)

1968年~歴史から学ぶ

事象の全体性へのアプローチが大切だと常々考えているが、なかなか難しいことでもある。ベネズエラをめぐるアメリカの行動と諸国の反応の理解のためにはもう一度歴史に立ち戻る必要がありそうだ。昭和100年に際しては日本の近現代史を学び、自分の不勉強を恥じたところであるが、世界の現代史を調べ始めたところ、すぐにヒットしたのが1968年だ。この年は世界で様々な事件があった。チェコスロヴァキアの“プラハの春”、ポーランドの“3月事件”、メキシコの“トラテロルコの虐殺”、フランスの“5月革命”、そして日本では全共闘運動。ベトナム戦争、文化大革命が進行中であり、ソ連は武力により“プラハの春”を鎮圧した。これらの一連の事象に関する歴史的、文明史、人類史的解釈と、その後の時代への影響を理解したい。さらに調べるとキング牧師、ケネディー大統領が暗殺された年でもあった。アポロ計画が進行中で、翌年には人類が月に到達する。何か意味がありそうな気がする。こんな観点は学者思考で、浮世離れしておるかのぅ。(2026年1月5日)

国際法~正義を遅らせるもの

アメリカのトランプ大統領がベネズエラを攻撃し、大統領夫妻を拘束したという。報道では国際法違反の疑いとの記述がある。国際法については岩波世界の1月号に気になる記述があったことを思い出した(根岸・金城対談「ガザ・ジェノサイドに日本から応答する」)。引用すると「国際法はまずしっかりと戦闘状態を止め、そのあとに紛争解決などを通じて正義を追求していくものだと。正義を先に追求すると紛争当事者の正義のぶつかり合いになってしまい、平和はいつまでも達成されない」(西平等(にしたいら)、<正義を遅らせるもの>としての国際法、「法と哲学」10号、信山社)。ウクライナ、ガザもそうであるが、ベネズエラも同様な事態に陥ったといえる。本来はこのあとに国際法が登場するはずだが、大国は我こそが正義だから、相手は悪という考え方から脱却できない。調停を行うことができる機関は国連しかないが、安全保障理事会は常任理事国によって機能不全に陥っている。今こそ、日本は国連加盟国の先頭に立って国際法および国連憲章の遵守を呼びかけてほしいものだ。国連を機能させるのは加盟国なのだから。(2026年1月4日)

新年の挨拶

新年明けましておめでとうございます(と心置きなくいえる時代にしたいものだ)。実は昨年は義父が亡くなり、喪中なのだが、正月は死者とともに祝ってもいいのではないだろうか。自分が死んだ時は喪中はなくてもよい。先祖になって子孫の楽しい様子を眺めていれば満足だ。ただし、人口減少の局面で子孫のない先祖になるのは寂しい。それも宿命(しゅくみょう)というものだろう。さて、隠者になって早3年。お世話になった方々には無礼をご容赦願いたいが、世の中との関係も大分少なくなってきた。残りの人生を無事(こともなし)で過ごすか、もう一度心を奮い立たすか、思案の年頃だ。“ひとり”になろうとして“ひとり”について考えてきたつもりだが、“ひとり”というのは自立・自律の精神を持つということだ。まだ、外界からの作用に弱すぎる。責められると崩れてしまう心の弱さを直さねばならぬ。余生は短い。気にせず生きたいものだ。もうひとつは“慈悲”の心だ。ひとりでありながら外界にも目を配る。これができれば解脱だ。もう少しがんばろう。(2026年1月1日)

2025年のつぶやき