自由人になってから時間の進み方がどんどん早くなっている。“直線的な時間”の中に身をおいたままでは、歳をとるばかりだ。今年は“循環する時間”を意識して暮らしていきたい。それは、自然(じねん)に生きるということ。自然(nature)と一体となって、互いに交わりながら暮らしていきたい。(2025年1月1日)
あのひとたちはどこにいるのか
東日本大震災14年目ということで本棚から関連する写真集や雑誌を引っ張り出したところ8冊あった。眺めていると当時の“あの感覚”(うまく表現できないのだが)がよみがえってくる。閖上の瓦礫の中で泣きながらたたずむ女性の写真が印象に残っていたが、写真集の中にあった。瓦礫の中に多くの傷ついた人びとがいる。子どもも変わり果てたふるさとを歩いている。彼ら彼女らは何を感じたのか、遠くの安全な場所にいる自分には表層は見えるが深層を見通すことはできず、想像するだけだ。福島民報社は30日、1年、5年の三冊の記録を出版しているが、5年目の副題は「ふくしまは負けない」。未来に向けてなんとか踏み出すことができた人びとの語りが収められている。でも、震災で打ちひしがれてしまった方々もたくさんいるはずだ。表には出てこない人びとにも暮らしがあることは確かだ。そんな人びとの声をダイアログを通じて知りたいと思うのだ。何のために。深層までも含めたこの世の有り様、それが真理だと思うが、それを知り、安寧な社会のあり方を考えたいのだ。意識高い系と言われそうだが、知らなければこの社会は息苦しくなるばかりだ。(2025年3月11日)
14年目の3.11
東北地方太平洋沖地震から14年か。早いもんじゃ。東日本大震災は自分の人生の方向を変えたといえるが、それはとても良かったと思っている。人生の深みが増したと思う。福島に通いながら科学と社会の関係に関心が生じ、科学史、哲学、思想、宗教、心理学、いろいろな分野の本を読み始めた。この間、学術会議の連携会員になって科学の側についたこともあったが、どうも科学の世界と現実世界の乖離を感じるようになった。それはなぜかということを考え続けてきたが、科学が扱うのは表層世界で、現実世界は深層世界までを含むから、といえそうだ。もちろん、科学の世界でも深層世界を重視する分野もあるのだが、学界の中における分断も感じていた。今は在家で実践を心がけているが(維摩経と華厳経の教えじゃ)、最近は身体と心が衰弱してきて行動力に欠けるようになってきた。実践せずに読書で頭でっかちになり、悟りからは遠ざかりつつあるのかもしれんの。(2025年3月11日)
やまいもの教え
子どもの頃に読んだ話、絵本だったと思うが、ずっと頭に残っている話がある。平安時代の話なので今昔物語か宇治拾遺物語あたりかなと思っていたら、やはりそうでした。ふと思い立って検索したらすぐにヒット。なんで今までわからなかったのだろう。謎。それは宇治拾遺物語巻1・第18話の「利仁、暑預粥の事」でした。芥川龍之介がここから題材をとって「芋粥」を書いていた。京の下級貴族(五位)の芋粥を腹一杯食いたいなぁ、という思いを聞いた無位の下級武士(利仁)が、領地の敦賀へ五位を連れて行き、芋粥を振る舞うという話。いろいろな解釈があるようだが、子どもの自分は地方の豊かさにインパクトを受けたのだ。縦社会の都会で窮屈に暮らすより、地方でのびのびと暮らす方がどんなに幸せだろうか。このことが自分の思想の基調になっていると思う。定年になったら田舎に行くぞ、と思っていたが、いざ定年になるとなかなか身体が動かない。五位のように憧れている時が華なのだろうか。地方の時代がやってきたと言われる昨今だが、なんとか実現させたいものだと思う。中央を支えているのは地方なのだと鴨長明さんも方丈記に書いている。地方の本当の強さがだんだん明らかになり、立場が逆転する時を迎えているのではないかな。(2025年3月7日)
ふるさとのど真ん中で郷愁に駆られるとは
福島にずっと関わっているからだろう。アルゴリズムがYahooニュース「原発事故から故郷に帰還した住民の孤独 帰還者の心のケア 地域コミュニティの再生へ《東日本大震災》」をリストしてきたので読む。帰りたくてしょうがなかった故郷だが、帰ってみると不安やさみしさが募るという。タイトルは9年間の避難生活の後、念願叶って戻ってきた鈴木さんの言葉。識者は地域コミュニティーの再生が鍵だという。その通りなのだが、原発事故で変わり果てたふるさとで暮らすためには何かが足りないような気がする。それは、自然(じねん)として暮らす、すなわち、自分もふるさとの一部として暮らすこと。先祖とともに暮らすという意識があるのではないか。そして土地とともに暮らすということで、それには農の営みが必要だ。さらに、手作業の仕事(稼ぎではなく)があるということ。事故だけでなく、人口減少社会、低成長社会という必然の中で、もとには戻らないだろうという現実を前にして新たな地域を創っていくしかないのかも知れない。それは過去への回帰であるとともに、科学技術の進歩という事実のもとで、より上位の状態へのスパイラルな回帰という考えも可能だろう。帰還が困難な若者も多く、まずは高齢者が主体となるだろうが、仏教的あるいは日本古来の思想である“ひとり”への諒解が安寧を生み出すのではないか。(2025年3月6日)
山林火災の素因
大船渡の山火事についてはお見舞いを申し上げるしかなく、申し訳ない気もします。映像を見ていると林床が燃えているようですが、管理されていないスギ林では落葉落枝は量も多く、これが燃えていることは容易に想像つきます。もし、間伐、枝打ちが適切に行われていたら、落葉落枝の量も少なく、下層植生も繁茂するのでもう少し火勢を弱めることもできたのではないかなぁ。また、東北地方特有の落葉広葉樹林だったら落葉の火力は弱く、消化も相対的に容易だったのではないか。最近では針広混交の施業方法もでてきているので、林業が産業として機能していれば火災被害も抑えることができたのかもしれないな。今後、研究成果が出てくると思うが、良好な人と自然の関係性が保たれれば、安寧な地域を創ることができそうに思う。でも、人口減少、少子高齢化が眼前に立ちはだかる。それでも、人の生き方に対する精神的習慣が変われば乗り越えることができるのではないか。田舎だからこそできることがあるのではないか。わずかな希望を持つ。(2025年3月3日)
振り子の国-アメリカ
トランプ政権とゼレンスキー大統領の会談は残念な結果に終わってしまった。トランプ大統領はどんな世界を見ているのか。トランプの意識世界は彼が意識する範囲で形成される。その広がりはどの程度なのか、世界の中にある関係性は見えているのか。世界を包括的にみてはいないのではないか。でも、それはアメリカという国の精神的習慣かも知れない。タウンシップから始まり、ボトムアップで築いてきたアメリカの民主主義の習慣であり、それが共和党の精神なのだろう。アメリカ人にとっては、かつてジョン・デンバーが謳ったようにカントリーこそがもっとも大切なものなのだ。さらに神を頂点とする一神教的精神が、関係性を意識する力を弱めているのかもしれない。すべてを決めるのが神だから。それでは国際社会の中ではやっていけん、ということでリベラルな精神が生まれてきたのではないか。アメリカの政治は振り子のようなものだ。リベラル政権の揺り戻しもいずれあるだろう。しかし、世界は変化しつつある。トランプによる揺り戻しがスパイラルで変化に対応できるものであるのなら良いのだが、昔ながらの孤立主義への回帰に過ぎなければ危うい。無視した関係性により世界が取り返しのつかないものにならなければ良いが。関係性は仏教の精神だ。日本ががんばれるチャンスでもあるのだが、思想や哲学が背後になければあかん。それにしても、歴史をもっと勉強せねばあかんなと切に思う。(2025年3月2日)
高額療養費-議論の前にあるもの
高額療養費をめぐる自民と立憲の議論は平行線をたどっているが、この課題に対しては議論に先立ち深めておかなければならない思想が必要であるように思う。それは、日本人の死生観である。日本では“生きる”ことは語るが、“死ぬ”ことを語ることは憚られる社会になってしまった。それは明治の国家神道の創設(それは仏教の衰退を伴った)と敗戦後の政教分離の原則があるように思う。宗教と暮らしの関係性が希薄になってしまったことによって政策の背後にあるはずの思想を語ることができなくなってしまった。高齢者は生きることだけが目的ではなく、よりよく生きることをめざしているのだ。それは、よりよく死ぬことも含まれる。よりよい死とは何か、唯一の答えはない。欧米では寝たきり老人は少ないそうだ。寝たきりになる前に死んでしまうということだが、宗教的背景が死に対する諒解を生み出しているようだ。もちろん、命は何よりも尊いものだ。だが、それは表層的な解釈なのかもしれない。深層、すなわち暗在系、集合的無意識、唯識における阿頼耶識、などを含む(仏教的な意味での)世界全体を見て解釈すると見えてくるものがあるのではないか。こんなことを書くと誤解を生じそうであるが、こういう対話、議論ができる社会が安寧な社会なのではないだろうか。(2025年3月1日)
同時性-現実の全体構造
なんとなく河合隼雄「日本人の心」を手に取り、伊東俊太郎との対話「宗教と科学」を読み直す。以前、図書館で借りたときにこの部分をコピーしておいたのだが、もういらないので捨てる前の読んでおこうということ。ぱっと捨てるということができない性格なのでものがたまるばかりだ。ここではユングの「同時性(ジュンクロニツィテート)」について語られている。それは、因果律では説明できないけれど、非常に「意味のある偶然の一致」という現象のことだ。先日、義父の訃報を早朝に受けた後、布団の中でモヤモヤしていたら、枕元に置いてあった転がすと光る地球の形をしたおもちゃが光り始めたのだ。それは20年くらい前に購入したもので、とうの昔に機能しなくなっていたので後頭部の指圧に利用していたもの。義父が知らせてくれたのだなと思った。その後はどうやっても光らなかったのだが、通夜の前日、ホテルで床についた時にうっすら光ったのだ。その後、光ることはなかったのだが、これがユングの同時性の例だろう。それは深層界における事象で、表層界の因果律で説明しようとしても次元が異なるので無意味なのである。でも、現象としては存在する。伊東俊太郎によると、同時性とは心の奥にある無意識と、ものの背後にある暗在系(量子力学のボームによる)を因果的な仕方でなく、つなぐものだ。同時性は確かに存在し、このことにより自分は来てくださった義父に感謝し、自分の人生を深めることができる。こう書くとおかしなやっちゃ、といわれるかもしれないが、表層のみを扱う近代西洋科学を超えた表層界と深層界を含む全体構造を俯瞰しているということだ。科学を超え、科学と宗教を包含する全体構造に関する世間の理解はなかなか深まらず、ユングや河合隼雄、伊東俊太郎も難儀しているのだが、現実の全体構造こそが生きた“ひと”が関わり合う世界そのものだ。これが理解されれば、世界で起きている不都合な出来事は回避できるのではないかなぁ。(2025年2月23日)
受益と受苦の関係
今日はある管理型最終処分場の視察に行ってきた。10年前にも訪れているが敷地が拡張され、景観は大きく変わっていた。つまびらかにされてはいないが、ここには都市の廃棄物がやってくる。都市にとってはなくてはならぬ施設だ。近代社会を維持するための基盤施設であるが、地元にとっては迷惑千万な施設である。何より地元の貴重な水資源、文化資源、自然(nature)資源を物理的、精神的に損なうことになる。地域における大切な帯水層の涵養域にある処分場なのだから。ただし、科学的合理性によると、汚染の蓋然性はあるがリスクは小さい、ということになるだろう。精神といった深層は顧みられることはない。この問題は典型的な受益圏・受苦圏問題である。全体の発展のためには部分は我慢すべき、という古い時代の精神的習慣による考え方である。そろそろ変えても良いのではないか。集中をやめて、分散して暮らし、廃棄物は地域ごとで処理する。最終処分の様子を見て、自分たちの生活態度を改めることができるはずだ。それでも、走り出した処分計画を変えることは困難の極みでもある。せめて、受益と受苦の関係を明らかにし、諒解を形成する努力を手続きの中に明記することはできないか。日本では“環境”の意味が取り違えられ、自然(しぜん)との区別がつかなくなっている。環境の本来の意味を取り戻し、人、自然、社会の関係性をよくする営みこそが環境アセスメントであるはずだ。人口減少、少子高齢化、低成長の時代が始まった今こそ考えておかなければならないことなのだがなぁ。(2025年2月21日)
ふるさと感を取り戻す
週末から昨日まで義父の葬儀で長野に行ってきた。北に浅間が聳え、南に八ヶ岳を望み、関東山地と蓼科山麓の間を流れる千曲川の段丘の上に岐阜の家は建つ。そこから望む景観は圧倒的なパワーで何かを語りかけているように感じる。それは、自然(じねん)ということではないか。あなたも自然の一部なのだと。ここ佐久盆地の南縁部でで生まれ、育ち、生業を営み、家族を持ち、そして死んでいった、その場所が“ふるさと”なのだ。義父は無事に先祖の仲間入りをしたのだと思う。日曜日にはお世話になった山木屋の源勝さんの葬儀もあった。ふるさとが人生そのものだった源勝さんだが、晩年は原発事故によりふるさと存亡の危機に陥ったが艱難辛苦の末、ふるさとを取り戻したといえる。山木屋では日山や阿武隈の落葉広葉樹の丘陵を借景にして、庭に取り込むように建てている家が多い。山を歩いていた時、氏神様の社によく出会った。そこには自然(じねん)の世界があった。源勝さんも“ふるさと”で先祖の仲間入りをしたのだろう。こう書くと内山節の影響を受けていると我ながら思うが、都市では失われた日本人の精神性が、農山漁村にはまだ残されているように思う。この精神を取り戻すことが昨今の様々なややこしい問題の解決につながるのではないか。原発で問題なのは、表層にある科学的合理性のみが考慮され、深層の領域が顧みられないところである。ふるさと”を取り戻すということが問題の解決への方向性なのではないかと思う。そういう自分は生まれ育った土地で暮らしているが、ふるさと感がないのだ。東京大都市圏の縁辺部にあり、都市化が進み、便利なのだが人と自然の関係性が希薄だ。ふるさと感を取り戻すにはどうしたら良いのだろうか。それが今後の課題である。(2025年2月19日)
ふるさとにおける死生観
今週はふたりの訃報が届き、無常ということを身に染みて感じているところ。ふたりの共通点はふるさとで生まれ、育ち、生業、家族を持ち、そしてふるさとで死んでいった、いうこと。ふるさとがしっかり保たれていれば死ぬことは忌むことではない。ふたりとも先祖の仲間入りを果たしたということでもあり、これからは子孫を見守っていくのだ。しかし、こういう死生観は近代化の中で失われてしまった。生きることは強調されても、死ぬことが語られることはなくなってしまった。現代社会の死は数字と属性で語られる。もっと“ひと”、すなわち“ふるさと”で生きて死ぬ“ひと”としての人間が語られなければならない。ここに現代社会の問題を解決する糸口があるのではないかな。(2025年2月14日)
ポスト・トゥルースかポスト・ファクトか
朝日夕刊のコラム「にじいろの議」のタイトルは「ポスト・トゥルース時代の選択肢 『くじ』が守る民主主義」。著者の藤井達夫さんはポスト・トゥルース時代はたいへん困った事態であると考えている。記事に記されたその定義は「客観的な事実よりも情緒(信念や感情)への訴えかけが、世論や政策形成においてより大きな影響力を持つような状況」ということだ。この定義によると客観的な事実が何よりも重要と言うことになるが、それは西洋近代科学のよりどころとなるものである。藤井氏は科学者や専門家一般、その知識に対する人びとの信頼の低下がポスト・トゥルース時代の特徴であるというが、西洋近代科学はもともと事象の表層を扱っているに過ぎない。東洋の考え方では表層だけでなく深層を重視する。事象の背後にある様々な事情や精神的習慣を考慮して、“真実”に迫るのが東洋思想だ。事実が明らかになれば事象は理解できると考えるのが西洋近代科学である。だから、ここでいうポスト・トゥルースはポスト・ファクトといったほうが良いのではないか。ポスト・トゥルースとは事象の深層まで考慮し、真実あるいは真理に接近し、事象の本質を理解しようとする態度と定義した方が良いのではないか。ポスト・トゥルース時代に必要なのは理念を明確にすることだと思う。ポスト・トゥルース的といわれている事象には理念が語られていないものが多い。なお、「くじ」とは層化ランダムサンプリングのことで、その手法で代表者を選出し、専門家のレクチャーを受けて、民意を創出するというものだ。では、専門家とは誰なのか。科学者なのか。それもいまいちわからないが、西洋近代科学を是とする現代の精神的習慣が背後にあるような気がする。ここで西洋近代科学とことわったのは伊東俊太郎の著作を読んで、世界の地域、歴史の中には様々な“科学”があり、西洋近代科学はたまたま現代を創り上げた立役者になっているに過ぎないということを知ったから。(2025年2月12日)
学術会議、その後
朝日朝刊のオピニオン欄は学術会議前会長の梶田隆章さんのインタビュー。タイトルは「学術会議 これで決着?」。菅義偉首相(当時)による会員任命拒否問題勃発以降、科学(学術)と政治の関係は損なわれたままだ。科学と社会との関係性も良好でないことも明らかになったといえる。こんなことでは日本は世界から取り残されるばかりなのだが、梶田さんはすでに諦めの雰囲気も漂わせている。自分も同じ気分だが、学術会議側にも考える余地はあるのではないか。記事のサブタイトルは「理念なき法人化は終わりの始まり/譲れぬ自主独立性」。理念がないのは政治側なのだが、学術会議側も理念を検討する余地があるように思う。理念とは時代の流れと世界のありさまを読み解き、日本の現状を認識した上で、未来を展望したときに明らかになってくるものだ。科学も普遍性探究、進歩、発展を基調とする従来の西洋科学の精神的習慣から脱却する時代を迎えたのではないか。人口減少、少子高齢化、低成長時代の科学として何が重要か。自分は問題解決型科学というものを考えた。問題を解決するためにものごとの表層だけでなく、深層まで俯瞰し、諒解を形成する科学である。そこでは科学者はステークホルダーの一人に過ぎない。それでも“問題の解決の達成を共有”して協働する姿が新しい時代の科学者なのだ(“問題の共有”ではない)。それはフューチャー・アース(2015年に始まった地球環境問題研究イニシハティブ)におけるトランスディシプリナリティー(超学際、学際共創)そのものなのだが、その実行には社会の精神的習慣の変更が必要だ。だから進行が遅々としているのだが、乗り越えるべき壁が高すぎるのかも知れない。今の学術界では理工系の主張が強いため、なかなか問題の深層まで踏み込む文理融合が進まないように見える。このままだと“社会の変革”は草の根の活動から進行していくだろう。社会における科学がいつも後追いなのは科学史が明らかにしているように。アカデミアと問題の現場との距離がまだまだ遠いように感じる。この距離を縮める科学を日本から発信したいものだ。(2025年2月11日)
弱さの生むもの
大谷翔平の通訳だった水原一平氏の言い訳が評判よろしくないですな。上原浩治氏のコメント(Yahooニュース)を読んでいると確かに、なんてやっちゃ、という気分になります。でも、それは水谷氏の心の弱さゆえなのではないか。弱さに対しては寛容でありたいと思うが、世の中の気分はそうではないのだ。弱さが生むものは欺き、受容、そして巨悪があるようだ。水原氏の場合は弱さ故の欺きといえるだろうが(勝手なことを言っています)、弱い自分を受け入れてよりよく生きようとする人もいるだろう。一方、弱さが暴力という巨悪を生んでしまうこともあるのではないか。それが一国のリーダーだったらどうなるか。今も戦禍で苦しんでいる人々を思います。弱さを人間の本質と受け止めて、事前に対話ができれば世の中はもっと暮らしやすくなるのではないかと思うが、それができるのは強い人なのだ。世の中には弱さ故の強い人ではなく、真に強い人が必要なのかも。ヒーローはあまり好きではないのだが。(2025年2月10日)
取引と信頼
トランプ政権が始動し、いろいろなことが始まった。トランプ大統領は政策実現のためにディール(取引)を多用するが、ディールとは何だろか。日本語では取引だが、背後には駆け引き、脅し、といった意味も含まれていそうである。それでは取引に勝っても、信頼を失うのではないかと心配になるが、アメリカという国、特にWASPと呼ばれる人々は取引の結果を受け入れるという精神的習慣を持っているのだろう。それはアメリカン・スタンダードではあるが、もはやグローバル・スタンダードである時代は終わった。トランプ氏の行為は諸国の信頼を毀損していくだろう。以前からそうだよと言われる御仁もいるだろうが、それはアメリカに強さがあったから。アメリカの強さはこれから減退していく。それでも強いと思い込む人々は何かをやらかしそうな気もする。アメリカの動向は目が離せない。(2025年2月7日)
里の風景につつまれて
最近は家に籠もることが多くなってきた。すると心が沈んでくるのだ。そこで、午後は黒柴娘のつむぎさんを車に乗せて外に出かけた。運転しながらどこに行こうか考えたが、つむぎさんが泣き止まない。そこで、近場の八千代広域公園で車をストップ。新川沿いをしばらく散歩し、水面で遊ぶ鳥たちを愛で、遠くの斜面林に癒やされ、お寺の境内でたくさんの仏さまを眺め、風は強いが暖かい日差しを浴びて、身心を整えることができた。つむぎさんもうれしそうにはしゃぎまわり、帰りの車内では騒がなかった。これは良い。少しずつ犬連れドライブの距離を伸ばそう。もうすぐ退職後2年、仕事も減ってきた。お小遣い稼ぎはまだまだ必要なのだが、自由な時間をもっと楽しみたい。(2025年2月6日)
「楽しい国」いいじゃないか
石破首相の「楽しい国」はあまり評判がよろしくないようで、昨日の朝日夕刊の4コママンガ「地球防衛家のヒトビト」(しりあがり寿)でも、おとうさん、おかあさんはしらけてしまっているようだ。それは「楽しい国」の表層だけを感覚的に捉えているからだろう。戦後日本の歩みの中で国土政策がどのように変遷し、それがどのような思想的背景から出てきたものかを知ると、理解できるのではないか。国土の開発からグランドデザイン、そして国土形成計画への変遷における思想的背景には何があったのか。環境基本計画でも同様だ。それは「強い国」から「心豊かな小国」への転換だろう。これは極論でもあるが、これらの文章を読むと両者の相克を感じることはできる。かつて明治政府は「富国強兵」と「心豊かな小国」の選択で前者を採った。その結果が昭和の敗戦だ。その後、高度経済成長を経て、低成長、少子高齢化、人口減少の時代を迎えた現在、選択すべきは何なのか。限りない経済成長なのか。国民の幸せなのか。幸せは貨幣で買えるのか。そんなことが背景にあるのではないか。野党はこの点を深掘りしてほしい。ものごとは深層を知ることが大切だ。(2025年2月1日)
インフラの持続可能性
八潮の陥没事故はたいへんなことになったのう。下水道管の破損というが、こういうインフラというのは不断に検査、修理、更新を続けていかねばならずコストがかかるものじゃ。そのコストを賄う税収、作業をする人材がもう確保できなくなっているということを今回の事故は意味しているのではないじゃろか。都市というシステムが限界に達したのかも知れん。人が分散して暮らし、自然の恵み、それグリーンインフラというやつじゃ、それを活用できる地域計画が必要な段階がすでに来ているということではないじゃろか。未来ばっかりを気にしすぎると社会の変化が追いつかなくなるのじゃ。現在をしっかり見つめることが大切じゃ。(2025年1月31日)
森永卓郎逝く
やっぱり逝ってしまった。ガンを公表した時には余命は春までと宣告されていた。でも1年間、明るく前向きに生きた。なんという強さだろう。強さの背後には緩さと真面目があった。同い年だが自分が尊敬する人物の一人だった。他には高田純次、故志村けんもあこがれのおじさんだなぁ。自分にないものを持っているひと。永遠に憧れつづけるのだと思う。(2025年1月29日)
生きること、死ぬことの尊厳
ぼーっとしていたら67歳になっていた。一方向の時間とは酷なものよのう。ほっといても歳はとっていく。歳はとっても心は若く、というが未熟なままじゃ。循環する時間の中で、住居の周りの自然をすべて庭として、自然(じねん)のままに生きて、死んでいけたら良いのう。最近の社会では生きること、死ぬことに尊厳がなくなりつつあるような気がする。尊厳を取り戻すには、暮らすことを働くことの前に持ってこれる社会が必要だ。働くことも稼ぎと仕事を峻別し、仕事は生きがいを感じさせるものでなくてはあかん。老いてこんなことばかりつぶやいています。(2025年1月23日)
ふるさと再構築
長野まで日帰りした。東京から佐久平まで新幹線で一時間、はやいもんじゃのう。行きは我慢したが、帰りはビールと日本酒を頂くのがせわしなかった。今日は青空を背景に雪をかぶった浅間山がきれいじゃ。煙も出しちょる。小海線に乗れば、ディーゼルエンジンのうなり声がまたよいもんじゃ。なだらかな丘陵の冬枯れした落葉広葉樹も美しい。こんな土地でのんびりと暮らしたいものじゃ。不可能ではないのじゃが、なかなか踏ん切りがつかん。自分のふるさとはどこじゃろか。もちろん生まれ育った習志野なのじゃが、都市化が進みすぎた。下総台地の景観も原風景なのじゃが、台地で育ったので山に対するあこがれは子供の頃から強いのじゃ。ひとはふるさとで家族とともに暮らし、死んだら先祖の仲間入りをするのがしあわせのひとつのあり方じゃないじゃろか。うちのお墓は東京にあり、親類縁者もだんだん少なくなる。この際、新たなふるさとを再構築できたら、それも生き方じゃの。(2025年1月21日)
人類の叡智とは
運転免許証の5年ぶりの更新を終えた。新しい顔写真は前のに比べると髪の分け目が大分後退している。だんだん老人の顔になっていくのだ。次回の更新は2030年。SDGsの目標年ではないか。それまでは健康で暮らしていたいものだ。その時、世の中はどうなっているのだろうか。楽しみであるが、不安でもある。世の中は時間はかかるが必ず良くなるはずだ。でも、その時間は100年を超えるかも知れない。人類の叡智が発揮される時が必ずくると思うが、叡智ってなんだろうか。おそらく“良い”ということの基準が変わるのではないか。優れたものに向かって一方向に変化するというのは古いヨーロッパ思想でもある。一方向の時間ではなく、循環する時間の中で新たな豊かさを見つけることもできるのではないか。循環する時間の中でも知識、技術は進歩を続ける。スパイラルな時間の進行といった方が良いかも知れない。循環する時間の中で分相応に、安寧な暮らしを続ける。人間の意識の変更は困難ではあるが、いずれやってくる世界人口減少の先で、こういう考え方が主流になるかも知れない。でも、あと100年、あるいはもっとかかることになるかも。価値観というのはある時代や地域の精神的習慣に過ぎないから、あれが人類史の転換点だったと評価される時がくるのだろうな。すぐに来て欲しいとは思うがの。(2025年1月14日)
自然との交流と価値の創成
身体の老化、劣化のため、しばらく里山活動を休んでいたが、心の状態もおかしくなってきたので、再開することにした。先週末に同窓会があったのだが、肩、腰、股関節、膝に故障を抱えている同級生が多く、こりゃ年相応の劣化なので、楽しいことを諦めるのは損だと確信した。久しぶりにチェーンソー、レシプロソー、鉈を引っ張りだし、竹に覆われた谷津でしばらく汗をかいた。作業後にはすっきりした谷津を眺めて心もすっきりしたのだ。今日は公開のイベントとして開催したバイオ炭づくりの作業だったのだが、一般参加者にはおじさんだけでなく、年配の女性、ちっちゃい子供を連れた若夫婦もおり、竹の伐採を経験していた。里山を愛するたくさんの人々が市井にいることを確信することができた。コアメンバーの一人が稲の二番穂を収穫すると聞いていたので結果を伺ったところ、一番穂の1/4ほどの量が収穫できたとのこと。ただし、商品にできる品質ではなかったので(味ではなく外見)、物価上昇に直撃されている子ども食堂で使ってもらったとのこと。いい話を聞いた。自然と交流し、うまく付き合いながら新しい景観を創り出し、自らも景観の一部となって心を休める。変化する気候もうまく利用し、価値を生み出す。人、自然、社会の関係性がだんだん整っていく。(2025年1月12日)
「男の意識」と「女の意識」
河合隼雄著「対話する生と死」から。河合は西洋人の自我の特徴を「男の意識」とすると日本人の自我は「女の意識」だという。欧米の近代化は男も女も「男の意識」にとらわれすぎていた。男、女を使うのも混乱を生じるので、それぞれ「集中的注意」、「拡散的認知」と呼ばれている(ユング派の分析家カスティレオ)。これまでは何かひとつのことに注意を集中する意識のあり方ばかり評価されてきたが、注意を全体に拡げ、全体としての何かを認知することが重要であり、それは女性のほうがその能力が優位ではないかという。「拡散的認知」の重要性については同意するが、それについては女性が優位かというと、たとえば地理学の分野では男女はあまり関係ないように思える。それは環境、すなわち、人、自然、社会の関係性を包括的な視点、視座から理解しようとする習慣が身についているからかも知れない。むしろ、河合も指摘しているように、他に対して開かれている東洋人の自我のあり方が重要であるように思う。これからの科学は「集中的注意」が重要であったが、これからは「拡散的認知」が重要になるだろうという。それは、環境問題の重要性が増してきた現代において必要な重要な指摘であり、西洋科学を超えるオルタナティブ・サイエンスの登場を予言するものだと思う。問題を抱えた人を「冷たい対象物」ではなく「共に生きる人」としてみる態度が大切だと河合は言うが、それこそ原子力災害によってふるさとを壊された人をどう認識するかという態度につながる。国、東電の認識がどちらなのか考えてみるとよい。もちろん、少しずつ変わりつつあり、どちらが良いのかということではなく、包括的に認識しようとする態度が重要なのであろう。この章「見直される「女性の意識」は1982年に書かれたものであるが、それから40年以上過ぎた現在、まだまだ底流から抜け出せていないように感じるが、潮流となる兆しも見えてきたように思う。(2025年1月10日)
ピーター・ヤーロウ逝く
また青春時代の憧れが天に召されていった。享年86歳。PPMメンバーもポール・ストゥーキーだけになった。マリーさんが72歳で亡くなったのが2009年。人は必ず死ぬのだな。PPMが活躍した1960年代は自分は小学生。ラジオを一生懸命聞いてPPMの登場を待っていた。当時はフォークソング関係の番組も多かったので、アメリカンフォークソングの情報も得ることができた。中学入学が1970年で、拓郎やかぐや姫の全盛期を迎える。南こうせつは年末の紅白でいるかと一緒に歌う姿を拝見したが、老いたなぁ。自分も老いたということだ。みんな時代の流れの中に位置づけられていく。新しい時代を歓迎しながら、古い時代も尊重していくのだ。(2025年1月9日)
中空均衡型と中心統合型
日本人と欧米人の違いを神話を通して知ることができる。これはおもしろい。河合隼雄は「古事記」における重要な神「三貴子」、アマテラス、ツクヨミ、スサノヲの関係では、アマテラスとスサノヲが対立するが、抹殺といった決定的な対立には至らない。一方、ツクヨミはアマテラスとスサノヲの行為についてはひたすら無為を保ち続ける。この構造は、タカミムスヒ、アメノミナカヌシ、カミムスヒの関係、およびホデリ(海)、ホスセリ、ホヲリ(山)の関係においても同様である。「古事記」の神話では中心を空として、それをめぐる神々が微妙なバランスをとりつつ、決定的な対立に至ることなく共存している。これを河合は中空均衡型と呼んだ。これに対して、旧約聖書では唯一至高のの神が世界 の全てを創造し、中心にある絶対的な力によって統合される。神に反抗するものは追放されるのである。これを河合は中心統合型と呼んだ。この違いが日本と欧米の意思決定の差を生み出すという。日本人特有の曖昧さもはこの中空構造に起因しているようだ。曖昧さを日本の“悪しき”習慣として中心統合型を導入しようとすると組織は崩れてしまうかも知れない。どちらが良いか悪いかということより、より包括的な世界観、歴史観(すなわち、コスモロジー)に基づいて、長所、短所を見極めることが大切なのだろう。今の日本、特に政治にとって重要な観点であるように思う。河合隼雄「生と死」の「日本神話にみる意思決定」より。(2025年1月7日)
司馬遼太郎の明治観
司馬史観というと明治を礼賛するものだと思っていた。それは「坂の上の雲」のもたらすイメージによるものだが、生前、司馬は「坂の上の雲」の映像化を断っていた。それは司馬が誤解を恐れていたからだという。司馬は明治が「暗い時代」であることはわかっており、映像化によって昭和の軍部の問題がかき消されてしまうことを懸念した(朝日朝刊『百年 未来への歴史 デモクラシーと戦争』より)。私も誤解していたようだ。明治維新では国民国家を成立させるための手段として日本の伝統的思想、宗教を抑圧した。当時としては列強と対抗するために富国強兵をめざすという決断はやむを得なかったと思うが、それは結局1945年の敗戦に至る道であった。明治政府には心豊かな小国をめざす道もあったはずだ。しかし、諸外国の状況が富国強兵への道に誘った。これは現在と状況が非常に似ているように思う。違うのは少子高齢化、人口減少、低成長社会、あるいは縮退社会に突入していることだ。明治、大正、昭和を再評価した上で、改めて心豊かな小国をめざすということになっても良いのではないか。必要なことはコスモロジーを明確にすることだ。地球社会の有り様を歴史、空間の中で的確に解釈することだ。思想、哲学の成り立ちと、その歴史的、地理的背景を明らかにする必要がある。これを達成するのは誰か。アカデミア、政治家、大衆か。コスモロジーを巡る対話が必要とされる時代がやってきた。(2025年1月6日)
「信じる」こと、「知る」こと
「信じる」(I beleive)と「知る」(I know)の違いは何だろう。「信じる」は宗教で、「知る」は科学とはよく言われるが、その違いは曖昧だ。あるジャーナリストがユングに「あなたは神を信じますか」と聞いたところ、ユングは「知っている(I know)」と答えたそうです。この回答は批判を浴びたそうですが、ユングは“神の働きというものを毎日知らされているのだ、単純に信じているわけではない”と答えたそうです。「神は存在する」という仮説を立てて、世の中の事象を神の働きとして認識することにより、仮説は正しいと考えることは、それを反駁する新しい仮説が出てくるまでは科学の論法としては“正しい”わけだ。でも、神の働きということも「信じる」という領域にはいるのではないか。科学が進歩するにつれ、神の働きは否定される。一方、科学者が「知っている」と思っていたことも、実は「信じる」に規則づけられていることもあるだろう。複雑な対象、例えば地球システムに関する科学的な理解もある地球観に支えられていることもよくある。そこで二つをコンバインした形でコスモロジーとかパラダイムという言葉が出てきたという。難しいが表層のみを見るか、表層と深層の総体を見るか、ということと関係しているのかも知れない。まだまだ勉強する必要あり。河合隼雄「生と死」の「近代合理主義を超えたコスモロジー」より。(2025年1月6日)
不安の原因
図書館で借りてきた河合隼雄「対話する生と死」を読み終えた。たくさんの重要なことが書かれていたので、備忘録として少しずつメモしていきたい。心理療法家である故河合隼雄は患者の不安の原因は易々とわかるもんじゃないという。自分も不安に苛まされる日々を送っており、その原因について日々思考を巡らせているが、思い当たることはあっても、原因と結果としてぴったりマッチするものではない。表層だけ眺めていてもだめで、深層をのぞき込むことができないと見えてこないものだと思う。毎晩、眠る前に自分の末那識、阿頼耶識をのぞき込もうと集中するが、そのうち寝入ってしまう。深層に至るためには人生全般を俯瞰し、あらゆる関係性を認識する必要があるのかも知れない。ひょっとしたら前世、あるいは未来まで見通して始めて不安の原因がわかるのかもしれないなぁ。こんなことを書いていると近藤はおかしくなったと思われるかも知れないが、深層まで扱う科学はすでに底流として着実に流れ始めていることは様々な本を読んでいるとわかってくる。これは新しい科学なのかも知れんな。(2025年1月5日)
ミシェル・ペトルチアーニのジャズ
定年後は多様な音楽を聴くことにしているのだが、やはりジャズが好きだ。文春文庫の「ジャズCDの名盤」から適当に演奏者を選んでYoutubeで聴くのが楽しみなのだが、今日はフランスのピアニスト、ミシェル・ペトルチアーニを聴いてみる。彼は一メートル足らずの身長のため椅子に座らせてもらってから演奏が始まるのだが、突然、美しい旋律が響き渡る。ビル・エバンスと雰囲気が似たところがあるが、ちょっと違うクール・ジャズ系の音楽といってもよいだろうか。自分の好みである。37歳で早世してしまうが、彼の人生は充実したものだったに違いない。「名盤」の著者の一人の稲岡邦弥氏が終演後の楽屋を訪ねたとき、奥さんの膝をなでながら魅せた子供のような笑顔が忘れられない、と書いている。背後にいろいろな人生が見え隠れする音楽がいい。(2025年1月3日)
里山の風景
大晦日にかみさんの買い物に付き合った際に、トトロのジグソーパズルを見つけて買ってきた。題名は「ひなたぼっこ」。良い感じの里山の風景のなかに、大トトロ、小トトロ、メイとサツキがいる。モンキチョウも飛んでいる。春やなぁ。108ピースなのですぐにできあがり、部屋の壁に飾る。眺めているといろいろなことが見えてくる。レンゲの花が咲き誇る中にトトロたちはいるのだが、もうすぐすき込んで田植えが始まるのだな。でも、一段上がった圃場はススキが生い茂っているようだ。耕作放棄田かもしれない。左側に奥山に向かう農道があるようだが、樹木が覆い被さってきている。斜面は美しい新緑の中に山桜も咲いているが、樹冠が鬱閉し、樹高も高いようだ。里山に手が入らなくなっている。この里では過疎化が進み、人手も足りなくなっているが、丁寧に稲作をやろうという意気込みが見える。若い人も残っており、まだまだ里はやっていける。トトロもいるし。こんなことを妄想しました。(2025年1月1日)
新年の挨拶
もうずいぶん長いこと年賀状は書いておりませんが、どうも最近は世の中が追いついてきたようです。ネットに移行しているということかも知れませんが、“ひとり”の生き様が意識されてきたということだろうか。“ひとり”といえば親鸞ですが、鴨長明や兼好法師も“ひとり”仲間でしょうね。でも、“ひとり”の意味を取り違えてはいけません。“ひとり”とは自立した生き方であり、実はまわりに支援者がいたのです。良寛さまには貞心尼が有名ですが、地域に支えられていた。コミュニティーによって支えられた生き方といっても良いかも知れません。これからの時代は自立した個人が、自律的に行動しながらも、コミュティーの中で暮らすという時代なのではないか。かつて篭山京がスイスを訪れて感じた社会のありかたかもしれません(「怠けのすすめ」、農文協現代選書39)。ひとりを意識し、自覚するからこそ、連帯が生まれるのかもしれない、互いに助け合うしかないということが実感になってくるのかもしれない、こんな風に篭山氏は書いています。でも、スイスには社会のあり方に対する共通の理念があるのではないか。それはキリスト教を背景とした生じる理念かも知れない。日本は理念を失ったままですが、いまこそ取り戻さなければいけない。日本人が持っていた東洋的な思想、それは仏教あるいは神道、儒教かも知れませんが、大切にしなければいけませんな。東洋の思想をもっと深めたいものだ。それが今年の課題です。挨拶のつもりがじじいの戯言になりました。(2025年1月1日)