今年は68歳になる。年寄りといってよい。世間はまだまだ若いというだろうが、老いを意識しない無責任な発言にすぎない。もはや老年であることは避けられない。身心は確実に衰えている。気力の喪失と身体の衰えとの闘いが始まるのだ。その中で経験知を活かし、何らかの実践ができることがひとつの幸せだろう。相撲界では引退後に若手の指導や運営を行う元力士が年寄りだ。社会における年寄りになることをめざしたいが、イニシアティブをとるということではない。社会を外側から俯瞰し、認識したことを勝手に発信し、求められたときに少し動く。そんな存在がよい。(2026年1月1日)
近代文明技術を使いこなす精神的習慣
中部電力浜岡原子力発電所におけるデータ操作疑惑はまったく残念な出来事であるが、その背後に何があるのかを知ることが日本にとって本質的に重要なことかもしれない。日本では評価(アセスメント)は事業者が行う。担当者は職階のヒエラルキーの中で事業者(上司)の便益にかなうような結果しか出さない、あるいは出せない。これは環境アセスメントでしばしば経験したことだが、それがアセスメントにおける悪しき常識になってしまっているように感じる。ひょっとしたら担当者は何の罪悪感も感じずにやってしまったのかもしれない。モデル計算では、モデルの構造、初期条件、境界条件の設定如何で結果を操作することが可能だ。アセスメントの目的とシミュレーション技術の使い方に関わる思想が事業者と社会で共有されていないことが問題だ。今後、検証が進んでいくはずだが、悪しき精神的習慣を糺すことはたいへんな労力を必要とする。今回は通報者があったということだが、ムラ社会の中では勇気が必要なことだったろう。表層で検証を進めることができても、底層にある精神的習慣を見極めないと過ちは繰り返される。近代文明技術を使いこなすということは表層と底層の全体を見極めることが前提とならなければいけないのだ。(2026年1月6日)
1968年~歴史から学ぶ
事象の全体性へのアプローチが大切だと常々考えているが、なかなか難しいことでもある。ベネズエラをめぐるアメリカの行動と諸国の反応の理解のためにはもう一度歴史に立ち戻る必要がありそうだ。昭和100年に際しては日本の近現代史を学び、自分の不勉強を恥じたところであるが、世界の現代史を調べ始めたところ、すぐにヒットしたのが1968年だ。この年は世界で様々な事件があった。チェコスロヴァキアの“プラハの春”、ポーランドの“3月事件”、メキシコの“トラテロルコの虐殺”、フランスの“5月革命”、そして日本では全共闘運動。ベトナム戦争、文化大革命が進行中であり、ソ連は武力により“プラハの春”を鎮圧した。これらの一連の事象に関する歴史的、文明史、人類史的解釈と、その後の時代への影響を理解したい。さらに調べるとキング牧師、ケネディー大統領が暗殺された年でもあった。アポロ計画が進行中で、翌年には人類が月に到達する。何か意味がありそうな気がする。こんな観点は学者思考で、浮世離れしておるかのぅ。(2026年1月5日)
国際法~正義を遅らせるもの
アメリカのトランプ大統領がベネズエラを攻撃し、大統領夫妻を拘束したという。報道では国際法違反の疑いとの記述がある。国際法については岩波世界の1月号に気になる記述があったことを思い出した(根岸・金城対談「ガザ・ジェノサイドに日本から応答する」)。引用すると「国際法はまずしっかりと戦闘状態を止め、そのあとに紛争解決などを通じて正義を追求していくものだと。正義を先に追求すると紛争当事者の正義のぶつかり合いになってしまい、平和はいつまでも達成されない」(西平等(にしたいら)、<正義を遅らせるもの>としての国際法、「法と哲学」10号、信山社)。ウクライナ、ガザもそうであるが、ベネズエラも同様な事態に陥ったといえる。本来はこのあとに国際法が登場するはずだが、大国は我こそが正義だから、相手は悪という考え方から脱却できない。調停を行うことができる機関は国連しかないが、安全保障理事会は常任理事国によって機能不全に陥っている。今こそ、日本は国連加盟国の先頭に立って国際法および国連憲章の遵守を呼びかけてほしいものだ。国連を機能させるのは加盟国なのだから。(2026年1月4日)
新年の挨拶
新年明けましておめでとうございます(と心置きなくいえる時代にしたいものだ)。実は昨年は義父が亡くなり、喪中なのだが、正月は死者とともに祝ってもいいのではないだろうか。自分が死んだ時は喪中はなくてもよい。先祖になって子孫の楽しい様子を眺めていれば満足だ。ただし、人口減少の局面で子孫のない先祖になるのは寂しい。それも宿命(しゅくみょう)というものだろう。さて、隠者になって早3年。お世話になった方々には無礼をご容赦願いたいが、世の中との関係も大分少なくなってきた。残りの人生を無事(こともなし)で過ごすか、もう一度心を奮い立たすか、思案の年頃だ。“ひとり”になろうとして“ひとり”について考えてきたつもりだが、“ひとり”というのは自立・自律の精神を持つということだ。まだ、外界からの作用に弱すぎる。責められると崩れてしまう心の弱さを直さねばならぬ。余生は短い。気にせず生きたいものだ。もうひとつは“慈悲”の心だ。ひとりでありながら外界にも目を配る。これができれば解脱だ。もう少しがんばろう。(2026年1月1日)