2023年3月末の定年から早4ヶ月が過ぎた。この間、非常勤やら委員会やらで結構忙しく過ごすことができたが、こころの状態はあいかわらず不安定だ。夏休みに入り、落ち着きを取り戻すとともに、以前の「口は災いの門」のようなつぶやきを書きたくなった。そこで、「隠者のつぶやき」として復活させることにした。近藤のガス抜きの場、弱音を吐く場、学びの備忘録、考え方の発信の場として活用していく予定だ。(2023年8月吉日)
印旛沼を里沼に
今日はある大学生グループが印旛沼を視察したのだが、そのまとめのミーティングに参加してきた。池波正太郎によると、老人は世のうつりかわりや風俗を知っておかねばならん、ということだ。まず若者世代の考え方を知らねばあかん。印旛沼をよくするための若者らしいアイデアをたくさん聞くことができたが、老人は背後の様々な事情を知っているのだ。つい、否定的な意見を出しそうになるが、そこはこらえて、実現に向けたステップを考えるようにするのだ。学生の中には地元千葉や東京だけでなく群馬から来ている方もいた。ありがたいことだ。これからも継続して印旛沼に関わってほしい。そして沼とひとの関係が生まれ、沼の新たな状態が造られるようになると、印旛沼は里沼になる。そうなったら沼は良くなり、地域は良くなり、社会は良くなっていく。そのためには老人も若者と関わりつつ、印旛沼やひとの未来に対する包摂的な考え方を老若共同で養っていかねばならんな。(2023年10月1日)。
地域からの挑戦
定年後最初の半年の終わり。今日は東京大都市圏の縁辺で進みつつある、ある試みのキックオフミーティング(と称した飲み会)に参加してきた。その試みは都市の郊外で新たな生き甲斐、生き様を創り上げることを目的とする。この集団の良い点は、地域の新旧住民と私のような遠くのものとのコラボであり、多様な世代にまたがっていること、さらに新たな関係性も探索していることだ。組織運営のスキルを持つ若手が制度面を検討し、老年は労力を提供する。智慧が提供できるかどうかはあやしいので。少子高齢化、低成長社会はすでに現実だ。人の暮らしの場を衰退させないために、地域における人と自然の関係性を良好にしなければあかん。この試みを持続的にするために、ボランティアのみに依存しない仕掛けも若手が企画している。なにより、地域の未来が皆で展望できることがいい。この試みは現代に対する地域からの挑戦でもある。この関係性を大切にしていきたい。(2023年9月30日)
日本の研究力復活なるか
昨日の朝日夕刊に、国際卓越研究大学制度に関する記事があった。この制度で日本の研究力が復活するかどうか。これについては広島大学副学長の小林信一氏は否定的な様だ。文明社会の野蛮人仮説についてよく引用させていただいているが、私と同い年でした。この世代は好奇心駆動型の研究に邁進できた最後の世代ではないか。下の世代からプロジェクト制による研究が主流になり、優れた成果が得られた(ということになった)かどうか、に関心が移っていく。私も卓越大制度はうまくいかないと思う。支配されることに慣れた科学者が研究の企画能力を発揮できるはずがないと思うからである。ただし、有識者会議が的確な助言ができれば、プロジェクト研究で育った若手研究者はきわめて優秀だ。ある程度の成果は出すかもしれない。しかし、エリート競争の階段を駆け上がった研究者をさらに絞り上げることになる。研究者は幸せになるか。そもそも有識者会議の人材がいるのか、会議が機能するのか、はなはだ怪しい。とはいえ、低成長、縮退の時代ではしょうがないのだなとも思う。日本の研究力は復活できるのか。隠者として見守っていきたい。(2023年9月30日)
研究支援と環境学習
今日はある委員会に出席してきた。議題のひとつが上位の組織に提出する提案素案に対する審議。その提案の中に、“研究支援”と“環境学習”という文言があった。研究支援は扱う課題が一組織では対応できない状況にあるので、大学も含む研究セクターと共同しようというもの。それは結構なのだが、大学においては現行の評価制度は論文を、それも英語の論文を書くことを要求する。社会的なニーズがある課題でも論文が書けなければ実施されないことは“なされぬ科学(undone science)”という用語も登場しているように、批判の対象にもなっている。大学人はここを乗り越えることができるだろうか。環境学習に関しては現状ではどうしても、自然はいいね、ということで終わってしまうことが多い。なぜ環境は大切か、そもそも環境とは何か、自然を保全することの価値は何か、といった議論が現場ではやりにくい。両者とも行政の中の仕事として進行中なので、なんとか状況を変えていきたいと思っているところ。(2023年9月28日)
同調圧力に流される日本人
ネットサーフィン(古い?ブラウジング?)していて、京都新聞の記事を見つけた。森達也氏の日本人の同調圧力の強さに関する記事。そのなかにあったこれはメモしておきたい。ノルウェーでは凶悪犯であっても刑務所で人間らしい生活が保証されており「ほとんどの犯罪は三つの不足から起きる。幼年期の愛情不足、成長期の教育不足、現在の貧困で、それを補うのが社会の役割であり、刑罰だ」という考え方に基づくという。日本では犯罪の監視や厳罰化が進んでいるが、それは不安と恐怖に弱いゆえの日本人の、異物を排斥しようとする集団心理に同調圧力が高まるからだと森氏はいう。日本では犯罪の背景を探り、俯瞰的な観点から犯罪が起きない社会を構築するという考え方は希薄だ。このことは日本人が個に分断され、それぞれの意識世界が狭くなっているということでもある。誰が犯罪の背景を深く掘り下げ、社会に反映させるべきか。それは政治だろう。政治が主導して調査、研究を行い、行政に反映させるのが本筋ではないか。アカデミアは協力し、論文という報酬を得れば良い(現在の評価システムではそうならざるを得ない)。政治、行政、研究者、市民が犯罪の撲滅という目標の達成を共有して(目標の共有ではなく)、協働するのがよい。それは理想ではあるが、より良い社会を構築するためには達成しなければならない課題でもある。まずは個を保つこと。それが欧米における個人であり、確立した個人だからこそ共に考え行動することができるのだ。日本人は変わることができるだろうか。(2023年9月27日)
老人のつつしむべきこと
池波正太郎の随筆「一升桝の度量」を読んでいる。そこで加賀藩の名君、前田綱紀のことばを見つけた。老人のつつしむべきことを三つあげているのだが、一は老いて情がこわくなること、二は物事がくどくなること、三は世のうつり変わりと風俗を知らぬこと、だという。この三つをよくよくつつしまなければならぬというが、一の情がこわいとはどういうことか。こわいはかたいという意味もあるから、頑固ということだろうか。歳をとったら頑固じゃあかんよということ。二はその通り。ついくどくど話をしてしまうが、一度言えばよいのじゃ。三が重要だと思う。人は育った時代の精神的習慣からなかなか抜け出すことができない。"今"、"ここ"をよく観察して理解することが大切じゃ。綱紀はさらに、老いたるものは、よくよく身ぎれいにせねばならぬ、と述べているがこれがむずかしい。定年になってから家では作業着が一番楽。外出も作業着になってしまった。もっとダンディーにならねばあかん。(2023年9月22日)
近代の卒業
JWF News 9月号の竹村代表理事による巻頭言で、衛生工学の丹保憲仁先生が逝去されたことを知った。丹保先生とは面識はないが、若い頃、学術会議の講演で「環境湖」という考え方を知り、感銘を受けた。その後、2003年に出版された「水文循環と地域水代謝」に詳しい記述があり、印旛沼の水環境再生における自分の基本的な考え方となった。それは「環境湖の状態で都市住民は自分たちの水の使い方を見直すことができる」ということだ。印旛沼は環境湖なのである。しかし、ほとんどの住民は印旛沼の状態を気にしているわけではない。どうしたら印旛沼に目を向けてもらうことができるのか、それが印旛沼流域水循環健全化の取り組みの課題であった。巻頭言の中で丹保先生のことばが引用されている。「我が国は、近代を卒業する世界最初の大国である」。まさに、このことを認識し、改めて身近な水環境を見渡したときに、印旛沼の存在に気がつき、環境湖「印旛沼」として生まれ変わるはずだ。とはいえ、丹保先生言うところの「後近代文明」は、まだ概念として登場しつつある段階だ。その形を明らかにし、社会を変えていくにはまだまだ時間がかかるだろうが、どこかで転換点が来るに違いない。(2023年9月20日)
左脳と右脳
板橋興宗と加島祥造の対話集「禅とタオ」のなかに左脳と右脳に関する話がある。左脳と右脳の機能の違いはよく知られているところではあるが、歳をとると右脳が活発になるという話。最近の自分は脳がだいぶ衰えて、シャープな考察や議論はもうできない。でも、右脳系の機能はひょっとしたら高まっているかもしれない。右脳を通じた自然とのつながり、自然(じねん)の感覚は深まってように感じる。左脳は意識、右脳は末那識をつかさどり、阿頼耶識につながっているのかもしれない。そうだとしたら、左脳の衰えと右脳の活発化は人生の必然であり、やすらぎにつながっているはずだ。(2023年9月18日)
たましいの欲するもの
河合隼雄「こころの処方箋」(新潮社)を読んだ。本棚にずっとあったものだが、内容に記憶がない。ひょっとしたら買ったきり読んでいなかったのかも。1994年の29刷なので筑波大時代か千葉大に異動した頃に買ったはず。もっと早く読んでいれば良かった。その中で、こころの下(奥)にたましいがある、という考え方が頭に残った。永らく心身の不調が続いているが、たましいの欲しているものと、こころが欲しているものが齟齬をきたしているのではないだろうか。そんな気がする。瞑想をして、たましいに接近しなければならん。たましいの欲するものを見極めると解脱できそうに思う。この考え方は唯識における末那識と阿頼耶識にも似ている。ひとの最も奥にある意識は大いなる命の流としてつながっているのではないか。そこに到達すると生きることの意味がわかってくるのかもしれない。(2023年9月12日)
慢心と安心
本当に久し振りの長距離運転だった。体調が万全ではなく、不安もあったが、この週末は500km余りをゆったりと走りきることができた。若い頃は高速道路の悪魔に惑わされ、急げ急げと車よりこころが先に走ることが多かった。歳をとった今回は左側車線をキープし、追い越されても気が急かされることもなく、のんびり走ることができた。おかげで燃費も26km/lを越えた。運転に関するこの心境の変化は何なのだろうか。心身の衰えが慎重さを生み、かえって安全をもたらすといえるだろうか。定年になって急ぐ必要もなくなったということだろうが、安全ということでは自動運転技術に関する競争が激化している。自動運転技術が進歩すると、より安全なドライブが楽しめるようになるだろうか。高速道路では相変わらず無謀な運転もたくさんみた。そんな輩にとっては技術は慢心をもたらすかもしれないが、老いた我が身には安心をもたらすだろう。安全運転を心がけた上で、あとは技術にまかせるのだ。安全に係わる技術というのはインフラと同じで、人の目に触れないところで実はしっかり見ている、というものだ。技術が慢心をもたらすか、安心をもたらすか。それは人が文明を使いこなせるかどうかにも係わってくる。防災・減災技術やAIでも同じ事がいえそうだ。(2023年9月11日)
ネット敗戦の理由
日本ではなぜGAFAが生まれなかったのか。IIJ会長の鈴木幸一氏によると、国家戦略が不在だったからということだが、それは世界を俯瞰し、世界のありさまを理解し、自分の指針をもち、世界と対峙できるリーダーを養成できなかったということだ。なぜできなかったかというと、日本は弱者に優しい国だからという(弱者のいき値は高いように思うが)。確かに強者をさらに強くすることには非効率だが、優しいことはいいことではないか。むしろ、政治、行政が硬直的すぎて個別の事情に対応できない点が問題だと思う。アメリカは敗者には厳しいが、弱者には個別に対応できる国だ。背景にはキリスト教があるのかもしれない。日本では霞ヶ関の決定は全国一律であり、個別の事情には対応せず、権限は固守する。叩かれるのを恐れて個別の対応はしない。これがGAFAを生まない理由のひとつだと思うが、優しい国でもいいじゃないか。トップを目指す競争の過程で勝ち残りが力を付け、世界に打って出たとしても、陰では敗者が弱者となって取り残される。弱者に優しい国、そんな国がいい。政治がしっかりしていれば弱者には優しく、同時に強者を伸ばすこともできるはずなのだが。朝日朝刊、オピニオン&フォーラム欄から。(2023年9月7日)
旅人になるには
今朝のNHKでスペイン、バルセロナのオーバーツーリズムに関する報道をみた。観光客のマナーの悪さは困ったもんだ。彼ら、彼女らは旅人だろうか。地域の文化や暮らしを消費(もはや破壊ともいえる)しているだけなのではないか。先日「小説奥の細道」(井ノ部泰之)を読んだ。地図を開きながら読むとおもしろい。芭蕉の持病は痔と疝気だったそうだ。さぞつらかろうと思うが、それでも旅は芭蕉を誘った。自分も疝気があり、行動はだいぶ制約されている。芭蕉とはだいぶ違う。芭蕉が求めたのは風流ではないか。土地の自然(しぜん)、”ひと”、歴史と交通し、そしてこれらが織りなす自然(じねん)の有様を感じることが芭蕉の旅の目的だったのではないか。だから、痔や疝気があろうとも旅に出た。風流を求めることで人は旅人になるだ。風流がなければ資本主義経済のなかの消費者に過ぎないからね。(2023年9月6日)
楽農報告
夕方涼しくなってたので畑に出動。シュレッダーブレードで雑草を粉砕。マキタ純正のシュレッダーブレードカバーを入手したのだが、取り付け金具のサイズが違った。やむなく刈り払い用のカバーで実施。シュレッダーブレードは高出力の刈り払い機用であることは知っているのだが、高価なので18V×2の36V機をブレード専用機にしている。盛り上がった雑草の山を慎重に粉砕。文明の利器の力はすごい。概ね雑草をなぎ倒すことができた。これからは完璧な除去は行わず、播種する部分だけちょいと耕すことにする。畝間は雑草マルチだ。秋の播種、移植が遅れているが、温暖化が進行しているので何とかなるだろう。楽農は適当にやって、適当に採れれば良いのだ。(2023年9月5日)
インボイス制度のこころはなにか
今朝の朝日はインボイス制度にずいぶん紙面を割いているが、小規模事業者にとっては厳しい制度だなぁ。制度の合理性はよくわかるのだが、社会に実装するには、それだけではだめだ。理念が必要だ。理念がないと共感が生まれない。合理性、理念、共感の3基準がものごとを成功させる要だ。インボイス制度を推進しようとする精神は20世紀の成長期や、その後の新自由主義的政策で培われた古い精神だと思う。勝者のみが報われ、敗者や規範から逸脱した者は忘れられる。今の日本は低成長期に入り、様々な分野で縮退が顕在化している。こういう時代に必要な政策は小規模事業を安心して営むことができる仕組みである。小さな営みがたくさんあり、人が複数の営みに関る社会こそ安定した持続可能社会なのである。政治家は時代を読んで、理念に基づいた政策を打ち出してほしいものだ。パワーエリートに支配される社会、格差が拡大する社会なんてまっぴらごめんだ。日本はこころ豊かな小国でいいのだが。(2023年9月3日)
楽農報告
酷暑のなか、畑仕事をサボっているうちに雑草(という植物はないが)に畑が覆い尽くされてしまった。今日は若干涼しいような気もするので夕方畑にでた。とはいえ、どこから手をつけて良いのか迷うくらいなので文明の利器を使うことにする。刈り払い機でとにかく刈りまくる。2時間ほどがんばったが、あまり変わったようには見えない。畑のリハビリには時間が かかるようだ。少しずつ進めて播種、移植に備えたい。ホウレンソウ、ブロッコリ、ダイコン、カブ、ニンニク、...早く始めたいものだ。刈った草の置き場もなくなってきたので、今秋は雑草マルチで作物を育てようと思う。CO2が出ないわけではないが、残渣は全て畑のなかで循環させ、地力の向上をはかる。佐倉で生産した炭ももらってあるので、炭素の固定もすることになる。なにより、食の自産自消は自然(じねん)としての暮らしをもたらす。自然の暮らしは里山の暮らしでもある。ひと、自然、農とともにある暮らしである。(2023年9月1日)
自動車からのCO2排出量の削減
最後に給油したのが3月末だった。それから約5ヶ月もの間 、車の使用を控えてきた。非常勤は電車で通い、近隣の移動は自転車を活用してきた。車通勤の現役時代は燃費にこだわり、ハイブリッド車でエコ運転を心がけていた。それでも概ね月一で給油したのでざっくり400リットルくらいはガソリンを使っていたことになる。定年後のペースでは年間70リットルくらいになるが、秋には遠出も計画しているので100リットルくらいとしておこう。WEBでみつけた計算サイト(https://keisan.casio.jp/)によるとCO2換算で232kgとなる(燃費20km/lで1kmあたり、0.116kg排出)。同様の計算で現役時代は928kgの排出ということになる。となると、年間約700kg削減したことになる。2020年の日本の一人あたりのエネルギー起源の年間排出量は7900kgとのことなので( EDMC/エネルギー・経済統計要覧2023年版)、定年後の削減で車からのCO2排出は総排出量の3%程度になったことになる。現役時代は約12%だったから、1割近い削減になった。私は自分で維持可能な範囲で少しの豊かさを享受することは、楽しく暮らすための“必要”だと考えているので、これからも車は使い続けるつもりだが、CO2排出量は確実に減った。技術の進歩、人口減少等の要因によって車からのCO2排出量はこれからも確実に減っていくだろう。その先にあるはずの成熟社会をどんなものにするのか、そこを考え続けなければならんな。(2023年8月28日)
対話の不在
福一からのトリチウムを含んだ処理水の放出決定の過程について“対話”が不在していることは再三指摘されていることだと思う。今も報道番組で聞いたところ。市井では対話が重要であるという認識は底流にあるが、それがだんだん表層に出てきたと感じている。ただ唯一政治家がわかっていないように思う。政治家は事実を見るが、真実は見ない。いや、事実も認識できず、真実の存在に気がつきようがないということか。真実は対話の先にようやく見えてくるものである。厳しい現実を乗り越えるには真実を見通す力が必要だ。誰のために現実を乗り越えるのかを明らかにするためには理念が必要だ。しかし、今の政治は理念を語らない、語れない。せめて“丁寧な説明”をしてほしいが、政治にとってそれは合理性の一方的な通告であり、説明の受け手との対話は含まれていない。合意は諦め、諒解でもある。政治的“丁寧な説明”では合意は達成されない。なぜ政治家はそれがわからないのか。わかっているのに、そんなそぶりをしないということであるのなら、それは政治家がマックス・ヴェーバーの「責任倫理」を重視しているということかもしれない。とはいえ、果たしてそこまで考えているのか。もう「責任倫理」の時代は終わりにして、「心情倫理」を重視する時代に入っていると自分は感じるのだが。(2023年8月27日)
水は何を感じ、考えるのか
福一でトリチウムを含んだ処理水の放出が始まった。放出の決定は合理性にのみ基づいており、合意の三基準(共感、理念、合理性)を完全には満たしていないことは再三述べていることである。 いろいろ思うことはあるが、たまたま読んでいた大岡信のエッセイ「人生の果樹園にて」のなかでトリチウムに出会った。大岡氏が1989年に出版した「故郷の水へのメッセージ」という詩集に収められている同名の詩の書き出しがこうである。「地表面の七割は水/人体の七割も水/われわれの最も深い感情も思想も/水が感じ 水が考えているにちがいない」。妙に納得する詩の書き出しである。大岡氏はふるさとである三島の柿田川湧水を守るために参加したナショナル・トラスト運動へのメッセージとしてこの詩を書いたという。エッセイのなかで近くにある楽寿苑の湧水が100年前の雪であることがトリチウムによってわかり、人間がこれを汚すことは、なにかしら恐ろしいことだと述べている。トリチウムは自然の過程では大気圏で生成され、水分子を構成して水循環に加わり、最後は海へ到達する。その過程で、地下水循環の経路を選ぶトリチウムもあるわけだが、三島の湧水の年齢が100年ということは、半減期12.3年のトリチウムは永い地下水の旅のなかで放射壊変によってなくなってしまったということだ。難しくいうと、検出限界未満になった。今はどうか。1950年代から始まった熱核実験により生成されたトリチウムが検出されているかもしれない。これは人間がつくりだしたトリチウムだ。福島で海洋放出されたトリチウムも人間が起こした原発事故によって制御ができなくなって放出されるものだ。物質としては同じだが、その意味するところは大いに異なる。自然の営みで生成され、水循環のなかで消滅していくトリチウム。人間の欲望によって生成され、制御できなくなったトリチウム。トリチウムは水分子を構成する。処理水は何を感じ、考えるのだろう。(2023年8月24日)
モデルの複雑さと認識の深度
眞鍋先生のインタビュー記事にこんな発言がある。「今どんどん複雑になって、この結果がなぜ出たのかわからないような気候モデルが世界で何十もあります」。自分も若い頃はモデルのプログラミングに興じた時期があった。コンピューターがまだ遅かったときは、効率的なコードの生成が課題だったのだが、コンピューターの性能が向上するにつれて、より複雑なモデルが構築できるようになってくる。そこにおもしろさを感じたものだ。ただし、モデルが複雑になると、たくさんあるパラメーターの何が、どう出力に効いているのか、見極めるのが大変になってくる。気候モデルも複雑になりすぎて、モデルの振る舞いの理解が人間の能力を超えてしまったのかもしれない。とはいえ、気候システムの本質の認識はモデルを使わなくてもある程度は達成できるのではないかなぁ。全球を対象にして、どこで、いつ、どのくらいの変動が起きるのか、を精度良く予測することの本質的な価値は何か。温室効果ガスの濃度が増えれば、地球は温暖化するのは単純な物理である。それに地理的な違いや、特異な現象を加味して考察するなかで、未来を展望することはできるのではないか。地球をどうしたいのか、人類を、そして生態系をどうしたいのか、という理念に基づいて、現在できることをはじめる、これで良いのではないかと思うのだが、複雑で精度の良いモデルの結果が出なければ、人類は行動することはできないのだろうか。(2023年8月22日)
役に立つ科学-再び
8日に「役に立つ科学」について書いたばかりfだが、また書きたくなった。MLを通じて学術の動向に掲載された眞鍋淑郎先生のインタビュー記事が送られてきた。この特集号のタイトルは「持続可能な社会にとっての基礎科学」であり、基礎研究の重要性を主張することが目的であろう。インタビューアーの安成先生は「研究の評価にも、どのように『社会に役立つ』のかが、問われることが多くなっている」(ことが問題だ)と述べている。これまでの繰り返しになるが、現代科学の主要なパトロンは国なので、国が「役に立つ」ということを評価するのは当然である。ただし、評価軸が経済に偏っていることが問題なので、そこははっきり書かなければならない。国民の知的欲求を満たし、日本の文化的価値を高めることも「役に立つ」ことの重要な観点である。それが社会に伝わっていないのは科学者が十分に社会と交流していないからだろう。評価が科学者の世界のなかで閉じているばかりか、研究という営みのなかでプロジェクト研究が主体となり、採択されたプロジェクトに失敗はあってはならない状況になったことが現在の日本の科学レベルの低下をもたらした(欧米では失敗は成果である)。眞鍋先生は科学者として優れた成果を挙げることができたが、それはアメリカの経済成長に支えられたものではなかったか。日本は90年代に停滞の時代が始まったが、科学の成果は予算に比例することはわかっている。今後、20世紀型の経済成長が望めないのであれば、日本はモードの異なる科学を追究した方が良いと思う。それが超学際(学際共創)研究であり、オルタナティブ・サイエンスではないだろうか。少子高齢化、低成長の時代の科学を創る日本のチャンスかもしれないとも思うのだが。(2023年8月22日)
社会の変化は市井から
今日は北総クルベジファーマーズが主催するイベントに参加してきた。北総クルベジはバイオ炭(主に竹炭)によるカーボン・ニュートラルに取り組んでいる生産者グループである。今日はクルベジ取り扱いの農家さんが作った紹介動画のお披露目と取り組み紹介、トークセッションが行われた。クルベジの代表もそうだが、この農家さんも実に熱いのだ。参加者も50人はいただろうか。カーボン・ニュートラルは社会の変革だ。社会が変わるときには必ず市井の人々の精神的習慣の変革と広まりがあるのだ。人の変化があってはじめて技術や制度が活きてくる。そんなことを改めて感じることができた。何より市井の民には実行力、行動力がある。炭化器を導入し何でも炭にしてやろうというクルベジ代表の企てを聞いたが、企てを語るときの人というのは生き生きとしているものだ。企てをもつ人生にせにゃあかんなと自分も思う。(2023年8月20日)
環境影響を評価するということ
透き通るような青空のもと、銚子の風力発電施設更新の環境アセスメントに関わる視察に参加した。環境アセスメントにおける自分の担当は水環境で、地理屋としては水、地形、地質の項目を重点的にチェックしている。アセス書類では「重要な地形及び地質」に関する項目が必ずあるが、記載内容はいつも同じで、国土地理院の「典型地形」と「日本の地形レッドデータブック」(古今書院)に挙がっていなければ配慮すべき重要な地形及び地質はない、ということになる。日本の環境アセスメントは事業者が行うアセスであり、通常コンサルタント会社に外注される。受注者としては余計なことは書けないという事情もわかるが、コンサルの技術者には矜持があってほしいと思う。せめて、銚子ジオパークについて記述してほしかった。銚子市の範囲全体がジオパークで、台地側にも学術的に重要な地形がある、と研究者としては思う。きちんと記述することも技術者としての矜持だと元大学人は思うのだが、日本における技術者の地位は低く、発注者の意図を優先させるのは致し方ない。アセス書類はもはや紋切り型になってしまっており、事業者の義務としてのアセス本来の目的からは乖離してしまっている。こんな習慣が日本の技術力(ここでは環境の認識力)の低下を招いている要因の一つなのだ。どうしたら日本の技術力を向上させることができるのか。第三者が正しい自然認識の重要性をきちんと主張できることが必須だろう。ただし、環境アセスメントにかかる事業は自然だけではなく、人、社会との関わりがある。第三者には総合的、俯瞰的に事業を捉えることが必要なのだ。そのうえですべてのステークホルダーと地域にとって最善の事業になるような指摘や提案を行うことができれば良い。事業者側も未来に対する哲学、価値を語ってほしいなぁと思う。 でも、それは日本では環境行政としては担当者ではなく、もっと上のレベルで議論することと思われており、議論はあっても現場とはなかなか交わらない。環境、すなわち人、自然社会の関係性に対する影響を評価するとは、多様な視座と広い視野に基づき現実と理想の間の溝を埋めるということだと思うが、法律上のアセスメント委員会の所掌範囲からは飛び出してしまう。(2023年8月18日)
ほどほどの科学
宮沢賢治コレクション全10巻の最初の巻を読んだ。賢治の童話における風景描写はこころが落ち着く。「銀河鉄道の夜」はさらにファンタジーの世界に誘ってくれる。賢治の童話には仏教の思想が込められているが、銀河鉄道とは仏教における真理であり、永遠の命の流れなのではないか。それは手塚治虫の宇宙生命体(コスモゾーン)、新井満による老子の道(DAO)と同じものだ。それは運命をつかさどるものである。東洋の思想といいたいところだが、キリスト教徒も登場する。あらゆる宗教に共通するものを賢治は見ていたのかもしれない。運命をなにものかにゆだねる、すなわち「信じる」ということは安心を生み出す。それが宗教の役割なのだろう。しかし、同じ巻に収録されている「農民芸術の交流」において、「宗教は疲れて科学によって置換され 然も科学は冷たく暗い」と述べている。「グスコーブドリの伝記」では科学に対する夢を語っているように思うが、科学が進歩したその先を賢治は見通していたのかもしれない。そして、現在、科学は資本主義と結びついて、冷たく暗くなってしまったように感じる。ほどほどの科学でもいいじゃないか、と思うのだが、それは私が老いたせいか。(2023年8月14日)
科学における感性の意味
先日、印旛沼流域水循環健全化会議の水環境部会がオンライン開催された。健全化の重要な事業のひとつが沼岸の植生帯整備であるが、専門性の不足のためモヤモヤ感がある。この際、水草の水質浄化作用についてレビューをしようと思いたち、勉強をはじめた。こういうときにWEB上の公開情報とJ-STAGEは役に立つ。さて、水環境といったら山室真澄さんであるが、文献を調べているうちにブログを発見。読み始めたら止まらない。環境学者として彼女は一流だと思う。読み進めていたら「環境科学に感性はいらない」という記事を発見。「環境科学は感性に頼らない、大人の科学者が主導すべき分野なのです」とある。その通りだ。ただし、「感性」という言葉はマジックワード化して、使い手により異なる意味が付与されているように思う。山室さんは「情緒」という意味で使っているのだろう。私は「感性」こそが“環境”科学 において重要な力だと考えている。この場合の感性とは“事実の背後にある真実を見通す力”である。環境問題とは“ひと”、自然、社会の関係性に関わる問題であり、環境問題の解決(あるいは諒解)は、エビデンスと論理で構成される科学では解けない領域に踏み込む必要性がしばしば生じる。この場合の“ひと”とは顔が見え、名前があり、暮らしがある大和言葉の“ひと”である。数字と属性で表され、科学の言葉で記述できる“人”ではないのである。“ひと”の領域では先の定義による感性が重要になってくる。環境科学を問題解決型科学と捉えると、“ひと”を見なければならない。一方、環境科学を課題解決型科学として捉えると、情緒としての感性が入り込む隙間はないことは理解できる。両者の違いは視座の違いにある。課題解決型科学の視座では、対象となる自然を機能的に捉える自然観が背後にある。現象を構成する素過程がすべてわかっている、という前提もあるかもしれない。問題解決型科学では環境を“ひと”も含めた地域の総体、長い時間をかけて地域で形成されたものとして捉え、“ひと”の様々な事情や内面に心がかすめ取られる直前まで接近する必要性が時として生じる。もちろん、水草の水質改善効果という科学的課題に対しては科学的なアプローチでなければならないと思うが、ひとの思いに対しては感性を発揮できなければ、科学の成果を社会に実装することは難しいのではないか。感性という言葉の意味を深く考えなければならないと思う。(2023年8月13日)
人の安全、ひとの安心
北京にも近い河北省の琢県は三国志演義の「桃園の誓い」の舞台となった地である。昔、北京から石家荘に向かう高速道路で通過する度に、三国志の一シーンを思ったものだった。北京周辺では7月末から大雨が続き、治水が課題になっている。桃園の地では堤防が切られ、氾濫させることにより、下流の都市や施設を守るという対策がとられた。これは中国式の治水で、管理者から見れば遊水池、住民からみると在所である。朝日朝刊9面の記事の見出しは「浸水『大都市のための犠牲に・・・』」。この見出しには既視感がある。同じ事を1998年の長江水害のときに経験した。下流の武漢を守るために、長江の小堤を爆破した。NHKが定点観測を行い、「省都の犠牲になった村」として報道された。その場所は遊水池であった。治水の手法としては合理的であるが、そこに住まざるを得ない人への配慮はなかった(当時でも居住人口が多すぎる遊水池には導水されなかったが)。やはり、漢字の“人”は規範的な人であり顔は見えないのか。水害の被害者は誰か。その地から便益を得る人か、そこで暮らす人か。日本式の治水は“ひと”を見てほしいものだ。名前があり、顔が見え、暮らしが見える“ひと”、やまと言葉の“ひと”である。科学的合理性だけではなく、そこで暮らす人々との間で共感と地域づくりの理念を共有したうえで科学的合理性を導入して行う治水対策。それが“流域治水”であるはずだ。日本の治水は人の安全から、ひとの安心に向けて変わりつつあると信じたい。 (2023年8月11日)
楽農報告
もう野菜ないの、とかみさんに言われ、畑にでる。このところの高温と昨日までの不安定な天気のため、数日畑には出なかった。畑では、キュウリ、オクラ、ナス、ピーマン、シシトウを収穫。たらい一杯に山盛りの野菜は気持ちが良いものだ。ただし、畑はあっという間に雑草に占領されつつある。草刈りをやろうと思っていたが、暑くて身体が動かなかった。草を刈って、畝の間に敷くことによって土壌の乾燥を防ぐことができるのではないか、なんてことを考えてはいたのだが、日和ってしまった。農ある暮らしが定年後の目標の一つだが、最近は不耕起、浅耕で、雑草を活用する農業がはやりなので、まぁいいか、と考えて涼しくなるまで待つことにする。先送りの術である。(2023年8月10日)
地球温暖化問題の解決
暑い日が続く。地球温暖化が進行しつつあることを身体で実感することができる。老人はエアコンを適切に使うようにとの広報もかまびすしい。自分も老人だが、寝室ではエアコンを使っていないのだ。実は一気にエアコンが壊れて寝室の対策は後回しになった。かみさんはエアコンのある部屋に避難したが、自分はちょいと考えがあって寝室に踏みとどまっている。温暖化対策にはエアコンや断熱といった個別の技術的対策だけではなく、都市の構造変化を考えねばならぬ、と常々主張している。我が家は庭、畑の空間が周りに存在し、それが涼しい風を運んでくれるはずなので、自然を活用する対策案を実証してみようと考えた。夜は窓を全開にして風を導入し、扇風機(消費電力はエアコンの1/10以下)を活用して過ごしている。昨日は立秋だったが、今のところ快適に過ごしている。気温が30度を下回れば寝付きに問題はなく、明け方は寒いくらいである。自宅の周辺では戸建て住宅の建設が増えているが、庭は狭く(ほとんどない)、窓も小さい。おそらくZEH(ゼロエネルギーハウス)の仕様は満たすのだろうが、家で暮らすということの大切な部分が失われているような気がする。家とは土地の広がりまで含むのだ。阿武隈では遠景までを庭に取り込んだ暮らしを知った。日本は人口減少時代に入り、都市圏周辺部では拡大した都市をうまく縮退させることが重要な課題になっているはずだ。家に緑の空間を取り戻し、風を呼び込むことによって温暖化問題の解決を図ることができるはずだ。もちろん、この提案は数多の対策のひとつである。問題は日本が総合的、俯瞰的に問題を捉えることができなくなっているということだ。温暖化に関わる要因を包括的に捉え、それらの関係性を明らかにし、短期と長期の視点に基づき、より人間らしい居住環境を整える営みを創造すること。そこから地球温暖化問題の解決に至ることができるはずだ。(2023年8月9日)
役に立つ科学
国立科学博物館でクラウドファンディングを実施したら、1日で3億円も集まったというニュースがあった。これはすごい。科博の役割が社会に認知されているということだ。科博は人々の知的欲求を満たし、文化的暮らしの質の向上に“役立っている”ということだ。私が、“科学は役に立つべきだ”、なんていうとすぐに“儲けよ”ということと勘違いされて批判されることも多いのだが、私の意図は経済的価値だけではない。人々に支持され、人間の持つ知的欲求を満たす科学であるということが社会との交流によって明らかになっていれば、それが“役に立っている”ということだ。現代の科学のパトロンは国であり、その予算は税金であるから、科学の営みの先には納税者を意識しなければならない。科学の黎明期にはパトロンは貴族だったわけで、初期の科学者はパトロンに対する説明責任を負った。ならば、現代の科学者は納税者に対する説明責任を負うべきだという主張である。論文を書けば、自分ではない誰かが成果を社会に役立てるとは考えないで、科学者自ら成果と社会の関係を考えてほしいと思うのである。もちろん、現在の科学の評価システムのもとで、若い研究者にそれを求めるのは酷である。キャリアに応じて力点を数値指標から“社会指標”に移していくのも良いと思う。科学者の意識世界も広がっていくだろう。社会指標についてはいろいろな営みが考えられるが、自分は現場における市民科学への貢献にしたいと思うのだ。(2023年8月8日)
国産ジェット開発断念を考える
朝日朝刊で「国産ジェット開発断念の背景」と題するサロンの案内を見た。開発断念は誠に残念だった。この失敗から得られた教訓が語られるのだろうが、教訓は明確ではないか。それは技術開発と社会実装の間には大きな溝があるということ。この溝を埋めるためにはステークホルダー全体の“目的の達成を共有”した協働が必要であること。協働の仕組みを作る知識も経験も日本の航空機産業にはなかったということだ。航空機産業“全体”の範囲を見極めることができなかった。このことは科学の領域でも同じだ。科学者は論文を出版すれば、自分ではない誰かが社会に役立てるのだと思い込んでいるかも知れないが、そんなことはない。社会に実装するには多くのステークホルダーによる協働と努力が必要なのだ。最近、科学のあり方について考えているが、①ノーマル・サイエンス、②課題解決型科学、③問題解決型科学の三つの頂点をもつ三角形を考え、現状として③問題解決型科学に(社会との)連帯を結びつけた。理想型としては三角形の真ん中に“社会”を置いて、三つの頂点と結ぶ形になるだろう。各頂点間と“社会”の結びつきの強さを検証すれば、その科学技術の分野の状態がわかる。正四面体と考え、四つの頂点が強固に結びついている状態が近代文明社会の本来のあり方だ(ここに貨幣が登場すると正四面体が歪んでしまう)。それを見て科学者や技術者が自分の営みの社会における位置づけを行うこともできるだろう。そうなっていない遠因は明治における科学技術の導入のあり方にあったのかも知れない。成果だけを導入し、その成果に至った思想、哲学、価値観を学ばなかった。だとすると、日本が回復すべきことは日本の思想、哲学、価値観を打ち立てることである。その先にあるのは科学技術立国だけではなく、こころ豊かな小国だって良い。(2023年8月7日)
道とはなにか
これがわからなかった。老子の“道”。読み方さえわからなかったが、“みち”でもいいし、中国語の“Dao”あるいは英語風の“Tao”でも良いとのこと。これでひとつ疑問が解けた。では改めて“道”とはなにか。新井満の自由訳「老子」によると、“この宇宙をくまなくとうとうと流れ続けているいのちの巨大な運動体”。これですっきりした。それは手塚治虫「火の鳥」における宇宙生命体(コスモゾーン)だ。となると宇宙生命体が阿弥陀如来で、火の鳥は大日如来かもしれない。仏像は宇宙生命体の“色”の次元におけるイメージにすぎず、形を認識することはできないものだ。“道”は“空”であり、万物を創造し、亡ぼし、再生する。我々の命は永遠の流転のなかで色の次元に一瞬、泡沫のごとく現れたものに過ぎない。儚い一生をどう生きるか。それも老子は教えてくれる。無欲、謙虚であれ、そして、不浄の徳、貢献の徳をもって生きよ、と。そうありたいと願うが、現代社会の精神的習慣に染まってしまった身と心では涅槃はほど遠い。しばらく悶々とした日々が続くだろう。(2023年8月6日)